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■投稿(1)
お忙しい中、失礼致します。
創氏改名に関して、
<満州に入植した朝鮮人が、満州人に差別されるので、日本名を名乗る事を要望した事が始まり>
という指摘がありますが、これの出典をご存知でしょうか?
確か、先生のサイトで、朝鮮に関するQ&Aのページがどこかにあった気がするのですが・・・・まだ残っているならばURLを教えて頂けないでしょうか?
■回答(1)
これは麻生外務大臣が数年前、東大の5月祭の講演会で話した事です。
彼が何処でこの事を知ったかは知りません。
しかし常識として、満州に渡った朝鮮人、内地に来た朝鮮人は殆ど通称として日本名を名乗っていました。
それは朝鮮名を名乗るのと日本名を名乗るのとでは、相手の扱いが全然違うからです。即ち満州に渡った朝鮮人、内地に来た朝鮮人の殆どが、正式な名前を日本式の名前にしたいと思っていたと思います。
麻生さんのこの言葉が正しいか否かは知りません。というより内地に来た人の希望が先か、満州に渡った人の希望が先か、誰にも分からないと思います。
自由史観研究会理事 杉本 幹夫
■投稿(2)
以前、反日韓国撃退用ファイルを作成していると申し上げた者です。
中々、発注した資料が届かなかった為、(手違いで自宅に届きませんでした)先に「日本の朝鮮統治2」を作成いたしました。
個性的な作りになっておりますが、著しい間違いがないかどうかだけ、軽く目を通して頂ければ幸いです。
ファイルサイズが大きくて添付できなかった為、添付せず、ここから落とせるようにしました。
■回答(2)
創氏改名について
1939年発令となっていますが、施行されたのは1940年(皇紀2600年)の紀元節です。
日本における氏と姓の違いについては知りません。
朝鮮における創氏改名のいきさつは私の見解とは異なります。
朝鮮では同姓男女の結婚禁止が民事令で決められていました。この規定を残したことから、ややこしくなりました。
好きな人が出来たが、同じ姓で結婚できない。では姓を変えよう。
このようなことが認められれば、同姓男女の結婚禁止の規定は意味がなくなります。
だから姓は一生変えることが出来ません。
だから日本式の名前への変更を認めるために、すべての人に姓名と氏名の2つの名前を持つこと強制したのです。
6ヶ月以内に氏を決め、届け出ることになりました。届出がない人は戸主の姓を以て氏とする事になりました。
朝鮮は夫婦別姓ですから、奥さんの姓は必ず主人の姓と異なります。一方、氏は家族単位ですから、奥さんの氏は戸主の氏と同じになります。
姓名は結婚の合法性のチェックのために戸籍に残り、常時使うのは氏名となったのです。
金〇〇の奥さんはそれまで朴〇〇と呼ばれていたのが、金〇〇さんと呼ばれるようになりました。
しかしこの奥さんの姓は朴さんで変わらず、氏が金さんになったのです。
姓が変えられたことは全くありません。
第2項以下のことは勉強不足で私は知りません。貴重な情報有り難うございました。
自由史観研究会理事 杉本 幹夫
■投稿(3)
<1939年発令となっていますが、施行されたのは1940年(皇紀2600年)の紀元節です。>
訂正させて頂きました。
<日本の氏と姓の違いについては知りません。。
徳川家康の場合
「姓」(氏族名)=「源氏」
「氏」(住居地)=「松平」「徳川」
になります。
「徳川」は、元は「得川(えがわ)」であり、祖先が群馬県新田郡世良田村“得川庄”に住んでいた為だそうです。
「松平」は、三河東加茂郡“松平”郷に移住した為です。
なお、「姓」が「源氏」だというのは、征夷大将軍の位を貰う為の捏造です。
しかも、南北朝時代の南朝の英雄である「新田家(源氏の嫡流)」の子孫という事にした為、
当時、大日本史を編纂させていた徳川光圀は、禁裏への対抗心から「南朝正統論」なんてものを唱えております。
豊臣秀吉の場合
「姓」(氏族名)=「平氏」「藤原」「豊臣」
