|
■投稿(1)
自由主義史観の皆様、こんにちは。
ちょっと前に評判になりました、『米内光政と山本五十六は愚将だった』を読み、疑問に思うことが有りメールしました。
本来ならば、著者の三村文男氏に尋ねたいところなのですが、連絡先が見つからなかったもので…。
自己満足で書いておりますので、読み捨てていただいてかまいません。
従来の海軍善玉論に異議を唱える趣旨はよく理解できましたし、納得できるところも多いのですが、米内光政に関しては解せないことがあります。
例えば、「すでに米内海相は八月(昭和12年)の閣議で、上海に陸軍の派遣を要請した時、南京攻略まで主張していたのである。彼こそは事変拡大の張本人であった。」と有りますが、具体的な主張内容が記されていません。できれば書き示して欲しかったと思いました。
しかし、翌一月十五日の大本営政府連絡会議での発言は、「論争に終止符を打ったのは米内であった。彼は古賀の発言を途中で制し、つまり問答無用ということだ、政府は外務大臣を信頼している。統帥部が外務大臣を信用しないのは、政府不信任ということだ、政府は辞職する外ない、と放言した。(中略)米内の発言は「参謀本部がやめるか、内閣がやめるか、どちらかだ」とも伝えられている。」と、示されているので確かなのでしょう。
更には、第一次近衛声明を最も積極的に推進したのは米内であったとも書かれています。
おそらく、これらの内容は事実なのでしょう。
そこで、三村氏が徹底して批判している、阿川弘之著「米内光政」を読んでみたところ、p72に上記とは全く逆のことが書かれていました。長くなりますが引用します。
『対支政策につき』と題する手記 昭和8年7月24日付
「(謀略行為その他)武力を以て支那を叩きつくることを『強硬政策』ととなうるものの如く、また支那が言うことを聞かなければ頑強に何時までも苦い顔をなし、にらみつけてやることを『静観政策』と称するものの如く、そのいずれも拙劣な政策であることは恐らく議論の余地のないところであろう。支那を参らせるため叩きつけるということは、支那全土を征服して城下の盟をなさしめることならんも、恐らく不可能のことなるべし。支那のバイタル・ポイントは一体何処にあるのか。北京か南京か、将た広東ないしは漢口か長沙か重慶か成都か。斯く詮議して来ると、恐らくバイタル・ポイントの存在が怪しくなるらん。(中略)
日本は過去に於いて済南に、また近くは上海に於いて武力を発揮し支那の心胆を寒からしめ、戦をしては到底日本にかなわぬという感じを支那の少なくとも要路の人に植え付けた筈である。(中略)
斯の如く実力を有する日本は、何故に支那に対しもっと大きな心を以て大国たる襟度を以て臨み得ないのであるか。犬猫の喧嘩でも、子供の喧嘩でも、弱者は強者に対し一目も二目も置き、決して正面から頭を上げ得るものではない。(中略)
優者を以て自認する日本が劣弱なる支那に対して握手の手を差し延べたところで、それは何も日本のディグニティを損しプライドをきずつくるものぞ。何時までも怖い顔をしてにらみつけ、そして支那の方から接近し来ることを待つということは、如何にも大人げのない仕業であり、寧ろ識者の笑いを買うに過ぎぬものと言わねばなるまい。(下略)」
三村氏は、米内が対支強硬論を述べた理由として、エリート意識でもって支那を蔑視していたからだと結論付けていますが、この手記が本物ならば、その見方は誤りだろうと言うことになります。
昭和8年7月といえば、満州国が建国され、タンクー停戦協定が成立した頃ですが、その頃は支那と戦争をしても屈服させることは不可能だとしていながら、その4年後には正反対の考えに変わったことになります。これはどういうことなのでしょうか?
考えを変えるような何かがその間に起こったということなのでしょうか?
