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■投稿
第2次世界大戦に関して、このような素晴らしい情報源を提供して下さり有り難うございます。 退役陸軍伍長 ■回答(1)
我々のホームページ関心を持っていただき、有り難うございます。 我々のサイトは日本語の情報量に比べ、貧弱です。少数のボランティアで始めたため、英語にはなかなか出来ません。 我々のグループの殆どは英語を自由に話せません。貴方の申し出は大変有り難いと思います。 自由史観研究会会員 野口ひかる
■投稿(2)
私は米陸軍で4年間勤務し、2回戦場に動員されました。負傷したため退役し、現在某基地で白兵戦の教官をしています。 なぜ、外人が昔の日本帝国軍の”盗まれた名誉”を守ろうとしているのか?ですが、私が所属している連隊は、1946年から大阪の孤児院をずっと支援してきました。毎年寄付金を集め、その孤児院に届けています。その関係で私も2回大阪へ行ってきました。 大阪で、地元の文化に興味を持ち、自分は軍人だったので、その方面における日本に興味を持ちました。 これについての意見を下記にまとめてみました。 ☆米陸軍兵士の戦闘魂とプロ倫理意識に及ぼした日本の影響 第1部 ☆アメリカの陸軍兵士にとって、「陸軍の7大倫理」(とその日本版)は、日々の生き様の指針であり、必要あらばそれらに殉じて死をも厭わぬというものである。 以下は、1941年から1999年にかけて、これらの倫理項目が導入されていった物語である。 忠誠(Chugi)・・・憲法、軍、自分の部隊、他の兵士に真の信頼と忠誠心を抱け。 ☆これらの倫理項目は、現代アメリカの兵士と切っても切れぬ縁で結ばれている。その歴史的背景について語りたい。 下の写真はこれらの倫理項目の創設者、(第三十四代元)陸軍参謀総長エリック新関大将のものである。 新関は、ウエストポイント卒業後、砲兵将校としてベトナム戦争に参戦し、地雷を踏んで右足の下を失った。 しかし、武士道の価値観がなぜ米陸軍に取り入れられたのか疑問に思われることだろう。 ☆422連隊の活躍 442連隊の議会名誉章の概要は下記のとおりである。 Daniel K. Inouye(ホノルル、442連隊第2大隊E中隊、少尉)1945年4月21日、イタリヤ、サン・テレンゾにて。ポー渓谷に至る重要な十字路の高所防御陣地を攻撃するのに、イノウエは砲火の中を自分の小隊の指揮をとり大砲,臼砲射撃観測地点を占拠し,敵主力陣地を40ヤード突破した。狙撃兵より胃を打ち抜かれたが、ドイツ軍の小銃投擲弾の破裂により,彼の右腕は粉々になった。彼は正に右手で手榴弾を投げようとしたがそれを左に持ち替えて投げた。 Kaoru Moto (Makawao, Maui、一等兵100大隊,C中隊)1944年7月7日イタリヤ、Castellinaにて、機関銃座を攻撃、捕虜1名捕獲、観測所として利用されていた家屋を占領。負傷をおったがドイツ軍に再占拠されないよう防御しつづける。そのあと他の機関銃座を狙い,銃撃戦となり,ドイツ軍2名負傷、捕虜4〜5名。1992年に死亡。 Yukio Okutsu(Hilo, Hawaii、特務軍曹、442連隊第2大隊F中隊)1945年4月7日イタリヤ、Mt. Belvedereにて、彼の小隊が3丁の機関銃により釘付けになった時、Okutsuは激しい砲火の中を一番近い機関銃座に30ヤード這っていった。そして立ち上がり,その機関銃座に2つの手榴弾を投げ込み、3名の機関銃兵を殺した。そのご遮蔽物に身を隠しては、突進し、また身を隠して次の機関銃銃座に手榴弾を投げ込み、第2の機関銃座も破壊し、ドイツ兵を1名負傷させ、残りの2名を捕虜にした。3番目の銃座を見つけ小火器を撃ちながら突撃を続けたが、彼の鉄兜を掠めた銃弾のため一時的に気を失った。気がつくと5〜6名の自動小銃を持ったドイツ兵に突撃をしており、ドイツ兵は退却させた。機関銃座を側面から攻撃してこれを占拠し、4名の機関銃手を捕虜にし、自分の小隊の攻撃を容易にした。 Robert Kuroda (Aiea(ハワイ)出身、442連隊第2大隊H中隊、曹長)1944年10月20日、フランスのBruyeresに於いて、手榴弾で機関銃座を攻撃し、ドイツ兵3名を殺し、他の3名を小銃で負傷または戦死させた。第2の機関銃座に向かう時に狙撃兵に撃たれ戦死。 Yeiki Kobashigawa (Waianae出身、第100大隊B中隊、特務軍曹)1944年6圧2日、イタリヤ、Lanuvioに於いて。 