1.靖国問題について

■投稿(1)

いわゆるA級戦犯が靖国神社に祀られているという事で首相の靖国参拝が内外で大きな問題となり、これに対する国論も大きく2分されているのは大変悲しいことです。

 A級戦犯の分祀論もありますが、それが出来ないのなら、その人たちの祭神を一旦外して考え直すと言うことは出来ないのでしょうか?
 その上で、日本人としてあの戦争の正当性、反省すべき点、戦争責任などを明らかにすると共に、東京裁判の不法性を初め、戦争中における大都市の無差別爆撃や原爆による大虐殺、そのためにでっち上げられた南京大虐殺などについて真っ向から議論を展開し、日本人としての本当の歴史観を明らかにすべきときではないか、と私は思います。

 私は9月5日の産経新聞記事、石原知事の「日本よ」を読んで共感を覚えました。
靖国神社に間違って祀られた人や祀って欲しくない人を祭神から外す。これは可能なことであると思います。例えば小野田寛郎さんにしても一度は靖国神社に祀られていました、しかし、彼が生存している今もなお祭られているとは思われません。

■回答(1)

確かに小野田さんは今祀られているとは考えにくいので、外されたのでしょうね。
しかしA級戦犯の方を祭神から外すと言うことには反対です。 彼らが合祀された経緯はすべて国会の決議によるものです。

まずサンフランシスコ条約11条の規定により、衆議院で全会一致の決議により関係各国に赦免を求めました。
関係各国の了承により、生存者は赦免されました。既に処刑された人は公務死とし、恩給の対象になりました。これは国会の決議によるものです。
又靖国神社には合祀する人の名簿は厚生省から交付されました。靖国神社はその名簿に従って合祀されました。

その後憲法問題が出てきました。今憲法上、国は靖国神社に合祀せよとか、外せと言うことは出来ません。
又靖国神社としても、国会決議が基礎になって、誰を祀るか決めたという経緯から簡単に外すことは不可能でしょう。
祭神から外すとすれば、あくまで政治と宗教の独立を阻害しない形で、国会決議で靖国神社に嘆願し、靖国神社の判断に待つということしかないと思います。

よく「日本人としてあの戦争の正当性、反省すべき点、戦争責任などを明らかにすべきだ」との意見がありますが、当時の国会の度重なる戦犯の赦免要求、国際的な赦免に対する合意、サンフランシスコ条約以後の多数の国との講和条約の締結により、政治としてなすべき事は終わったと思います。

これからは歴史の問題としてこれらの諸議論を大いにすべきだと思います。現在の歴史認識は余りにも歪曲されています。歴史を学ぶ目的は歴史に学ぶことです。歪曲された歴史から導き出された結論は、道を誤ります。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(2)

ご返事を頂き有難うございました。国会決議によって東京裁判での戦犯を昭和殉職者としたことは存じていますが、今も国会議員の多くがとやかく言っているのは何故でしょうか。各国への了解済みならば、それを中国や韓国へも日本政府ははっきりと言うべきだと思いますが・・・この辺のことが分かりません。

中国や韓国の方こそ歴史認識を間違えているのだと日本政府は何故言わないのでしょうか?

■回答(2)

私には国会議員・外務省官僚の不勉強・弱腰であり、誤ったマスコミの主張としか言えないと思います。

50年前の国会決議は間違っていたとか、無効だと言うなら、それなりの手続きが必要だと私は思います。
特に恩給法の改正が必要なのではないでしょうか。賀屋さん・重光さんは名誉が回復されている、既に死刑となった人は永久に名誉が回復されない、或いは誰と誰とは戦争犯罪者として永久に罰すると言う戦争犯罪裁判を今から開くべきだと思われますか。私は歴史学者に任せるべきだと思います。

それとも50年前の国会決議は時効だと言うのですかね。私には国会決議に時効があるかどうかの知識はありません。

又中国について言えば、日本が戦ったのは蒋介石政権です。中共は一度も台湾を支配したことがありません。しかし台湾は中国の一部だと主張するためには、蒋介石政権が結んだ国際条約を引き継いで始めて台湾の領有権を主張できると思います。台湾を一度も支配していない、しかも台湾政府が結んだ国際条約は関係ない、では台湾の後継政権だと主張する資格はないのではありませんか。

