9月分ご意見箱「学校の授業で習った
フィリピンにおける日本の虐殺」について

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9月分ご意見箱「1.学校の授業で習ったフィリピンにおける日本の虐殺」に下記の記述があった。

<学校で習ったのは日本はフリィピンで十万人の 民間人を殺したということです。やり方は残忍なやり方で泣く赤ん坊を放り投げ落ちてきた ところを銃剣で刺すという残忍なものであった。
とビデオの中でフィリピン人女性が言っていました。>

この「赤ん坊を放り投げ落ちてきたところを銃剣で刺す」
というのは、中国では昔からある子供の殺し方で、 日本人には思いつかないと思われます。

■回答

私もそのように思います。

日本は中国で三光作戦を行ったと非難されていますが、日本人には三光作戦といっても意味が分かりません。これは中国の戦法だからです。

中国では「光」の字に「すっかり無くする」という意味があり、「殺し尽くす」「奪い尽くす」 「焼き尽くす」をいうのだそうですが、日本では「光」という字をそのような意味には使いません。

これも自分たちならこうしたであろうと考えることを、日本がしたと歴史を歪曲して、プロパガンダしていると思います。

自由史観研究会理事  杉本幹夫


2.日本の国旗について

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質問ですが、日本の国旗を作った人って誰なんですか? ずっと気になっているんです

■回答

誰が最初に作ったというのは、正直、よく分りません。

日の丸が、歴史に登場するのは、1300年前ころ、朝廷の元旦の行事でもちい られたのが最初だと言われています。600年前の南北朝時代に後醍醐天皇が 使った日の丸は、白地の縦が長く赤い丸が少し小さい以外は、今日の日の丸とほ ぼ同じだそうです。

聖徳太子も日本のことを「日出ずる国」と言ってますし、古代から日本人に人気 のあったシンポルだと思います。 もっといろいろ調べればおもしろいかもしれません。もし、わかれば教えてくだ さい。

自由史観研究会会員  渡辺 龍二


3.日本の併合は歓迎されていたか?

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貴殿の意見、見解には強い憤りを感じます。 まず、戦時中の出来事を現代社会の会社組織、または企業間の利益関係に置き換 えて論じる事自体に無理が生じており、理解に苦しみます。

ミクロから見れば日本の戦国時代、マクロから見れば近代における戦争時強者が 弱者を支配し、そして統治する事は必然の出来事であったと考えております。 それが、どのような意図で、どのような利害関係でなされたかを論じることは自 然の流れであると共に、立場が違えば意見の相違があることは明白ではないで しょうか。 いかにも当時の朝鮮が、日本の支配を望んでいたかのような貴殿の認識には疑問 符をつけざるをえません。

経済発展や教育、国家のインフラ等、日本が朝鮮に与えた影響や投資額は計り知 れない事は明らかでしょう。そういった状況下、大日本帝国そして大日本帝国人 に取り入り、自己の利益のみを追求する現地人がいた事は否定出来ないでしょ う。 しかし、それを持って全国民が日本を歓迎していたとする考え方には限界がある のではないでしょうか?

歴史や現実世界において“もし”はあり得ませんが、貴殿の祖父母が、私の祖父 母に支配され抑圧された歴史があるとするならば、貴殿は心の底から私を歓迎出 来るでしょうか? 貴殿の先祖の為、ひいては生まれてくる貴殿の為に貴殿一族を我が先祖が支配し た。それであなたは納得できますか?

■回答

私の著書「植民地朝鮮の研究」を読んでいただきましたでしょうか。

そこに4人の外国人が見た当時の朝鮮の惨状が書かれています。まさに今の北朝 鮮と同じです。 貴方は今の北朝鮮を見て、同じ民族に支配されているのだから、日本統治下よ り、人民は幸せだったと思われますか。

終戦から朝鮮戦争までに済州島ではパルチザン闘争で5万人とも8万人とも言わ れる人が虐殺されたと言われます。あの小さい島でですよ。そのような状態が、 異民族支配を脱したから幸せになったと思われますか。

