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■投稿
「Q&Aの靖国問題」の内容について、二点疑問があります。
@総理の靖国訪問反対の国は中国・韓国朝鮮のみとなっていますが、……。
過去には台湾(香港?)も反対であったはず。台湾が反日から親日に変った事こそ、「靖国訪問反対」が彼らの国民感情から出たものではなく、政治的な政策・策略であることを暴露している証明になります。
この点の指摘がなされていない点。
この質問に対する回答の中で、アーリントン墓地についての言及のあと
「それ以上に、連合軍や国民党(台湾)にも、そのような考えはありません。……。
中国共産党はまだ小さな勢力で、日本と国民党との戦いがなければ、彼らは国民党を
台湾に追い落とし、国家統一できませんでした。」
これで終わっています。読者は何を言っているのか分からないのでは?
「風が吹けば桶屋が儲かる」式の、こじつけを感じるのでは?
従って、「ソビエトが満州に侵入した後、中国赤軍は日本が満州に残した近代遺産を
最大限に利用することができたので」
を加えるべきです。
彼らは国民党を台湾に追い落とし、国家を統一できたのです」
Aなぜ日本の敗北が、毛沢東共産党政権を樹立できたかの説明が不十分だと思われます。
会員の岡屋多津郎氏とは「コミンテルン陰謀説」で激論(文通)し、いろいろ調べたことがあります。
結果、盧溝橋事件が共産党に有利に働いた点(→彼らの策謀)は、二人の了解事項となりました。
ですが、それだけでは、戦後中国統一などできません。
その点について、原文は納得できる内容ではありません。
「現代アジアの群像」シリーズに『蒋介石と毛沢東』(野村浩一 岩波書店)があります。
その中で、日本が満州に残してきた遺産が、つまり侵入したきたロシア軍から譲渡されたため、
毛沢東赤軍を巨大化することができ、国民党軍を台湾に追い出すことができたのだ、と書いてあります。まさに、これこそが真実ではないでしょうか?
『新資料 盧溝橋事件』の著者葛西純一氏は、戦後満州鉄道職員から中国共産党員と
して満州を駆け巡り昭和28年に帰国します。3000人ぐらいの日本人シンパが中共のために
働いたといいます。
彼は懐に共産党資料をごっそり持ち帰り、それを上記資料に掲載しています。
ために、暗殺されたとの噂もあります。
満州での共産党生活を『誰も知らない……中国』や『中国のバカ』という本も執筆し
ています。
日本文では、「日本の繁栄に対する妬みが、総理訪問の反対の理由」だと書いてあります。
100%事実です。ですが、対外的には上記、二つの説明がなければ、外国の読者からの反発は
必至だと確信します。「高慢な考えだ」と。
返事をお待ちしております。
自由史観研究会会員 大場敏夫
■回答 A
台湾・香港が首相の靖国神社参拝に反対した記録はありますか。私は記憶がありませんが。この問題が出てきたのは1985年からです。中国もそれまでは反対ではなかったのです。この問題に火を付けたのは日本のマスコミです。
李登輝は1984年に副総統になり、88年に総統になっています。台湾は靖国問題に口を出したことはないのではないでしょうか。
「靖国訪問反対」が彼らの国民感情から出たものではなく、政治的な政策・策略であること については、次の質問で下記のように書いてあります。
「それではなぜ中曽根首相は、中国の要請によって参拝をとりやめたのでしょうか。中曽根首相本人の証言によると、自分の靖国参拝問題が、中国国内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出そうだという暗示を受け取り、「胡耀邦さんと私とは非常に仲が良かった。」「それで胡耀邦さんを守らなければいけないと思った。」から参拝をやめたそうです。(「私が靖国神社公式参拝を断念した理由」 正論 平成13年9月号)。
つまり中国の権力争いに巻き込まれたとの認識です。
中共が最終的に勝ったのは満州の争奪戦で、中共が勝ったからとの意見については同感です。
しかし一度は満州も国民党の支配下に入っています。満州で何故国民党がそれを維持できなかったかが問題です。私は国民党が腐敗していたからではないかと思っています。