そこのところを今後調べてみようと思いました。
もし何か知っていることやお考えが有れば、お教えいただければ幸いです。
■回答(1)
こんにちは HPを見て下さってありがとうございます。
HPスタッフの渡辺と申します。
海軍の米内光政の対支政策に対して、下記のご質問ですね。
『昭和8年7月といえば、満州国が建国され、タンクー停戦協定が成立した頃ですが、
その頃は支那と戦争をしても屈服させることは不可能だとしていながら、その4年後に
は正反対の考えに変わったことになります。これはどういうことなのでしょうか?』
手元に資料がないので、一般的にしか答えられませんが、米内の対支政策についての基
本的な考えは、「昭和8年7月」とその「4年後」もその後の三国同盟に反対していて
いた時もさほど変わっていないように思います。
ただ、「4年後」の「八月(昭和12年)」の時は、突如、国民党軍の大軍が上海を囲
み少数の陸戦隊が必死に防御している状態であったと思います。このままだと、国民党
軍が上海を占領し、上海の日本人居留民が虐殺される可能性もあります。実際にもこの
1か月前には通州で日本人居留民が虐殺され、日本国内の世論が沸騰しました。上海に
は日本人居留民約3万人?もいたので、この時点ではなんとしてでも一刻も早い陸軍の
派兵を要請しなければなりませんでした。そういうせっぱつまった状況であったと思い
ます。その時に激しい言葉が出たのかもしれません。
おおざっぱで申しわけありませんが、今すぐは手元に資料がないのでこの程度しか答え
られません。
自由史観研究会会員 渡辺 龍二
■投稿(2)
渡辺龍二様、首件につき御返事を頂きまして有り難うございます。
もう少しだけ、お付き合い下さい。
第二次上海事変の後、駐中独大使トラウトマンによる和平工作が始まるのですが、三村文男氏の『米内光政と山本五十六は愚将だった』によりますと、
昭和12年
11.2 広田外相は、駐日独大使ディルクセンに日本側の和平条件(北支と上海の非武装化等)を提示。
12.2 蒋、トラウトマンと会見。北支の宗主権、領土の保全権、行政権を変更しないことを条件に日本側条件の受諾意思表明。
12.3 第十軍、南京へ進撃開始
12.5 上海派遣軍進撃開始
12.7 蒋介石、南京を離れる
12.13 南京陥落
12.21 閣議で新和平条件決定。前条件に加え、満州国承認、北支に日満支三国の新機関を設置し、内蒙古に防共自治政府を樹立。中支に非武装地帯を設置等。資源開発、関税交易の新協定締結。賠償支払いを追加。
昭和13年
01.13 第一次近衛声明
という流れになっています。
かいつまんで述べますと、日本側は、
「当初の目的である、上海居留民の保護を達成しながら、圧倒的な軍事的優位に立った交渉中に、相手が受諾の意志を表明しているにもかかわらず、首都を陥落させて面目を失墜させた上で、加重条件を提示し、相手が渋ると一方的に交渉中止し、もはや相手にせず新しい政府を作ると宣言し、更に抹殺するとまで言ってしまった。これで、その後どのような交渉ができるというのか?」
という言い分なのです。
前回の米内光政の強硬な発言は、南京陥落後の閣議でのことでですので、日本にとって危機的な状況からは脱していると思われます。
しかも、参謀本部の中には和平派も少なからずいたようです。
それなのに米内は、ナゼ昭和8年の手記の様な心情にならなかったのだろうか?という疑問を持ったわけです。
以下に、三村氏の著書から、閣議の場面の抜粋を示します。
(抜粋)
参謀本部第一部第二課では、条件加重の閣議決定を取り消すべしと決議。堀場一雄少佐は「支那側に念をおした上での本措置は、国家の信義を破るとともに、日本は結局口実をもうけて戦争を継続し侵略すると解釈するのほかはない。これは道義に反する」。この決議は陸軍省にも伝えられ、次官梅津美治郎中将も共鳴し、杉山陸相に閣議決定を取り消すよう進言したが一蹴され、決定内容はそのままディルクセン大使に伝えられることになったといわれる。(中略)
開戦以来最大の苦境に立つ蒋に対し「ドブに落ちた犬を叩け」という中国のことわざをそのままに、さきに和平の意志を表明した相手の顔に泥をぬったのは、日本政府であり、参謀本部の和平派をのぞく軍部であった。(中略)
