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■投稿(1)
次の事項について質問したいのですが、よろしいですか?
南京大虐殺の新しい証拠について
http://www.japantoday.com/e/?content=kuchikomi&id=298&page=4
1937年末、国民政府の首都南京が占領され、日本帝国陸軍の部隊が市民を虐殺したと言われている。何が、何時、何処で、起きたかの詳細について歴史修正主義者は激しく否定し、日本軍は規律正しく住民を好意をもって扱ったと主張している。
南京で起きた衝撃的な出来事の一つとして陸軍将校二人がいわゆる「百人斬り競争」、文字どおり100人の首をはねる競争をしたことだ。二人が刀を抜いて、軍服を脱いで一般市民に紛れ込んだ中国軍敗残兵を探していたことだ。
修正主義者は、斬首競争が中国のプロパガンダにすぎず、このような事件は起きてないと主張している。産経新聞や他の出版社も同調して、この種の競争は「明らかな作り事だ」と繰り返し断言している。
しかしジャーナリストの星徹は「週間金曜日/4月23日号」に大阪日日新聞(現在の毎日新聞)鹿児島/沖縄版のマイクロフィルム保存版の中に新しい証拠があると主張した。1938年1月25日付の前面記事に野田大隊長によるものとして、二人の将校、向井敏明少尉と野田毅少尉が中国敗残兵の首切り競争をし、向井が106対105で勝ったと報告している。
この話には野田少尉の写真があった。同じ記事で野田は合計253まで記録をのばしたと報告している。見出しでは彼は1,000まで続けると誓ったと書いてある。剣士としての二人の将校の偉業に感激した仲間の将校、六車が「百人斬り日本刀切れ味の歌」なる士気を鼓舞する歌を作詞した。この歌詞には「今宵別れて故郷の月に、さえ輝くわが剣・・・」なる言葉が載せられている。
新しい証拠としては以前の報道記事で月刊誌「中国」1971年12月号にある、志々目彰の野田と会った回想記事である。その有効性を主張している。
シシメによると野田が1939年、故郷の鹿児島県に戻ったとき、小学校を訪れ生徒に「私が新聞に出た100人斬り競争の勇士だ」と話した。
野田や向井はB,C級戦犯として告訴され、1947年に絞首刑になっており、殺した数のデータは逃れようがないものだ。新しく発見された新聞記事は修正主義者が反発できない確かなものだと「週間金曜日」は結論付けている。
2004年4月29日
■回答(1)
M. Dさん。
新しい南京大虐殺の証拠についてコメントしたいと思います。
<>内は貴方の文章の引用です。
<1937年末、国民政府の首都南京が占領され、日本帝国陸軍の部隊が市民を虐殺したと言われている。しかし何が、何時、何処で、起きたかの詳細について歴史修正主義者は激しく否定し、彼らは日本軍は規律正しく住民を好意をもって扱ったと主張している。南京で行われた衝撃的な出来事の一つとして二人の陸軍将校がいわゆる「百人斬り競争」、文字どおり、100人の首をはねる競争をしたことだ。このことは二人が刀を抜いて、軍服を脱いで一般市民に紛れ込んだ中国軍敗残兵を探し出して切ったと云われている。>
いわゆる「百人斬り競争」は少しも新しい話ではありません。
この話は東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって1937年11月/12月に創作されました。
戦後疑われたれた二人の将校はGHQ(占領軍)の検事局に召喚されたが、取調べの後に彼らは保釈された。その1年後、彼らは中国法廷から呼びださて南京に護送された。
彼らの親族は何の証拠もなく戦意高揚目的の非現実的な記事を書いた記者(浅見)に証言してくれるように頼んだ。浅見はこの要求にあいまいな態度をとり続け、とうとう証言はしなかった。(彼は後に中国共産党のシンパ記者として知られるようになった。)
二人の将校はただこの新聞記事だけが証拠で処刑された。これ自体、まったくおかしな話です。野田少尉は大隊長の副官でした。彼の主たる仕事は大隊長から配下の中隊長への命令伝達と大隊長事務処理の補助などであった。第一線の兵士ではなかった。もう一人の将校、向井少尉は砲兵小隊長であった。彼等が日本刀を振るって白兵戦に参加するなどということが信じられますか?