「氏」(住居地・他)=「木下」「羽柴」
になります。
「平氏」は、信長の姓が「平氏」であった為、それを真似た為です。
お陰で、彼は征夷大将軍になる事ができず、代わりに関白の位をもらう為に「藤原」に養子縁組し、最後は「豊臣」という新姓を天皇から貰っています。
「氏」の方は、元々無かった為、「木下」(嫁の浅野家の旧氏を貰ったが有力)「羽柴」(柴田と丹羽を合体させたもの)と好きに付けております。
まあ、この辺りは先生らもご承知だと思いますが・・・・。
創氏改名の部分、先生のご指摘に従い、補強させて頂きました。
■回答(3)
氏を創ることは許可ではありません。強制です。
創氏しなかったと言われる人たちは、戸主の姓を氏としたのです。
例えば洪思翊は姓も氏も洪ですが、洪思翊の奥さんは姓は金(仮 正確な姓は知らない)のままですが、氏は洪になったのです。
自由史観研究会理事 杉本 幹夫
■投稿(4)
<氏を創ることは許可ではありません。強制です。>
“強制”という言葉には「暴力が伴う」「逆らえば罰則を受ける」というイメージが漂う為、“許可”で通そうと思ったんですが・・・・
全ての朝鮮人に“氏”を名乗るように命じたのであれば、確かに、“許可”の表現はおかしいですよね。
う〜ん、でも“強制”という表現は誤解を招きそうな気がする為、「義務付け」という表現に変えてみました。
ちなみに日本でも、「姓」は結婚しても変化しませんね。
北条政子は、源頼朝と結婚しても、姓は“平”のままでした。
頼朝は「氏」を持っていなかったので、政子は「氏」も“北条”のままですね。
(結婚すると女性の「氏(居住地)」が変わるのは、実家から夫の「氏(居住地)」とへ変わる為であって、女性蔑視とかは全く関係ないですよね)
■回答(4)
確かに強制と書くのは抵抗がありますね。「義務付け」というのも抵抗があります。
やはり制度の変更というのが一番良いかと思います。届を出さなかった人は自動的に戸主の姓が氏になったのですから。
ポイントは、その時、姓を失ったのではなく、姓と氏という二つの名字を持つようになったのです。
日本の姓と氏について、我々平民階級は姓を持っていません。氏が居住地という説にも賛成しかねます。
私の出身地の近くには、米、塩、味噌、魚、豆腐と言った珍姓の多い所があります。
町の坊主が、姓か氏か知りませんが、明治の始めに届出を出すとき、相談を受けて、おまえは米屋だから米にしようとか、じゃおまえは味噌にしようと言って決めたとの話です。真偽の程は知りませんが。
自由史観研究会理事 杉本 幹夫
■投稿(5)
お忙しい中、いつもお世話になっております。
気になった為、前回話題になった日本の「姓」と「氏」について、少し調査して参りました。
その過程で、意外な事が分かった為、参考までにお知らせ致します。
参考資料は、法学者・牧英正先生らの編集による「日本法制史」(青林書院)と、山本博文先生の著書を幾ばくか。その他、雑学書も少し。
牧英正先生は「道頓堀裁判」(安井道頓の子孫が、道頓堀の所有権を主張して起こした裁判)で有名な方です。
山本博文先生は、以下のような本を書かれている方です。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8ER%96%7B%94%8E%95%B6/list.html
まず、初期(古代)の「姓」と「氏」の違いですが、以下のようになります。
【 氏 】朝廷によって“編成された集団(豪族)”に与えられた名。
*当時の豪族は「血縁集団」ではなく、「同郷集団」「同職集団」という特徴がありました。そして、その傘下の民にも、氏は許されていした。
【 姓 】朝廷によって、氏の名と共に与えられた階級名。
しかし、大化の改新によって、この制度が崩壊致しますと、“賎民を除く、全ての民に「姓」が許される”ようになります。
その時、民に許されるようになった「姓」が『百姓』です。
元々、「百姓(もろもろの姓)」と書いて「おおみたから」と読む『百姓』は、公民の呼称として使用されておりました。
