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こんにちは。以前、貴会の杉本理事とメールをやり取りしたことのある者です。
その後もHPは何度か見させていただいております。参考になる部分、うなずくべき
点も多少ありますが、あまりにもおかしいと思える部分、首肯しかねる部分がありま
すのでその中の一部についてお尋ねいたします。可能であれば以前のように回答いた
だきたくメールしました。
その中でも、「歴史論争最前線」のコーナー中の、「本当
は日本軍の大勝利だったノモンハン事件」についてお聞きしたいと思います。
タイトルが非常に衝撃的だったので、興味深々という感じで読ませていただきま
した。残念ながらその中で紹介されていた「ノモンハン事件の真相と戦果-ソ連撃
破の記録」は近隣の本屋を探し回っても見つからず、ネットの検索でも引っかからず
にようやくアマゾンで発見したものの品切れのため、まだ読んではいませんが。しか
しながら、このコーナーでは疑問点がいくつかあります。
まず、二と四についてですが、攻撃側が守備側よりも圧倒的に優勢な状況で攻撃
側の死傷者が守備側のそれよりも多かったとしても、それがそのまま守備側の勝利と
なるでしょうか?そういう状況で単に死傷者の数の比較で勝敗が決まるなら、例えば
硫黄島では米軍は日本軍守備隊よりも多くの死傷者を出しましたが、これが日本側の
勝利を意味するでしょうか?また、開戦初期には中部太平洋のウェーキ島を攻めた日
本軍は、相手よりも圧倒的に優勢な戦力であったにもかかわらず、この小さな島を落
とすために二隻の駆逐艦を失ったのをはじめ多くの死傷者を出しました。これは米軍
の勝利になるのでしょうか?それとも、当事者が日本軍である場合のみの例外でしょ
うか?
■回答
どちらが勝ったかという判断はおっしゃるようにいろいろな要素、基準が関係する
ので、一概には言えません。刺激的な言葉を敢えて使ったのは、一般的に日
本軍がソ連の優秀な機械化軍団のために完敗した、という大嘘がまかり通っている
状況に反論するる、というねらいもあってのことです。しかし決して間違っ
たことはいっていないと思っています。
まず、ノモンハンの戦いは日本軍の守備陣地にソ連軍が攻撃してきたといった、も
のではなく、攻守入り交じった戦いでした。そもそも、ハルハ河という伝統
的な国境線を越えて、しかも川幅70メートルもある河に渡河地点をいくつも築い
て侵入してきて、いくつもの陣地構築をしたのに対して、日本軍が反撃した
というのが基本線です。
河のこちら側に作られた陣地を攻めていくと対岸にあるこちら
より高い丘陵の上に広く布陣した大砲群からの援護射撃を受け、日本軍は大
いに被害を被るといった状況でした。ですから、一般的に言えば日本軍の方が被害
を受けやすい環境下の戦いでした。この状況を一変させようとして、西岸へ
の渡河攻撃作戦を一度試みますが、対岸でかなり戦果を挙げたものの予想したより
敵兵力が多いこと、こちらの渡河地点は1ヶ所しかなかったので、補給、退
路の心配があったので、十分な戦果を挙げずに引き揚げてしまいました。もっとも
この時だけで、敵戦車400両近くを撃破し、終日のその燃える炎が空を焦
がしていました。(日本側は戦車は渡河せず、したがって損害はゼロ)
ともかく、日本側は基本的に不拡大、侵入軍を撃退する、という方針だったのです
が、相手は抜き差しならない事情があったのでした。外蒙古崩壊の危機で
す。六に書いたように、二年前には人口の4.5%を処刑する(日本でいえば、5
00万人)という地獄政権が共産政権だったのですが、その前にも何回も反
乱が起っています。最近これを裏付けるラマ僧の大量処刑の骸骨が発見されたこと
が新聞で伝えられています。この外蒙(地上二番目の社会主義国)をソ連の
支配下にとどめ置くために、一つは民族主義を煽り、満州国側への膨張政策を取る
ことによって、民心をつなぎ止め、二つには大量のソ連軍を送り込む口実を
作り、反乱の可能性を押しつぶすことです。結局20万以上のソ連軍が入ってきま
したので、総人口80万の外蒙は反乱どころではない状態になってしまいま
した。もう一つは、ドイツとの対峙、西方への進出を行う上で、一撃を与えること
によって、日本にソ連の力を見せつけ北進の目を摘もうという意図がありま
した。日本との停戦協定調印の翌日9月17日にポーランドへの侵入を開始しまし
た。
こういう背景でしたので、日本の不拡大方針をいいことにして、ソ連側は一気に軍
の増強を図り、日本軍はその察知が出来なかったために、大苦戦をしまし
た。しかし、10倍近い、近代兵器を持ったソ連軍に、こちらの1.5倍以上の死
傷者を強いる戦いを行ったのですから、大健闘です。戦力2乗の法則という
のがありまして、2倍の兵力は2の2乗すなわち4倍の戦力となるという法則がありま
す。これから見ると、ものすごい兵力と戦ったことになります。しか
し、どう見ても負けたとはいえませんし、3倍の軍を動員して反撃態勢を整えたと
ころで、不拡大方針の軍中央につぶされた、というのが実態です。大勝利、
といっても過言ではない健闘だったと思います。
自由史観研究会会員 茂木弘道
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次に三ですが、航空機について述べた部分はともかくとして、戦車の部分には疑
問を抱きます。戦車戦で問題にならなかったのは日本の戦車ではないでしょうか?