この話は11月27日から12月12日の間、無錫から南京近郊の紫金の約150kmの間の戦闘で敵105人と106人を日本刀で殺したという二人の将校に浅見が会ったという話です。
彼らは戦闘で敵と遭遇する状況下ではないという事実のほかに、日本刀は性能的に一度に10人以上も殺すことが出来ないことです。
その上、向井少尉は12月2日に負傷し12月15日まで入院していました。この話はまったくの作り話です。1989年には毎日新聞より「昭和全記録 ー1926−1989」という題名の書籍が出版されており、そのなかで、この話は事実に基づいたものではないと書いています。
<修正主義者は、斬首競争が中国のプロパガンダにすぎず、このような事件は起きてないと主張している。これはメディアに大きな反響をもたらした。:
産経新聞やその他の出版物では繰り返しこの内容はまったくの捏造だと断言した。>
事実に基づいて議論しているのになぜ修正主義という言葉が使われるのか理解に苦しみます。最近、大変話題をよぶ本が出版されました。題名は「南京大虐殺の証拠写真を検証する」です。南京大虐殺の証拠として使用された143枚の写真を精査した結果、一枚も虐殺の証拠となるものはなかったと検証しています。良識ある人はこの本を読んで、「修正主義者」の観点と決めつけずに、ここで立証された事実をよく検討していただくことを私は強く望んでいます。
<しかし新聞記者、星徹は週間金曜日/4月23日号に大阪日日新聞(現在の毎日新聞)鹿児島/沖縄版のマイクロフィルム保存版の中に新しい証拠があると主張している。1938年1月25日付の前面記事に野田大隊長によるものとして二人の将校、向井敏明少尉と野田毅少尉が中国敗残兵の首斬り競争をし、向井が106対105で勝ったと報告している。>
この報道は正確ではありません。以前にも述べたが毎日新聞では敗残兵の首斬りについては一言もなく、記事も見当たりません。報道記事のようなこれらのセンセイショナルな扇動は戦意高揚のためで、この将校を賞賛するためのものでした。この目的のために敗残兵を殺すことが有益であるとお考えですか? 野田大隊長はまったくの過ちです。すでに書いたよう彼は大隊長副官でした。
<この話には野田少尉の写真がでてくる。同じ記事で野田は合計225まで記録をのばしたと報告している。見出しでは彼は1000まで続けると誓ったと書かれている。>
野田や向井の所属する大隊は南京には入城せず12月25日に北支へ転進しており、野田は1938年2月1日には航空士官になっていた。まったく非現実的イェローペーパーが書くような話です。
<剣士としての二人の将校の偉業に感激した仲間の将校六車が「百人切り日本刀、斬れ味の歌」なる士気を鼓舞する歌を作詞した。
この歌詞には「今宵別れて故郷の月に、さえ輝くわが剣・・・」なる言葉が載せられている。>
そうです。戦時下ではこのような勇敢な歌が歌われていました。しかしこの歌は不法で不正な殺人を歌ったものではなく、日本刀で象徴される兵士の勇敢さを強調したものでした。また、この歌は六車が書いたものではありません。
<新しい証拠としては以前の報道記事で月刊誌「中国」1971年12月号にある、志々目彰の野田と会った回想記事である。その有効性を主張している。志々目によると野田が1939年、故郷の鹿児島県に戻ったとき、小学校を訪れ生徒に「私が新聞に出た100人斬り競争の勇士だ」と話した」。>
志々目は共産主義者でした。このような証言をしたのは彼だけでした。志々目の鹿児島の小学校同級生である野上は野田がこのような話を学校で講演した時にこのようなこといったことを完全に否定しています。(彼は法廷で証言する準備をしていました。二人の将校の姉妹と娘さんは捏造話をでっち上げた毎日新聞や朝日新聞を目下告訴しています。)
<野田や向井はB,C級戦犯として告訴され、1947年に絞首刑になっており、殺した数のデータは逃れようがないものだ。新しく発見された新聞記事は修正主義者が反発できない確かなものだと「週間金曜日」は結論付けている。2004年4月29日>
すでに述べたように反発できないような強烈なプレッシャーを受けているのは、デタラメ記事を書いて目下告訴されてる本田や根拠のない捏造話を書いた他の人たちの方です。
自由史観研究会会員 水元茂
■投稿(2)
私の質問にご返事いただき感謝します。貴方の沢山のコメントに感謝し、南京事件をさらに良く理解するためにもっと勉強したいと思います。
次のことについてさらにコメントを聞かせてください。
日本の外務大臣広田弘毅は真実を語っていた。広田弘毅が1938年1月17日にワシントンの日本大使館に電報を送り、「調査によると30万人以上の中国人が殺された」といっていた。(国立記録保管所、ワシントンDC、1994年公開)
さらに目撃者によって撮られた写真やフィルムがある。南京の大使館からベルリンに送られた190ページに上る公式文書が明らかになった。原本はポツダム記録保管所から1991年に公開され、これは完全に大虐殺の時期や大きさを完全に立証している。
私は日本の外務大臣の手紙は強力なる公式書類だと信じている。これはこのように本当に断言したものだったのですか?