攻撃中、彼の小隊はドイツ軍の機関銃座群の前を横切った。50ヤード先に一つの銃座を見つけ、部下とともに匍匐前進で近づき、手榴弾を投げ込み、仲間の援護射撃の中を自動小銃を持って突っ込んだ。1名射殺、2名を捕虜にした。Kobashigawaと仲間は彼らの前方50ヤードにある別の機関銃に銃撃された。彼のいる場所まで分隊に前進を命令し、再び第2の機関銃銃座を抑えるために前進した。手榴弾を投げ込み、部下が突撃するのを援護射撃した。捕虜4名を確保した。他の銃座を警戒しながら、さらに4箇所の機関銃座を発見した。そのうち2箇所を部下に無力化させた。 Barney Hajiro(Waipahu, 442連隊第3大隊I中隊 一等兵)1944年、10月29日、フランスのBruyeres と Biffontaineにおいて、堤防で歩哨中、200ヤード離れた友軍の小屋が攻撃を受けているのを発見した。自分の危険を顧みず、敵の拠点に直接3発銃弾を撃ちこみ、狙撃兵2名を負傷、戦死させ。Belmontの東側の高地をI中隊が攻撃する時には前哨警備をかってでた。分隊長と共同で軽機関銃2丁、自動小銃2丁、ピストル4丁、小銃10丁と沢山の手榴弾を確保し、彼の勇敢な行為は「自殺の丘」防衛に大いに寄与した。 Masato Nakae(Honolulu、第100大隊A中隊、1等兵)1944年8月19日、イタリヤ、Pisaにて。前哨地防衛戦でNakaeはドイツ軍を後退させた。迫撃砲の砲弾で負傷をしたが彼は持ち場を離れず、銃で応戦しドイツ軍を退却させた。1998年死亡。 Shinyei Nakamine(Waianae出身、第100大隊B中隊、一等兵)1944年6月2日、イタリヤ、La Torretoにおいて、機関銃座を占拠し、ドイツ兵3名戦死させ2名捕虜とする。その後でさらにもう一箇所の機関銃座を占拠した。さらにもう一箇所、第三の機関銃座を占拠しようとして戦死。 Mikio Hasemoto (Honolulu,第100大隊B中隊、一等兵)1943年11月23日、イタリヤ、Cerasuoloにて、Ohataと一緒に戦い、一度の戦闘でドイツ兵27名戦死させ、3名を負傷させた。その後死亡。 Shizuya Hayashi (Pearl市、第100大隊、A中隊、一等兵)1943年11月29日、イタリヤ、Cerasuoloにおいて、ドイツ兵が立てこもる高地の攻撃において、手榴弾、小銃弾、機関銃弾が飛び交う中を肩から吊った自動小銃を腰だめにして、射撃しながら機関銃座に突撃し、機関銃座を占拠する。7名を戦死、2名以上を逃走させた。小隊がその場所から200ヤード前進したところで、敵の高射砲による砲撃を受け、Hayashiは応戦し、9名を戦死させ、4名を捕虜とし、残りの敵を高地より敗走させた。 George Sakatoは1944年10月29日、フランスのBiffontaineにおいて、彼の分隊が釘付けとなったが、彼は立ち上がり、部下に突撃を命じ、ドイツ軍の拠点を破壊した。 Frank Onoは1944年7月4日、イタリヤ、Castellinaにて敵狙撃兵一名を戦死させ、負傷していた指揮官救援した。その後死亡。 Kiyoshi Muranagaは1944年6月26日、イタリヤ、Suveretoにおいて、正確な60-mm迫撃砲射撃で、敵の対人、対戦車88mm砲を撤退させた。その後死亡。 Joe Hayashは1945年4月22日、イタリヤ、Mt. Nebbioneにて機関銃座2箇所を破壊した。 William Nakamuraは彼の小隊を釘付けにしていた機関銃座を攻撃し占拠す、ドイツ軍の撤退時に銃弾を受け戦死する。 Kazuo Otaniは1944年7月15日、イタリア、Pieve di S. Luceにおいて、自分の小隊を助けるため、敵の射撃を引きつけ、ドイツ軍の反撃を阻止した。負傷した仲間を手当て中に戦死した。 Joe Nishimotoは1944年11月7日、フランス、La Housssiereにおいて3日間にわたるドイツ軍の包囲を突破し、戦死した。 Ted Tanouyeは1944年7月7日、イタリア、Molina A Ventoabbtoにて、戦闘で負傷していたが部隊にとどまり、いくつかの戦闘に参加、後にその傷のため死亡する。 James K. Okuboは1944年10月、フランス、Vosges山系で、何日間にもわたる激戦のうえ、テキサスの「失われた大隊」の兵士を救援、救出した。 ひかるさん、これは長い話のほんの初めで、さらにもっと沢山の話を送ります。 ■回答(2)