しかし、大化の改新以降、民に「姓」が許されますと、この「百姓」が、そのまま民の「姓」となったようです。
次に、11世紀頃になりますと、「姓」自体が「姓と氏」の双方を意味するようになり、豪族の「姓」は「源平藤橘」の四姓にほぼ統一されます。
しかし、同じ「姓」を持つ者が増えては、ややこしい為、新たに「氏」が作られるようになりました。
主に、都では居住地を「氏」とし、地方では所領地(田畑)を「氏」と致しております。
例えば、藤原の一族で、京都の三条通りに住む分家は「三条に住む藤原」という意味で『三条』の「氏」を名乗ります。
平家の一族で、地方に下って杉本庄を所有した分家の場合は「杉本を所有する平」という意味で『杉本』の「氏」を名乗ります。
「氏」の事を“名字”と申しますが、これはまさに「字(土地)の名」の事です。
即ち、11世紀以降は、「姓=血筋」「氏=居住地・所有地」を表すのです。
ちなみに、初期の武家のフルネームは、「氏・姓・通称・諱」の四つから構成されており、名前を見るだけで“身分の詳細”が分かる仕組みとなっておりました。
【フルネーム】
氏=住居地か、所有地
姓=血統
通称=続柄か、官名
諱=個人名
嫡流の家以外は、平素は「姓」を略して「氏」だけを名乗り、宮中では「姓」と「氏」の両方を繋げて名乗ったようです。
しかし、時代が経つに連れ、「氏」と「通称」の二つは、本来の意味を成さなくなります。
例えば、初期の「通称」は、生まれた順番に太郎、次郎、三郎と名付けて行き、孫の代は、孫太郎、孫次郎、孫三郎・・・、
その次の代は、彦太郎、彦次郎・・・、
と分かり易いものでした。
しかし、その内、「父親の通称が“次郎”だから、その最初の息子は“次郎の長男”になる」という意味で、長男に「次郎太郎」と名付けたり、
先代の“七郎”が立派だったという理由で、それにあやかって長男に「七郎」と名付けたりと、
だんだんややこしくなって参ります。
さらに戦国時代からは、偽官名を通称に使うのが大流行致しまして、
時代劇に出てくる「○○衛門」「○○兵衛」「○○助(介)」「○○丞」等の名前は、全て官名を真似たものだそうです。
(戦国時代以前も、官名を真似た通称は多かったようです)
そして、「氏」に関しましても、前回申し上げました通り、居住地や所有地とは関係の無い「氏名」が流行し始め、庶民も、署名する時は、私称で職名・村名・屋号・その他を「氏」の代わりに使用したようです。
すなわち、明治以前まで、平民も“百姓”という「姓」を有し、私称で「氏」も持っていたのです。
で、1875年に公式の「氏」を付ける事が義務付けられますと、私称を公称に変えたり、お殿様の氏にあやかったり、神主や僧侶に付けてもらったりと、
実にいい加減な形で全ての国民が公式の「氏」を持った訳でございます。
また、この時に、女性は結婚すると夫側の「氏」を名乗る事が法制化されました。
前述の話はともかく・・・・。
また、どうしても分からない部分が出てきた為、先生にお尋ねいたします。
http://mirror.jijisama.org/kankoku_heigou2.htm#31unndou
「韓国・中国歴史教科書を徹底批判する」 勝岡寛次 2001年 小学館文庫
<1919年に起こった三・一独立運動を韓国の教科書は、日本軍の残虐さだけを強調して書いている。
だが、事実は「平和的な方法で独立万方歳を唱え示威をする人々」だけではなかったのである。
全国的に及んだこのデモは、地方では暴徒化し、警察署・村役場・小学校等を襲い、
放火,投石・破壊・暴行,惨殺を行って手がつけられないありさまとなったのだった。>
勝岡先生は、かように申されておりますが・・・・
その証拠としては、名越二荒之助先生の『日韓2000年の真実』という三次四次資料を取り上げているだけで、
根拠となる一次資料は明記されていないようです・・・・。
先生は、この根拠となる一次資料をご存知でしょうか・・・?
