1.日本の朝鮮統治について

■投稿(1)

英文での論攷は下書きの段階ですが、こつこつと進めています。

先日イザベラの原書を図書館でみつけ、面白い記述が沢山ありました。日本の右翼でもあそこまでははっきり書けないな、というような記述もあります。当時としてはむしろ中立的な視点だったのでしょう。李朝鮮末期の堕落ぶりを知らなければ韓国人にとっては併合ということが飲み込めないのではないか、と感じました。

ところで、先日31運動について有罪となったもの、37人となっていますが、これは信者についてでしょうか?http://toron.pepper.jp/jp/20cf/nation/31file2.htmlで、先生の御著書を引用しているものと異なるので疑問に思いました。 それと、3,1運動の影響を受けて日本の統治のあり方が変わった点などありましたら、ご教示頂ければ幸いです。

■回答(1)

この方はよく調べられていますね。

私の調べでは、控訴審で有罪となった人は37人であり、このサイトでも37人としています。
その上で4月3日、水原郡雨汀面(村)の花樹里警察官駐在所事件(堤岩里事件)での有罪者27人としています。 私はそこまで調べていませんでした。

3,1運動の責任を問われ、総督、政務総監は更迭され、斎藤実、水野錬太郎のコンビになりました。 斎藤実は朝鮮人、キリスト教(アメリカ人宣教師)との和解に全力を注ぎました。
そこで、それまでの政治を武断政治、斎藤の政治を文化政治と呼ばれます。

3.1独立運動の言わば参謀長の崔麟を3年の刑の途中で、恩赦で釈放し、アイルランドの独立運動の状況を視察に行かせ、親日派に転向させました。又、斎藤総督は前後2回、地方自治制度を改善し、朝鮮人による地方自治を推進しました。  
言論の自由、結社の自由もこの過程でかなり緩和されたのではないでしょうか(未確認)。

カーター・エッカートの「日本帝国の申し子」でも、殖産銀行と朝鮮人が、一体となり、朝鮮の経済発展に努力したことが述べられていますが、これも斎藤総督以降のように思います。

アメリカ人宣教師との和解では、アメリカ人宣教師の勧告に応じ笞刑を廃止しています。私は、笞刑はお金がかからず、被告にとっても長期間拘束されるより、良いのではないのかと思いますが。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(2)

ありがとうございます。ネットで探してみると西洋人が書いた英文でも経済面では日本の従来通りの主張通りのことが書かれています。今度は、また、時間があるときにでもWealth and Poverty of Nations by David S. Landesを図書館で調べて、日本について書かれた部分を抜粋してこようと思っています。

それにしてもネット上でのwikiなどの百科事典で、歴史の歪曲にびっくりさせられます。韓国の方が自国で自己満足的な歴史観にひたっているのはいいにせよ、世界に向けてかなり偏向した情報を発信するのはいただけません。歴史に様々な見方があるにせよ、もう少し客観的な事実に基づくものを当方も発信していきたいと思っています。自己満足しているコリアの方には多少可愛そうな気もしますが、しかたありませんね。

■回答(2)

頑張って下さい。出来るだけ支援したいと思います。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(3)

いつもありがとうございます。また質問があります。

1) 31独立運動の主導者たちが後に親日派に転向したということを今月の「諸君」で読み、また、どこかで独立宣言文の起草者も親日派に転向したとありますが、具体的な名前がわかりますでしょうか? (宣言文の原文と英文)http://www.kimsoft.com/2004/samil-declaration.htm)

2)慰安婦問題についてうかがいます。秦先生の著書などを読んでいますが、いまいちはっきりしないところがあるのでご教示いただければ幸いです。
日本軍の関与について、
あ)軍人が売春宿を利用した。
い)日本軍が性病検査など健康管理をした。
う)日本軍が売春婦などの非合法的な募集について規制した。

ここまではよろしいでしょうか?で、
え)日本軍が売春婦などを戦地へ運搬した。
お)日本軍が売春宿を設置した。

これはどうでしょうか?そして、
か)日本軍が売春宿を経営した。

これはどうでしょうか?