T さん、貴方のメールに深く感動しました。ヨーロッパ戦線で困難な作戦で勇敢に戦かった二世兵士のことを知り尊敬の念を抱きました。 もしもこのような状況下で私に息子がいたら、心の中では泣いたかもしれないが、自分の母国、米国ではあっても、国のために戦かへと励ましたでしょう。 また、彼らはただ認めてもらうために、自分の祖先が人種差別を受けないように勇敢に戦ったのではなく、彼らの両親が名誉や誠意を教え込んでいたために勇敢に戦ったのだと思います。しかし、このような考えが米陸軍の教育、訓練にも影響を及ぼしているとは知らなかったし、米陸軍に武士道精神が生きており、現在の陸軍参謀総長が日系三世で、最初に軍隊の7重要項目を提唱した人だったとは知りませんでした。ぜひ貴方の話を翻訳し日本のメンバーに知らせたいのだがよろしいでしょうか? 自由史観研究会会員 野口ひかる
野口ひかる ■投稿(3)
どうぞひかるさん、これを翻訳してください。これは皆が知っておくべきものです。これに関し週末にはもう少し調査し、至急送りましょう。 |
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韓国に興味を持つようになり韓国について調べているうちにこちらのサイトに
辿り着きました。
好意的、という意味で調べていた私にとってはショックとしかいいようがあり
ません。
それから他のサイトもいろいろ見てみました。
韓国側と日本側の意見両方。
どちらもざっと流し読みしただけですし、あくまで私は素人ですので今でもど
ちらが正しいかというのは分かりませんが…。 ■回答
どちらが正しい主張をしているかは、既成観念を捨て、白紙の状態で、双方の主
張を読み、自分で判断して下さい。
我々は自分が正しいと信じていますが、彼らも又自分が正しいと信じているで
しょう。戦後、日本の歴史学界、言論界は共産主義者に主導権を奪われました。それでも 昭和30年代までは戦前派がかなりの力を持ってましたが、彼らの老齢化と共に 次第に力を失いました。 共産主義では、資本家は労働者を搾取する者、宗主国は植民地を搾取する者と、 最初から決めつけ、その理論に当てはめるように歴史を構築しました。その考え は中国、韓国の民族主義と結びつき、すべて日本が悪いとの考えがアジア全体に 拡がりました。 1982年、朝日新聞が、教科書検定で、「文部省が、侵略を進出と書き換えさ せた」と報じました。これは誤報だったのですが、中国・韓国が一斉に反発しま した。 時の宮沢官房長官は事実を確認もせず、謝罪し、以降中国・韓国の干渉を許すこ とになりました。 ソ連の崩壊により、共産主義は次第に力を失いつつありますが、今までの主張を 否定することはなかなか出来ません。又恩師に正面切って逆らう事も、なかなか 出来ず、歴史学界とはなかなか変わらないものですね。 又日教組や極左暴力による圧力も歴史を歪曲している原因になっていると思いま す。 新しい教科書を作る会の事務所が放火されたのはその証拠です。 自由史観研究会理事 杉本幹夫
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杉本先生にお尋ねしたいのは、『歴史と教育』前々号にご執筆になられた「満州事変で教えてもらいたいこと」というご論考についてでございます。 ■回答
自由主義史観研究会・総会における岡崎先生の話の中にも、満州事変・支那事変はイスラエルに対するインティファーダと同じだという話がありました。
私はこのテロとの戦いであるとの視点なしに満州事変・支那事変を教えることは不可能と思います。斉藤先生の授業を聞きましても、学習指導要綱に余りこだわって居られません。2点目、3点目はともかく1点目だけは是非工夫して取り入れて貰いたいと思います。 自由史観研究会理事 杉本幹夫
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はじめまして、どうか私の無知な質問をお許しください。 ■回答
スタッフの一人が私に「アメリカの鏡:日本」アメリカ人、 Helen Mearsを提案
しました。
彼女は米占領軍総司令部の一員で、1948年にこの本が発売された時、マッ
カーサーが日本語訳と日本での発売を禁止してしまいました。 自由史観研究会会員 野口ひかる
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