更に言えば、アメリカの戦争目的は何だったでしょうか。中国における利権の確保だったのではないでしょうか。戦争に勝ってその目的は達成したでしょうか。逆に中国からシャットアウトされたのではないでしょうか。これはルーズベルト政権が共産党に毒され、スターリンに操られていた為ではないでしょうか。私は日本が戦争に追い込まれたのは、自衛のためであるとのマッカーサー証言の通りだと思いますし、当時の国会議員も「止むに止まざる自衛戦争だった」と考えていたと思います。

現在のマスコミもマルクス主義から脱し切れていません。歴史の真実にまだ目覚めていません。私はこの問題は歴史学者にゆだね、もっと徹底的な論議をさせるべきだと思います。今から政治家が戦争裁判を開くことには不賛成です。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(3)

ご親切なメール有難うございました。貴兄のご意見に賛成です。 これで私の考え方も大分すっきりとしてきました。

しかし、東京裁判でいわゆる戦犯と言われた人たちの名誉が回復されたことは良かったとしても、その刑死者の全てを靖国神社に祭ったのはどうかという人を説得するのは容易ではありません。「阿南陸相や大西滝治朗中将を祀らないでなぜ東条を祀ったのか」と疑問を抱く人も多いようです。戦死ではなくて殉職と言うことなら古賀海軍大将は靖国に祀られてはいないのでしょうか?・・・。

この辺のことを如何に説明すればよいのか、やはり今後の歴史研究家に任せるべきでしょうか?ご指導頂けるとありがたいのですが。

■回答(3)

阿南陸相や大西滝治朗中将が祀られていないとの石原発言は翌日の産経新聞に訂正記事が載っています。

阿南陸相や大西滝治朗中将のような軍人だけでなく、近衛首相のような文人もすべて、処刑者・自決者は法的に公務死と認定・恩給受給資格者となりました。それに伴い靖国神社では昭和殉難者として祀られています。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(4)

 回答(1)の中で「A級戦犯とされた人が靖国神社に合祀されたのは国会の決議による」と取れますが、国会決議は彼らを戦犯から赦免して公務死としたことで、靖国にお祀りすることまでを決議したとは思われません。公務死で恩給の対象となり靖国に祀られていない人は他にも多くいる筈です。あの時の彼らをお祀りしたのは靖国神社側の判断・・それも戦死者扱いという判断だけで?一寸軽率ではなかったかと思われますが・・・。しかし今の時点では・・歴史家の判断に委ねるより仕方ないかも知れませんよね。

 東条さんは東京裁判において『あの戦争は自衛戦争であったが、戦争に負けたのは自分の責任である』といっています。そして死刑になりました。そのとき本人も、神として靖国に祀られるとは想像もしていなかったのではないでしょうか。東条さんが作ったといわれる戦陣訓・・これは私も中学時代にその要点は暗証させられましたが、これによって日本軍は限りなく強くなったけれど、ご存知のように、この思想は敵に対しても見方に対しても多くの悲劇を生みました。

 東条さんは阿南陸相や大西滝治朗中将のように終戦の日に割腹自決をするべき人であったと私は思います。それが東条さんの戦陣訓であり、私たちが戦争中に学んだ武士道でもあります。それから東条さんの自決ですが、拳銃による軍人の自決は”こめかみ”を打つのだと戦争中に教わったことがあります。遺書もなく米兵が逮捕にきた時、慌てての自決というのも頂けません。

  『靖国神社は戦争で国のために亡くなった人たちを祀ってある所』というのが一般国民の常識です。あの戦争では軍人のみならず多くの国民が戦災で亡くなり、また塗炭の苦しみを味わいました。『国のために』というところが大切なのです。戦争に負けたのは日本国民全体の責任であったという考えも納得できます。

しかし、多くの人たちは、その戦争に負けた責任者ともいえる人を神として拝するのには今ひとつ抵抗がある(・・割腹自決ならまだしも・・)というのも納得できるような気がするのです。

 日本人の心情として死者に鞭打つ気は毛頭ありませんが、このままでよいのでしょうか?・・・困ったものです。これは東京裁判とは関係のない心情で・・・多くの国民の悩みでもあるように見受けられます。

 要するに、『靖国にお祀りしてあるのは玉石混合、八百万の神々』とでも割り切って考えれば良いのでしょうか?それにしても特攻で亡くなった人々はこれをどのように考えるか?悲しくなります。

 中国や韓国の言いがかりは論外として、わが国における靖国問題の本質はここにあると考えますが如何でしょうか?

