1.米陸軍兵士の戦闘魂とプロ倫理意識に及ぼした日本の影響
(原文英語)

■投稿

第2次世界大戦に関して、このような素晴らしい情報源を提供して下さり有り難うございます。
私は普通のアメリカ人とは異なり、20世紀の日本についてあなた方と同じような史観を持っています。
私に出来ることがありましたら、申しつけて下さい。

退役陸軍伍長  

■回答(1)

我々のホームページ関心を持っていただき、有り難うございます。
貴方は最近まで軍務に服されていたのですか。日本かアジアの何処かに居られた事があるのですか。

我々のサイトは日本語の情報量に比べ、貧弱です。少数のボランティアで始めたため、英語にはなかなか出来ません。
本来このようなことは外務省がなすべき事だと思いますが、日本の外務省は全く勇気がありません。
北朝鮮の拉致被害者は目撃者があったにも関わらず、昨年まで長い間その存在を認め、救出しようとしませんでした。

我々のグループの殆どは英語を自由に話せません。貴方の申し出は大変有り難いと思います。

自由史観研究会会員  野口ひかる

■投稿(2)

私は米陸軍で4年間勤務し、2回戦場に動員されました。負傷したため退役し、現在某基地で白兵戦の教官をしています。
妻も軍勤務で、”わがままな子どものような”韓国人を守るため、近く赴任致します。

なぜ、外人が昔の日本帝国軍の”盗まれた名誉”を守ろうとしているのか?ですが、私が所属している連隊は、1946年から大阪の孤児院をずっと支援してきました。毎年寄付金を集め、その孤児院に届けています。その関係で私も2回大阪へ行ってきました。

大阪で、地元の文化に興味を持ち、自分は軍人だったので、その方面における日本に興味を持ちました。
そして、日本のカースト制度、軍にかかわる伝統、武士の倫理がすべて健全に息づいているいることに気づいたのです。
妙なことに米軍でも同じことがいえます。自分は日本の昔の兵士達に対してある種の義務を感じており、彼らのなしたことや、彼ら自身について語るときは、恥ではなく、誇りをもって語るべきだと思います。 

これについての意見を下記にまとめてみました。

☆米陸軍兵士の戦闘魂とプロ倫理意識に及ぼした日本の影響 第1部 

☆アメリカの陸軍兵士にとって、「陸軍の7大倫理」(とその日本版)は、日々の生き様の指針であり、必要あらばそれらに殉じて死をも厭わぬというものである。

以下は、1941年から1999年にかけて、これらの倫理項目が導入されていった物語である。

忠誠(Chugi)・・・憲法、軍、自分の部隊、他の兵士に真の信頼と忠誠心を抱け。
義務 (Chugi)・・・自分の任務は全うせよ。
尊敬(Jin)・・・他人を敬意をもって扱え。
奉仕(Rei・・・自分のためよりも、国、軍、自分の指揮者、部下の繁栄のために尽くせ。
名誉(Meiyo)・・・常に軍の全ての重要価値基準を堅持せよ。
誠実(Gi)・・・常に法と倫理に基づき正しく行動せよ。
勇気Yuki )・・・恐怖、危機、逆境を直視しこれを克服せよ。

☆これらの倫理項目は、現代アメリカの兵士と切っても切れぬ縁で結ばれている。その歴史的背景について語りたい。

下の写真はこれらの倫理項目の創設者、(第三十四代元)陸軍参謀総長エリック新関大将のものである。
彼の祖父は広島(最初の原爆投下地)で育ち、20世紀初頭にハワイへ移住した。
当時は多くの移民がパイナップル畑やサトウキビ畑で働いていた。
彼の両親は二世でアメリカ生まれであり、従ってアメリカ市民である。新関は三世でやはりアメリカ生まれである。

新関は、ウエストポイント卒業後、砲兵将校としてベトナム戦争に参戦し、地雷を踏んで右足の下を失った。
誰もが彼の経歴はこれで終わりだと思ったが、彼は踏みとどまり、義足をはめ、1998年には陸軍副参謀総長まで登りつめ1999年7月21日、日系アメリカ人として最初の陸軍参謀総長になった。
(ひかる注:2003年7月引退)  かくして広島出身の農園労働者の孫が世界最強の陸軍の指揮を取ることになった。