私は植民地は搾取されるもの、宗主国は搾取するものと言う考えは、労働者は搾 取されるもの、資本家は搾取するものだと言う発想と同じだと思います。このマ ルクス史観は今日否認されています。やはり統治の成果は国民の生活をどれだけ 豊にしたか。差別をどれだけ少なくし、自己実現の機会を与えたかで評価される べきものだと、思います。その点日本の統治は両班の横暴をなくし、法治主義と し、奴婢の階級の者にも努力すれば出世するチャンスを与えました。失敗のない 政治はありません。何が良くて、何が悪かったか、感情を排し、冷静に評価すべ きではないでしょうか。

又日本の朝鮮併合の目的は、ロシアの恐怖に備えることでした。数は力なりで す。従って日本が最も恐れたことは、彼らに鉄砲を持たせたとき、その銃口がど ちらを向くかです。搾取して恨まれる統治をするわけはありません。

次に、当初の戦時中の出来事とはどの時期を指すのでしょうか。併合時ですか。 それとも大東亜戦争の時代でしょうか。

併合当時親日派と反日派のどちらが多かったかについては、私は書いた記憶があ りません。多くの親日派がいた事は否定できないと思いますが、最後は日本の力 による併合だったと思っています。全国民が日本を歓迎していた等とは思ってい ません。

大東亜戦争の頃になると、金錫源少佐の日本兵を率いての大活躍、皇民化運動の 成果で、志願兵の応募率が60倍にも達するようになりました。かなり日本との 一体化が進んだと思っています。

満州族は漢民族を支配しました。しかし現在は吸収され、漢民族の中に埋没して います。ヨーロッパの地図とアジアの地図を比較して感じることは、ヨーロッパ は一神教のためか、民族対立が厳しく、アジアは寛容だと言うことです。戦前の 体制が続けば恐らく李登輝は日本の首相になったと思います。

自由史観研究会理事  杉本幹夫


4.豊国神社についての質問(原文英語)

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こんにちは、京都の豊国神社にある門は、いつごろ造られたものか、 また、その 横にある大きな鐘は、何年ぐらい前のものか教えていただけないでしょうか?

■回答(1)

このサイト訪ねていただき有難うございます。私は、このグループの理事のひとり で、現在ロサンゼルス(カリフォルニア)に住んでいます。

ご存知のように、豊国神社には古い歴史があります。最初は仏教の寺院として16世 紀末に、豊臣秀吉により建立され、方広寺と呼ばれていました。しかし、その後、彼 の政権が、徳川幕府初代将軍の徳川家康に倒されると、方広寺は幕府によって壊されまし た。神社はその後、1880年代に神道の神社として再建されたのです。

ご質問された門は、京都南部にあった伏見城のもので、16世紀末に建造されたものです。秀吉 は伏見城に住んでいたのです。彼の死後、少しの間、家康が住んでいましたが、17世 紀初めに、この城は壊されてしまいました。その門は、そのころに方広寺は移設され、 今では日本の国宝になっています。

大きな鐘は16世紀末に造られたものです。お気づきのように、日本史上由緒あるも ので、秀吉の息子の秀頼が作らせたものでした。不幸なことに、 この鐘に記された文字(漢字)が、家康によって秀頼との戦いの口実に使われました。 その戦いは1614年の大阪冬の陣(Winter War of Osaka)として知られています。

これが貴方の問い合わせに対する回答ですが、もしまだ他に質問 があるのなら、私か、我々の下記のグループまでemaiを送ってください。

自由史観研究会理事  赤野達哉

■投稿(2)

豊国神社や鐘についての情報、有難うございます。とて も興味を持っているのです。最近、京都を訪ねてみて、素晴らしいと思っていま す。最後にもう一つお尋ねしたいことがあります。過去に、京都に起きた火事が豊国 神社の門に影響をおよぼしたことがあったのですか?

