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■投稿
こんにちわ。僕はアメリカに留学中の19歳の学生です。 今大学で中国人の教授の日本史の講義を受講しています。 日本の高校で習った日本史とは訳が違って奥が深く、日本史の詳細の部分を勉強しています。
今回週末の宿題として出された題材が、”日本はどのようにして真珠湾攻撃に至ったか? 国内的観点からと世界的観念からみて何が日本に真珠湾を攻撃するに至らせたか?”というものです。
日本の教科書ではカバーしきれず、かなり苦戦しています。 その辺の詳しいことをぜひ教えてください。 お願いします。
■回答
貴方が本当にやるべきことは、この問題について広く本を読み、調べることですが、 多分日本側から語った本は手許にないものと理解します。
私個人は、残念ながらこの問題について自分が教えてもらいたいと思っておりますので、詳しくわかりません。ですが、貴方が自らより詳しく調べてくださることを前提とし、日本人として興味深いと思ったことをいくつか列記してみます。(重要性順不同)色々な人の意見の寄せ集めで、間違いもあるかもしれませんし、大切なことを抜かしているかもしれません。うのみにしないで、考えながら読んでください。
明治維新のころのアジア:これは、調べてください。当時、アジアのほとんどは、西洋諸国の植民地または勢力下にあり、日本にとっての最大の課題はいかにして独立を守っていくか、ということでした。
そのため、当時の体制のままでは到底世界と互していけないと、武士階級が内乱を避け、みずからの特権的な地位を投げ捨てることに合意にいたった、世界に例をみない革命をなしとげたのです。
大東亜戦争:この名称は、戦後、連合軍総司令官マッカサー元帥により禁止され、「太平洋戦争」と呼ばれるようになりました。
しかし、日本からみると、戦争地域は、「大東亜」、つまり西の限界はバイカル湖以東、南方のビルマ以東のアジア大陸およびそれに付随する諸島(インドネシアやフィリッピン)、統計180度以西の西太平洋でした。インドやオーストラリアは含まれていません。また、日本側は、昭和16年以前のシナ大陸の軍事行動をシナ事変(China
Incident) と呼んだのは、戦争と呼びたくない意識があり、中国が Sino-Japanese Warと呼ぶのは、戦争と考えていたからです.
独協大学教授中村 あきらは著書『大東亜戦争への道』 (平成9)で、「大東亜戦争」には、「2つの流れ」が「合流し、激し合うところに生起した戦争」であった、としています:
1)アメリカの極東政策、との相克。
日本は日露戦争の勝利の結果ポーツマス条約で、遼東半島租借権と、満州で鉄道の権益をロシアから移譲されました。1905年、アメリカの鉄道王ハリマンはこの南満州鉄道を日米共同で管理することを提案しましたが、日本は小村外相らと世論の強い反対により、断りました。以降、アメリカは、日本を極東の小国から、警戒を要する国としてみるようになります。(日本を仮想敵国とするアメリカのオレンジ計画参照)
2)ロシア革命と世界を魅了した共産主義とのとの戦い
日本は、ロシアが南に膨張し、日本の安全を脅かすのを昔から恐れていました。また、ソ連の共産主義は世界革命を唱えていました。また、共産主義と社会主義は、日本国内の多くのインテリの心をとらえ、シンパを大勢つくりました。アジアと日本を共産主義から守るため満州や朝鮮半島はbufferとして重要視されました。
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朝鮮の前近代性:
日本の近代化への度重なる勧めにたいしても、冷淡。 『韓国併合への道』呉孫花(オー・ソンファ)著参照 当サイトの杉本氏のHP参照。
日韓併合にかんしては、当時日本政府が各国の意見を打診してみると、どこからも(清、ロシア含む)反対はなく、欧米の主要新聞はこれを歓迎した事実。(渡辺昇一)
中国大陸:
清朝崩壊、軍閥割拠で、大陸は混乱を極めていた。統一政府はなし。蒋介石率いる国民軍が強くなったが、当時まだ弱かった共産党は、はやくも1934年に
日本に宣戦布告Declaration of War Against Japan を出しています。
日本とシナ(実質的には、ほとんど蒋介石の国民軍)を戦わせようと言う思惑は中国共産党にとっては、正解で、実際蒋介石は日本により弱体化され、戦後共産党が大陸を支配することに成功します。
ただ、日本を裁いた東京裁判(Far East Military Tribunal, or Tokyo Trial)
では、ソ連に遠慮し、大戦と共産主義運動との関連については、語ることは許されませんでした。
