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■投稿
下記は第2次大戦中の日本軍の残虐行為についての記録である。それはフィリピン人でも日本人でもない歴史家が書いたものである。君の日本軍の残虐行為についての知識は、君が信じやすいような日本の歴史家によるものであろう。
デビッド・ベルガミニは「山下将軍の反対にも関わらず、東京の司令部は元侍従武官・岩淵三次少将率いる1万5千人余りの海兵隊と艦船をマニラに派遣した。
残された軍需品・軍事資材の処理のため山下将軍の残した4千乃至5千人の兵士と共に、岩淵提督は街から街、家から家、溝から溝まで競争で破壊した。
1ヶ月後、最後の日本兵が吹っ飛ばされたとき、マニラの最も美しい部分は廃墟と化した。
その中には古くからの家族が一度は住んだことのあるマラテ・エルミタ地区(マニラの中心部)も含まれる。
太平洋地区の連合国総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が、かって住まいとしていたマニラホテルでは部屋から部屋まで戦場となった。
岩淵と彼の部下は、最後に当たり、マニラのイントラムロス(スペイン人が最初に城塞を築いた地区)で、何千とは行かなくても、何百人というフィリピン人を無慈悲に殺し、何千人もの婦女子を強姦した。
ベルガミニは死ぬと決めた彼らは、彼らに騙されたフィリピン人に何の慈悲心もなかった。彼らは女を強姦し、男は機関銃で殺した。戦争が終わったとき、千人のアメリカ兵、1万6千人の日本兵、10万人のフィリピン人が死んだ。
歴史家ウィリァム・マンチェスターは「マニラの荒廃は第2次大戦で破壊された都市の中でも最大のものである。連合国の都市ではマニラに匹敵するのはワルシャワのみである。
公共設備の70%、工場の75%、南部の住宅地の80%、ビジネス街の100%が破壊された。
マニラの戦いの話は、奇怪な結末を話さなければ終わらない。
それはマニラを破壊から救おうと望んだ山下将軍はバギオでアメリカ軍の捕虜となり、
マレーの虎は連合軍、特にフィリピンに対する戦争犯罪を問われ、米軍の軍事法廷で裁かれ、絞首刑となったのである。
■回答
貴方の説明は大筋で合意する。
山下将軍はマニラの放棄を主張し、岩淵少将はマニラの死守を主張した。山下は陸軍であり、岩淵は海軍である。その為山下は岩淵に妥協せざるを得なかった。
1月9日リンガエン湾に米軍が上陸し、マニラ攻防戦が始まった。ゲリラの活躍は日本の占領期間を通して行われており、上陸と共に活発化した。その頃陸軍の主力はマニラを撤収しており、海軍の司令部もこの時点でマニラを撤収することとなった。
2月3日マニラに対する米軍の攻撃が始まった。それと共にフィリピン人ゲリラとの間に、日本軍の残留資材の争奪戦が始まった。運輸に当たった日本兵、軍属でフィリピン人ゲリラに殺されるものが続出した。同時に日本軍による報復も始まった。
岩淵はひっくり返したトラックや、路面電車でバリケードを築き、家屋を機関銃の銃座にした。米軍は圧倒的な火力で建物を次々爆破し、焼き払った。3月3日マニラは陥落した。
日本軍はレイテ島作戦のため、武器弾薬は殆ど使い果たしていた。その為刀1000本、槍5000本を現地生産して対抗しようとする状態であった。
この激戦のとばっちりでフィリピン人の死亡者は10万人を超えると言われる。
この経過を見ると、フィリピン人の死亡者には日本軍によるものも多数いたことは否定しないが、その大半は、米軍による爆撃、銃撃によるものではなかろうか。又この激戦の最中に女性をレイプする余力がある筈がない。
話は変わるが、私は2月1日から4日までベトナムを観光してきた。戦争博物館で米軍の残虐行為の数々を見せられた。飛行機から突き落とされるベトナム兵、両足を縛られ戦車に引きずられるベトナム兵、死刑に使われたと言われるギロチンカッター等々ぜひ貴方にも見て欲しい。
それと共に地下トンネルを根拠地に、遂に米軍を破ったゲリラの根拠地を見た。私は彼らの執念に驚いた。
ベトナムではソンミの虐殺が問題となっているが、このような抵抗をされると、住民皆殺しせざるを得ないように思う。この前も言ったが、戦争は残酷なものである。
回答者 理事 杉本幹夫
■コメント
その後少し調べてみました。それについて報告します。
12月、山下将軍はマニラ撤退を命じました。アメリカ軍が上陸したときの日本軍の体制は、本隊15万2千人はマニラ北部のバギオ、マニラからバギオへ行く途中のクラーク基地に陸軍1万5千海軍1万5千人合計3万、マニラ南東部に10万5千、マニラに岩淵提督率いる海軍1万6千陸軍4千という布陣でした。
トラックの不足から軍需資材の搬出は難航していたようです。日本軍は軍需資材の搬出を容易にするため、マニラ市民が脱出しないよう指導していました。この為70万人の市民を戦争に巻き込み、10万人もの犠牲者を出したことは何と言っても日本軍の責任です。
2月3日アメリカ軍の攻撃が始まるまで、マニラは割合平穏が保たれたようです。しかしアメリカの攻撃が始まると共に、回答欄に書いたように、ゲリラ活動が激化しました。
2月12日からアメリカ軍の無差別砲撃が始まりました。この間アメリカ軍は市民の脱出についてどのように努力したのでしょうか。そこが今ひとつの問題点だと思います。
山下裁判の弁護人を勤めた、フランク・リール著「山下裁判」によると、マニラの残虐行為には強姦が目立ち、特に最後の3−4日がひどかったと記しています。
「死のうとする男、いかなる罰も恐れない男、完全に動物に逆戻りした男の場合である」と書いています。
その様な剛の者もいたでしょうが、連日一方的な砲撃を受け、激しい銃撃戦の後そんな気になるものですかね。
マニラと共に日本兵の残虐行為が指摘されるのは、マニラの南方バタンガスです。ここでは強姦はなく、もっぱら大量処刑です。
この場合は藤重大佐による、ゲリラに対する処刑命令である。彼は「小銃を持つ女が自分の部隊に損害を与えた例が少なくない」「自分が自動車を走らせているとき、子供が自分に手榴弾を投げた」と証言し、「日本軍に抵抗した者はすべて殺せ」と命令したと証言しています。
フランク・リールはゲリラは戦争犯罪人であると指摘した上、裁判なしで処刑してもよいことにはならないと言っています。
フランク・リールは山下将軍の死刑について連邦最高裁まで争った人です。
理事 杉本幹夫
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