私が質問したのは、いくつかの建物は火事のために再建されたことを知り、私た ちが今日見ているその門が、実際に400年前に建てられたものなのかと、疑問に思った からです。

■回答(2)

もうしわけないですが、これについての情報は持ち合わせていません。でも、16世紀以降、 京都には大きな火事はありませんでした。14世紀には応仁の乱という内戦で、京都が火事 で焼失したことはあります。第二次大戦のときでも、この街に米軍の爆撃はありま せんでした。

この門は400年前にできたものと同じものだと思っています。その理由は、私の資料には この門が再建された、とは書かれていないからです。しかし、この門が、分解修理されたものであったとしても、 部材は最初からのものです。

ご存知かと思いますが。西日本には豊国神社の門より古い建造物は沢山あります。 一番古いものは奈良にある法隆寺です。基礎部分は1200年前に建造され、現存しています。 Danielさん、日本の歴史に興味を持っていただき、うれしく思っています。もしさ らにご質問があるのなら、いつでもご自由にemail してください。

自由史観研究会理事  赤野達哉


5.阿南陸相と終戦について

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「阿南陸相と終戦【修親原稿】」を興味深く読ませていただきました。小生の考えを記しますので、ご批判いただければ幸いです。 来春発刊予定の拙著「歴史音痴の知りたい大東亜戦争の真相」からの引用:

その1 陸海軍の反目から

そもそも開戦前の陸海軍の国防分担は、その根本が陸軍は対露、海軍は対米であった。 海軍は山本五十六にひっくり返されるまで、すなわち開戦寸前まで艦隊洋上決戦による迎撃作戦を金科玉条としてきた。 ・・・・ということは、この迎撃作戦に破れれば後は陸軍による本土決戦しかない。 当然のことながら陸軍は本土に相当な戦備を整えていた。 また、東南アジア諸国の占領も予定を上廻って進められた。

問題は、山本五十六によって強行された真珠湾攻撃により米国を正面からの相手にしてしまい、南太平洋の占領地域を当初の予定より拡大してしまったところにある。 海軍は勝手にガダルカナル島などという、陸軍はおろか海軍でも知る人の少ない島嶼に飛行場建設を始め、米軍に奪回されたとなると陸軍の応援を求めた。 もし陸軍大臣であった東条英機が首相でなかったなら、この要請に答えたかどうか疑問である。 ともかく陸軍も大甘の判断を下した。 それまでの中国や東南アジア戦線と対米戦争を同等に考え、戦力を小出しにしてズルズルと深みにはまってしまった。

陸軍は陸上部隊はおろか、虎の子の航空部隊までビルマ方面や中国方面からラバウルやニューギニア戦線といった全く予期しなかった前線に抽出することとなり、莫大な機材と兵員を船舶と共に失って得るところはなかった。 海軍が招いた災厄であるのに海軍の海上護衛は最後まで二次的に扱われ、陸軍は幾度となく抗議した。 陸軍は自前で輸送専用潜水艦を開発したほどである。

 ともかく、こうした抽出により、中国、東南アジア方面及び本土まで陸軍は手薄となってしまった。 無謀極まるインパール作戦は別として、援蒋ルートに圧力を加えたり英印軍によるビルマ内部のゲリラ作戦に対応したりするビルマ内部での作戦にまで陸軍は手詰まりになってしまった。 拉孟(ラモウ)の部隊には陸軍航空機をもって弾薬投下なども行なわれ、後に玉砕する地上部隊は投下された手榴弾を押し頂いて受領したという。 海軍の無茶がなければ相当数の航空機が残された筈で、こうした悲惨な状況も避けられたであろう。

  海軍は最後まで自らの対米戦闘力を冷静に判断しようとせず、機動部隊による決戦を夢見ていたが、これこそは敵わぬ夢であった。 そして終局を迎えたとき、陸軍は本土決戦を唱えた。 海軍に引きずられた為の戦備喪失がなかったなら至極当然の作戦で、海軍による米艦隊迎撃が失敗すれば最初からこれしかなかった。 最後から2番目かの御前会議で阿南陸相は、「これまでの対米敗戦は兵站に失敗したからであり、本土決戦とは違う」と主張し、米内海相は「そんな責任の転嫁」は止めようといって終戦を主張した。 その後の御前会議で天皇の裁可により終戦となり、阿南陸相は切腹により自決した。

