1.フィリピンでの残虐行為(原文英語)(8月分の続編)
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殺人はマニラでだけ行われたのではありません。フィリピン全土で行われました。日本兵はマッカーサーが帰ってくることを聞いたとき、一斉にフィリピン人の男子だけでなく、婦人、子供、老人までも殺し始めたのです。彼らは日本軍に敵対していた訳ではなく、全く罪のない人々でした。子供や老人はどうして武器を持った日本軍に敵対できますか。この日本兵によるフィリピン人虐殺は日本兵の残虐さの何よりの証です。

■回答

戦争は人間を狂人にします。不安になった兵士は過剰に反応します。戦争は残酷なものです。このような一般論は記憶に残すべきでしょうが、どの国が一番残酷であったか、暴き合い、非難しあうことには反対です。一日も早く忘れ合うことが、世界が仲良くつきあうために必要だと思います。

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貴方は日本は賠償金を支払い済みと言われるが、日本占領下でフィリピン人が受けた苦難、財産被害、殺人等に対する賠償としては少なすぎる。さらに我々の要求にたいし、交渉過程で大幅に値切られている。

■回答

賠償金が少なすぎたことは認めます。しかし当時は払える最大のものでした。従って日本が豊になってから、ODAで引き続き資金を供与しているのです。

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貴方は「連合軍は彼らの残虐行為にたいし、決して謝罪しないし、遺憾の意を表明しようとしない」と言われる。しかし連合軍はフィリピン人にたいし、決して残虐行為を行わなかった。連合軍はフィリピン人を決して連行しなかったし、傷つけなかった。連合軍は親切だった。飢えたフィリピン人に食料を分け与えてくれた。それに対し日本兵はフィリピン農家をくまなく探し、「泥棒ね」と言いながら米や豚、鶏を略奪した。

■回答

貴方は「日本兵がフィリピン人に残虐行為を行った」と非難していますが、連合軍は日本人にたいし、それと同じような残虐行為を行ったのです。特にソ連軍は悪質でした。貴方は被害者がフィリピン人でなければ許されると思われますか。

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貴方が言われる連合軍特にアメリカ軍の残虐行為は日本の市民に対して為されたのですか、それとも兵士に対してですか。

■回答

アメリカ軍の残虐性については下記の事実があります。例えば終戦直後8月30日にマッカーサーに率いられたアメリカ軍が、神奈川県の横須賀に上陸しました。その日に神奈川県だけでアメリカ兵による強姦事件が315件も報告されています。8月31日の強姦事件は228件です。9月10日までには1326件にも達しました。これらの事は神奈川県だけではありません。全国に発生しました。しかしアメリカはこれらの強姦事件やアメリカ兵による多数の殺人事件の報道を禁じました。これらの事実の報道が許されるようになった時には、日本とアメリカは良好な外交関係を築いていました。従ってお互いの古傷を暴く事はありませんでした。従ってまとまった研究はありません。しかし貴方方が日本を非難すればするほどこれらの事実の調査が行われ、アメリカ兵の残虐性が明らかになるでしょう。しかしその様なことをすることは、世界平和のためにプラスになるとは思えません。

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日本は交渉を続けている振りをして真珠湾を爆撃しました。全く卑劣な国だ。

■回答

ハルノートは実質的な交渉打ち切りの通告でした。アメリカは日本の暗号をすべて解読していました。日本の攻撃をルーズベルトは事前に知っていました。彼はそれを何故真珠湾の司令官に伝えなかったのですか。アメリカを日本との戦いに引きずり込むためではなかったのですか。

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貴方は米軍が進駐したときの、米軍の残虐行為について書きました。その中で「アメリカはアメリカ兵の強姦や殺人についての報道を禁じました」と書いています。これは日本人による歴史の捏造であり、フィリピン人や世界の人が、日本人の残虐さを決して忘れない理由です。貴方が書いていることはすべて日本の視点で書いており、捏造された嘘ばかりである。