■回答(2)
更なるお問い合わせ有難うございます。
広田の電報に関しては大虐殺をプロパガンダする人たちがとんでもない悪用をやってきました。トリックは非常に簡単なものです。広田は「16日の夜、トインパーレ(正しくはティンパーリーTimperley、マンチェスターガーデンの特派員)が、別添のメッセージ#176の通信文を送ろうとしているところを日本の防諜班に発見された」から始まる電報を打ちました。
貴方が引用した通信文はティンパーリーによって書かれ、押収されたものです。又ティンパーリーは単にマンチェスターガーデンの通信員であっただけではなく、本当は中国政府宣伝部の特別顧問(スパイというべきか)でした。
(これはWho's Who of Foreign Residents in Chinaでみられるように現在ではよく知られたことです。)
彼は"What War Means: Japanese Terror in China"(戦争が意味するもの:中国における日本の恐怖)を後にロンドンで出版しましたがその費用は中国政府が出しました。この電報の内容はその本の要約です。とにかく、電報のメッセージは 間違いなくティンパーリーのものであり、中国政府のプロパガンダ目的のものでした。
少なくとも貴方はこのメッセージが広田のものだなどと誤解してはいけません。
ナチの大使館史料についてはもう少し時間をいただきます。
自由史観研究会会員 水元茂
■投稿(3)
水元さん、
私は国を陥れるために低次元の策略をする人には驚きました。
貴方の言っていることが真実であるのなら重大なことです。
貴方の情報の裏づけになるものがありますか?
少なくとも広田氏はそのようなメッセージを送ったことを否定しているのですか?
頭にくることはこのような情報が本やインターネットを通して流されていて、誰も真実を言わなければ多くの人が信じてしまうことです。多くの場合最後には、真実をわからなくして他人を陥れることがその目的なのです。悲しい世界です。
ナチの書類についての細かい情報を待っています。
■回答(3)
そうです。私たちの情報にオープンな心の人ならば、国を陥れるために低次元な策略を弄している人たちがいることに驚くでしょう。虐殺の証拠と主張されている多くの写真や広田の電報もまたその例です。
勿論広田はティンパーリーの電報の内容は否定していました。彼はこのようなものが外国の新聞に報道されるかもしれないからと注意するためにワシントンの日本大使館にそのコピーを送ったのです。
電報は暗号化して送られたましたがアメリカの暗号解読チームに解読されていたのです。暗号化された電報はアメリカ国立記録保管所の記録グループ番号457の#1263に保管されています。私もそのコピーを持っています。
貴方は我々がなぜ南京大虐殺のプロパガンダや慰安婦問題のような根拠のない話に対して、熱心に論破しようとしているのかを理解されたと思います。
自由史観研究会会員 水元茂
■投稿(4)
早速のご返事有難うございます。でも私はあまりよく理解できませんでした。広田がこのようなメッセージを否定していることはわかりました。
前のe-mailで言いましたが、中国政府は(日本の)侵略以前には50万から60万人がこの町に住んでいたという人口調査があると主張しているようです。また、警察署長Wanによる20万人の数字にはこの町の近郷の人が数えられていなくて、安全区の中の人数のみだという説があります。これについての情報をお持ちですか?
■回答(4)
貴方がどの部分が理解できないのか教えてください。とにかく、人口問題についての質問にお答えします。
侵攻前にこの街に50万から60万の人が住んでいたという中国政府の人口調査なるものをを聞くと失笑せざるを得ません。。
当時の人口調査はこの場合意味を持ちません。1937年には南京には百万人以上の人口があったとの調査があります。しかし、戦争が始まったときには市民は南京を離れていきました。特に11月末の日本軍が南京に接近してきたときにはほとんどの市民がここから脱出しようとしていました。
このような状況は1937年12月19日のFrankfurter ZeitungにLilly Abeggが生々しく書いています。彼女の記事では絶え間ない脱出者によって150,000人まで人口が減ったと書かれています。彼女の記事を引用してみます;
「空襲警報が鳴り響く中、果てしない難民の流れ、くぎ付けされた民家や商店、首都防衛に雪崩れ込む軍隊、これが私が見た最後の南京の姿であった。人力車や車に、木箱、包み、家具や人間を満載して昼夜をおかず人々がどうっと通り過ぎ得ていく。次々と商店が閉められていく。すでに家の電気は消えていて商人たちはろうそくの火で残った在庫品を売っていた。トランク、荷箱、包装紙はすべての店が売り切れであった。先週はおよそ200,000人の人が南京を離れた。かって、百万の人がこの街に住んでいたがその数は350,000人に減っていた。おそらく今では多くて150,000人の人が残っているのだろうが避難者の波は絶えることなく続いているようだ。」