■回答(4)

靖国神社に祀るべき人の名簿は、終戦後は厚生省引揚援護局から送られてきました。基準は戦争による公務死です。引揚援護局が全国に合祀事務に協力するよう通達を出し、各県から提出された「祭~名票」を崇敬者総代会で審議し、昭和殉難者として合祀されたのです。従いまして、公務死で恩給の対象となりながら靖国神社に祀られなかった人はいないと思います。BC級戦犯は昭和34年の春期合祀祭で合祀されました。

ただA級戦犯とされた人について、引揚援護局からの「祭~名票」に載っていたのに関わらず、当時の宮司がためらい、「靖国神社法」の成立を待っていました。その宮司が引退(死亡?)された事、「靖国神社法」が廃案確実になった事で、新任の宮司があらためて崇敬者総代会の了承をとり、昭和53年の秋期合祀祭で、それまで漏れていた人たちと共に合祀されたのです。決して靖国神社が独断で判断したのではありません。

東条さんの自決未遂は左利きだったので狙いをそらしたと言われています。石原都知事は22口径の小さなピストルだから自決未遂になったと書きましたが、東条由布子さんは32口径のピストルだったと書いています。石原都知事の見解と逆に32口径のピストルだった為に反動が強く、的を外したのかもしれませんね。又こめかみを狙えば外さなかっただろうとのご意見はその通りだったかと思います。
しかしいずれにせよ、生き残った事は武人としては恥だったと思います。

しかし生き残ったためにあの堂々とした反論が残せたという面もあります。

東条さんの戦陣訓については、私の伯父も「あの戦陣訓で、どれだけ死ななくてもよい人が命を捨てたか」と非難していました。

「靖国神社は玉石混淆、八百万の神々をお祀りしてあるところ」という点について、BC級戦犯の中には本当に捕虜虐待等の戦争犯罪をした人もいるかと思います。その点からも玉石混淆の面はやむを得ないかと思います。

しかし戦争への流れを見ますと、スターリンに洗脳されたルーズベルトの判断を崩すすべが無く、まさに自衛の為の戦いだったと思います。

あそこで開戦に踏み切った事は、日本人にとって大変な犠牲を出しましたが、世界史的に見ますと、東南アジア諸国の独立から、アメリカそして世界の人種差別の撤廃の原動力になったと誇りを持って言えます。同時にその気概が戦後の発展につながったと言えます。
又、 あそこでハルノートに屈服し、大陸から総引き揚げとなると日本は暴動となり、どのように収拾できたか、疑問に思います。又世界からも意気地のない民族と思われたでしょうね。

今の反日に凝り固まった中国・韓国の人々を説得する為にどうすれば良いか、当時の歴史をもっと学ぶ必要があると思います。

自由史観研究会理事 杉本幹夫


2.引揚についての質問

■投稿(1)

なぜ、「敗戦当時外国にいた日本人は引揚げなければならなかった」のでしょうか。また、海外から引揚げてきた日本人についてですが、「海外」といってもどこからでしょうか。自分で調べてみると、満州・台湾・朝鮮半島だけでなく、華南・千島・南洋諸島(現グアム・ソロモン・ニューカレドニア島など)、ロシア本土・沖縄・東南アジア・オーストラリアなど本当にさまざまで、ポツダム宣言の「本土四島・およびこれに付属する小島(利尻・礼文・佐渡島・瀬戸内海島嶼群など)」を除いた地域にほぼ一致し、人数も統計データ作成者によってバラツキがあるものの700万人程度にもなります。なぜ、これほどの人数が引揚げを強いられたのでしょうか。