又毛沢東やとう小平の「日本が蒋介石を叩いてくれたから中共が政権をとることができた」との発言もあります。満州の遺産を引き継いだから、蒋介石軍に勝てたという以前に、支那事変がなければ、中共は国民党と互角の戦力になるのにもっと時間がかかったのではないでしょうか。
自由史観研究会理事 杉本幹夫
■回答 B
香港は国でないのでこれは無視すべきです。
台湾については、
実は今年、台湾が初めて小泉首相の靖国神社参拝を批判しました。しかし、これも書か
なくともいいのではないかと思います。台湾人と靖国神社は、また別に非常におもしろ
い文章がかける論点です。
または、どうしても触れたいのであれば、前総統の李登輝さんは日本を訪問して靖国神
社に参拝するのが夢であったのに、中国の反対によって台湾にも影響が出てきてこうな
ったというくらいでいいかもしれません。
自由史観研究会会員 渡辺龍二
■投稿(2)
Q&Aでは<A級戦犯を含むすべての戦犯は、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづき関係 11ヶ国の同意を得て免責されています。また国内法でもすべての戦犯はすでに復権しています。だから、靖国神社に合祀されている(祭られている)人の中にA級戦犯が混じっていたとしてもなんら問題はありません。>とありますが、
@サンフランシスコ講和条約は48カ国が参加しています。11カ国ではなく、48カ国ではないですか。
A死刑になった人など、刑の執行済みの人は免責されなかったのではないでしょうか。
自由史観研究会会員 大場敏夫
■回答(2)B
@、11ヶ国が正しいです。
Aまた、刑の執行と免責は関係ありません。刑が執行された人、途中まで執行され
た人、執行されなかった人いろいろありますが、国際法上は11ヶ国の同意で、国内
法上では国会の決議で免責されたわけです。
以下は余談です。
またここでの「罪」が、何を指しているかが問題ですが、一般的に刑が執行された
としても、それで罪が消えることはないです。例えばヒットラーの例をだすとわかりや
すいのですが、自殺でなくて処刑だったら彼の罪は消滅して、ドイツの首相がヒット
ラーを祭って公式参拝してもよい、という論理は欧米では通用しません。
私は東京裁判の判決におけるA級戦犯の罪のことを言っているので、もともとA級戦犯
には罪はないはずなんです。いわば単に負けたという罪なわけです。通常の罪があると
すればBC級戦犯でしょうね。
それにしても、もともとヒットラーやスターリンのような罪はないのだから、刑が
執行された後も、A級戦犯を糾弾し続けるのは、エキセントリックすぎるという感覚に
私たちはなります。しかし、外国人の中にはA級戦犯をヒットラーなどと同じようなこ
とをしたと誤解している人がいます。そのため、日本文化では死ねば誰でも許されて神
になるから、首相が参拝してもよいなどという方向で説明されるとさらに悪く誤解して
しまいます。
自由史観研究会会員 渡辺龍二
■投稿(3)
サンフランシスコ条約での48カ国と、11カ国の関係を教えてください。
まず、【免責】という法的な定義が、よく分からないのです。
11カ国からどのような『正式文書』で、戦犯が免責されたのでしょうか?
また、国内の場合は、刑罰が宣告され、それを果たせば免責されるのでは?
渡辺さまが指摘されている、「罪」と「免責」との関係については、靖国神社合祀
問題で旧A戦犯が昭和53年まで、伸び伸びになっていたことが分かり、
渡辺さまが、「法的なことを言っているだけです」というのも了解しました。
私の以下の素朴が疑問は、海外の読者にとっても同じはずです。
@、なぜA級戦犯合祀問題が伸び伸びになったのか?
多分、日本国民にGHQ史観の「独裁者東条英機」があったからでしょう。
しかし、80年台になって戦中の見直しが始まり、
A、とのようにして、日本のA級戦犯がスターリンやヒットラーとは違うことが分
かったのでしょう。
だとしても、「国を敗戦に導いた指導者としての責任」は消えません。
拙論には、度々《ベルリンの壁崩壊》史観ということばを使っています。
A級戦犯合祀についても、日本国民の中にコペルニクス的思考の転換があったはずです。
単に「請願要求が増えたから」、では答えになりません。
B、結果、日本人の「戦犯観」はどう落ち着いたのでしょう。
その答えが、小泉首相も述べた「『日本では、死ねば誰も許されて神になる』という慣習があったから」、ではないのですか?
