2月分、日本の戦争犯罪についての追加論争(原文 英語)

■回答(1)

ご意見箱2月分「10.日本の戦争犯罪」について、私の意見を述べさせて頂きます。

まず、私は自由主義史観研究会のスタッフではありません。一会員で、海外広報のボランティアにすぎません。あなたの批判は一会員の論文を見られたからだと思います。ですから、彼から回答をもらうのが一番です。ですから、私は会の方に連絡しました。彼からの回答は届きましたか?

ところで、現在私は毎月会報に小論文の載せている者です。しかし、私の論文に対して、会の方からの指導・検閲はありません。〔つまり、「言論の自由は厳守されている」のです〕

参考までに、他の読者にメールした内容を紹介します。 →それは、3月分の筆者の「9.米軍捕虜食肉事件」の捕虜虐待部分です。

そこで主張していることは、南北戦争に関連して次の事です。

まず捕虜待遇について以下の三点について、あなたは納得されるだろう。
(1) 勝利している国は、捕虜の扱い・待遇は良くできるのは当然である。   負けていた南軍の捕虜処遇については疑問と言わざるをえない。
(2)金持ちの国は、同じく捕虜の待遇を良くすることができるのも当然である。
(3)何時でも何処でも、善人と悪人がいる。

以上を踏まえ、もう一度お願いする。南京事件以前の、日本の戦争捕虜(POW)扱いをチェックしてほしい。 あなたのメールでは、「日清・日露戦争でのPOWの扱いと第二次世界大戦のそれと(の比較に)なんの関係があるのだ?」と言っている。それがあるのだ。 なぜなら、人間の性質(PWOの扱い方)は、特別な状況の変化がなければ変わらないものだ。その変化とは、勝利ではなく、負けているときである。

我々の当時の捕虜待遇は、それまでの欧米の国の、POW待遇に比べても、寛容であり、理想的であったからだ。多分あなたは信じられないであろう。だから、 あなた自身で調べてみてほしいのだ。もし、そこで何が行われていたか知る方法・アクセスがないのなら、改めて教えましょう。でも、まず調べてみてください。

簡単に言えば、あなたのメールで述べている、「戦争になり捕虜になった場合、かれは適切に扱われ、適当な待遇を与えられ、戦いが終われば家に帰るチャンスを与えられるべきです」という主張を、日本政府は全て行っていたのです。

例えば、日露戦争ではこんな有名な話があるのです。ロシア兵たちは四国松山の捕虜キャンプが、隔離もしない天国のような処であると知っていたので、 戦場での降伏者は笑いながら「マツヤマ」「マツヤマ」と言って出てきた。その意味は「自分たちを松山捕虜収容所に送ってほしい」ということだったのだ。 (第二次世界大戦中のカリホルニア日本人収容所での待遇はどうだったでしょうか?)

なぜ? なぜならその時日本は勝利していたからだ。 我々は裕福で、十分食べ物を与え、また丁重にPOWを扱う事ができたのです。

この点から言えば、あなた方のお父さんやおじさんはベトコンやソンミ村の村民に何をしたのでしょう? 雑誌『ライフ』を見てください。 負けている国というのは、十分な食物も処遇もできないものです。ベトナム戦争について調べたらいかがですか? と言っても論議する気はありませんが。

ところで参考までに、1895年に日本兵が行った《旅順虐殺》の話をご存知ですか? あるアメリカ人従軍記者が、旅順攻撃の直後この事件を暴露したのです。 日本政府は懸命に弁明したのです。旅順攻撃で大量の中国人が殺されたことは事実でしょう。(これは《南京事件》も同様です。それを否定しません。秦郁彦氏も3万から5万の中国兵もしくは男性市民が殺されていたといいます)