又、この前スーパーでインドネシア製の洗剤を見ていて思いました。

マルクス主義者たちはよく日本の東南アジア進出を「経済侵略」と主張していますが、日本側としては安い人件費・租税・工事費用の活用、東南アジアとしては雇用の創出・高付加価値製品の輸出という、双方思惑一致の上での進出であって「経済侵略」ではないと思いますが。

この洗剤の場合であれば、
日本・・・・・インドネシアの安い人件費・租税、現地で生産される石油・天然ガスや植物油脂の利用であり、
インドネシア・・・・・・原油・植物油脂、NaOHではなく界面活性剤という高付加価値製品(洗剤が「高付加価値」といえるかは不明ですが)の輸出、硫化物鉱石(インドネシアにも産出するがオーストラリアからの輸入もあるでしょう。)からCu・Pb・Zn・Snの精錬で副生する硫酸(スルフォン化に使用)の有効利用
と思えます。ただ具体的にどのような製造プロセスをたどるかは解説するとややこしくなるので省略しますが。
また、洗剤だけではないと思いますが、このインドネシアへの洗剤工場の進出で、現地労働者のみならず、洗剤を使う私たち日本人消費者も安い商品という恩恵を被っているはずです。

■回答

連合軍の命令です。ポツダム宣言の「本土四島・およびこれに付属する小島(利尻・礼文・佐渡島・瀬戸内海島嶼群など)」以外の地域に住んでいた人はすべて追放され、日本に送還されました。しかも僅かな現金と身の回り品以外の財産はすべて没収されました。

日本は賠償していないように言われますが、これらの資産はすべて賠償の原資となったのです。

経済侵略については貴方の言われるとおりだと思います。戦前も現在の中国への進出も同じです。 進出した人たちと現地人の給料格差が搾取と非難されたのです。

自由史観研究会理事 杉本幹夫


3.朝鮮の強制連行について

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朝鮮の強制連行について質問します。
民団が調査し発行した書籍でも、いわゆる「強制連行」は無かった、仮に あってもごく少数の例外で、戦後は日本が費用負担して返している、との 結論だったかと思います。

この手の話をしていたとき、以下のページを根拠に反論されました。 「公的文書に見る朝鮮人強制連行の実態」 http://www10.ocn.ne.jp/~war/kyousei.htm

強制連行以外にも色々まめに調べて反論しているようです。 http://www10.ocn.ne.jp/~war/top.htm

朝鮮人自身の調査でも出ていなかった、いわゆる「拉致」まがいの 連行が本当にあったのでしょうか?
それとも、この三菱鉱業直島精錬所(香川県)労務係石堂忠右衛門の 「第一次朝鮮人労務者募集誌」がカルトな記録なのでしょうか。

ご存じでしたら、回答いただけますようお願いします。

■回答

彼らは大変よく調査しています。
彼らはその内日本非難の物を強調しています。しかし彼らの調べた物の中に彼らの主張と逆な物も多数あります。

強制連行の問題では、その証言が何年度であるか気をつけて読む必要があります。
はっきりしている事は、昭和不況時には朝鮮人の内地渡航を厳しく制限していました。
1939年朝鮮で労働者募集が解禁された時は、応募者が殺到した事です。次第に需給状態が逆転し、官斡旋になり、徴用と変わったと言う事です。この徴用に変わる直前が一番問題となる時期です。徴用なら仕方がないが、徴用に近い説得は強制連行ではないかとの議論が出てきます。
小暮復命書もこの時期であり、官斡旋を徴用に変えるべきだと言っています。又小磯総督は出来るだけ説得し、それに応じて貰うよう努力したと言っています。

戦前の日本は法治国ではないように言われますが、きっちりした法治国です。
企業から脱走し、他の企業に移った場合どのような罪になるのでしょうか。考えられるのは金銭問題と治安維持法違反ではないでしょうか。治安維持法違反を疑われる人はそれなりの問題があったのではないでしょうか。