公平にソ連軍戦車のスペックと日本のそれを比較した場合、こういう記述にはならない
と思います。例えば戦車の主砲を比べた場合、ソ連軍の戦車の主砲は口径は日本のも
のよりも小さいものの、その分砲身が長いため初速が速く破壊力が大きいのに対し、
日本の戦車は口径が大きくとも砲身が短く威力は小さいはずです。そもそも、日ソで
は戦車に対する考え方が違い、日本軍の戦車は相手機銃陣地の破壊などあくまでも歩
兵の支援が任務で、そのため最初から対戦車戦闘は考えられておらず、ソ連の戦車に
対抗できないのは当然です。日本の戦車の砲弾は戦車の相手装甲を貫くことはでき
ず、逆に日本の戦車の装甲ではは相手の砲撃を防ぐ術はないのです。
こんなことは専門
家から見れば素人である自分ですらわかる軍事常識です。この程度のことも弁えず、
なぜああいったことが書けるのか、ただ理解に苦しみます。何でも日本の方が優れている(い
た)としたいのでしょうか。また、ソ連戦車の損害の数はさておき、その戦果も戦車
によるものではなく、歩兵が火炎瓶や地雷などを使った肉弾攻撃で破壊したものが多
数でしょう。
ついでに言えば、このとき日本軍戦車が歯が立たなかったソ連軍戦車
はヨーロッパではドイツ軍戦車にまるで対抗できませんでした。日本がドイツの同
盟国であったこと、ヨーロッパで戦わないで済んだのは幸運だったと思います。日本
の戦車の水準は、明らかにドイツ・ソ連などから比べると数年遅れていたのですか
ら。日本の戦車は、太平洋では米軍のM4中戦車はもちろんM3軽戦車にすら叶わず、
その二種の戦車はヨーロッパではドイツ軍の戦車に対抗できなかったことからもそう
言っていいと思います。歴史的事実の捻じ曲げというのは、三のようなことを書くこ
とだと思うのですが、いかがでしょうか?
■回答
これは、おっしゃるような常識が実際と全く違っていたということなのです。
確かに、ソ連の戦車の砲はカノン砲で、曲射砲の日本戦車より口径も、初速も勝っ
ています。
ただし、当たらないことにはどうにもなりません。まず、ソ連戦車は、走行射撃が
出来ませんでした。日本軍は勿論出来ました。ノモンハン戦には、日本軍は
戦車を100両ほどしか動員していませんで、1500両近くを動員したソ連軍に圧迫さ
れたのは事実です。戦車同士の戦いは数回しかなかったのですが、日
本戦車には被害ゼロ、ソ連戦車破壊66両、というのが実際に起った結果でした。
では、どうして800両もの戦車を破壊したのかというと、その主力は速射
砲でした。1000メートル以内ですと、ほぼ100発百中で、面白いように命中炎上し
たそうです。次に活躍したのがご存知、火炎瓶です。轟々と走ってき
た戦車は過熱状態ですので、これが面白いように効果があり、炎上したことが記さ
れています。ソ連の戦車と歩兵の連携が悪く、また戦車の機関銃射撃の動き
が鈍いため、接近して火炎瓶をぶつけることが面白いようにできたと書かれていま
す。次に、圧倒的に優勢な飛行機による攻撃。高射砲でも戦車を随分やっつ
けた記録があります。勿論各種の砲による破壊も多数ありました。日本軍は、100両のうち、29両が破壊され、内17両は修理不可能でした。
歴史的な事実のわい曲でも何でもなく、これが事実起ったことです。もともと日本
軍は、アメリカ陸軍との本格対決を想定していず、またソ連に本格侵攻する
予定もありませんでしたから、戦車に侵攻の主力をになわせる、という戦略をとっ
ていませんでした。砲兵、歩兵の補助部隊です。ですから、その後のアメリ
カとの対決、終戦間際の強盗ソ連との対決では戦車で苦戦しましたが、言わばこれ
はやむを得ない事情でした。
戦車は鉄の塊です。当時の日本の鉄鋼生産は、700万トン、アメリカ4500万
トン、ソ連1800万トン、という状況を見れば、日本陸軍が戦車よりも航
空機に重点を置き、ソ連の問題にしない航空機を生産していたのは、あな
がち非難さるべきことではないでしょう。
自由史観研究会会員 茂木弘道
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また、戦車・航空機共に損害はソ連の方が多いと書かれていますが、確かに損害
の数は絶対的に日本の方が少ないです。しかし、全体に占める割合はどうなんでしょ
うか?例えば、2000人と500人が戦ったとして、前者の損害が800、後者が400だった
として、後者が有利といえるでしょうか?この場合、確かに前者は後者の倍の損害を
出していますが、前者にしてみれば四割を失ったに過ぎず、逆に後者は八割を失って