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世界恐慌
1929年のBlack Monday と株の大暴落に端を発した大不況は、世界に広がります。これに深く関与するのが、悪名高いアメリカのホーリイ・スムート法で、自国産業を守る為、史上最高の関税を輸入品に課します。(満州事変の1年前)
これに対抗して、約1年半の間に、25カ国が対抗措置として、アメリカ製品に高い関税を課します。その結果、アメリカの輸出入は、半分以下になります。また、イギリスも、オッタワで、Imperial
Economic Conference を1932年にひらき、大英帝国内(世界の4分の1)への域外からの輸出入に関税をかけ、経済をブロック化します。当時、インド、マレー半島、シンガポール、香港、ビルマなどは、植民地だったことに留意してください。
これらの措置は、日本にとって大打撃でした。日本人は、自給自足の経済圏を持たなければならぬ、と多くの日本人が考えるようになります。
1933年に、ドイツでは、ヒトラーが首相に就任します。
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国内的要因として、上智大学教授の渡部昇一著の『日本史からみた日本人:昭和編』 (平成10年)は、1930年(昭和5)の統帥権干犯問題に代表される、明治憲法
(1885年制定 明治18)の致命的欠陥により、日本が次第にdouble government (政府と軍部) になっていった事情をあげています。つまり、行政府と並列して独立に動く軍部が出てきたことです。
大臣の数は首相を含めて10名でした:総理、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務、逓信。当時の憲法では、総理大臣は内閣のまとめ役のようなもので、気にいらない大臣がいても、その罷免権はありませんでした。その結果、もしある大臣と首相の意見がくいちがうと、その内閣は総辞職となりました。
しかし、明治憲法は、制定当時は、あくまで立法(議会)と行政(政府)、とその枝としての司法の3権分立の精神にもとずき作られました。
また、「君主は憲法の範囲の内にあり その大権を施行するものなり」といって、(p.22) あくまで立憲君主制度であり、天皇の意思が「直接に国権の表現となる」ものではありません。
明治のころは、明治憲法制定の趣旨にそって元老がうまく政治をまとめ、軍の力も小さかったので、問題は起きませんでした。しかし、明治憲法は、記述がおおざっぱで、詳細に規定していないことが多々ありました。たとえば、首相とか内閣ということばが一度もでてきません。
明治を指導し、明治憲法の趣旨を理解した元老達が次第に死に絶え、逆に陸海軍が強くなるとともに、軍は軍の統帥権は、天皇直属のものであるから、議会が例えば軍縮条約を結ぶのは、統帥権の干犯である、と主張し始めました。
ロンドン条約締結後、昭和5年(1930)。その結果、ロンドン条約調印の最高責任者浜口幸雄首相は、狙撃され翌年死亡しています。
昭和7年には、5.15事件で犬養毅が海軍の青年将校に射殺され、彼が政党内閣最後の首相でした。また、現役の軍人でなければ陸海軍大臣になれないという内規を利用すれば(つまり軍部がなんらかの理由で大臣を送らなければ)、内閣は成立しませんでした。
しかし、この統帥権干犯問題で、軍が政府からリーダーシップを奪ったことは、後に、そのことにより、軍のリーダーシップもなくなり、戦争遂行において、強いライバル意識のある陸海軍が協力して統一した作戦を練るのに、非常な妨げともなりました。何故なら、陸軍と海軍は対等の立場だったからです。
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アメリカで人種差別政策、特に排日政策: これに関しては、日系人のサイトが多々あります。
日本が開国したとき、世界は白人国家が非常な優勢にあり、有色人種である日本人が日露戦争でロシアを打ち負かしたことは、衝撃的なニュースでした。また、アメリカが現在のように人種平等を真剣に目指すようになったのは、戦後のことであり、戦前は恐ろしい人種差別がインデイアン、黒人に対してなされた歴史を背景に、黄色人種に対しても非常な差別がありました。
アメリカは、日露戦争までは、好意的でしたが、日露戦争後は日本に対して恐怖を感 じます。戦争の翌年には、日本軍がハワイに上陸しているという報道が繰り返しなされています。
1906年、サンフランシスコで大地震が起き、日本は市に約50万円、在留邦人に約五万円を見舞金として送りました。(当時の国家予算約5億の