このような状況では人口調査はまったく意味がないことです。当時の南京の状況を何も知らないひとにたいする悪意に満ちたウソです。
当時の警察署長Wanでさえ正確な数字を把握していませんでした。ただ彼の警察の情報網からの最善の見積もりでは200,000人で、この数字が11月末の記者会見で報告され、市長が逃亡した後の南京市民を世話する役目を仰せつかった国際委員会にも申し送られたわけです。
貴方は200,000人は安全区の人口ではないかと質問しています。
仰るとおり。ほとんどがそうです。なぜなら、国際委員会の「南京安全地区の記録」に収録されている、安全地区委員長、ジョン・ラーベJohn Rabeが日本大使館へ出した手紙にも書かれているるように、ほぼすべての人口が安全地区に集められていたのです。
これは日本軍の記録にある「死の街の静寂さに恐怖を感じた」との記述にも合致します。
南京防衛司令官唐生智は12月8日に全ての市民は南京地区に集まること、許可なく市民は市内に出てはならないとの命令を出していました。このため特別ケースを除けば、全ての市民が安全地区に集まっていた考えることはまったく自然なことなのです。
委員会のメンバーは車を使って自由に市内を巡回していました。しかし彼らのうちで殺人を目撃したとか、安全区の外側に多くの市民がいたとの報告をした人は一人もいなかった。したがって200,000〜300,000人の殺人が安全区の外側であったなどというのは馬鹿げており、まったくの嘘です。
もう一つあなたは南京市外について述べています。蒋介石は敵が使えるものは何も残さない焦土作戦を採用しました。したがってニューヨークタイムスのダーディンDurdin記者は次のような記事を書いています;
「中国軍は防衛圏の中の障害物を焼いた。霊園地区の豪華な公邸は昨日燃やされた。
街の10マイル半径にある建物や障害物を燃やし続けたので、街は濃い煙の幕で囲まれていた。」
半径10マイルにある全てのものが燃やされた。市民は一人もそこに住むことは出来なかったのです。町の外側にもう少し延してみても無駄なのです、そこには誰もいなかったのですから。中国軍は街の防衛のために最初は激しく戦いました。そしてその後、市から逃走する兵士は脱出路を切り開くために必死に戦いました。
総括してみると多くの中国兵は街の外で戦死しました。しかしこれは虐殺とは関係ありません。中国軍の敗北なのです。
これが状況の概要です。ご質問があれば遠慮なくしてください。
自由史観研究会会員 水元茂
■投稿(5)と回答(5)
私は今週末から忙しくなりました。(ご存知のように私はこの会のボランティアなのです。)
貴方のお問い合わせへの答えです。
<1947年の南京戦争犯罪裁判において第6師団長谷寿夫中将への判決は300,000人以上の数の犠牲者と見なされた。明らかにこれは埋葬記録と目撃証言によるものであった。190,000人が大量にさまざまな処刑場で不法に処刑され、150,000人が一人づつ虐殺された。極東国際軍事裁判では200,000人、又は100,000人を越える市民や捕虜が日本軍占領当初の6週間で殺されたと判決の中で推定した。この数は二つの慈善団体である紅卍会と崇善堂による埋葬記録やスマイスSmytheによる調査や生存者による推測によるものであった。>
南京裁判における埋葬記録では紅卍会が43,031で崇善堂が112,261でした。紅卍会の数字は活動状況が国際委員会によって編集された「南京安全区の記録」に記録されているので多かれ少なかれ根拠があります。埋葬作業は2月から3月にかけ、南京救済委員会(以前の国際委員会)」の援助の下に行われました。委員会は作業者に一人当たり1日40セント払って170人程度の人を雇い40日かかって総費用は$2540でした。一日あたりの埋葬死体は500体ぐらいだったといっています。そそうすると全体で(40×500=ですから20,000から24,000体であった。しかし紅卍会は収入を上げるため2倍の数を要求していました。
委員会のみでなく日本の特務機関も1938年1月1日には南京自治委員会設立を援助し、市の秩序回復のために自治委員会を通じて紅卍会に一体あたり0.3円を支払いました。これは機関の丸山進が報告しています。想像できるように埋葬は簡単にはできません。最初に埋設場所を確保しなければならない。土地は全て個人の所有である。所有者の承認が必要です。凍った地面を掘ることは容易な作業ではありません。とにかくこれは虐殺死体ではまったくありません。知っての通り日本軍と中国軍の間に激しい戦いがあったのです。中国軍は敗北したのだから死体を収容することも出来なかった。このため南京の周りには兵士の死体が放置されていたのです。これらの死体が埋められたのです。
崇善堂についての活動は国際委員会や特務機関の記録には全くありません。前に述べたように埋葬は簡単なものではありません。もしこのような大量な死体が埋葬されたのなら、その仕事は日本軍の特務機関、日本軍当局、自治委員会、国際委員会は大きな関心を払ったはずであろうに、その活動についての記録は一つもありません。しかも異常に大きな数字は紛れもない捏造です。
