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この間も質問に答えていただき真にありがとうございます。何だかしつこくて申し訳ないのですが、今日は聞きたいことが3つあるのです。1つは日中戦争中の良く批判される日本軍について。1つは大東亜戦争前の日本人は欧米列強の植民地支配についてどう考えていたか。そしてもう一つは東条英機首相についてです。
1.日中戦争中に批判される日本軍の行動について
@中国は一方的な被害者面で色々と日本を非難しますが、日本軍は何ゆえ上海と重慶(私が知っている限りはこの2都市)に無差別爆撃をしたのでしょうか?その目的を教えて欲しいのです。単に戦意喪失のためだけにしたのでしょうか?だとすれば武士道の日本人らしくない気もするのですが、何かしらそれなりの理由があったのではないかと思うのです。
私は正直、そういう事は何とも思いません。なぜなら戦時中はどこの国でも無差別爆撃をしていたのですから。中国軍だって便衣兵なるものをして知らん顔ですし、731部隊設置のきっかけになったのも中国軍の毒ガス攻撃が初めだと聞きました。彼らは日本人を虐殺しておいても被害者面ですからね。
A次に聞きたいのは731部隊設置のきっかけと行動です。私は中国軍が日本軍に対して最初に毒ガス攻撃をしたのがきっかけと聞きました。その攻撃に対して、防護研究のために設立されたと。これは本当なのでしょうか?もしそうならばいつ、どこでその様な攻撃が中国側から成されたのか、教えてください。
そして731部隊が中国人及び捕虜を「マルタ」などと称して人体実験を行った、そして建物周辺の住民を捕らえて人体実験をしたというのは本当なのでしょうか? さらに場所は何処だか忘れましたが(確か中国北部)日本軍が飛行機で毒ガス散布実験を行って多数の住民を殺したというのは本当なのでしょうか?
B三光作戦について
これは明らかにプロパガンダだと思うのですが、このような事実はあったのでしょうか?日本軍指揮官は三光作戦の三光を逆に戒めていたと聞きましたが?
2.大東亜戦争前の日本人は西洋列強のアジア植民地支配をどう考えていたのか?
戦前の日本人は西洋列強の植民地支配についてどのように考えていたのでしょうか?そういう資料が余りにも少なすぎるのでこの部分がわからないんです。私のイメージとして良く考えてしまうのが、ABCD包囲網は日本の喉元に刃を突き刺した。有色人種の日本に対する明らかないじめ。日本としてみれば欧米に恥を忍んで従うか、それとも欧米の不当行為に対して相手に思い知らせるかの2つしか選択肢がなかった。そしてさらなる不当なハルノート。
こういった流れだけで考えれば、日本は最初からアジアの人達の事を考えていたのではなくて、「一連の流れの中で大東亜戦争を戦わざるを得なくなって、結果として欧米と戦った事がアジアの独立に繋がった」とも考えられるんです。そして大義名分として「アジアの解放」、「大東亜共栄圏」を掲げたのではないか、と。果たしてどちらなのでしょうか?日本人はアジア人のことを本気で考え、主体的にアジアのために戦ったと考えるべきなのか、それとも結果としてアジアのために戦ったと考えるべきなのでしょうか?
これは後の東条英機の質問とも関連するのですが、どうか教えて下さい。日本人が戦前の欧米植民地支配に対してどう考えていたのか、何か資料を挙げていただければ幸いです。特攻隊の方の遺書で、「これはアジアの独立のための戦いだ」と書かれていたものしか知らないんです。
3.東条英機首相に関して
さっきの質問と多少関連するのですが、東条英機は民族主義者(もっと正確に言うならばアジア民族主義者)だったのでしょうか?
なぜ私がそう思うかと言うと、東条英機のあだ名は「カミソリ東条」だったとか。
カミソリの様に鋭い頭脳を持っていたことからついたあだ名だと聞きました。
当時の日米の国力は物凄い差でした。艦船技術力は日本の11倍。日本が軍艦1隻造ってると、相手は11隻の軍艦を造れる。資源も無い、金もない。いくら情報が今より少ないとはいえ、東条首相もまともに戦ったら勝てないことを知っていたはずです。カミソリ東条と呼ばれる程頭の切れる人がそのような国力の差を誤解するわけがありません。だから疑問なのです。東条はなぜ、かつてのロシアよりも強大な相手に戦いを挑もうとしたのでしょうか?私の記憶が正しければ東条さんは首相になる前から対米開戦論者だったはずです。カミソリは何故対米強硬派だったのでしょうか?