1000分の1以上) これは、当時日本人が差別されていたので、その状態を良くしてもらいたいという悲願が込められていました。
しかし、地震後サンフランシスコでは、黄色人種の子供達は、学校が狭くなったという理由で、一般の公立校から追い出され、人里はなれたところに移されることになりました。当時の市の学童数は約2万5000、日本人は
100人もいませんでした。政府間交渉で、中央政府の介入で学童の隔離は防げましたが、その代わり実質的移民禁止の紳士協定が結ばれました。
しかし、その後も排日運動は続き、例えば1913年には排日的な土地法を成立させました。日本国内は、次第に憂慮の念が強くなりますが、まだ国論が沸くというところまではいっていませんでした。
第1時大戦後、1920年に、国際連盟が成立し、日本の牧野全権委は、 国際連盟案第21条の「宗教の自由」の規定のあとに、人種差別をやめる、という規定を加えるよう求めました。しかし、これは、否決されました。フランスの新聞
Le Temps は「日本の要求に対し深甚な同情を表すとともに、いつの日にか日本の正当な主張を尊重しなければならないような解決に至るであろうことを疑わない」と論評したそうです。
しかし、このあとアメリカではますますヒステリックな排日運動が盛んになり、1924年の新移民法(絶対的排日移民法)は強いショックを日本に与え、国内でも反米感情が高まったのです。その結果、日本国内の国際協調派の立場が軍部や一部の世論に押されて非常に悪いものになり、1931年には、関東軍による満州事変がおきます。
1921年、ロンドン会議で、すでに日本を仮想敵国視しはじめたアメリカは、日英同盟を廃棄させる工作に成功しました。そのご、1930年のロンドン軍縮会議で日本の軍縮が求められたとき、海軍は、日米間でもし戦争があった場合の不利を考え、相当ショックで、冷静さをうしなった反対をし、統帥権干犯問題にとびつきました。しかし、その不穏さをもたらした大きな要因に、排日移民法がありました。
また、当時の日本は、貧乏ですべての人を十分に食べさせることはできていませんでしたから、アメリカへの移民は人間扱いされないとなると、同じ黄色人種で、しかも無政府状態のno
man's land の満州への進出を支持する声が高まりました。しかも、これは日露戦争の結果得た国際的に合法的な権益でした。しかし、当時ヨーロッパ諸国はすでにシナ大陸に権益を持っていて、日本はそれを侵害しませんでしたから、あまり問題にならなかったのですが、後発のアメリカは、それらがなかったので、日本が目障りでした。その摩擦を処理する日本側の国際協調路線派の立場をもっとも傷
つけたのが、国民を激昂させた排日移民法でした。
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シナ(当時は今のイメージで語れるような、まとまった国ではなかった。戦国時代の、無政府状態にちかい)日清戦争後、ヨーロッパ諸国は競ってシナ大陸の半植民地化を進めました。ロシア、フランス、ドイツ、イギリスなどがそれぞれ目をみはるような進出をしています。シナでは排外思想により、キリスト教宣教師殺しや外交官殺しなど、排外行動が度々おこりますが、それらを先進国が制圧すると、清には先進国を打ち払うだけの武力がなかったため、不平等条約をたてに、多額の賠償や利権を求められます.
日本は、日清日露に勝ち、韓国を併合し、植民地帝国になり始めたところで、ようやく半世紀続いた白人国との不平等条約改定にこぎつけました。そして、日本も、「先進国の清国いじめの仲間に正式にいれてもらった」のです。同時に、アメリカもこの清国いじめに参加したがりました。
ハリマンの鉄道構想が敗れ、満州の鉄道の中立化案(1909)も日本がロシアと手を組み断ると、アメリカはシナの排日感情をあおるようになります。
1913年ごろまでは日清間にはこれといった事件はおきませんでしたが、ウイルソンが大統領になったころから変わります。その前年までは、英米独仏日が共同で出兵したり、英米仏独露日の6カ国でその年(1912)に滅亡した清国の外債を引き受ける話に合意しています。
しかし、その後は日本人がシナ大陸において一方的に襲撃される事件が起きるようになります。おおざっぱに言えば、アメリカのSinophile-Japanophobe
phase は昭和20年、日本の敗戦まで33年つづきます。また、「米国と組んで日本を抑える」政策は、シナ大陸に成立したすべての政権の基本方針でした。例えば第1時大戦後の対独パリ講和条約で、中国代表はそれまでの日本との取り決めを無視する発言をし、アメリカのウイルソ大統領は、露骨な支持を与えています。