全く知られていない事実ではないのです。ご興味がおありでしたらもっと細かい情報をおおしえできます。
スマイス教授の社会調査は1938年3月から4月に行われました。この結果では戦中戦後における死者の数は3,150体でした。しかし、この調査には重大な弱点があります。3150の内訳は男71%、女20%となっています。しかし、紅卍会の埋葬記録では女性の比率はたった0.4%でした。実際の死体は彼らが処理したのだから彼らの報告する女性の割合はほぼ正確に近いと見てよいでしょう。スマイスの調査では回答用紙にアンケートに応えた人もまたや調査を請け負った学生の調査員もどのようにでも書き入れられた分けです。とんでもないところでウソがばれたということでしょう。東京裁判の判決の内容がとのような性質のものであるかお判りいただけるでしょう。
<死体数を数える主な違いは虐殺が行われたと云われる地域と期間である。ある人は上海からの進軍から大虐殺までも含めている。大虐殺の原因を主張する中国や日本の専門家は、南京大虐殺は1937年12月初めから1938年3月末の日本軍が公共秩序の回復した時期までに起きたとの見方をしている。一方東京裁判の判決に従って日本軍が南京占領の6週間の期間に限定しもっと小さい数字を主張しているグループがある。同じようにある人は地理的に大虐殺を大南京地区(南京行政区下の地域)、200中国マイル(66マイル)までと主張し,また南京市のみに限定している人もいる。>
最初に上海から南京の間に300,000人の虐殺を何の根拠もなく唱えたのはティンパーリーで、彼は私が以前述べたように国民政府の宣伝部の顧問でした。しかし、この300,000人という数字は中国語の表現の中でよく用いられる数字なので後になって根拠がないのにいろいろな形で使われるようになったのです。国民政府国防委員長の何応欽将軍による軍事報告書によると、1937年7月7日から12月12日までの上海、南京における戦闘地域(第3戦区)での戦死者は33,000人(戦傷者65,340人)です。期間をどうこう言ってもまったく意味をなしません。前に述べたように 1938年2月から3月は埋葬作業でフル回転でした。そのころに別の大虐殺があったとでもいうのですか?馬鹿馬鹿しい限りです。さらに1938年3月、スマイスの社会調査は南京市へ調査員として学生を送り込んでいました。地域の拡張や期間はこの差とはまったく関係がありませn。二つの数字はまったく非現実的であり、捏造です。
<このような情報が真実なら安全区に住んでいた25万人の人口でさえ30万人の人が殺されなかったという証拠にはなりえないでしょう。>
東京裁判では南京市街で大虐殺があったとして訴追しました。しかし、これまで説明しましたように大きな人口減の記録はなく,逆に50,000人の人口増が記録されていました。これこそが明白なる真実です。
自由史観研究会会員 水元茂
■投稿(5)と回答(5)続き
私は共産主義者が言ったことが全て間違っているとは決していっていません。共産主義者の志々目だけがそのように言たということ、そして、共産主義者は、レーニンが言っていたように彼らのために利益になるのなら嘘をつくことが正義なのです。とにかく、私は知る限りの真実を話していきましょう。
<水元さん、ご返事有難うございます。当時日本のメディアに発表された記事やMagee、Rabeなどについての貴方のコメントがほしいのです。
貴方は私に彼らは共産主義者で嘘をついているといっているようです。でももう少し彼らの記事は真実ではないとの証拠がほしいのです。貴方たちのグループはこれらの記事での証言について調査したことはありますか?
「「私は地獄に行ったことはないが、でもここの市街は地獄だ。」東京タイムスの記者は南京における殺人についてこのように述べている。「南京占領後、30,000人を越える中国人が城壁の下に引き立てられた。その時に群集に対し機関銃の掃射が行われ、城壁の上からは手りゅう弾が投げられた。30,000人の人たちは全て殺されたが、その大部分は女性や子供や老人であった。」東京朝日新聞のモリヤマ・ヨシオ特派員は1937年12月14日付で報告していた。1984年8月4日の東京朝日新聞版では第18師団23連隊の一兵士の日記が載せられた:「我々は厭きてくると中国人を何人か面白半分に殺した。埋めたり、火の中に投げ入れたり、棒で殴り殺したり、そのほか色々な残虐な方法で殺した。」>
最初に「東京タイムス」という新聞は日本にはないこと、二番目にモリヤマなる人はまったくだれだかわからない、おそらくこれはまったく信頼性がない、プロパガンダ本である、Shi Yongの 「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」というで写真本で述べられたものではないかということを申し上げておきます。三番目に朝日新聞の1937年12月の記事もまったくの幻しです。どこにも存在しないものです。四番目に1984年8月4日の朝日新聞の記事は元兵士の捏造した日記に基づいており、満州の軍閥に銃殺された匪賊の写真がそこにのせられていて、後で引っ込めました。