所でアメリカは日本を何年占領したのか。フィリピンはほぼ4年日本に占領され、その間ずっと被害を受け続けたのである。アメリカ人は日本人を何人レイプしたのか。2000人?それは日本の歴史家により捏造された嘘に決まっている。フィリピン人の中で日本人にレイプされた人は10万人に達するだろう。

■回答

日本はアメリカ軍に7年占領されました。1326件の残虐行為は僅か10日間の、しかもごく一部の地域のみの数字です。恐らく全占領期間の彼らの犯罪件数は数万件に達するでしょう。
占領が終わった後も、アメリカ軍は基地に駐留しています。満員電車に向け発砲した兵士も居ました。数年前には、幼女を強姦した兵士も居ました。
アメリカの犯罪率は、日本の数倍に達します。

アメリカ兵の残虐行為について、私は下記の本をお読みになることをお勧めします。
"The Wartime Journals of Charles A Lindbergh" published by Harcourt Brace Jovanovich Inc. Newyork 1970.

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貴方はルーズベルトが日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたと書いている。そんなことはない。ルーズベルトは日本人は正直で、そのような攻撃をする筈がないと日本人を信用していたのだ。しかし彼は間違っていた。日本人はうそつきで、信用できない人種である。今でもBridgestone/Firestone のタイヤ、三菱の自動車の問題がこの事実を証明している。

■回答

又真珠湾の問題については我々の英文HPの中のLibrary に英語の本が紹介されていますので、調べて下さい。

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貴方は日本はアメリカに7年占領されたと書いている。その間特別の年は何年あったか?アメリカは日本にアメリカの政府を作ったとでも言うのか。アメリカ人は役所から日本人を追放して代わりにアメリカ人をすえたというのか?アメリカは日本の寺院を閉鎖し、日本人がその中で祈れないようにしたとでも言うのか?アメリカは学校の教師をアメリカ人に代え、日本語の代わりに英語を教えようとしたと言うのか?私はそうは思わない。貴方は占領とはどのようなことを意味するのか、はっきりして下さい。日本がフィリピンを占領したとき、日本の植民地を全太平洋に拡げるため、残酷にもフィリピン人を完全に日本人と入れ替えたのです。日本人の気質は常に残酷である。これはフィリピン人以外の人が何冊本を書いても直らないだろう。

■回答

日本はラウレルを大統領に指名し、間接的に統治しました。マッカーサーが日本政府を使って日本を統治したのと同じです。
日本はラウレルに大勢の日本人顧問を採用するよう要求しました。しかしラウレルはそれでは独立したことにならないと言って拒否しました。ラウレルが日本人顧問として採用したのは浜本正勝一人です。彼はハワイで育ち、ハーバード大学を卒業し、GM極東地区総支配人をしていた人です。
しかし戦時中です。日本軍の下部組織が数々の越権行為や、無理な要求をしたことは認めざるを得ません。

アメリカは英語で教育しました。それに対し日本は国語であるタガログ語で教育するよう要求しました。タガログ語を国語と決めたのはケソン大統領です。日本は日本語を外国語として教育することを要求したに過ぎません。

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アメリカ人は決して罪のないフィリピン人を殺しませんでした。アメリカ人は決してフィリピン人から米や豚、鶏などを強奪しませんでした。日本人は考えられるだけの悪いことをすべて行いました。

■回答

貴方は1898年の独立戦争を忘れたのですか。アメリカはスペインと講和を結ぶと、アギナルドを裏切り、フィリピン軍を攻撃しました。それから3年間アメリカとフィリピン独立軍との戦争になりました。なかでもサマール島の虐殺事件は有名ですね。

第2次世界大戦ではフィリピン軍はアメリカ軍の一部として戦いました。アメリカ軍の退却後もゲリラとして日本軍と戦いました。つまりこの時は味方ですから、フィリピン人を虐殺することがないのは当然ではないでしょうか。