私は今回、《旅順虐殺》については述べません。しかし、《南京事件》について、南京攻撃直後、または日本軍撤退後にしても、海外従軍記者の間には何も起っていないのです。

彼らは全て自由契約記者ですから、大金を稼ぐ為には、でっち上げてでも大スクープ(それは《旅順虐殺》の例)を捜していたはずです。ところが何も無い。戦後、「多数の目撃者もいて、新聞記者も報道した」、という話がありますが、少なくとも、《旅順虐殺》のケースとは違って、当時の日本政府は弁明した形跡はないのです。 自分にはとても不思議に感じます。

■投稿(1)

 返事が送れて申し訳ありません。私は杉本様から回答は受け取りましたが、当人からの回答はありません。

 まず、あなたがウエッブサイトのスタッフではないことを確認しました。そして、従ってあなたのポジション(立場)も理解しました。  注意深く前回のメールを読ませていただき、あなたが述べられているのコメントについて、注意を惹きつけられました。ですから宜しければ、私の意見並びに疑問を述べたいと思います。

1)なぜ日清戦争中の《旅順虐殺》と第二次大戦中の《南京虐殺》でのPOW(戦争捕虜)では、被害者に対する冷酷な虐待や、さらには拷問や殺戮が起ったのでしょうか? いったい日本精神はどこに行ってしまったのでしょう? 勿論第二次大戦下の各戦況は、日本兵にとって容易なものではなかったことは理解できます。

また欧米人との食習慣は、アジアの人々のそれとは違っているでしょう。従ってPOWに対する日常食が量的に欧米人より少ないであろうことも分かります。「だからPOWは栄養失調なったのだ」という弁解がありますが、その弁明が、捕虜虐待を正当化したり、国際法的に免除されるものではありません。

 それでは話は戻って、なぜ《南京事件》では、それほどたくさんの中国人捕虜が殺されたのでしょうか?

 2)貴方は<「なぜ日露戦争でのロシア人捕虜は適切な処遇をうけることができたのでしょう?」と自問し、「それはその戦争では勝利していたからです」と答えています(2)。さらには、「日本は当時金持ちであったので、十分な食料と丁重な待遇をPOWにあたえることができたのだ(3)」>と述べています。

 あなたの説明では、「第二次大戦での連合軍POWの待遇が、日露戦争下のPOWよりもずっと悪く、その理由は各戦争に負けていたから、貧乏だったから」という言い訳を含んでいるように受け取れます。そのような弁解が通じるとは思えません。あなたの説明では、第二次大戦中「捕虜虐待が日常的に行われていたようだ」と自ら認めているように思えます。

 一言。戦争に勝利していようが負けていようが、また金持ちであろうがなかろうが、それとは関係なく、POWが国際人権規約に基ずいて処遇される権利があるのです。

3)ヴェトナム戦争について(略)

 4)貴方は<「1937年の《南京事件》について、われわれ日本は当時戦争に負けていたでしょうか?」。さらに、「勿論、勝利していました。ですから、どんな理由で中国人捕虜や民間人を虐待する必要があったでしょうか?>と質問されています。

 あなたが質問していることを、私も質問したい。もし、フェアープレーが「日本人の民族性」であったならば、なぜ、中国人捕虜や民間人への虐待−それ以上「大虐殺」−をする必要があたのでそうか? 中国人に対しては「日本人の民族性」に変化が起ったのでしょうか? そうは思えません。なぜなら後には連合軍捕虜に対しても同じようなことが行われたからです。

 5)貴方は<1984年の日清戦争中に起った《旅順虐殺》を知っていますか?>と質問され、以下説明されています。  <旅順攻撃ののちあるアメリカ人従軍記者が、旅順占領の後に起った大量殺人についてセンセーショナルに暴露した事件です。当時日本政府は躍起になって弁明に努めたのです。私はかなりの中国人が殺されたことは事実だと思います。(多分南京事件でも同じことが起ったでしょう。 否定しません。秦郁彦氏は3万から5万の中国兵もしくは男性市民が殺されたと言っています)>  はい、知っています。旅順、当時はポート・アーサーとも呼ばれていましたね。清国兵と日本兵との間で大激戦があったとところですね。 1894年11月に日本軍が旅順を占領したときに起った事件です。いままであなたが説明された「日本人も民族性」とは、反するもののように聞こえます。当時日本は勝利し、金持ちでもあったからです。