厳しく罰せられたという証言と共に日本の渡航に利用し、2,3日で脱走し、より良い条件の別の企業に就職したとの証言も多数あります。
又新しい住所でちゃんと食糧配給も受けていたとの証言もあります。

小暮泰用の復命書については、朝鮮総督府の高級官僚であった太子堂氏は、朝鮮への割り当てを減らすため、惨状を強調するよう依頼した面もあると、述べられています。

鎌田沢一郎は宇垣総督のブレーンだったジャーナリストです。しかし南総督とは合わなかったようですね。
強制連行問題、創氏改名問題のルーツがこの人にあるように思います。 しかし創氏改名の問題は全くの事実誤認ですね。

薜鎭永の話は全くの無知のなせる話です。創氏しても姓は変わらないのです。姓は残っているのです。その事に対する無知と言うか、PR不足としか言いようがないですね。
朝鮮語の使用についても、NHKの第2放送は朝鮮語で行われていた事をどのように考えるのですかね。この事を考えると強制連行の話も眉につばを付けて聞かなければならないように感じます。

尚強制連行について、忘れてはならないのは、炭坑その他多くの事業所で、終戦と共に、窓ガラスや机等をたたき壊し、給料も貰わず、さっさと朝鮮に帰った事実です。やはり月月火水木金金の厳しい労働と、食糧配給制度の崩壊があったと思います。日本人は親戚・知人等闇ルートがありましたが、朝鮮人は食糧配給の遅配・欠配がもろにきいたと思います。戦場に動員された人同様大変な苦労を強いた事実は忘れてはならないと思います。

彼らに対する補償は日本が個人補償を提案したのに対し、韓国は一括して国に補償するよう要求しました。そして日韓基本条約で一切精算されたのです。

自由史観研究会理事 杉本幹夫


4.朝鮮、韓国についての疑問

■投稿(1)

いつもお世話になっております。 御多忙とは思いますが、下記について御返事いただければ幸いです。

“朝鮮半島”、“朝鮮民族”と表現する人もいれば“韓半島”、“韓民族”と表現する人もいて、どちらの呼び方がいいのか迷うことがあり、ふと以下のような疑問が浮かびました。

Q1.明治初期に「征韓論争」が起こります。当時は、李氏朝鮮なのですから「征朝論」か「征鮮論」だと思うのですがナゼ「征韓論」?

Q2.日清戦争後、李朝は清朝から独立したとはいえ政体が変わっていないにも関わらず「朝鮮」から「大韓帝国」へと国号を変えたのはナゼか? 何故「韓」なのか? 「韓」はどこから来たのか、何に由来するのか?

Q3.大韓帝国を併合したのだから「韓国併合」でいいのだが、日清戦争勝利で、日本が朝鮮を独立させて国号も変わったのに、ナゼ併合後「朝鮮」と再び呼び名を戻したのか?

Q4.戦後、北が「朝鮮」を継続したのに対して、南が「大韓民国」を名乗ったのは何故か? ドイツもベトナムも同じ名称を冠していたのに。

Q5.李朝時代に作られた文字に「ハングル」があります。ある方によれば、ハングルと名付けたのは朝鮮総統府であり、北朝鮮ではその呼び方を嫌って「チョソングル」と言うそうな。「チョソン」とは「朝鮮」だから、「ハン」とは「韓」のことなのでしょう。日本は大韓帝国を併合して再び朝鮮と呼び名を戻しておきながら、チョソングルではなくハングルと名付けたことになるが、ナゼか? また、李朝時代にハングルと名付けたとすれば、それもおかしい。ナゼチョソングルではないのか?

古朝鮮・衛氏朝鮮などは、半島全土を覆う国ではなく北部だけのようです。また、古代の三韓(馬韓・辰韓・弁韓)は半島南部にあったようです。これらが何か関係するのでしょうか?

中国の戦国の七雄の一国に「韓」がありますが、それとは何か関係があるのでしょうか? 韓の亡命者が半島南部に移住して三韓を築いた可能性はあるだろうか?