しかし、武士道の価値観がなぜ米陸軍に取り入れられたのか疑問に思われることだろう。
それは、全て第二次世界大戦における志願兵集団、四百四十二連隊に起因している。
欧州大陸で戦ったこの連隊の基本となる統計資料は下記のとおりである。彼らに起因したとした理由は極めて明瞭で、彼らの行動が陸軍の指導層世代に与えた大きな影響による。
 
指導者たちは、422連隊の隊員が示したような、義務感や完璧な精神をすべての兵士に浸透させることは可能であると、主張したのである。
まさか60年後、それが、武士道の倫理観として浮かび上がるとは考えてもいなかったに違いない。
当時は彼らは、『葉隠れ』や『五輪書』が陸軍指導者の必読書になるだろうとか、正当な理由なくして破壊してしまったものの姿に米陸軍自体が変貌を遂げるとは思いもしなかっただろう。

☆422連隊の活躍
大統領による部隊感謝状7回。そのうち5回はブルエレ(フランス)の戦い、すなはち、「失はれた大隊」の戦いの一月間の活躍に対してであった。紫ハート勲章(戦闘における名誉負傷、戦死者勲章)が9486個。国家最高の叙勲(際立った勇気ある行為)である議会名誉章が23個。殊勲十字章(勇敢なる行為)が52個。銀星章(勇敢なる行為)が560個。銅星章(勇気ある行為)が4000個。兵士賞(勇気ある非戦闘行為)が15個。師団賞(役務、忠誠)が87個。

442連隊の議会名誉章の概要は下記のとおりである。

Daniel K. Inouye(ホノルル、442連隊第2大隊E中隊、少尉)1945年4月21日、イタリヤ、サン・テレンゾにて。ポー渓谷に至る重要な十字路の高所防御陣地を攻撃するのに、イノウエは砲火の中を自分の小隊の指揮をとり大砲,臼砲射撃観測地点を占拠し,敵主力陣地を40ヤード突破した。狙撃兵より胃を打ち抜かれたが、ドイツ軍の小銃投擲弾の破裂により,彼の右腕は粉々になった。彼は正に右手で手榴弾を投げようとしたがそれを左に持ち替えて投げた。

Kaoru Moto (Makawao, Maui、一等兵100大隊,C中隊)1944年7月7日イタリヤ、Castellinaにて、機関銃座を攻撃、捕虜1名捕獲、観測所として利用されていた家屋を占領。負傷をおったがドイツ軍に再占拠されないよう防御しつづける。そのあと他の機関銃座を狙い,銃撃戦となり,ドイツ軍2名負傷、捕虜4〜5名。1992年に死亡。

Yukio Okutsu(Hilo, Hawaii、特務軍曹、442連隊第2大隊F中隊)1945年4月7日イタリヤ、Mt. Belvedereにて、彼の小隊が3丁の機関銃により釘付けになった時、Okutsuは激しい砲火の中を一番近い機関銃座に30ヤード這っていった。そして立ち上がり,その機関銃座に2つの手榴弾を投げ込み、3名の機関銃兵を殺した。そのご遮蔽物に身を隠しては、突進し、また身を隠して次の機関銃銃座に手榴弾を投げ込み、第2の機関銃座も破壊し、ドイツ兵を1名負傷させ、残りの2名を捕虜にした。3番目の銃座を見つけ小火器を撃ちながら突撃を続けたが、彼の鉄兜を掠めた銃弾のため一時的に気を失った。気がつくと5〜6名の自動小銃を持ったドイツ兵に突撃をしており、ドイツ兵は退却させた。機関銃座を側面から攻撃してこれを占拠し、4名の機関銃手を捕虜にし、自分の小隊の攻撃を容易にした。