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日本と他の国を比較するのは止めてくれ。歴史の本を持ち出すのは止めてくれ。日本は残酷さと悪の点で他と比類ない。スペインとアメリカは植民地時代フィリピンに多くの良い遺産を残してくれた。しかし日本は何一つとして良いものを残してくれなかった。日本がフィリピン人の心の中に残したものは、泥棒と憲兵隊という言葉だけだ。

日本が戦争に負けたのは日本が悪の側にたち、誠実の側に立たなかったからである事を認めろ。悪は絶対勝たない。      終わり

■コメント

フィリピンは既に1946年の独立が決まり、自治国として処遇されている国でした。アメリカの施政よろしきを得、親米的でした。日本がコレヒドールを奪い、米軍をフィリピンから放逐した後も、各地でゲリラ活動を行い、日本を悩ませました。特に米軍の反攻が始まるとゲリラ活動は一層激しくなりました。ゲリラ活動が激しくなると、ゲリラ対策も厳しくなります。多くの市民の犠牲者が出たようです。
最も失敗だったのはマニラを市街戦に巻き込んだことでした。マニラでは市街戦のとばっちりで10万人の市民が死亡したと言われます。フィリピンは開戦時と敗戦時の2回戦場になりました。フィリピン全土で大東亜戦争による、フィリピン市民死亡者は100万人を超えると推定されています(フィリピン政府推定)。この投稿者のように反日感を未だに持っている人は、かなりいるのではないでしょうか。

理事 杉本幹夫
2.日の丸,君が代の歴史に関する本を教えてください
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突然のことで、大変恐縮でありますが、日の丸・君が代の歴史について書かれた書籍等ございましたら、ぜひご紹介に預かりたいと存じ、メール致した次第であります。

私は、大学3年の市原と申します。このたび、大学の教育学の授業で、教育に関わるいくつかのテーマについて、自由研究をし、授業内でプレゼンテーションを行うことになりました。
私は、日ごろから日教組組合員教師らが行っている日の丸・君が代についての教育 (洗脳?)について、大いに懐疑的であります。この機会をいかし、ぜひとも、「日の丸・君が代は決して"悪"の象徴ではない」ということを伝えたいと思っております。
(私の大学は名古屋にありますので、"進歩的"教育の進んだ都市部や、日教組の牙城である三重からも多くの学生が来ております。)

私自身、小学校4・5年時の担任(それぞれ別の教師)により、いかに日本が先の大戦で世界の人々に対して悪逆非道なことをしたのか教えられ、日の丸・君が代はその象徴であり、それらは"国旗・国歌"としておよそ容認できないものであると教えられました。(後に、彼ら教師が日教組組合員であることが分かりました。)その教育の名を借りた洗脳により、私はつい最近まで"進歩的"学生でありました。
しかしながら、大学入学後、貴会の存在や「正論」「諸君!」「SAPIO」等の雑誌のそれに気づき、今まで知るすべすらなかったさまざまの情報に触れ、それまでの自分の考えのおろかであったことに気づきました。

今、私は教師を目指しております。私は、自分の体験から、いかに偏向教育がその後の児童・生徒に大きな影響を与えるか幸い、知っています。将来、一教師として、自分の教え子たちをかの偏向教育から守るため、まず"日の丸・君が代"について、さらに知識を深めるため、また、日の丸・君が代問題に潜む偏向教育の存在を知らない同級生に知ってもらうため、「日の丸・君が代」をテーマに選びました。

そのためにさまざまな資料(貴会からパラオ国旗も分けていただきました)を集めましたが、日の丸・君が代の歴史(その誕生から現在まで)について記した書籍をなかなか見つけることが出来ません。繰り返しになりますが、ぜひとも貴会のご協力を賜りたいと存じ、Eメール致した次第であります。お忙しい中、大変ご迷惑とは存じますが、どうぞ、よろしくお願いいたします。