■回答(3)

1)3・1独立運動の主導者たちで親日派に転向した代表者が、前回指摘した崔麟です。天道教のNo.2です。天道教は一進会の流れを汲んでいます。一進会は全力で併合の努力をしたが、併合と共に涙金で解散させられました。その恨みからキリスト教と共に3・1独立運動の中心になりました。教祖の孫秉煕はかなりの年配ですから、実質的には崔麟が仕切っていたように思います。
独立宣言文の起草者で親日派に転向したのは李光洙です。親日派の代表的な論客になりました。懲役2年半の有罪判決を受けています。

2)慰安婦問題
<日本軍の関与について、
あ)軍人が売春宿を利用した。
い)日本軍が性病検査など健康管理をした。
う)日本軍が売春婦などの非合法的な募集について規制した。
ここまではよろしいでしょうか?>

その通りと思います。

< え)日本軍が売春婦などを戦地へ運搬した。
お)日本軍が売春宿を設置した。
これはどうでしょうか?そして、
か)日本軍が売春宿を経営した。>

前線の近くではすべて日本軍の協力がなければ、不可能だったと思います。 場所によっては建物を造り、業者を誘致したといった所があっても不思議はないですね。

しかしあくまで経営者は業者であり、費用は業者持ちだったはずです。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫


2.朝鮮の抵抗運動について教えてください

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いつもお世話になっております。植民地下の朝鮮の抵抗運動に関しては3,1運動が有名ですが、それ以降顕著な抵抗運動が朝鮮内部においてあったのでしょうか。

また、海外に逃亡した独立運動家たちの活動はどのように評価されているのでしょうか。ご教示頂ければ幸いです。

■回答

1996年版韓国の高校歴史教科書の日本語訳2003年発行では、1926年純宗大葬時に起きた6.10万歳運動と、1929年光州で起きた日本人学生と朝鮮人学生の喧嘩に端を発した、全国的な同盟休校事件を取り上げています。同盟休校は1930年107件、31年102件に達したとのことです。

ただ当時内地でも、同盟休校は流行のようなものがあり、私の母校である高岡中学でもありました。

独立運動は共産主義運動とも連携していますので、治安維持法で厳しく取り調べられました。

内地では関東大震災時の朝鮮人虐殺事件、1932年桜田門における天皇陛下狙撃事件、内地ではありませんが、同年の上海における戦勝祝賀会で爆弾が投げ込まれ、白川軍司令官、重光公使らが重傷を負った事件等が有名です。しかし日本の統治下ではほぼ完全に押さえ込まれたと思います。押さえ込んだと言うより、斎藤、宇垣、南総督の善政、親日派論客の活躍により、日本人との一体化に成功したと思います。

海外では満州との境界近くの間島地区では満州国建国までゲリラ闘争が続きました。この英雄が金日成です。但しこの金日成と、北朝鮮の金日成主席は別人説が有力です。

シナ事変が始まると韓国光復軍を組織し、対日宣戦布告をしたと言われています。この韓国光復軍の対日宣戦布告を根拠に韓国は戦勝国だと主張し、サンフランシスコ講和会議に出席を要求しましたが、イギリスに拒否されました。イギリスの主張は韓国光復軍の存在を認めず、日本の一部として戦った敵だったと言うことです。しかし韓国は未だに戦勝国だったと主張しています。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫


3.忘れ去られた真の保守思想

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スタッフの皆様、こんにちは。 会員の坂本です。

昨今のわが国において、保守思想の定義付けとしては、残念ながら 「旧体質の古臭い制度」あるいは「悪しき慣習」「既得権の保全」といった 「負の定義」で捉えられることが多いように思われます。

だからこそライブドアの堀江被告やそれを持ち上げた小泉自民党 といった、改革の名の下に不合理なものは破壊するという暴挙に対し、 それが結果として何をもたらすのかを思考することもなく、ただその時の ムードに流されるままにそれを支持した国民が多かったのではないでしょうか。

進歩主義から生まれでたアメリカン・デモクラシーという戦後の観念枠組みから 脱出できない小泉首相に「万世一系」の何たるかは理解できないでしょうし、 また理解しようともしないでしょう。私達はそのことに早く気がつかなくては なりません。

ライブドアの粉飾決算疑惑に大騒ぎするマスコミや国民はまさしく「木を見て 森を見ず」のたとえのように思われます。問題とする争点は別の所にあること に気がついていないのではないでしょうか。つまり焦点がずれているのです。 議論せねばならないことは、堀江被告のような市場原理主義、拝金主義者を 支持したマスコミや国民の道徳観、倫理観の欠落という社会風潮です。