李成桂がクーデターで「高麗」を乗っ取った後、宗主国「明」に対して、国号の継続を申し出るが断られ、「朝鮮」と「寧和」の二つを提示したところ、明から「朝鮮が由緒正しい」と言われたという。朝鮮が本来希望していた名ではなかったならば、日清戦争後の国号は大韓帝国ではなく、「高麗帝国」とすべきではなかったか?

古代の日本にとって、三韓は交流があったと思われますから、「韓」は馴染みがあります。故に、清朝からの宗属関係を断ち切って大韓帝国を名乗ったことは日本にとっても好ましいことですが、併合後、「朝鮮」に戻したことは、属国の地位に落としたかったということなのだろうか?

と、どうでもいいことかも知れませんが、朝鮮半島と呼ぶか、韓半島と呼ぶべきかで悩んでまして。 以上、失礼しました。

■回答(A)

始めまして。大場と言います。会報に拙論を掲載している者です。

 ご質問は、極めて当然の、だからこそ鋭い疑問点だと思われます。私の疑問点でもあります。現在判明したことだけを記します。

Q1.については、明治六年の西郷派韓(朝鮮)についての、帰国組と留守組との論争を言いますが、実は両者とも征韓・征朝も唱えていません。  それについては、会報『歴史と教育』92号に記載しています。つまり、『征韓論』とか《征韓論破裂》という言葉が生まれたのは、日清戦争終了後それも、朝鮮が大韓帝国を唱えてからだと思われます。(確証はなし)

Q2〜Q4については、不明

Q5.ハングルという言葉は戦後の言葉で、戦前は諺文(オンモン)と呼ばれたもので、戦前にはなかったのでは?  女の使用する卑しい諺文が男性社会でも使用されるのは、大韓帝国以降です。事大主義の朝鮮です。漢字を極端に嫌った時代があります。 その時「ハング(韓国)ル(文字)」とか「テ(大)ハングル」が生まれたかもしれません。(調査不足)

いずれにしろ、 戦後韓国の人は自国語を「ハングゴ(韓国語)」とか ハングック(韓国の)マル(文字)と呼んでいます。当然北朝鮮では「チョソン」朝鮮語と読んでいます。

 NHKハングル講座10号によれば、「『ハングル』というのは言語名ではなく、『ひらがな』や『カタカナ』などのような、文字の名称である」 と記しています。つまり、日本語と言えば漢字も含まれますから、韓国語・朝鮮語>ハングルで、=(イコール)ではないのです。

つまり、北朝鮮の人が自国の言葉をチョソンマルとよび、文字については「ハングル」と呼んでも全く問題ないようです(未確認)。 参考になったでしょうか?

自由史観研究会会員 大場敏夫

■回答(B)

面白いご指摘ですね。確かに「征韓論」の韓は不思議ですね。 このような事は考えたことも、調べたこともありません。何か分かりましたら教えてください。

私の感じでは江戸時代までは国名という物の認識が今ほどはっきりしていなかったのではないでしょうか。 日本を大和の国と言ったり、大和心のような表現もあります。韓と朝鮮もそのようなものだったのではないでしょうか。

ハングル文字と命名したのは朝鮮総督府とは思いません。ハングル文字の普及を叫んだのは福沢諭吉であり、キリスト教です。朝鮮総督府の前です。

公用文書に採用したのは、大韓帝国ですから、その時にハングル文字と公的に決まったのかもしれません。当時は独立と言うことを大いに祝いましたので、今までと違うと言うことで、国名も変えたのでしょうね。

朝鮮に戻したのは日本政府です。やはり気分一新でしょう。

戦後について北は古朝鮮への復帰であり、南は三韓時代への復帰との考えは面白いですね。正解のような感じがします。
古代文明の流れは、満州→北朝鮮、山東半島→中部(楽浪郡)、中支→済州島→百済 の三方向があると思います。 言語がモンゴル系であることから、主流は満州→北朝鮮と思いますが、済州島の独自な文化・遺跡の中から中支→済州島→百済の流れもあったようです。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(2)

皆様、私の愚問に御丁寧な御返事を下さり有り難うございました。 大変参考になりました。

なるべく、自分で調べてみようとは思うのですが、今後とも皆様のお力をお借りするかもしれません。 その時は、またよろしくお願いいたします。