Robert Kuroda (Aiea(ハワイ)出身、442連隊第2大隊H中隊、曹長)1944年10月20日、フランスのBruyeresに於いて、手榴弾で機関銃座を攻撃し、ドイツ兵3名を殺し、他の3名を小銃で負傷または戦死させた。第2の機関銃座に向かう時に狙撃兵に撃たれ戦死。

Yeiki Kobashigawa (Waianae出身、第100大隊B中隊、特務軍曹)1944年6圧2日、イタリヤ、Lanuvioに於いて。 攻撃中、彼の小隊はドイツ軍の機関銃座群の前を横切った。50ヤード先に一つの銃座を見つけ、部下とともに匍匐前進で近づき、手榴弾を投げ込み、仲間の援護射撃の中を自動小銃を持って突っ込んだ。1名射殺、2名を捕虜にした。Kobashigawaと仲間は彼らの前方50ヤードにある別の機関銃に銃撃された。彼のいる場所まで分隊に前進を命令し、再び第2の機関銃銃座を抑えるために前進した。手榴弾を投げ込み、部下が突撃するのを援護射撃した。捕虜4名を確保した。他の銃座を警戒しながら、さらに4箇所の機関銃座を発見した。そのうち2箇所を部下に無力化させた。

Barney Hajiro(Waipahu, 442連隊第3大隊I中隊 一等兵)1944年、10月29日、フランスのBruyeres と Biffontaineにおいて、堤防で歩哨中、200ヤード離れた友軍の小屋が攻撃を受けているのを発見した。自分の危険を顧みず、敵の拠点に直接3発銃弾を撃ちこみ、狙撃兵2名を負傷、戦死させ。Belmontの東側の高地をI中隊が攻撃する時には前哨警備をかってでた。分隊長と共同で軽機関銃2丁、自動小銃2丁、ピストル4丁、小銃10丁と沢山の手榴弾を確保し、彼の勇敢な行為は「自殺の丘」防衛に大いに寄与した。

Masato Nakae(Honolulu、第100大隊A中隊、1等兵)1944年8月19日、イタリヤ、Pisaにて。前哨地防衛戦でNakaeはドイツ軍を後退させた。迫撃砲の砲弾で負傷をしたが彼は持ち場を離れず、銃で応戦しドイツ軍を退却させた。1998年死亡。

Shinyei Nakamine(Waianae出身、第100大隊B中隊、一等兵)1944年6月2日、イタリヤ、La Torretoにおいて、機関銃座を占拠し、ドイツ兵3名戦死させ2名捕虜とする。その後でさらにもう一箇所の機関銃座を占拠した。さらにもう一箇所、第三の機関銃座を占拠しようとして戦死。

Mikio Hasemoto (Honolulu,第100大隊B中隊、一等兵)1943年11月23日、イタリヤ、Cerasuoloにて、Ohataと一緒に戦い、一度の戦闘でドイツ兵27名戦死させ、3名を負傷させた。その後死亡。

Shizuya Hayashi (Pearl市、第100大隊、A中隊、一等兵)1943年11月29日、イタリヤ、Cerasuoloにおいて、ドイツ兵が立てこもる高地の攻撃において、手榴弾、小銃弾、機関銃弾が飛び交う中を肩から吊った自動小銃を腰だめにして、射撃しながら機関銃座に突撃し、機関銃座を占拠する。7名を戦死、2名以上を逃走させた。小隊がその場所から200ヤード前進したところで、敵の高射砲による砲撃を受け、Hayashiは応戦し、9名を戦死させ、4名を捕虜とし、残りの敵を高地より敗走させた。

George Sakatoは1944年10月29日、フランスのBiffontaineにおいて、彼の分隊が釘付けとなったが、彼は立ち上がり、部下に突撃を命じ、ドイツ軍の拠点を破壊した。
階級:2等兵 
部隊:442連隊E中隊 
出身地:DENVER

Frank Onoは1944年7月4日、イタリヤ、Castellinaにて敵狙撃兵一名を戦死させ、負傷していた指揮官救援した。その後死亡。 
階級:一等兵 
部隊:442連隊G中隊 
出身地:NORTH JUDSON, IND.