追伸 先にお送りいただいたパラオ国旗とその資料、大変参考になっております。

大学生 市原
■回答

メール頂きましてありがとうございました。書籍ということであれば、入手しやすいものとして、以下の5冊を御紹介いたします。

*「私たちの美しい日の丸・君が代」高橋史朗編 明成社(定価千円)(03‐3476−3388、ファクス5459‐0166)この本は巻末に参考文献一覧が載っていて、非常に役に立つと思います。

  • *「国旗・国歌の常識」所 功著 東京堂出版
  • *「日の丸・君が代と日本」松本健一著 論創社
  • *「日の丸・君が代の話」同上 PHP研究所
  • *「新訂 世界の国旗」森重民造著 偕成社

    Web上では、http://www.flag.or.jp/topics/protocol.htmが国旗を扱う際の作法について記しています。
    また、当サイトともリンクしております『国際派日本人養成講座』というホームページの88号に『国旗に関する基本常識』など、参考になる記事がございますので、併せてご覧ください。
    そこでは「他国の国旗・国歌に起立しますか?」といった日米高校生の意識調査アンケートの結果のほか、国旗と歴史的アイデンティティ、日の丸と歩んだ1300年の歴史、またアメリカの国旗教育などの項目をたてて説明されています。
    このサイトは歴史(教育)問題にも国際理解のためにも大変役に立ちますので、ぜひ訪れてみて下さい。http://come.to/jog

    また何か御意見・御質問などございましたら、メールをお送り下さい。お待ちしております。

    【追伸】目下、ご検討中とのことですが、是非、自由主義史観研究会に入会され、わたしたちの仲間になってください。そして歴史教育の諸問題に参加して、よい先生になって下さいますよう、御期待申し上げております。

    会員 飯島瑞穂
  • 3.この日の丸の旗について教えてください
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    私は、家に米軍軍属の人からもらった旗を持っています。それには、大きな赤い円を囲んで日本の文字が書かれていました。日本人の教授はその翻訳を試みて、一番上に書いてあることは「貴方の成功…祈念する」のようだといっていました。
    この種の旗についての情報と第2次世界大戦との関連性についてどなたかご存知でしょうか。ディジタル写真を添付しました。よろしくお願いします。

    トマス スタル
    ■回答

    拝啓、トマスさん、

    この日本の旗は、上村三郎と言う名の兵士の友人たちが署名したもののようです。兵士の名前は一番上にかかれています。旗には42名の男女双方の名前が見られます。この旗は、この男性にたいする彼らの思いやりと、願わくば、逆境に遭遇している彼に勇気を与えたいとの思いがこめられています。彼は出征兵士を送る会で旗をもらったのかもしれません。

    第2次大戦における意義ですか?そうねえ。
    米国兵士は出征する時に、何を友達から贈られましたか?
    幸運を祈るカードですか?

    会員  野口ひかる
    4.ベトナム餓死事件他資料情報提供等のお願い
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    現在歴史の勉強の為 以下の資料を収集したいと考えております。その所在を教えて頂けると幸いです。(書籍明示でも可)

  • 1インドネシア独立宣言文(05年8月17日)の全文
  • 2乙巳保護条約 日韓併合条約 日韓基本条約
  • 3大東亜会議宣言文 (六法には「ヤルタ宣言」「ポツダム宣言」しかない。)
  • 4開戦の詔勅 終戦の詔勅 
  • 5戦後賠償が決着した際の2国間条約文(どこでも)

    6「昭和19年〜20年頃ベトナムで日本軍が仏印軍を通じ食料の強制調達を行い、200万人もの餓死者を出した」と旧北ベトナムの憲法前文(25年位前の近代史教科書の巻末資料)で見たことがあり、その後書店でも、さらには数年前に読売だったと記憶しておりますが「最近明らかになった」との調子で記事を見ました。この件について論争となる資料がありましたら教えていただけると幸いです。継続して話題にならないところから判断すれば、私が見たとする憲法前文が政治的プロパガンダを含み、誤りを含んでいたことが歴史的にも明らかになり、新聞社も迂闊と判断したとも考えられます。ただベトナムは過去何度も外国特に中国に攻込まれつつ撃退しインドシナ戦争でフランスやアメリカとも戦い勝利を収めたという自信の表れか、国民性か、仮に事実であっても、あまり過去や被害感情を声高に叫ばない傾向があるようでかえって気になります。(裏返すと日本のマスコミは「騒ぐ」人の意見のみ取り上げているともいえますが)国家間の賠償は解決していますが、真偽の程を知りたいと思いますので、お手数ですが無理の無い範囲でけっこうですので宜しくお願い致します。