 10年後に起った日露戦争では、ロシア兵が喜んで捕虜になり、一方ここでは何千人もの中国人が殺されたのです。信じられません。

 《南京事件》について、あなたは大量殺害があったことを否定していません。その点、あなたの誠実さを認めす。[会に検閲がないことが分かり]感謝します。

 6)父島での《捕虜食人事件》は略

■回答(2)

 

非常に論理的で妥当なご質問をいただきありがとうございました。 それでは本題に入りましょう。しかし、一つ一つのご質問の全てに同時に答えるのは、当然回答文の方が長文となるため、今回は話題を絞ってお答えします。

1) 日清戦争での捕虜について

当時の中国兵の実態をお話しますと、彼らは傭兵だったのです。食うことも困る連中で、当然教育も受けていない文盲の民だったのです。訓練もろくに受けずに戦場に駆り出されたのです。例えば野生の動物のようなもの。ことばを変えれば、日本人に対する敵意すらなかったのです、少なくとも絶望的な情況に追い込まれない限り。そのような無教養な兵ですから、当然捕虜になる方法〔例えば手を上げてでてくるとか、白旗を掲げるとか〕など知りません。

これが彼らの実態であり、以下も事実だったのです。 清兵との戦闘では、一度日本軍が攻撃すれば、防衛することなど滅多になく、蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまったのです。彼らは正式が軍服など着ておらず武具も貧弱なものですから、それらを隠せば一般市民、むしろ乞食とか浮浪人に化けることができたのです。

日本側も、死傷者が少なかったため、深追いはしませんでした。敵意のない清兵ですから、別に恐れる必要もなかったのです。事実、約9ヶ月間の戦争で戦死者は1、123名〔一方病死11、894名〕しかなかったのです、一方現在のイラクを見てください。半年ですでに米軍死者は500名以上にのぼります。〔執筆日5月20日現在で740名〕

さらには、歴史的に見て日本は、中国〔智識人〕を尊敬してきた長い歴史があるのです。 ですから、彼らを「鬼畜」とは見なしていませんでした。「鬼畜米英」と呼んだこともありますが、尊敬する中国を「鬼畜」とは終戦になるまで呼んだことはありません。〔チンコロは文盲の民に対してであり、智識人には言いません〕

ですから、「彼らがゲリラ的襲撃をしないかぎり、放っておいた」というのが真実に近いのです。つまり、海戦でないかぎりPOWが生じるケースはなかったのです。実際、戦艦には欧米人がパイロットとして乗っていまし、水兵は多少教育をうけたでしょうから、少なくとも「右へ倣え」ぐらいは、欧米人の白旗に従って捕虜になったのです。97人の清国捕虜は、10年後のロシア人捕虜同様、適切な処遇を受けています。

これが事実なのです。それでは、なぜ《旅順虐殺》という事件が起ったのでしょうか。その前に、アメリカ植民地フィリピンで起こった《サマール虐殺》事件をごぞんじですか。1901年ですから、7年後に起った事件です。

2)《サマール虐殺》事件 〔資料『物語 フィリピンの歴史』鈴木静夫著 中公新書〕

1898年アメリカはスペインとの戦争で、フィリピン占領を宣言します。マッキンレー大頭領の占領政策は、「恩恵的融和」がスローガンでした。アメリカがフィリピン住民に対して恩恵を与えようとしたことは事実でしょう。「マニフェスト・デスティニィ(明白な使命)」であったからです。

ところが1901年9月28日事件は起ったのです。  サマール島に駐屯していた部隊71名が、ゲリラに襲撃され45名が殺されたのです。フィリピン総統のタフトはこの襲撃に対して、「我々には捕虜はいらない。島民男性を全て殺せ。焼き尽くせ。奪い尽せ。11歳以上の男は殺してしまえ」と命令したのです。中国政府が日本を批難する『三光作戦』どおりだったのです。