もう一度いいます。「国を敗戦に導いた指導者としての責任」が、何を根拠に免罪されたのですか? 自由史観研究会会員 大場敏夫
■回答(3)A
渡辺さんからも回答があると思いますが、私の感想を述べます。
1.戦犯の免責は、戦争犯罪の裁判に関係した国、11カ国の了承を得たものです。
サンフランシスコ条約11条に赦免・減刑等について規定されています。この権限は
A級裁判の場合、裁判所に代表者を出した国の過半数の決定、及び日本政府の勧告に
よって行われることになっています。
2.正式文書としては上記の規定に従って、外交文書が当事国と取り交わされている
筈です。
A級裁判の合祀は1978年です。ベルリンの壁の崩壊とは無関係です。
3.当時の世論は大東亜戦争は国民の総意で突き進んだものであり、A級戦犯にのみ
責任を負わせようと言う意見は少なかったと思います。その証拠は重光さん、賀屋さ
んが閣僚になり、岸さんが首相になったことで明らかです。
4.今のような贖罪史観が出てきたのは昭和60年、1985年くらいからです。そ
れは戦後教育で育った人が戦前教育で育った人より、発言力が強くなった来たからだ
と思います。
自由史観研究会理事 杉本幹夫
■投稿(4)
杉本さまは、<4.今のような贖罪史観が出てきたのは昭和60年、1985年くらいからです。そ
れは戦後教育で育った人が戦前教育で育った人より、発言力が強くなった来たからだ
と思います。>と言われます。
私は55才ですけれど、私の若い10代のころから、「贖罪史観」は私の周囲(高校
・大学)でありました。それも、「東南アジアを含めたアジア諸国に対して申訳ない」という
ことは、我々若者の共通した感情でした。ですから昭和60年以降というのは誤りで
はないですか。
ただ、靖国が矢面になったのは渡辺さんがご指摘されている通りと思います。
昭和60年が正しいとして、なぜそれ以前に靖国に彼らは合祀されなかったのでしょ
う?
賊軍である白虎隊も西郷隆盛も祀られているというのですから、昭和60年−昭和3
3年=27年もあるのですから、その間に合祀されていて当然だと思われるのですが?
ところで、話は変わって翻訳していて、気になる言葉があります。それは→私だけ
かもしれませんが、「東京国際法廷は復讐裁判であり、戦犯というものは存在しない」、というのが私の見解です。
それなのに、文章の始めからthe A or B, C grade war criminal という言葉を使い
続けています。
例えば、途中からは「A級の人々」「A級とレッテルを貼られた人々」とか、表現を変
えた方が良いのではと思うのですが、訳していて、非常に抵抗を感じます。
自由史観研究会会員 大場敏夫
■回答(4)A
<1.昭和31年、昭和33年に全ての戦犯が免責になったにも拘ら
ず、昭和53年の秋まで靖国神社に合祀されなかったのでしょうか?>
はっきりしている事は昭和31年までにA級戦犯が全員免責され、
昭和33年までにBC級戦犯が免責されました。
昭和34年BC級戦犯が合祀されたに拘わらず、A級戦犯が合祀されたのは昭和53
年だったと言うことです。
この事の原因については調べていませんので、はっきりした事は知りません。
しかし私は次のように理解しています。
靖国神社は戦死者を祀る所です。戦犯で処刑された人を戦死者として祀る事について
疑問があったのではないでしょうか。