Kiyoshi Muranagaは1944年6月26日、イタリヤ、Suveretoにおいて、正確な60-mm迫撃砲射撃で、敵の対人、対戦車88mm砲を撤退させた。その後死亡。 
階級:一等兵
部隊:第442連隊F中隊
出身地:AMECHE, COLO. 

Joe Hayashは1945年4月22日、イタリヤ、Mt. Nebbioneにて機関銃座2箇所を破壊した。
階級:一等兵 
部隊:442連隊K中隊
出身地:PASADENA, CALIF

William Nakamuraは彼の小隊を釘付けにしていた機関銃座を攻撃し占拠す、ドイツ軍の撤退時に銃弾を受け戦死する。
階級:一等兵 
部隊:442連隊G中隊
出身地:HUNT, IDAHO 

Kazuo Otaniは1944年7月15日、イタリア、Pieve di S. Luceにおいて、自分の小隊を助けるため、敵の射撃を引きつけ、ドイツ軍の反撃を阻止した。負傷した仲間を手当て中に戦死した。
階級:曹長 
部隊:442連隊G中隊 
出身地:VISALIA, CALIF 

Joe Nishimotoは1944年11月7日、フランス、La Housssiereにおいて3日間にわたるドイツ軍の包囲を突破し、戦死した。
階級:二等兵
部隊:442連隊G中隊
出身地:FRESNO, CALIF 

Ted Tanouyeは1944年7月7日、イタリア、Molina A Ventoabbtoにて、戦闘で負傷していたが部隊にとどまり、いくつかの戦闘に参加、後にその傷のため死亡する。
階級:特務軍曹
部隊:442連隊K中隊
出身地:TORRANCE, CALIF. 

James K. Okuboは1944年10月、フランス、Vosges山系で、何日間にもわたる激戦のうえ、テキサスの「失われた大隊」の兵士を救援、救出した。
階級:特務軍曹
部隊:442連隊
出身地:BELLINGHAM, WASH.

ひかるさん、これは長い話のほんの初めで、さらにもっと沢山の話を送ります。

■回答(2)

T さん、
貴方のメールに深く感動しました。ヨーロッパ戦線で困難な作戦で勇敢に戦かった二世兵士のことを知り尊敬の念を抱きました。
もしもこのような状況下で私に息子がいたら、心の中では泣いたかもしれないが、自分の母国、米国ではあっても、国のために戦かへと励ましたでしょう。

また、彼らはただ認めてもらうために、自分の祖先が人種差別を受けないように勇敢に戦ったのではなく、彼らの両親が名誉や誠意を教え込んでいたために勇敢に戦ったのだと思います。しかし、このような考えが米陸軍の教育、訓練にも影響を及ぼしているとは知らなかったし、米陸軍に武士道精神が生きており、現在の陸軍参謀総長が日系三世で、最初に軍隊の7重要項目を提唱した人だったとは知りませんでした。ぜひ貴方の話を翻訳し日本のメンバーに知らせたいのだがよろしいでしょうか?
貴方の話はまだ終わってなくてどうなるのか判りません。この話のためにお礼が言えることを願っています。

自由史観研究会会員  野口ひかる

野口ひかる

■投稿(3)

どうぞひかるさん、これを翻訳してください。これは皆が知っておくべきものです。これに関し週末にはもう少し調査し、至急送りましょう。
言い忘れたことがあります。士官候補生の教本の内表紙についてです。
軍曹が最初に読むのは五輪書から引用した「兵法の道は鍛錬なり」です。
この言葉は下士官には戦闘技術、知識に専心する象徴にまでなっています。


2.どうして日本政府は反対しないのか?