信義に生きることが愚かであるがごとくの風潮、非合理的なものは罪悪とする 思考回路はいったいどこから生まれ、そしていつから根付いてしまったのでしょうか。 本来、人間の価値序列としてお金や保身といったものよりも上位に位置すべき 価値観とはいったい何なのでしょうか。「金で買えないものなどない」などと平然 と嘘ぶく者も問題だがその愚かで貧しい考え方に同調する若者が多数いること の方がもっと深刻な問題ではないかと思います。

また常に政治的、軍事的に圧力をかけてくるような隣国に対し軍事転用の可能な 工業製品、工業部品を不正輸出するなどの利敵行為ともいえる真似をしてまで 金儲けしようとする企業が跋扈するなども利己主義、欲望主義の蔓延からくる風潮 なのではないでしょうか。

法に準拠してさえいれば何をしても良い、あるいは法に準拠していなくとも発覚 しなければ構わない自分達さえ儲かればいいという考えは、個人主義的思考 であり権利思想の拡張解釈という毒素にどっぷりと浸り、骨の髄までその毒に 侵されているのです。

これらの誤った考え方を矯正できるとしたら、唯一幼年時からの教育しかないの ではないでしょうか。私は教育者ではありませんが教育とは、たとえたら植林作業 に近い、長い時間的経緯を伴う目的観のように思われます。 GHQ押し付けの現行憲法とそれとセットの教育基本法を早急に改正し「公」と「私」 の仕分けがきちんとできる人物を一刻も早く育てることが重要ではないでしょうか。

「歴史と教育」1月号の歴代天皇の「御製」を授業に取り入れるというアイデアは すばらしいと思います。また明治天皇により公布された「教育勅語」。天照大神の お心が込められた「三種神器」にまつわる教え。正しい民主主義の在りかたなどに ついて教えた「五箇条御誓文」なども清らかな心を育む良い教材だと思います。

特に明治天皇が子供達が将来、法や世の決まりを守り世のため人のためになる 仕事に励むようにとの思いから公布した教育勅語などは道徳の時間に組み入れ、 親兄弟の大切さや国を思う心を育むことも一考されて良いのではないかと考えます。 教育勅語は私も読んでみたことがありますが、現代においてもまた世界的見地 から見ても十分に通用するすばらしい教えだと思います。戦後GHQ指導により廃止 となったことは惜しまれますが、第二次大戦後のドイツ首相アデナウアーは敗戦後の 祖国が正しく栄えるようにと、日本の教育勅語を焼き直したものを国民に広めようとして 教育にも取り入れたそうですね。

話が本題からだいぶそれてしまいましたが、保守思想とは何を守るのか。それは 言わずもがな国体である。「国家の衰退は内から始まる」とよく言われますが 揺るぎない国家の「自主独立の体面」を第一義と考え すべての国民が日々努力してこそ国は繁栄するのではないでしょうか。

長い歴史の中において形成され、そして長きにわたり国民から依拠され続けてきた 慣習や伝統の知恵を不完全と認めつつも良いところは保持していこうとする姿勢や それを思考することを保守思想だと定義せねばならないと思います。仮にその考え方が 国の繁栄速度をおそろしくスローなものにする要因になるとしてもまったく気にする必要 はないと思います。太くたくましい骨格を持った国家は急激な変革によって形成される ものではありません。成長の早い樹木はその年輪の間隔も広くそして折れやすいものです。 国もそれと同じではないでしょうか。

道徳的な文章になってしまい申し訳ありません。大変失礼致しました。

自由主義史観研究会会員  坂本秀典

■回答

教育勅語、五箇条の御誓文に加え、17条の憲法等は絶対教えるべき項目だと思っています。 今日の台湾・韓国の発展は教育の基礎に教育勅語があったからだと思っています。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫


4.靖国参拝反対のプログ

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いつもありがとうございます。

http://kushibo.blogspot.com/2006/03/insensitive.html

靖国参拝反対の韓国系アメリカ人のブログです。彼によれば。731部隊や、南京事件、あるいは死の行進の日本兵たちも祭られておりアメリカに対してつばを吐いているようなものだ、と強く罵っています。原則として戦場で戦死した兵隊さんが祭られているわけではないのでしょうか?生存して帰還しておじいさんになって死んでも靖国でまつられるのでしょうか?