<大虐殺の目撃者したマギー師はそれをを16mmカメラで記録しました。この悪名高い事件を写した唯一の記録映画だといわれている。彼は日本軍の南京占領時にできた国際安全地区の委員でEpiscopal派の牧師であった。日本軍の大虐殺を怒ってドイツ人外交官、John
Rosenはナチ政府にMageeのフィルムのコピーを送った。そして彼は日本軍は全て酷い殺人マシンだ」との長い報告書をも同封した。この中で彼はこのフィルムをヒトラーに見せるよう依頼していた。>
マギーのフィルムは今でも見ることが出来ます。これらの中には日本兵の殺人を証明できるものはありませんが、病院内の負傷者や死体の写真はいくつかあります。もちろん、戦闘の後には沢山の死体はあります。当時、ドイツはフォン・ファルケンハウゼン将軍が率いる軍事顧問団を中国に送っていており、ローゼンがそうした写真や非難文書をヒトラーに送ったのも事実です。しかし、ローゼンの情報は事実に基づいたものではなく、ドイツ大使館のスタッフの一人である一等書記官シャルフェンベルグが日記に「結局はこれらの事件全ては一方の側から聞いたものだ。」と書いているように自分で見たものではありませんでした。勿論一方とは中国、中国人のことです。
東京裁判の記者で「もう一つのニュールンベルグ」((The Other Nuremberg)の著者、Bブラックマンは「南京事件は戦争における一般的事件ではない。熟慮の上政策的になされたものだ。これについては東京だけが知っている。さらに6週間も続けられていた。」と論評した。>
事実に基づかないまったくの虚偽です。当時この場所で書かれた全ての証言記録が、マンハッタンの3/4の面積の南京市で100件を越える殺人は絶対無かったことを証明しています。たとえいくらかの誤差があったとしても大量市民が殺されたことはありえませんでした。どこに「熟慮のうえ政策的」に行 われたという証拠があるというのでしょうか?悪意に満ちバックマンという人間が「熟慮の上に政策的に」そのように断言しているだけです。 自由史観研究会会員 水元茂
■投稿(6)
水元さん、お尋ねした問題に対し細かい情報を頂き有難うございました。南京事件について主張している人が何を話しているか明らかにすることはきわめて大切なことです。
南京からの距離を延ばしているとの貴方の意見には理解できます,しかし、もう一つ教えてください。
南京を離脱した人は皆(100万のうち20万の人が残ったのでたので簡単に計算すれば80万の人は街を離れたことになる)冬なので長期間旅行することは出来なかったであろう。もし南京周辺の街や県で人口が増えたと認められるデータがあったら教えて下さい。
もしあるのなら,どうやってその人数を数えられたのでしょうか?
もしないのなら、彼らはどうなったのですか?
80万の人とは巨大な数です。貴方によると安全区では国際委員会が水/食べ物の補給品は確保していた。しかし、これら800,000人の人にはそうだったと言うことは出来ない。
もしこれについての情報をもっていたら教えてください。
■回答(6)
このような沢山の人が南京を離れ何処へ,どうやって行ったのか不思議に思われることは理解できます。
上海は11月中頃に陥落し、中国軍は南京や西方へ逃走しました。11月16日、蒋介石は内閣の閣僚や各省庁・政府関連機関には次の三個所に移動するよう命令しました:
5つの主な部門は重慶へ、3つは漢口へ1つは長沙でした。11月中頃から単に政府だけではなく、市民、特に安全な場所に移転できる富裕層の人たちの
脱出が始まったのです。
「南京中で脱出の競争が始まった。自動車の入手は非常に難しくなった。官庁の役人すらお互いにトラックを奪い合う状態であった。自動車の値段は数千ドルにもなった。避難民は怒濤のごとく下関の埠頭に殺到した。揚子江を渡って前に進む以外の道はなかった。下関の船を目指して名状し難い殺到が始まった。」
Frankfurter Zeitung紙の12月19日版にLilly Abeggはこのように書いています。彼女のもう一つの記事をもう一度お見せしましょう。
「空襲警報が鳴り響く中、果てしない難民の流れ、くぎ付けされた民家や商店、首都防衛に雪崩れ込む軍隊、これが私が見た最後の南京の姿であった。人力車や車に、木箱、包み、家具や人間を満載して昼夜をおかず人々がどうっと通り過ぎ得ていく。次々と商店が閉められていく。すでに家の電気は消えていて商人たちはろうそくの火で残った在庫品を売っていた。トランク、荷箱、包装紙はすべての店が売り切れであった。
先週はおよそ200,000人の人が南京を離れた。かって、百万の人がこの街に住んでいたがその数は350,000人に減っていた。おそらく今では多くて150,000人の人が残っているのだろうが、避難者の波は絶えることなく続いているようだ。」
当時の実情がどのようであったかは十分想像できると思います。王警察署長の残留者200,000の見積もりは事実とはかけ離れたものではありません。そしてポイントは「南京安全区の記録」によると12月17日、200,000、18日、200,000、21日、200,000、27日、200,000、1月17日、250,000と日本軍南京占領後に増えていたことです。 自由史観研究会会員 水元茂