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韓国に興味を持つようになり韓国について調べているうちにこちらのサイトに 辿り着きました。 好意的、という意味で調べていた私にとってはショックとしかいいようがあり ません。 それから他のサイトもいろいろ見てみました。 韓国側と日本側の意見両方。 どちらもざっと流し読みしただけですし、あくまで私は素人ですので今でもど ちらが正しいかというのは分かりませんが…。

それでサイトのどこかに書かれてあったら大変失礼だとは思うのですが、こち らのサイトに書かれてある事が史実ならどうして日本政府は反論をしないのです か?
教科書は正しい事を書かないのですか?
お暇な時にでもお返事頂ければと思います。
韓国(中国含)側が正しいとか日本側が正しいとか正直どちらでも構いませ ん。 真実が知りたいと思います。

政府が認めなければどんなにサイトや書籍に記されてもそれを信じきれないの は 当然の事だと思いますので…。
それでもこちらのサイトに出会えた事を嬉しく思います。 日本人である事に誇りを持つ事が出来ました。 ありがとうございました。 乱文にて失礼致します。

■回答

どちらが正しい主張をしているかは、既成観念を捨て、白紙の状態で、双方の主 張を読み、自分で判断して下さい。 我々は自分が正しいと信じていますが、彼らも又自分が正しいと信じているで しょう。

戦後、日本の歴史学界、言論界は共産主義者に主導権を奪われました。それでも 昭和30年代までは戦前派がかなりの力を持ってましたが、彼らの老齢化と共に 次第に力を失いました。

共産主義では、資本家は労働者を搾取する者、宗主国は植民地を搾取する者と、 最初から決めつけ、その理論に当てはめるように歴史を構築しました。その考え は中国、韓国の民族主義と結びつき、すべて日本が悪いとの考えがアジア全体に 拡がりました。

1982年、朝日新聞が、教科書検定で、「文部省が、侵略を進出と書き換えさ せた」と報じました。これは誤報だったのですが、中国・韓国が一斉に反発しま した。
時の宮沢官房長官は事実を確認もせず、謝罪し、以降中国・韓国の干渉を許すこ とになりました。

ソ連の崩壊により、共産主義は次第に力を失いつつありますが、今までの主張を 否定することはなかなか出来ません。又恩師に正面切って逆らう事も、なかなか 出来ず、歴史学界とはなかなか変わらないものですね。

又日教組や極左暴力による圧力も歴史を歪曲している原因になっていると思いま す。 新しい教科書を作る会の事務所が放火されたのはその証拠です。

自由史観研究会理事  杉本幹夫


3.「満州事変で教えてもらいたいこと」

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杉本先生にお尋ねしたいのは、『歴史と教育』前々号にご執筆になられた「満州事変で教えてもらいたいこと」というご論考についてでございます。

あの中で杉本先生は、満州事変前史として中国側の排日政策があり、当時のマスコミも関東軍による独断専行・事変拡大を支持していたのであり、マスコミが軍部に抑圧されていたという俗説に惑わされてはいけない、との論旨を提起してなさいました。私もこの杉本先生のご指摘については、昭和史研究の観点から賛同するものであり、満州事変前史として中村大尉惨殺事件・万宝山事件・満鉄並行線建設問題といった史実を的確に踏まえるべきであると考えております。また、戦前期マス・メディアが必ずしも検閲により報道の自由を制限されていたわけではなかったことも十分に把握しております。

 そこで杉本先生に質問なのですが、よく我々日本史学の世界でも「歴史研究と歴史教育は違う」ということが言われますが、杉本先生の議論を学校教育、特に自由主義史観研究会の教師会員層が最も集中している中学校や、または高等学校の授業で上記の内容を取り入れることには無理があるのではないか、と私は思います。その理由は2つございます。

 まず第一点ですが、日本外交史研究では最も研究蓄積のある國學院大學にいらっしゃったことからもお分かりなように、満州事変期の新聞報道・国民動員については日本近現代史においても独立した先行研究群がすでにございますが、その内容は今日の教科書記述には取り入れられてないのが現状です。このため、杉本先生がおっしゃる正論を教師会員が実際の授業で導入する場合には、時間配分の観点や満州事変についての学習目標などを勘案した場合、相当に厳しいものがあるかと思います。私も中学校の学習指導案を作成した経験がありますが、やはり現状の学習指導要領下では難しいと思います。