 3)《旅順虐殺》について

 まず、当時のアメリカや日本の時代背景を考えますと、カーボーイ精神やサムライ精神が国民のあいだに残っていた頃です。私がいいたいのは、「彼らはまだ古い考えから抜け切れていない」状態であったということです。西部開拓史時代であれば、同胞が虐殺されれば、報復措置を取るのは当然です。ですからサマール島での事件を批難するつもりはありません。

 日本の兵隊たちは、旅順攻撃の激戦のすえ、城内に突入したのです。そして彼らは見たのです、眼を覆うほどの残酷で、耐え難い怒り、激昂・憎悪を掻き立てる光景を。

 当時の外務大臣陸奥宗光は記しています。「我が軍隊は、柳のえだに吊るされた三つの日本兵の首を見た。その顔は鼻も耳も削がれていた。さらに進むと、同じような二つの首が、針金で軒下にぶら下げてあったのだ」。

   敵の身体を解体したり、内臓を取り出したり、さらには内臓を食べてしまうことは、当時の中国人には当たり前のことであり、迷信にも近いものがあったのです。そうです、儀式だったのです。圧倒するような敵に遭遇し、彼らを好運にも倒すことができた場合、彼らは敵の死体をばらばらにし、同じ処には決して埋めないのです。なぜなら、死んでも復活する危険があるし、死体そのものが悪運を齎すと信じていたのです。一種の悪魔払いだったのです。これはヨーロッパのゲルマン人やケルト人の慣習でもあったのです。

 一方日本人にとっては、このような人間の尊厳を損ねる行為は絶対に許せません。武士道に反する行為だったのです。ですから、そうした残酷な光景を見た日本兵が次にどのような行動を取るかは容易に想像できます。

 「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽せ」です。「我々には捕虜はいらない全て殺せ!」だったでしょう。これまでの戦闘であれば、逃げていく敵は放っておいたでしょう。しかし、城内を捜し尽くし敵と思われる者は次々と殺したはずです。指揮官・上官も目をつぶったでしょう。

 そう、これが旅順攻撃での大量殺戮の本当の物語です。ただ、当時の日本兵は厳格に訓練されていましたから、上官の下で行動していたはずです。ですから、どのような場合でも、女子供の殺戮、婦女強姦などことはなかったはずです。

 当時旅順にいた民間人の証言をみても、大量の死体中2,3人の、女性の死体が海に浮いていたという記録しかありません。

 ところが、海外のジャーナリストには、常日頃冷静な日本兵が今回だけは狂ったように殺戮している光景が信じられなかったのでしょう。彼らは牧畜民族で、家畜解体や去勢は日常的な行為でしたから、「身体解体は人間の尊厳に反する」という価値観を理解することができなかったのです。  南京攻撃でも攻撃前、もし国民軍によって同じような陵辱事件があったなら、南京での殺戮も同じように起ったはずです。

付け加えますと、数日前、前線基地土城子を偵察に行った日本兵数十名が清兵に捕われたのです。旅順攻撃前、日本軍は土城子を通過したとき、すでに仲間がバラバラにされた光景を目撃していたのです。市内に吊るされていた上記五名はその捕虜だったのです。ですから、彼らの激怒ぶり、殺戮ぶりは容易に想像できます。

以上で、《旅順虐殺》と、日清から第一次まで日本に送られたPOWとの丁重な処遇とに矛盾がないことがお分かりいただけたでしょうか?

■ 投稿3 あなたの最後(前回)のメールを読ませていただき、私の懐いていた疑問や疑念〔日本の近代史にたいしてか?〕のすべての答えを導き出してくれました

。 そして、自由史観の考えも、「学者や大学教授を集めて偏向教育・言論統制を目指している」のではないことが分かりました。

参考資料

 『旅順大虐殺』井上春樹著 筑摩書房
     『蹇蹇録』陸奥宗光著 岩波文庫
     『ニュースで追う明治日本発掘5』河出書房など