います。同じことがこの場合も言えるのではないでしょうか?日本の戦車・航空機の
損害が少なかったのは、もともと相手より数が少なかったからとも言えます。実際、
例えば航空機に関していえば、日本側に十分な数があるなら制空権も取れ、地上支援も可
能だったはずです。
■回答
普通、戦力二乗の法則に従い、多い戦力を持つ方ほど、損害が少ないというのが基
本法則です。
ですから、おっしゃる例で言えば、2000と500が戦って、800と400の損害でした
ら、文句なく400の勝ちです。航空機に関しては、日本は前半
戦では、若干数は劣るも圧倒的に強いため、完全に制空権も握り、撃墜比率も20対
1くらいで、ほとんど日本の飛行機は撃墜されませんでした。
ところが、
後半から、ソ連が大量の増強を図ったのと、日本側が参謀本部の愚かな
「ソ連を刺激しない」という方針のために、6月27日のタムスク基地爆撃で、149機
撃墜は(損害2機)という戦果を挙げたのを参謀本部は震え上が
り、6月29日正式命令で、国境外爆撃を禁止しました。それをいいことにソ連側か
らは越境爆撃をやりたい放題で、日本の空軍はそのためにかなり損害を被
り、後半には制空権を必ずしも確保しきれない状況になりました。
全く、自縄自
縛、相手は刺激すればどうではなく,弱みを見せればつけ込むというのが常套
であることを、理解しない愚かな参謀本部の犠牲になったわけです。それを今は、逆に
言う人が多いですが、全くのウソです。
自由史観研究会会員 茂木弘道
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六について、ソ連・外蒙古側の内部事情はともかく、当時中国相手の戦争で泥沼
にはまって出口も見つけられずにいた日本にも、さらにソ連と戦端を開く力があった
のでしょうか?もしそれをしていたら、確かに歴史は変わっていたでしょうが、それ
が日本にとって有利に変わっていたかは甚だ疑問です。歴史の「if」を考えるのは
決して無意味とは思いませんが、かなり無理があると思いますが?
■回答
日支事変は、日本軍の漢口作戦以降は実質的な戦いはこれといってなく、相手から
攻め込まれるなどという状況ではありませんでした。ソ連がどういう存在で
あるか(簡単に言えば、アメリカよりも本当は、日支事変の仕掛けを行いそれを強
力に支援してきた背後の勢力は実はソ連である、ということです)というこ
とを正しく認識していれば、ソ連の不法侵攻に対する断固たる反撃の戦いは絶対に
行うべきであったし、行う力は十分にあった、と考えます。前にも書きまし
たが、ソ連は東方へ全力を向けるなどということはとても出来ない状況にあったの
です。だからこそ、ノモンハン事件も、ソ連の方からドイツを通じて8月に
は停戦を工作しているのです。こういう状況にさっぱり無知で、ソ連を買いかぶ
り、刺激しない方針を取り、それで煮え湯を飲ませられた、というのがノモン
ハン戦の実態です。
ジュウコフがソ連軍の指揮官だったのですが、ミシガン大学のロジャー・ハケット
教授が、戦後新聞記者と一緒にジュウコフと会見したとき、「元帥の輝かし
い軍歴(スターリングラードの英雄であることはご存知のことと思います)に中で
どこの戦いが一番苦戦でしたか」との問いに対して、即座に『それはノモン
ハンの戦いであった』といったそうです。他の人たちはどこの戦争下、と唖然とし
ていたそうですが、日本に詳しいハケット教授がその解説をし、一同ますま
す驚いたとのことです。知らぬは日本人ばかり、ではありませんか?
決して、ただ日本が強かったといっているわけでは全くありません。ウソから目を
覚ましていただきたいと思っているだけです。
自由史観研究会会員 茂木弘道
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以上、長くなりましたが、自分の感じた疑問を書いてみました。先述の本につい
ては、手に入り次第読んでみたいと思います。
■回答
是非お読みください。
「ノモンハン事件の真相と戦果」は、有朋書院(新宿区高田馬場2−9−1,
TEL5292-2992)から発行されていますので、直接お問い合わせ頂け
れば、と思います。もし何かの事情で手に入らないようでしたら、こちらに直接いって
頂ければ、お送りするように致します。(定価¥3500+税)
自由史観研究会会員 茂木弘道
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