1937年にMarco Polo Incident が起き、それがシナ事変の引きがねになり、シナ全土へと広がっていきます。渡部昇一は、ずるずる広がったのは、統帥権と関東軍の下克上のせいとしています。筑波大学教授の中川八洋は、だれも死ななかった事件を戦争にしてしまったのは、実は当時の首相近衛文麿が実は全体主義(共産主義)信奉者で、日中戦争を長期化し、計画経済体制(つまり社会主義化)を導入する、軍の矛先をもうひとつの国防上の脅威であったソ連からはずす、蒋介石と国民軍を疲弊させ、
中国を共産化すること、をめざしていたからだと『大東亜戦争と開戦責任』(2000年)に書いています。(日本の陸軍には共産主義シンパは多かった。中川によると当時の左翼と右翼の違いは、天皇をいだくか否かの違い)このあたりの事情は、私は良くわかりませんので、色々本を読んで調べてください。
なおMarco Polo Incident ではだれが最初に発砲したのか、諸説ありますが、その1 つは中国共産党軍が蒋介石軍と日本軍に発砲したというものです。(渡部昇一)
シナ事変はどんどん拡大し、日本は地理的にABCD包囲陣の中におかれていました。(アメリカ(フィリッピン)、英国と英連邦、中国、オランダ(インドネシア))で、さらにソ連とフランス(インドシナ)。
1940年の日独伊同盟は、アメリカをけん制するはずでしたが、かえってドイツの犠牲になっているオランダやイギリスを敵に回すこととなり、アメリカを硬化させます。
アメリカは1939年に日米通商航海条約を破棄し、その後日本の在米資産を凍結、英国は在英の日本資産凍結、オランダもインドネシアの日本資産を凍結、さらに両国とも石油を売る事、輸出することを禁止、日英通商航海条約破棄しました。
石油の禁輸は、英米を敵に回すことを反対していた人々にも、決定的でした。輸入が絶たれれば、海軍が備蓄していた石油は数ヶ月でなくなります。
1941年の9月5日の御前会議で、初めて日本は開戦を覚悟します。 それでもなお、日米間の交渉に一筋の望みをかけていました。が、11月26日に、ハル国務長官から、今までの日米交渉の経過を全く無視した強硬な提案 Hull
Noteが出され、日本側は実質的な最後通牒であると理解します。
このハルノートは、戦後の調べでは、ハルではなく、ホワイト次官補が作成したものが、ルーズベルトに採用されたものです。ハルの提案は、もっと穏健でした。またホワイトは、ソ連のスパイでした。日米を戦わせるために、日本が少しでも受け入れる可能性のあるハル案より、絶対受け入れることがないような案を作成したと言われています。
当時のアメリカの世論は、ヨーロッパの戦争に参加するのに、反対でした。ルーズベルトは、しかし何とかアメリカを対独戦に参加させたいと思い、そのためにドイツと同盟関係の日本が第一撃を加えるよう、仕向けたとされています。また、真珠湾攻撃も前もって察知していたのに、日本に最初の一撃を加えさせるため、アメリカ国民にあえて知らせなかったという説があります。これに関しては、明白な証拠はありませんが、そうとしか考えられない状況証拠は多くあり、アメリカでも色々本が書かれています。
12月1日、御前会議で、対英米蘭開戦が決定されます。
なお、日米の主要資源の生産力は、戦争直前で、鉄が74分の1、石油 527分の1、 銅11分の1、航空機13分の1でした。また、1942〜44年にアメリカが生産した航空機は、25万7千機で、真珠湾の損害は188機でした。価値の高い空母は42〜45年で正式空母17隻、改造空母85隻で、真珠湾のロスはゼロでした。(戦艦は4隻撃沈、等)
真珠湾の「騙し討ち」について参考:
ルーズベルトは、正規の空軍軍人を蒋介石のもとに開戦よりずっと前に送り込んでおり、日本軍を空から攻撃するFlying
Tigers として活躍させた。詳しくは、そちらで調べてください。また、最近の調べで、真珠湾以前に日本軍を攻撃する計画にも署名していたが、様々な事情で実現しなかったと記憶していますが、手許に資料がありません。
1)在ワシントン日本大使館は、暗号文書を時間内にタイプすることが上手くできず、(秘書を使用するなと言われていた) 攻撃前ではなく、1時間20分も送れて宣戦布告書を渡した。これは大変なミスである。
2)反論として、たとえきちんと渡しても、あの文章は長々としているが、交渉打切り通告であり、明確な宣戦布告ではないのではという声もある。
貴方はどこの大学で勉強中ですか。
折角の機会ですので、可能なら歴史を多角的に論じてクラスメートと啓蒙しあってく ださい。
会員 野口ひかる
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