しかしBC級戦犯の大半は戦地で処刑されています。又裁判は極めておおざっぱであ
り、不公正なものでした。
従ってBC級戦犯については戦死に準じるとして、靖国神社に祀ることに抵抗感がな
かったため、翌年の春合祀されました。
一方A級戦犯はすべて内地で処刑されています。このような人も戦死者として同等に
扱って良いかとの疑問があったと思います。
そこで保留したところ靖国神社法制定の動きが出てき、その結論を待とうとの事に
なったと思います。
所が渡辺さんの文章にある通り、審議が遅れました。そこで結果を待たず昭和53年
に合祀されたと思います。
尚白虎隊や西郷隆盛は賊軍ですから祀られていません。祀られているとすれば、鎮霊
社の方だと思います。
2.私は70才です。私は小学校6年の時が終戦ですから、我々の世代が戦前教育を
知っている最後の世代でしょう。我々の時代の10才程上から、贖罪史観の人が出ま
すが、我々世代から上の人の大半は、戦争に突っ込んだのは指導者だけの責任ではな
く、国民全体の責任という意識が強かったと思います。昭和60年というのは、私が52才です。その
前後が戦前教育を受けた人の考え方が支配的か、貴方のように戦後教育を受けた人の考え
方が支配的になったかの分水嶺のように思います。
3.戦争犯罪者と断定した表現を避け、戦争犯罪者とされた人とか、戦争犯罪者とし
て処刑された人はと言い換えることには異論はありません。
自由史観研究会理事 杉本幹夫
■投稿(5)
A級戦犯の合祀が1978年にまで遅れたことについて、
確かに現在では、国内でも国際的にも、法的には戦犯の意味はありません。
しかし、敗戦後の日本の「大東亜戦争史観」は、つまりGHQによる戦後教育に影響
されていました。 そして、戦前の政治指導者、戦争指導者は、ヒットラーやムッ
ソリーニのように、全て悪人だったと教育(ブレーン・ウォッシュ)されていまし
たから、A級戦犯の合祀については、長く合意ができていなかったのです。
しかし、よくよく考えてみれば、日本の政治はすべて集団主義体制ですから、
独裁者というものは存在しないことが分かったのです。それは、日本の伝統に反しま
す。
例えば、東条英機です。彼は真珠湾攻撃時には首相でした。しかし、終戦一年
前の1944年7月には小磯国昭内閣となり、さらには1945年4月には鈴木貫太
郎内閣となっているのです。イタリアの場合ムッソリーニの失脚で終戦(43)、ド
イツはヒットラーの死亡で終戦(45)になったのです。では、東條失脚で終戦にな
らなかったのはなぜでしょう。答えは彼が独裁者ではなかったからです。
終戦直後、国民の間では、「この度の戦争について、国民が総懺悔すべきか、
それでないなら誰が戦犯なのだ?」と疑問視されたくらいなのです。「大本営発表の
誇大宣伝が悪かったのだ」、とはいいますが、誰一人、東條一人が悪いと言う者はい
なかったのです。
ですから、A級戦犯もB、C級戦犯と同じような待遇(合祀)がされて当然だった
のです。
しかし、「結果的に国を敗戦に導いた指導者としての責任がある」という理由
だけ
で、国会で長い間審議され、1978年まで「合祀問題」が解決できなかったの
です。
私の考えでは、現代戦争史の見直しが始まったのは1970年代の第一次オイル
ショックの以降からだと思います。
贖罪意識の払拭が昭和60(1985)年から始まったと考えるよりも、その頃に
は 払拭は完了していたのではないでしょうか?