 第二点として、杉本先生のご指摘にある戦後マスメディアの虚偽、すなわち「マスコミは軍部に抑制されていて報道の自由が無かった」という歴史観を授業の中で批判的に検討する場合、それは歴史教育の問題ではなく公民科教育の課題になるのではないか、という疑問があります。もし教師が生徒に対して、各自の判断でマスコミ報道を咀嚼する姿勢を身に付けさせることを一つの授業目標に設定するとすれば、一人の教員の技能では困難であると思います。

     第三点として教材研究の問題になりますが、近年、社会科や国語科では新聞記事を教材として活用する傾向が高まっていますが、もし満州事変を積極的に支持していた論調の記事を授業で導入する場合、それをどのように使用することで授業を構成すべきか、という問題が発生します。われわれ歴史学には史料批判という方法がありますが、中学生や高校生の段階で果たしてそれが必要とされるのか、という疑問もあります。もし、教員の判断でそうした論旨の新聞記事を生徒に提示したとしても、かえって歴史理解が複雑化してしまう可能性があります。

 現在、私は1930年代の国内政治史、主に岡田内閣期を中心に研究をしていますが、当時の新聞記事を見ますと東京朝日新聞をはじめ多くのメディアが「非常時」鎮静化を支持し、軍部批判や政党内閣制復帰を訴えていたことに興味を覚えます。また、1938年4月の国家総動員法制定直後には多くの新聞が国民の権利保障の観点から総動員法違憲論を掲げていたことにも一つの新鮮さを感じました。

したがって、もし近現代史教育の中で当該期新聞報道の問題について触れる場合には、こうした新聞記事を優先的に導入・活用したほうが教師にとっても授業の流れを構想しやすく、また生徒の側にしても、「必ずしも戦前の日本人は時代の危機に無知ではなかった」ことを理解させる上で適当ではないか、と勝手に考えております。そして、こうした歴史理解こそが自由主義史観本来の発想に近いのではないか、と考えております。

 以上、杉本先生のご提言には歴史研究の立場では深い理解を示しつつ、歴史教育の観点からは身勝手な疑問を延々と述べさせていただきました。学識の無い分際で色々と失礼なことを申し述べさせていだきましたが、乱文のほどを御容赦下さい。それでは来月の全国大会にてお会いできますことを楽しみにしております。ご研究の発展、いくえにもお祈り申し上げます。

■回答

自由主義史観研究会・総会における岡崎先生の話の中にも、満州事変・支那事変はイスラエルに対するインティファーダと同じだという話がありました。 私はこのテロとの戦いであるとの視点なしに満州事変・支那事変を教えることは不可能と思います。

斉藤先生の授業を聞きましても、学習指導要綱に余りこだわって居られません。2点目、3点目はともかく1点目だけは是非工夫して取り入れて貰いたいと思います。

自由史観研究会理事  杉本幹夫


4.戦争直後の日本を偏見なく説明している資料を教えてください
(原文英語)

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はじめまして、どうか私の無知な質問をお許しください。

私は戦争直後の時代に日本に何が起きていたのか偏見なく説明している資料を探 しています。私は貴方たちの現在における見解、立場も理解できたらと思ってい ますが、まったく基礎知識がありません。(同じように戦前についても何か勉強 したいのですが−でも時期は「現代」にとどめておきたいのです。)どこからは じめてよいかご教授願います。

よろしくお願いします。

■回答

スタッフの一人が私に「アメリカの鏡:日本」アメリカ人、 Helen Mearsを提案 しました。 彼女は米占領軍総司令部の一員で、1948年にこの本が発売された時、マッ カーサーが日本語訳と日本での発売を禁止してしまいました。

日本で発売されたのは占領が終わった1953年の終わりで、1995年にメ ディアファクトリーで再出版されました。 Helen Mearsは第二次大戦中にミシガン大学、ノースウエスターン大学で日本社 会を教えていたようです。

この本について何か英語のものがないか調べてみて、次のホームページを見つけ ました。http://www.jetro.org/inside/io9602.html#3 日本語に翻訳されたものは日本のアマゾンから入手できます。 英語の原本はどこで入手できるのかは分かりませんが、間違いなくどこかで入手 できるでしょう。

自由史観研究会会員  野口ひかる