もちろん、本土決戦など行えば悲惨な結果になったであろうし、良くても天皇制を失わず、すなわち、国体護持をある程度認められた上で停戦ということになったであろうから、実際の歴史に較べて相当な国民の損失を生じたであろう。 特に、原爆の完成と使用は決定的で、国民の喪失は人口の四分の一位になった可能性もあるし、日本の半分はロシアが占領したかも知れない。 米内海相の主張が正しかったのは言うまでもない。 ただし、海軍が招いた災厄に対し、陸軍を「責任の転嫁」と非難して良いものであろうか。 「海軍の重なる失策により陸軍の力まで削いでしまい、まことに申し訳ない。 しかし、事ここに至り、しかも原爆などという予想しなかった兵器まで現に使われている状況では、本土決戦は国を滅ぼす以外の何ものでもない。 どうか陸軍の諸子を説得して終戦に協力願いたい」と懇願するのが礼といったものであろう。

この問題は、陸軍が海軍に協力した為に生じたという皮肉な結果ではある。 ちなみに、この席での天皇の発言は極めて明快である。 「民族を絶やさない為には終戦しかない」ということであり、「一億玉砕」を真っ向から否定している。

終始格好の良い言辞を上手とした米内海相と、事決まれりとなれば介錯を断って切腹した阿南陸相と、どちらの墓に向かって手を合わせるべきか。

その2 ポツダム宣言と無条件降伏から

ポツダム宣言の基礎となったカイロ宣言はマリアナ沖海戦の半年以上前1943年(昭和18年)11月27日に発せられている。 まだ日本の聯合艦隊をかろうじて“Navy in being”と呼べた時代である。 このカイロ宣言では日本の(日本軍のではない)無条件降伏まで・・・と言い切っている。 ポツダム宣言の時点に至ると彼我の戦力差は比較する事もできない程日本に不利であったのに、あえて日本の無条件降伏を日本軍の無条件降伏と緩めたのは、あるいはローズベルトの死後トルーマンに重用された、日米開戦までの駐日米国大使でもあったグルー国務次官(Joseph Clark Grew:1932−1941の駐日大使:大変な親日家であったという)の尽力によるものであろうか。

 または硫黄島に代表される島嶼に立てこもった日本軍の凄まじい抵抗によって強要された連合軍側の予想外の被害、同じく沖縄戦での被害などから、本土上陸を試みた場合の連合軍側の予測もつかない被害を考えてのことであろうか。 後者の可能性が高いが、そうであれば戦場に散った将兵は立派に有利な終戦に貢献し、その後の日本の発展にも寄与したと云える。 こう考えれば、終戦議論の最中に繰り返された“戦死した将兵に申し訳が立たない、一億総特攻の精神で戦いを続けよう”などという意見がいかに無意味で戦死者の霊に背くものであったかが分かろう。 あくまで戦いを続けた場合の結果は、すでにドイツにその実例を見ていた。

徹底抗戦の結果、本当に無条件降伏となったドイツの場合など、軍隊のどの部隊はどこで連合軍に投降すべしなどと具体的な投降方法と場所を細かく定めているにすぎない。 例えば、洋上にある潜水艦隊は米国の軍港で投降することとなっている。 この為、Uボートに同乗していた日本士官は艦内で自決の道を選ばざるを得なかったという。

小生の考え

対米戦に限れば、もともと海軍が破れれば本土決戦しかなく、陸軍はまさにその為に育てられてきたのですから、阿南陸相ならずとも陸軍首脳たるもの、“海軍が負けたから降伏しよう”とは口が裂けても言えなかったでしょう。本土決戦なしで降伏することは、陸軍と陸軍軍人の完全否定になりますから、天皇に命令されるまでこの主張は取り下げる事は出来ない相談だったのでしょう。現代の我々でも、自分の専門とするところは、誰に何と言われても引けない一線があるではありませんか。

ただ、“すでに死亡した軍民の霊に申し訳が立たないから一億特攻の精神で戦い続けよう”という考えには、“そうした犠牲によって連合軍に多大な被害を与え、為に連合軍はカイロ宣言よりも相当緩やかなポツダム宣言を降伏条件として突きつけてきた。これを受諾して日本国の再起を図るのが軍民の霊に答える唯一の正しい道である”と部下に諭すべきだったのではないでしょうか。