■回答

随分誤解と偏見に満ちた論文ですね。

靖国神社は当初国の管理の下にありましだが、戦後はアメリカの命令、新憲法の政治と宗教の分離により、国の管理から外れました。

しかしその祭神は厚生省の引揚援助局から送られてきた名簿に従っています。
祭神は戦死者が原則ですが、講和条約の発効後、戦犯として処刑された人や、拘留中に病死した人も公務死として、遺族年金を支給し、靖国神社に祀ることにしました。
この時点で国内的には戦犯と呼ばれる人はいなくなったのです。尚生還した人は靖国神社に合祀されません。

それはBC級裁判は余りにもお粗末な復讐裁判だったからです。バターン半島死の行進は、飢餓と悪病(マラリア・赤痢等)によるものです。米軍基地はコレヒドール要塞攻撃の最前線にあり、早急に移動させる必要がありました。日本軍が持っているトラックはたかがしれており、徒歩・空身で一日10数キロ歩かせたところバタバタ倒れたのです。

又南京虐殺事件は存在すら疑われています。あの事件を国際的にPRした外国人記者は、中国政府に雇われた宣伝要員であったことが判明しています。

サンフランシスコ講和条約11条では、日本国の要請により、戦犯の裁判に関係した国の同意があれば、釈放・赦免される事になっています。日本は4回も国会で赦免要求決議を行い、関係各国の同意を受け、拘留された人をすべて釈放されました。この事により、A級裁判で3年の刑となった重光葵は外務大臣になっても、無期刑に処せられた賀屋興宜が法務大臣になってもどの国からも苦情が出ませんでした。

靖国問題が出てきたのは昭和60年以降です。中国の国内問題によるものです。

すべての戦後処理はサンフランシスコ条約で終わっています。戦後60年もたっています。今こそ再びあの悲惨な歴史を繰り返さないために真実の歴史を追究すべきでは無いでしょうか。勝者の歴史認識を強制するだけでは、あの悲劇の再発は防げないでしょう。

あの戦争でアメリカは戦争目的を達成できたでしょうか。あれだけ欲した中国との貿易を拡大できたのでしょうか。逆に追放されただけではなかったでしょうか。これは現状認識を間違っていたからです。共産主義のプロパガンダにより汚染されていたからです。その事は戦後のマッカーシー旋風により明らかになっています。

中国は異民族の追放に成功しました。しかし国民は幸せになったでしょうか。逆に不幸になったのではないでしょうか。これは共産主義の理論が間違っていたからでしょう。

諸悪の根源は中国共産党だったのです。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫


5. 昭和初期に見る陸軍史

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1941年4月の「日ソ中立条約」と「日ソ不可侵条約」とはどちらが正しい名称なのですか?

杉本様はホームページ上で、「日ソ不可侵条約」と書いておられますしそのように記述している 文献も多いのですが、ある資料に当初日本は不可侵条約を強く望んだが、ソ連側は「日露戦争で 失った地域(南樺太、千島列島)の返還をともなわない不可侵条約は締結できない」と主張し、結果的 に不可侵条約より効力の弱い中立条約に変更となった。との記載もあります。ご存知でしたら教えて 頂きたいのですが。 宜しくお願い致します。

■回答

「日ソ不可侵条約」については、少年時代よりそのように聞き、呼んでいましたが、中央公論社の日本の歴史別巻の年表やインターネット等を見ても、「日ソ中立条約」が正式の名称のようですね。
インターネットでは相互不可侵と相互中立を決めたことになっています。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

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杉本様、「日ソ中立条約」は名目上では中立条約となっていますが 確かに杉本様がおっしゃるように、第一条に「両国の領土の保全 および不可侵を尊重する」との条文が織り込まれていますね。 ということは後にソ連はますます最悪の二国間条約の侵犯をした という事になりますね。

わが国の昭和の陸軍史を紐解くと一番興味深いのは、 やはりなんと言っても満州事変前後から始まり2・26事件を 経て対米英戦に至るまでの動乱の時期ではないかと思います。

研究会の皆様の中にもわが国の戦史上、最も参謀本部の国防方針 や軍政部の政戦略が南進か北進かで大きく揺れ動いた時代に関心を 持ち、各々研究されているかたがいらっしゃるのではないでしょうか。