■回答(5)
姓や氏についての調査有り難うございました。
3.1独立運動については朝鮮総督府が詳細な報告書を残しています。
又名越二荒之助先生の『日韓2000年の真実』の巻末に色々参考文献が掲載されています。
韓国や、反日学者のバイブルは、当時上海に亡命していた朴殷植が人の噂をまとめ、でっち上げた「朝鮮独立運動の血史」です。
彼は反日独立運動の闘士であり、この本はそのプロパガンダの為の物と理解しています。
自由史観研究会理事 杉本 幹夫
■投稿(6)
先生の著書「データから見た日本統治・・・」読ませて頂いておりますが、
他の資料とデータが異なる部分が多いですね・・・・。
耕地面積一つ取っても、他の保守先生がたの資料では1911年度は246万町歩となっておりますが、先生の本では426万町歩になっております。
就学率や人口に関する部分も、他の資料とは若干異なりますね・・・・・。
良く確認してみたら、先生の本は1997年に発行されたものですね。
十年前の本であるが故に、最新の研究から出たデータと、相違が発生しているのではありませんか?
後、web上に出回っている「日本の統治によって、韓国の平均寿命が24歳から56歳に変わった」という主張は、先生の本では裏付けが取れませんでした。
この平均寿命の推移、先生は事実かどうか、ご存じないでしょうか?
私は幾らなんでも、日本統治前の寿命が24歳だったというのは、無理があると思うのですが・・・・。
■回答(6)
耕地面積については溝口又次他「旧日本植民地経済統計」を引用しました。
Young Il Chung、Sung Hwan Banからの引用となっています。
ご指摘の通り、1911年から1918年くらいまでの朝鮮総督府の公表数値と大幅な違いがあります。この間農地調査が行われ、課税地総面積2867千町歩として予算を取り、測量を始めたところ4249千町歩あったことが判明しました。即ち1911年から1918年の間の増加は隠し田の発見による物が多いのだと思います。
この点を溝口又次他「旧日本植民地経済統計」は補正してあると思います。
ただ1919年以降の数値も5%程、溝口又次他「旧日本植民地経済統計」の方が大きくなっています。
尚明治43年の朝鮮総督府統計年報の数値はご指摘の通り、246万町歩です。
就学率については古河さんの論文を借用しましたが、基本的な部分は朝鮮総督府統計年報です。書堂分を就学率に加えたのでその分就学率が上がっています。
平均寿命については、資料が見つからず、書くことが出来ませんでした。
台湾の場合死亡率から推定し、当初は30歳前後と推定しました。(37ページ)
朝鮮の場合は統計データの脱漏が多く、このような推定が出来ません。30歳前後20歳代の可能性は多いと思います。
人口は朝鮮総督府統計年報からの転記です。
朝鮮の場合国勢調査の年に人口が急増しており、毎年のデータは誤差があるが、趨勢として理解すべきだと思います。
人口については「朝鮮総督府統計年報」以上の物が新しく作られるわけがないと思いますので、外国人、日本人、在日、在満、亡命朝鮮人等の取り扱いをどのように考えるかの問題だと思います。
自由史観研究会理事 杉本 幹夫
■投稿(7)
「反日勢力撃退用PDFファイル」が出来上がりました。著しい間違いが無いかどうかだけ見て頂けないでしょうか?
↓よりファイルを落とせます。
http://resistance333.web.fc2.com/html/patriotism_web.html
(20頁以内に押えたかった為、内容は広くて薄いものになっております)
それと質問なのですが、3.1独立運動の死者は、総督府側の記録では553人になっているそうですが、
それは総督府の何という資料に記録されているかご存知でしょうか?
■回答(7)
写真とセットで説明してあると迫力がありますね。感心しました。
国王の露館への脱出は親露派とロシア公使による陰謀だと私は思っていますが、ここはこれでよいでしょう。
伊藤博文は暗殺される前、山県との会談で併合に合意し、7月将来の併合が閣議決定されています。但し、時期は未定でした。
大変良く調べられており、感心しました。
自由史観研究会理事 杉本 幹夫 |