翌一月十六日午前、広田外相は独大使ディルクセンをよび、交渉中止をつたえ、仲介の労を謝した。大使は、決定を早まって、交渉決裂の責任が日本にあるような印象を、対外的に示すのは不利ではないか、と忠告したが、広田は耳をかさなかった。この日の政府声明が、すでに決定していたからである。声明の「帝国政府ハ、爾今国民政府ヲ対手トセズ。帝国ト真二提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ更生新支那ノ建設二協カセントス」という茎言は、これだけで蒋政権を侮辱するに足るものであるが、政府は十八日、それを補足する声明を出して、「爾後国民政府ヲ対手トセズト云フノハ、同政府ノ否認ヨリモ強イモノデアル」「之(国民政府)ヲ抹殺セントスルモノデアル」とまでいい切ってしまったのだ。
この件について、ある掲示板で議論になったのですが、一つ問題が発生しました。
12月2日、蒋とトラウトマンが会見し日本側条件の受諾意思表明、と前述しましたが、中村粲著『大東亜戦争への道』にはその部分が無く、或る方が問い合わせた結果、中村氏は『汪精衛自叙伝(安藤徳器編訳)』に蒋介石が和平案に応じた下りが無いことを根拠に「何かの間違いだろう」と言われたそうです。
長くなりましたが、米内の心境の変化?も重要なのですが、トラウトマン工作の過程で、12月2日に蒋介石が、日本側和平案を承諾したのか?していないのか?の方が大きな問題だと思いました。これが有るのと無いのとではその後の見方が随分異なりますから。
是非、この日の事実関係について教えていただきたく。
多くの著書には12月2日の下りが出ているのですが、
もし、承諾していないのであれば、堀場一雄少佐が「支那側に念を押した上での…」という発言は何を指しているのでしょうか?
もし、承諾しているのならば、どのような資料で確認が出来るのでしょうか?
大変お手数とは思いますが、お力を拝借いたしたくお願いします。
■回答(2)
いろいろと研究されていてすごいですね。
これまでの、ご質問を整理しますね。海軍の米内大臣の対支政策に対してですね。
@米内が上海に派兵を要請したこと
<例えば、「すでに米内海相は八月(昭和12年)の閣議で、上海に陸軍の派遣を要請
した時、南京攻略まで主張していたのである。彼こそは事変拡大の張本人であった。」>
これに対しては前回、下記のように書きました。
『ただ、「4年後」の「八月(昭和12年)」の時は、突如、国民党軍の大軍が上海を
囲
み少数の陸戦隊が必死に防御している状態であったと思います。このままだと、国民党
軍が上海を占領し、上海の日本人居留民が虐殺される可能性もあります。実際にもこの
1か月前には通州で日本人居留民が虐殺され、日本国内の世論が沸騰しました。上海に
は日本人居留民約3万人?もいたので、この時点ではなんとしてでも一刻も早い陸軍の
派兵を要請しなければなりませんでした。そういうせっぱつまった状況であったと思い
ます。その時に激しい言葉が出たのかもしれません。』
A米内がトラウトマン工作の打ち切りに賛成したこと
米内は、陸軍(たぶん米内の視点では)が新たに過酷な条件を出してきたり、交渉中に
北京に傀儡政府をつったりして、こんなことでは絶対にまとまらないと見切っていたの
ではないかと思います。
近衛首相に対しては、評価していないけれども、陸軍に対しては内閣を守らなければな
らないとと考えていたと思います。
また、陸軍そのものに対しては、陸軍内の和平派や強硬派という視点ではなく、自分も
海相として海軍を代表しているように陸軍も一体として見ていて、それで陸軍内の統制
はとれていないと、批判的に見ていたと思います。
B新しく出された問題ですが、
『トラウトマン工作の過程で、12月2日に蒋介石が、日本側和平案を承諾したのか?し
ていないのか?』
これはどちらかというと、ある一つの時点での蒋介石の内心の意図を推測するような問
題だと思います。極端に言うと、承諾したかどうかは調印して始めて外形的に認められ
るものだと思います。
政策面では、米内をはじめ当時の陸海軍や政府にもいろいろ間違いはあったと思います
。本などを確認したり調べて書いてないので、(一般的な記憶で書いているので)、こ
の程度しか答えられません。 もし、ご返信、ご質問やご意見等ございましたら、staff@
jiyuu-shikan.org宛でお願いします。
自由史観研究会会員 渡辺 龍二 |