■投稿(7)
水元さん、移動者の向かった場所を明らかにしていただき大変有難うございます。
おそらく私は十分に説明していなかったようです。王氏が用意した公式情報による南京の人口が200,000だったことがよく理解できました。
ここにおける私の質問は、ある人たちが脱出者(800,000人)の一部が目的に到達できず,揚子江の傍で逃亡中に日本軍に追跡襲撃されたと言われていることです。このような場合は大量の人が殺されたことになる。
もう一つ、便衣隊(元中国兵のゲリラ)のことがいわれているがそれはあまり問題にならない。ゲリラであり,普通は共産主義者であり、国民党ではないとある人はいっています。
便衣隊やその組織について何か情報がありますか?(数,活動地域など)
■回答(7)
脱出市民を追跡して日本軍が市民を殺したという1次史料(後日作られたのではなく当時の記録を意味する)はありません。南京市民は日本軍が進撃してくる東や南、上海や日本軍が上陸した杭州湾の方へ移動したのではないことが想像できます。
約7〜8万の日本軍精鋭が15万の中国軍精鋭と戦いながら、12月10日には南京付近に東と南方から到達しました。そして10日から13日にかけて南京周辺で激しい南京攻略戦がおこなわれました。その時、避難民はそこにはいませんでした。
日本軍は数的に優勢な中国軍をほって置いて「非戦闘員」を追跡することなどは実際出来ません。勿論、日本軍は非武装市民を虐待することは武士道の道に外れることであり、恥だとの認識もありました。
一般論として中国では、良い人間は兵隊にはならないと言われ、中国軍に見られるように、弱い軍隊は弱い非武装な市民を虐待しがちでした。強い軍隊は規律があり、非武装な市民を虐待することは希というのが基本法則です。とにかく、南京戦以降で日本軍が非武装な市民を追跡したて殺したなどという、馬鹿馬鹿しい記録はありませんでした。
便衣隊、すなはち、市民に変装した兵士による戦術は共産党のみではなく、国民党もよく採用していました。便衣隊は特殊部隊ではなく正規軍の戦術として南京戦で良く見かけました。ニュ−ヨークタイムス(1938年1月9日版)には次のような記事があります;
「日曜日の夕方シナ兵は安全地区1体に散開さいた。そして数千人が軍服を脱ぎはじめた。市民の着物を盗んだり、通りすがりの市民に懇願したり、軍服を脱ぎ捨てた兵士や下着だけの兵士も見うけられた。軍服の傍には兵器が放置され、通りという通りは小銃、手榴弾、剣、背嚢、上着、軍靴や軍帽で覆われていた。(ティルマン・ダーディン記)
上記の情報で当時の状況が十分把握されると思います。 自由史観研究会会員 水元茂
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ご返事有難うございました。返事が遅れたことをお詫びします。出張していて今帰ったところなのです。
貴方の説明の一次史料について、勿論、私も日本軍の進軍方向に逃げなかったことには同意しますが、この理由のためにこの方面に避難民がいないとみることは難しいでしょう。南京近辺の都市で沢山の人が割り当てられたというような人口調査か新聞の記録がないか、聞いたのはこの理由なのです。
全ての人が移動したのなら確かに食料/供給システムにアンバランスが生じたことでしょう。
そしてこれらの人がどこの街にも行けなかったのなら、どこへ行ったのでしょう?誰が世話をしたのでしょうか? 800,000人もの人がどこかで消えてしまったとは考えられないでしょう。
これについて何か情報を持って見えるのなら提供していただければ助かります。
このような書類は日本軍で証拠隠蔽のためか、南京について中国側が嘘を守るために焼却された可能性はあります。
戦時下の日本軍の行動には慰安婦問題、731部隊のような沢山の非難すべきことがあります。慰安婦についてはアジア人だけではなくヨーロッパ人からも苦言があります。
このリンクを見てください。 http://www.vday.org/contents/vcampaigns/amea/comfortwomen
「日本軍の1942〜1945年の元蘭印(インドネシア)占領時に、300,000人のオランダ市民は当時の日本軍や日本政府役人から残虐な組織的人権違反的行為を受けた。多くの犠牲者は集中キャンプに入れ
られ、死刑や餓死は日常的であった。性の奴隷として女性や少年は徴用された。沢山の犠牲者が行方不明となった。今日では約300人のオランダ人慰安婦が生存していると思われるが公になっているのは70〜80人である。
■回答(8)
<貴方の説明の一次史料について、勿論、私も日本軍の進軍方向に逃げなかったことには同意しますが、この理由のために、この方面に避難民がいないとみなすことは難しいでしょう。南京近辺の都市で沢山の人が割り当てられたというような人口調査か新聞の記録がないか聞いたのはこの理由なのです。全ての人が移動したのなら確かに食料/供給システムにアンバランスが生じたことでしょう。これらの人がどこの都市にも行けなかったのなら、どこへ行ったのでしょう?誰が世話をしたのでしょうか? 800,000人もの人がどこかで消えてしまったとは考えられないでしょう。