以上が本当に歴史に関して素人である小生の考えです。ご批判いただければ幸いです。

赤堀篤良


6.このページを読んで

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初めてこのページを拝見しました。あちこち『つまみ読み』させて頂きました。

(1)植民地』についてですが、ヨーロッパの『植民地』と日本の『植民地』が同一視され ているように思われます。

 ヨーロッパの『植民地』のルーツは『大航海時代』にあり目的は最初は『香辛料と 金』だったこと、彼らが 植民地をどういう目で見ていたか、住民をどう扱ってきた か、ということ。日本の『植民地』のルーツは明治以降であり、当時数少ない『有色民族 の独立国』だった日本が世界(白人優位主義)をどう受け取ったかということ、そし て日本の『植民地経営』には『三分の一主義』があったこと。同じものではない事を はっきりさせるべきではないか、と思います。

(2)『日本軍の行った酷い事』についてですが、中国には『元日本軍人(偉い人) の告白(自白)』があり、これが『極東裁判』と共に国民教育の基礎資料になったと 聞いています。昭和40年頃、この『告白』は同国で『最高機密』扱いになっていたよ うですが、今はどうなのでしょうか?〜子供の頃、『我々の隊が○○を行ったと言う 話が流布されているが、我々はそんなことをしていない。濡れ衣だ。」と声を上げた 元日本兵がいたのを思い出しました。この話の『証拠』となったですがこの『告白』 について結構やり取りがありました。なぜ『機密』をごく普通の日本人が知っている のか、で世間が騒がしかったのです〜

   できれば、その『告白』が出版されれば、とも思っています。(それもできれば文 庫本で)

(3)東アジアで日本が戦争をしていた頃、各国の思惑による情報戦が入り乱れた、と 聞いたことがあります。このあたりの事を知りたいのですが、なに参考になるものは ないでしょうか?

  (4)『南京』の話を聞く度、思い出す事があります。子供の頃、新聞で読んだのです が、どこで起きた事なのか思い出せませんが、元日本兵の証言でした。

   街に入った後、隠れている中国兵がいるのではないか、というので何人かで組にな り探し出す事になった。非戦闘員の家を回り、外に出てもらい、怪しい者がいると本 当に家族なのか尋ねた。近所の人にも確かめた。中にどう見ても怪しい男がいた。家 の人(中年の女性、小さい子供を二人か三人連れていた)は、必死で「この人は、連 れ合いの親戚だ。珍しく訪ねて来たのだが、着いたとたんに戦が始まったので近所の 人は面識がないだろうが怪しい者ではない。どうか助けてくれ。」と頼む。

   が、その目は日本兵と自宅を何度も交互にジッと見つめるだけであった。子供を見 ると、大泣きしているのだが、一人がまっすぐ自宅を見つめている。『おかしいな』 と思い、「もう一度家の中をよく調べろ。」と言った。すると男が子供を抱いて隠れ ていた。彼を外に出し、子供を離させると、母親が「この男達を殺してくれ。生かし ておいたら必ず仕返しに来る。家族は皆殺しになる。頼むから殺してくれ。」と今度 はそればかりだった。だが、言うとおりにする訳にもいかず「我々は探すだけで、見 つけたら別の隊に引き渡すことになっている。だから、この男達は生かしたままあち らの隊に引き渡す。でもあなたの言うことは必ず伝えておく。」と言い、実際、そう した。

   しかし、その後どうなったかは知らない。なぜなら、一通り探し終えた後(数日か かった)我々の隊はすぐ別の場所に移動になったからである。その後、その街へは 行っていないし、引き渡した相手の隊の者にも会っていないので、後のことを確かめ てはいないからである。これは推測だが『非戦闘員(庶民)に迷惑をかけてはいけな い』という心構えが日本兵にはあったので、あの家族に悪いようにはしていないはず だと思う。  ・・・という記事でした。