私はオイルショックの最中にアメリカにいて、それのベトナム戦争と連動し、富
の象徴である米国の没落を目の当たりに見ました。
「アメリカが風邪をひくと、日本は寝込む」と言われた時代です。もしかすると、
「日本は光化学スモッグと海洋汚染で住めなくなっているのでは?」
そこに、オイルショックです。暗澹たる気持で帰国してみると、「何だ、日本はビ
クともしていないではないか。」
田中角栄首相がロッキード・スキャンダルに合い投獄された頃、私はマニラにいま
した。
東南アジアでは、日本の首相が訪問すると国旗を焼いて抗議していた頃です。
ビクビクしながらの、マニラ行きでしたが実際は「日本大好き」の国でビックリし
ました。
帰国しある製造会社に就職したとき、日本は完璧なまでに公害対策がなされてい
ました。
小さなメッキ工場でも何億円とかけた公害処理施設が設置されていました。
さらに80年代の第二次オイルショックでは、ますます日本経済の強さが、見直さ
れます。
QCサークルが注目され、通商産業省の日の丸軍団と言われた頃です。
ボーゲルの『ジャパン・イズ・ナンバー1』など海外の関心が日本に集った頃で
す。
私の日本史・戦争史の見直しは上記に連動して行っていました。
ですから、昭和60年を起点とするのは誤りとしか思えません。
自由史観研究会会員 大場敏夫
■回答(5)A
1965年日韓基本条約締結時には、韓国の謝罪・賠償要求に対し、日本はその必要
を全く認めず、経済協力という形で妥結したのです。
中国から靖国神社参拝に対する反対意見が出されたのは、昭和60年1985年が初
めてです。それまでは毛沢東もとう小平も「日本は謝る必要はない」と言っていまし
た。日本は韓国・中国に謝るべきだとの主張が出てきたのは、その頃からです。
確かに1974年昭和49年田中首相の東南アジア歴訪時、反日デモが行われ、東南
アジア諸国の反日感はピークに達した感はありますが、東南アジア諸国に詫びなけれ
ばならないとの感じは、日本には余りなかったように思います。
日本がアジア諸国に詫びなければならないとの意見がピークになったのは、細川政
権、村山政権の時代だと思います。
1970年頃から歴史の見直しが始まり、1985年頃完成したとのご意見、私は逆
な意味で同感です。
即ちこの頃からアジア諸国に謝るべきだとの意見が出始め、1985年頃アジア諸国
に謝るべきだとの意見が支配的になってきたとの意味です。
要するに戦後教育を受けた人の意見が次第に強くなり、1985年頃支配的になった
との感想です。
自由史観研究会理事 杉本幹夫
■投稿(6)
私も韓国や中国二国からの批判が出始めたのは、杉本様の仰られるとうりです。
そして、昭和生まれ(多分)の総理、海部、細川それに村山さんが、
両国に突き入られる要因を作ったことは確かです。
いわゆる良識派と呼ばれる善意のボンボン総理が原因です。
私は、大東亜戦争観を時代区分でこう評価しています。
「明治人」は、GHQ史観には全く影響されないで、戦後の変わらなかった。
だから戦犯呼ばわりされた、岸さんも平然と首相になっている。
ここからが個人的体験です。
「大正人」は、大体が兵隊で死んでしまった。ところが、飛行機乗りだった先生も
シベリア帰りの先生も、今回の戦争に対して何ら罪悪感が感じられなかった。
嬉々として、空中戦やシベリア生活を語っていたのです。不思議でした。
ところが「昭和人」は、しっかりGHQの洗脳で、罪悪観の塊でした。
小学校1、2年の時若い先生に、「先生、なぜ日本はこんなに貧しいの?」、と
の質問に
「日本は東南アジアや中国で悪い事をしたので、賠償金を払っているので、こんな
に貧乏なのよ」
と答えたことを覚えています。
つまり、そうしたGHQの洗脳政策にやられた先生に、私の世代は影響されてい
るのです。
特に高校時代は、日教組バリバリの先生がカッコ良かったのです。
しっかり、東南アジアに対しても、中国・韓国にも贖罪意識は染まっていました。
本田勝一の問題の南京事件についての『中国の日本軍』は1972年初版です。決
して80年代ではありません。「三光作戦」「万人杭」を耳にしたのも大学時代です。
個人的に私は8人兄弟の末っ子で、長男・次男あたりが杉本様と同じで、彼らに
は政治色はありませんが、知っている昭和一桁生まれの人間は、戦前否定派が多いの
です。
戦前については、悪い事しか言いません。
ですから、杉本さまの戦後解釈は新鮮というか、不思議に思われます。