昭和3年6月、河本大作大佐の首謀とされる張作霖爆殺事件 (歴史と教育2月号のこの事件の実態は、ソ連情報局あるいは コミンテルンによる陰謀ではなかったかとの衝撃的記事には驚き ました。続報に期待します)によって俗に言う15年戦争の導火線 に火がつけられました。

明治後期以降、戦略的攻勢主義を貫いてきたわが国も次第に政略的 攻勢主義への転化が迫られました。しかし依然としてこの当時のわが国 には国家戦略という考え方はありませんでした(昭和十年石原莞爾が 作戦課長の時、初めてこの欠陥に気付いたそうですが)。

話を戻しますが、人によってはこのような、一軍人による独断専行を表向き には遺憾としながらも暗黙には了解とする軍中央の風潮こそが、 大東亜戦争への坂を転がり落ちる元凶であったといいます。 しかし、歴史の成り行きとは単なる政治家や軍人個々の考えによって左右 されるには余りにも重いものではないかと思います。

わが国は米英との戦争を回避できなかったか。その結論は 永遠に出せないのではないかと思います。 個々の様々な事件は、ある人にとっては原因であり、またある人に とっては結果であるように、人それぞれ千差万別の思いがあるでしょう。 私個人としては、日露戦争後の日本の台頭を危惧したアメリカが 周到に仕組んだオレンジ計画という罠に、外交感覚のない不器用で 一本気で生真面目な日本人がまんまとはまり、そして潰された。 という見地からやはり開戦は避けられなかったのではないかと・・・。 東京裁判でわが国を裁いたアメリカのほうこそが、共同謀議を企てたのです から。

その時代に身を置く事の出来ない我々にできることは、その遠因 近因を探り、それらの出来事をできるだけ正確につなぎ合わせ、 事実との誤差を縮めていく事だけではないかと思うのですが。 そして重要なことは、その検証をしていく作業がいかに大事であるか を知ることではないでしょうか。

第二の冷戦時代とも言うべき現在において、わが国に再び国難の火の粉 が降りかかり、民族存亡の危機が訪れる事態など万が一にもない などとは決して言い切れません。 歴史の「もしも」とは過去のみならず、未来に向けての「もしも」で なければならないのではないかと思います。

本題に触れず前置きだけが長くなってしまいましたが、2・26事件の原因 ともなった、「皇道派と統制派」の対立を単なる陸軍中央の権力欲だけの 派閥抗争と見るのか、あるいは対ソ戦に関する国家防衛の真剣な政戦略観 の相違による対立であったかと見るのとでは、その後の米英との開戦の 渦に飲み込まれていった過程がまったく違う見方になってしまいますね。

私は、歴史の過去に自分を置いて勝手なシュミレートをしてみるのが 好きなのですが、ここで皆様にお聞きしたい事とは例えば荒木陸相や 真崎参謀次長が放逐されず、対中派の永田鉄山ではなく、反共主義者の 小畑敏四郎が軍務局長になっていたとしたならその後の展開はどうなって いたのだろうか。結果は、やはりソ連と支那との二正面衝突となり更に悲惨な 結末となっていたのでしょうか。といった事です。 研究会の皆様はどのような想いを持っておられるのでしょうか。

漠然とした質問で恐縮なのですが(というより、読み返してみたらまったく 質問になっていませんが)研究会の皆様がこの昭和が大きく揺れ動いた 時代について、感じておられるご意見ご感想など、何に関してでも構いま せんので色々と聞かせて頂けたらと思っております。

宜しくお願い致します。 失礼いたしました。

■回答

返事が遅くなりました。まだ私はそこまで勉強が達していません。

北進か南進かを決めたときの軍務局長は武藤章です。彼の後ろにはゾルゲ事件の尾崎秀実がいました。 国体の問題以外は2.26事件の青年将校と共産党の主張は瓜二つです。そこを尾崎に突かれました。

派閥問題で感じるのは軍部大臣、現役制の問題です。宇垣につながる系統は干されました。宇垣は外務大臣として、孔祥煕との交渉で妥結一歩手前まで行きましたが、尾崎、武藤ラインに破れ辞任に追い込まれました。

石原完爾を高く評価する人も多いのですが、私はスクイズのサインを無視し、ホームランを打った人をどのように扱うべきかの問題があるように思います。 抜け駆けの巧妙を許したことが、日本の敗戦の一因だったように思います。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