   こういった証言・証人も今は昔。この話は、昭和40年前後から多分40年半ばあたり のことだったでしょうか、内容はいまだに覚えています。

   右・左に偏らない、祖国の歴史を子供達には教えたいです。  皆さん、頑張ってください。私の知らないことがまだまだありそうです。私も勉強 しますが、これからもいろいろ教えてください。

  (5)ご存知の方もいらっしゃると思いますが、『三光作戦』について、元第27師団の参 謀本部にいらした方が「日本軍の誤解をときたい」と薦めて下さった本をそのまま切 り張りしました。

     資料 >

・ 「天津軍司令部1901 1937」 古野直也著(図書刊行会)
・ 「シナ大陸の真相1931〜1938」 K・カール・カワカミ著(展開社)
・ 「現代中国の指導者」 高田富佐雄著(アジア評論社)
・ 「中国共産党その歴史と実態」 宇野重昭著(日本実業出版社)
・ 「大東亜戦争への道」 中村粲著(展転社)
・ 近代日本戦争史第3編第1章第4節「満州国の建国と発展(河野収)」                               (同台経済懇話 会)
・ 同   上  第3編第3章第1節「支那事変に至る経緯(森松俊夫)」                             ( 同   上 )
・ 「汚された国家主席劉少奇」 王光美・劉源他著(日本放送出版協会)
・ 「張家三代の興亡 孝文・作霖・学良の“見果てぬ夢”」 古野直也著 (芙蓉書房出版)
・ 「盧溝橋事件・最初の一発」 町田一男著(偕行、平成15年8月号)
・ 「資料集成 中国共産党史第7巻(1937年)」 波多野乾一著(時事通信 社)
・ 昭和史の真実partU「満州事変・支那事変・日米戦争を根本的に問い 直す」(日本を守る国民会議)
・ 戦史叢書「北支の治安戦<2>」 防衛庁防衛研修所戦史室著(朝雲新聞 社)
・ 「中国の旅」 本多勝一著(朝日新聞社)
・ 「もうひとつの三光作戦」 姫田光義著(大月書店)
・ 「筆供自供」 陸軍第117師団師団長陸軍中将鈴木啓久著(世界、平成10年 5月号)
・ 「侵略〜中国における日本戦犯の告白」 中国帰還者連絡会・新読書社編 (新読書社)
・ 「第百十七師団長の回想」 鈴木啓久著(防衛庁防衛研究所戦史部蔵)
・ 「第二十七師団の歩み」 (第二十七師団会)
・ 「支那駐屯歩兵第一聨隊史」 (支駐歩一会編)
・ 「支那駐屯歩兵第二聨隊誌」 (海光寺会編)
  ・ 「支那駐屯歩兵第三聨隊戦史」 (支駐歩三会編)

歴史の事実、も大事ですが、そもそも日本軍人の軍規・人柄(?)を知る、という ことも大事なのではないでしょうか。その手がかりになれば・・と思います。まだ世 界にデビューしてわずか100年余、当時の日本人は今よりもっと純粋(すれていない ?)だったのではないでしょうか。明治憲法とは?「和魂洋才」の意味とは?

 ヨーロッパ、日本、中国、半島、アメリカ、それぞれ、独自の民族性・歴史・価値 観を持っています。それらがぶつかり合ったのが近代の東アジアだったのではないで しょうか。島国で安穏と暮らしてきた日本人にとって「文明の大衝突」でもあったの では?

 東西冷戦の時代核の傘の下、ぬるま湯の中で民主主義(愚衆政治?)で育った現代 の感覚でとらえるだけでは・・と感じました。なんとなく平和な江戸時代に生まれ義 のためとして火中の栗を拾い、明治に滅んだ会津藩を連想します。彼らは「大君第 一」として考え、今の日本人は「国際友好」を第一と考え・・等々。人間はもっと 生々しく賢く立ち回るモノなのでしょう。

   なお、個人的には旧会津藩士陸軍大将柴五郎の「北京篭城」「ある明治人の記録」 がお勧めです。・・・だから、こんな悲観主義のようなことを書いたのかも・・(反 省)