    ■回答

    遅くなり、もうご用済みかとも思いますが、一応調べた結果をお知らせします。

    日本が結んだ条約等主要文書は下記をお調べ下さい。

  • 戦前のもの『日本外交年表竝主要外交文書』外務省編、原書房
  • 戦後のもの『日本外交主要文書・年表』鹿島平和研究所編、原書房
  • インドネシア独立宣言文『インドネシア資料集』日本国際問題研究所インドネシア部会編、日本国際問題研究所編
  • ベトナム民主共和国独立宣言『ベトナム現代史』真保潤一郎著春秋社

    ベトナムの餓死事件について一応調べた事をご報告します。

    この事件を考えるためには、当時の仏領インドシナの状況を知っておく必要があります。
    1940年フランスはドイツに攻め込まれ、パリは陥落し、親独的なヴィッシー政権が成立しました。当時の仏印はこのヴィッシー政権の支配下にありました。1941年大東亜戦争の開戦に先立ち仏印政府と協定し、仏印に進駐しました。今日の日本とアメリカの関係同様、行政権はフランスが持っていました。44年8月連合軍が反攻し、パリを奪還しました。それに伴い仏印政府の動向が心配となり、日本は仏印の兵力を増強しました。45年にはいるとそれまでの1個師団に加え、3個師団を投入し、3月9日にクーデターをおこし、仏印の行政権を奪取しました。尚ヒトラーが自殺したのは4月30日です。

    一方南シナ海を挟んだ対岸のフィリピンでは、44年10月に米軍がレイテ島に上陸しました。45年1月にはルソン島に上陸しました。それと共に米軍による仏印爆撃が強まり、南北を結ぶ鉄道が破壊され、船舶の被害も多くなり、仏印の南北輸送路は壊滅しました。

    終戦時の日本軍は約10万人です。10万人しかいない日本軍が如何に食料を調達しても、200万人餓死するわけがありません。問題は44年の秋から冬にかけ、ベトナム中・北部に大風水害が起こり、米作は大変な凶作になったことです。悪いことに米の豊かな南部から北部への輸送路が米軍により、完全に破壊されたことでした。仏印政府もこれに対処する力がありませんでした。尚餓死者が本当に200万人もいたかどうかは、確認できませんでした。しかしその様な飢饉状態の中で、日本軍が食料の現地調達を行ったとすれば、恨まれても仕方がないですよね。

    ベトナムとの賠償は1954年南ベトナム政府がベトナム全土を代表するとの立場で、南ベトナム政府との間で結ばれています。北ベトナムとは1973年国交を回復しました。更に1978年南ベトナムに貸していた155億円の債務は北ベトナムが継承する。その代わり日本は無償160億円、有償200億円の援助を行うとの協定を結び、南ベトナムがベトナム全土を代表して日本と交渉して得た、債権・債務はすべて北ベトナムが継承することになったのです。

    理事  杉本幹夫
  • 5.南京事件当時の南京市の人口
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    私があなたのサイトに興味を感じましたが、一方、南京の人口が250,000〜300,000 だったといって、アイリス・チャン(Iris Chang)を繰り返し悪くいう人が多い。私はあらゆる地図および地名辞典をチェックし、米国および外国の両方の情報源から、 1922年に南京の人口は、早くも350,000以上に達し、1937年には、都市の人口は560,000になっていた。日本軍の侵略以後に、さらに多くの人々は避難を求めて都市へ逃れこみ、人口が600,000以上になったのは確かで、不合理ではありません。チャンの本におこなった以上の多くの努力を真実のチェックにすべきではないか。