これについて何か情報を持って見えるのなら提供していただければ助かります。>
貴方は中国の地図を見たことがありますか?ご存知のように中国では今は13億の人口です。(当時、約5億)南京の西には10万以上の沢山の都市があります。(日本軍がいない方に)
主なものでは重慶、漢口、長沙で、これらは前に述べたように蒋介石によって政府機能が分散させられた街です。これらの街のみでも80万人の避難民を簡単に受け入れることが出来ましょうが、これらの街の周辺や途中には10倍もの街があり、数百もの村があります。重要なことはこれらの街や村は日本の管理下になっていなかったことです。
このため、もしこれらの場所で市民が殺されても中国のメディアには多少は記録されていたかもしれません。でもこのような記録はありません。さらに、中国は国際連盟の一員であり、委員会や総会では彼らは南京虐殺については一言も発言していません。彼らは日本が国際法に違反して侵略したことは委員会で訴えているのにもかかわらずです。
<このような書類は日本軍で証拠隠蔽のためか、南京について中国側が嘘を守るために焼却された可能性はあります。>
上で述べたように日本軍は上海、南京の極めて限られた場所を管理していていたにすぎませんので、もしそんな記事があっても焼却することはできなかったでしょう。
さらに、もし仮に一部のものが焼却されたとしても、残ったものがほかの場所で公表されていたでしょう。しかしとにかく、これは状況を誤解した全くの幻想です。日本軍は大海に浮かぶ小島のような存在だったのです。これが現実でした。
<戦時下の日本軍の行動には慰安婦問題、731部隊のような沢山の非難すべきことがあります。慰安婦についてはアジア人だけではなくヨーロッパ人からも苦言があります。
このリンクを見てください。
http://www.vday.org/contents/vcampaigns/amea/comfortwomen
「日本軍の1942〜1945年の元蘭印(インドネシア)占領時に300,000人のオランダ市民は当時の日本軍や日本政府役人から残虐な組織的人権違反的行為を受けた。多くの犠牲者は集中キャンプに入れ
>> られ、死刑や餓死は日常的であった。性の奴隷として女性や少年は徴用された。沢山の犠牲者が行方不明となった。今日では約300人のオランダ人慰安婦が生存していると思われるが、公になっているのは70〜80人である。>
慰安婦については我々のホームページを見てください。基本的に軍隊が駐屯している地域には軍管理下(軍が運営はしていない)の公認慰安所がありました。当時日本では(現在でもオランダでは)慰安所即ち売春宿は法律に認められていました。そして売春婦は軍の命令で強制的に売春婦になったのではなく、今でも行われているオランダの売春婦と同じように商売でやったのです。売春は合法的なものではあったが勿論、品のいい仕事ではない。しかし貧しい人にとっては、今日でもそうですが簡単に金を稼げる商売です。
例えば、朝鮮の文玉珠という慰安婦が日本の裁判所に賠償を求めた。同時に彼女は郵便貯金通帳をな
くしてしまって払い戻しができなかったので、その払い戻しをを求めました。郵便局は要求に応じて元帳を調べたところ、彼女の預金は¥26,145 で、現在の3千万円以上に相当する金額でした。彼女は約2年3ヶ月働いてこの金額を貯めたのです。言い換えれば彼女は月1000円以上を稼いでいたわけです。当時、将校(少尉)の月給70円はでした。彼女は将校の15倍も稼いでいたのです。兵隊とくらべると彼女は20倍以上も稼いでいたのです。この話は実話であり、毎日新聞に載っています。(1992年5月12日)おかしなことにこの記事は慰安婦のシステムを批難する調子で書かれています。(記者が当時の円の価値をよく理解できなかったためでしょうし。)
とにかく、売春は非常に金になる商売であり、特に戦場のような危険な場所ではそうであったのです。従って女性を強制的に売春婦にする必要はありませんでした。なぜなら特に貧乏人にとっては特別に金になる仕事であったのですから。
インドネシアについての詳しい情報は持っていません。しかし一般的に言えばオランダの殖民者は日本軍によってインドネシア人の攻撃からは適切に保護されていました。ご存知でしょうが8万のオランダ軍精鋭を日本軍は5万の兵力でたっ9日で完全降伏させました。これはオランダ軍より日本軍は極めて強かったという理由だけでなく、インドネシア人が日本人に味方して手助けしてくれたためでもあります。とにかく,インドネシアは日本軍によって比較的安全がよく守れていました。従ってそんなところで、強制売春が起きたことは信じられないというのが感想です。 自由史観研究会会員 水元茂
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