戦後民主主義で東条さんは徹底的な悪役として非難されていますが、果たして実像はどうだったのでしょうか?少なくても苦戦は必死の状況の中、カミソリと言われた人が強硬に対米開戦を主張したのですから、それなりの理由があったと思うのです。単に「軍国主義者の愚か者だったから日本を戦争に導いた」という理由ではないと思うんです。何かご存知ないでしょうか?
私は東条が優秀な頭脳を持っていた、そして戦略のプロフェッショナルだったという事を計算に入れて考えると、何か対米開戦強硬派、南進論者になる理由があったのではないかと思うんです。あの石原莞爾ですら時期尚早として対ソ戦、北進論者だったのですから。東条は単に資源に目がくらんで南進策を主張したのでしょうか?
彼のあの異常なこだわり様から考えると、西洋列強が憎くてたまらなかった、つまりアジア民族主義者でなかったのか、と思えるのです。何か欧米諸国に対する感情的なものがあったのではないかと。もし東条が西洋列強のアジア支配に怒りを覚えて、対米強硬派になったのなら、我々の東条観は全く違ったものになりますよね。戦後民主主義者によって、意図的に捻じ曲げられたとも考えられますから、余計に疑問なんです。
どうか答えてください。お願いします。
■回答
1.@ 上海、重慶の無差別爆撃についての詳細は知りません。
ただ言えることは当時の爆撃機は大東亜戦争の時の米軍機と違い、小さなもので、数も少なく、精度も低かったと思います。
どこまでの被害があったか、よく知りません。
A731部隊は検疫のための軍隊です。ペスト、コレラ、赤痢等の流行病が流行ったとき、各地を消毒して回りました。それが毒薬を散布したと非難されている部分です。
毒ガスと言われるものは、大半は催涙弾です。デモ隊の鎮圧に使われるものです。
研究・試作も米英並にはしていたかとは思いますが、詳細は知りません。
B三光作戦という言葉は日本語にはありません。三光作戦と言っても何を意味するか分からないでしょう。
所が中国では「光」の字の意味には「空にする」との意味があるそうです。
「焼き尽くす」「奪い尽くす」「殺し尽くす」を三光作戦と云うらしいのですが、中国古来の作戦だとのことです。
自分らならこのような作戦をするから、日本軍もした筈だと云っているのです。
2.第一次世界大戦の後のパリ平和会議で、日本は人種差別の撤廃の動議を出しています。アメリカ大統領の議長特権で拒否されました。しかし多くの独立運動家が日本に亡命し、又日本人志士が彼らを支援していました。戦争前に政府として表立って独立運動を支援することはできなかったでしょうが、心情的にアジアの独立支援ムードがあり、開戦により慌てて方針を作ったと云ったものではありません。
自由主義史観研究会のHPの中の「Q&A」にアジア各国の事が書いてありますので、参照して下さい。
3.当時の軍艦等の保有戦力は、アメリカが太平洋と大西洋に戦力を2分しなければならないことを考えると、互角だったのです。
生産能力では大差がありましたが。アメリカに厭戦気分が出れば勝つ可能性が全くないとは言えませんでした。事実1年間は日本が優勢だったのです。唯日露戦争と違って調停する国が皆無だったことです。
日本側の見通しの甘さと共に、どうしても日米開戦に持ち込もうとした勢力があったことを見逃してはなりません。
それはコミンテルン(国際共産党)です。日本には近衛首相の側近にゾルゲの配下の尾崎秀実がいました。ルーズベルトの側近にも、後にマッカーシー旋風で明らかになった二人の大物がいました。大統領の中国問題担当特別補佐官のロークリン・カリーと、財務省のハリー・デクスター・ホワイトです。ホワイトはソ連の工作員パブロフの指示を受け、ハルノートの原案を作ったと云われます。
日本は何とか開戦を避けようと必死に努力しましたが、ルーズベルトは何とか日本を開戦に追い込むよう努力したのです。東條が首相になったとき、日米開戦を避ける道は、日本人の中国からの全面撤退しかなかったのです。
自由史観研究会理事 杉本幹夫
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