杉本さまは、梅原毅氏や黒岩重吾氏などと同年齢ですよね。
日本人の贖罪意識からの開放はやはり第一次、第二次オイル・ショック以降であ
り、ベルリンの壁崩壊で、殆ど完了でしょう。そして、日本人の過去の原罪が薄れ始め
た頃、中国、韓国が、「南京事件」「従軍慰安婦問題」が出てきたと言うわけです。
昭和人のお人好し良識総理が、「それが本当にあったとしたら、本当に申訳な
い」が、彼らを図に乗せたのです。
以上が私の戦後の贖罪観です。
自由史観研究会会員 大場敏夫
■回答(6)A
大正生まれの人は贖罪史観にとらわれていないとの考えは私と一致しています。
昭和2桁以降の人についてはGHQに洗脳されて贖罪史観になっているとの考えは私
も賛成でこの2点はお互いに合意できるのではないでしょうか。
問題は昭和一桁で、貴兄はこの世代は完全に洗脳されているとの考えですが、私はこ
の世代の人間です。
私はこの世代はグレーゾーンで、何年生まれからぴしっと分かれるのではなく、この
世代に徐々に変わったと思っています。貴兄は梅原毅氏や黒岩重吾氏を例に出されま
したが小堀桂一郎は同年であり、渡部昇一は一年上だと思っています。
本田勝一の問題の南京事件についての『中国の日本軍』は1972年初版です。
と言うことは、昭和元年生まれの人が47才、昭和2桁が37才となり、その頃よう
やく贖罪史観の持ち主の主張が表面化するのです。
そして昭和60年になると、大正生まれの人はそろそろ現役から退き、贖罪史観の持
ち主の言動が支配的になったと思っています。
細川首相や村山首相が引いてからまだ10年経ちません。歴史観の見直しはその頃か
ら始まったのです。
まだまだマスコミ関係、歴史学会は贖罪史観から抜け出したとは思えません。
自由史観研究会理事 杉本幹夫
■投稿(7)
私の幼い頃に、「戦地に行った主に大正生まれの人々はこの間の戦争に対して
何ら罪悪観がないのでは?」、という予感は当っていたのですね。GHQに洗脳されて
いたら、勝新太郎の『兵隊ヤクザ』とか、喜劇の『××二等兵』などという映画が放
映されることはないし、大衆も受け入れることはなかったでしょう。
勿論、大正人といいましたも、大正デモクラシーがありました。
左翼もいて、中国共産党と行動と共にした人間も何千といましたし、
『白団』として台湾の蒋介石軍の設立の面倒を見た人間もいますし、中国山西省の
閻錫山と行動を共にして、昭和28年まで共産軍と戦闘を繰り返した日本人もいまし
た。そうでありながら、彼らはGHQには洗脳されていないのですね。 まー、左翼は
それを十分利用したでしょうけれど、
昭和一桁生まれについてですけれど、私は昭和5年頃までは「大丈夫に近い」グ
レーゾーンで、少しづつ洗脳化が増えていくのではないでしょうか。
最も洗脳された可能性あるのは、当時小学校高学年・中学生で、学校で教練や体
罰などの軍国教育が行われた、「酷い目に合った」という体験がある少年でしょう。
ですから、地域差や学校差もあり、ばらつきは当然あると思います。
私の兄についていえば、戦中は伊豆の下田にいて海中に潜るのは得意で、食い物
には苦労しなかったようです。田舎の学校でしたから、酷い目にもあわなかったので
す。すから、全く思想がありません。小泉さんと同じ、リベラルなのが取り得
ぐらいです。
昭和二桁は、日教組華やかな頃に青春を過ごし、洗脳された先生に私たちが洗脳
されていたことは事実でしょうね。
私は《ベルリンの壁崩壊》で、思考方法に落差が生まれました。昔でいえば「転
向」です。これは藤岡代表も経験されているようですね。アセアンセンターの中島
慎三郎氏が仰られていました、「転向したから本物が見えるんだ」と。ところで杉本
さまにも何らかの落差が人生の中で生まれたことがおありでしょうか。
自由史観研究会会員 大場敏夫
■回答(7)A
大体一致できたようですね。
ベルリンの壁の崩壊により、もっとマスコミの論調に変化が出そうなものですが、あ
まり変化が出なかったのではないでしょうか。
藤岡先生などは例外のように思います。殆どの学者も今までの自己の業績を否定でき
なかったように思います。
私はノンポリでした。慰安婦問題でおかしいと思い、細川首相の謝罪発言で、「何で
謝らなければいけないのか」自分で調べてみようと思い、それから始めた勉強です。
自由史観研究会理事 杉本幹夫
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