    ■回答

    私たちのウェブサイトへの関心および南京の人口に関する情報に非常に感謝いたします。しかしながら、私たちは、それが1937年12月13日に占領された時、南京の人口約 200,000と推定することを立証すべき確かな証拠を持っています。

    1936年6月のナンキン市政調査によれば、ナンキンの人口の合計は973,000でした。したがって、1937年には約1,000,000に達していたでしょう。

    私は、1937年の560,000というあなたの数字の根拠は何であるかは理解できません。ポイントは、南京が戦闘エリアになることが知れてから、ほとんどの人が、より安全な場所へと急いでそこに逃れたことです。

    これは蒋介石の戦略が日本に何も残さず、利用させないために、自分達の地域/都市を焼き払う清野作戦のためです。

    11月29日に英国大使館によって用意されたボートにのって同じように南京から脱出したLilly Abegg(ドイツの新聞 Frankfurter Zeitung紙の中国特派員)は、Frankfurter Zeitung紙の12月19日版で以下のように書いています。(国立公文書館でそれをチェックできます)

    私が南京で見た最後の光景は限りなく続く避難民の列、板が打ちつけられた家や店、そして首都防衛を急ぐ軍隊でした。その間、絶え間なく空襲のサイレンが鳴り響いていた。
    人力車や自動車に、梱包された木枠、荷物、家具などの人間味のある物が高く積まれていた。市を離れようとする居住者の群で、その日は一日中ごったがえしていた。
    一つまた1つと店は閉鎖していった。ほとんどの家の電気が既に切られており、商人はロウソクの明りで残りの在庫品を売り払っていました。
    梱包用の木枠あるいは褐色の紙はどこをさがしても見つけることはできない。店はすべて閉店売りだしをしていた。
    先週、約200,000人の人々は南京を去っていった。以前この都市には100万の人々が居住していた。しかし、人口は350,000に減少していった。今では、高々150,000人の人々が残っているだけだ。
    しかも避難民の波は、絶え間なく、続いている。

    これがちょうど戦いが始まる前の南京の状況でした。さらに市外からの南京に避難する人々もいました。彼等はどこにも行くところのない人々でした。
    南京大学のベイツ教授が書いたように、残った人々は、現実には、"住民の中で最も貧しい"人達でした。

    ご存知のように南京の安全地域は、南京の欧米居住者から構成された国際委員会によって設立されていました。委員会は、馬市長によって金銭、食物などを任せられ、残りの民間人を世話することを依頼されていました。
    同じように警察署長Wang Kupanをとおして、市長は住民情報も与えていました。
    Wangからの情報では人口は200、000人で、委員会は12月13日以降の行政業務にこれを使っていました。
    この人口200、000の数字が委員会活動記録に何回も記録されており,当時の南京市人口を推定するのにもっとも適した根拠だと言っているのです。
    国際委員会の活動報告は南京安全地区の記録として1939年、国民党政府国際委員会監修のもとに、上海のKelly & Walsh 社で発行されました。
    当時の南京人口についてこれ以上に信用できる数字はありません。後日になって、人口については、いろいろと根拠のない数字が語られたり、書かれらりしていますが、これ以上に信頼できる数字はありません。
    この貴重な史料を読まれることをお勧めします。

    この史料から得られる最も重要な点は、1937年1月13日、日本軍占領の1ヶ月後、人口が250,000と記録されていることです。これはでたらめな数字ではなく書類でも一貫性があります。
    この点から人口は、250,000またはそれ以上あったのです。どうして300,000や100,000のいわんや100人でさえもの大虐殺があったと信じることができましょうか!
     人口は減少したのではなく増加しているのです。

    アイリスチャンの南京の人口や大虐殺の基本的な間違いは明らかだと私は信じています。

    会員 茂木弘道