7.反日撃退用パンフの作成 1

■投稿(1)

お忙しい中、失礼致します。 突然ですが、私奴、現在、反日撃退用パンフを作成しております。 理由は、海外に留学した邦人が、韓国・中国からの留学生に歴史問題を騒がれ、地獄のような留学生活を余儀なくされていると聞き及んだ為です。

ネット上には沢山の情報がありますが、それをそのままリアルで活用するのは困難です。 また、保守派の先生方の著書は、その内容のデータがオール出典不明である為、全く役に立ちません。 (保守派の先生の本を片手に議論しても、「全部、日本右翼の作り話」と思われてしまうのがオチなんです)

そこで私奴、自分でデータを集め、反日撃退用の資料パンフを作成しようと考えた次第です。 データは主に、ぱっと見で理解し易いように画像と数字データを中心に集めております。 しかし、どうしても一次資料や出典が分からない情報も多い為、少々、困っております。 そこで、詳しいであろう自由史観の先生に宛てて、質問メールを送らせて頂く事に致しました。

改めてご質問致します。 ここに記載されている http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200503010000/ 【朝鮮総督府政策一覧】に記載されている数値は、全て事実なのでしょうか? もし、事実ならば、どこの本から引用したデータかご存知でしょうか? ご存知ならばお教え頂けると幸いです。

ちなみに、写真データが取れる良質サイトをご紹介しておきます。 http://nandakorea.sakura.ne.jp/frame.html ダウンしている事が多いのですが、「南朝鮮を知るためのキーワード」の欄から多数拾えます。 こっちからも。 http://koreaphoto.hp.infoseek.co.jp/index.html

■回答(1)

http://plaza.rakuten.co.jp/khiroba/diary/200503010000/はよく調べておられますね。

統計データについては『朝鮮総督府統計年報』、小早川九郎『朝鮮農業発達史』が基本的な原資料です。 その中の主要なものをまとめて、表やグラフ化し、考察したものが小生著『データから見た日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン』龍渓書舎です。

細かくチェックすると多少の違いがあるかもしれませんが、おおまかな感じとしてはそんなものでしょう。(今忙しいのでチェックしていません)

朝鮮に始めて鉄道が敷かれたのは、私の本には1900年京城ー仁川間になっています。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(2)

有難うございます。 さっそくご紹介頂いた書籍を収集致します。 お忙しい中、有難うございました 。

■投稿(2)

名越二荒之助先生が「日韓2000年の真実」という本の中で、
<1910年になってからでした。警務総長には日本の憲兵司令官を当て、憲兵と警察を一元化しました。(中略)しかし日本人は語学ができず、民情にも疎いので憲兵・警察の補助要員として韓国人を募集しました。当時、日本人憲兵1007人、韓国人憲兵補助員1012人、日本人巡査2265人、韓国人巡査3428人で、いずれも韓国人の方が多かったのです>
と書かれていますが、この「日本人憲兵1007人、韓国人憲兵補助員1012人、日本人巡査2265人、韓国人巡査3428人」という数字は、“何年度の数字”で“何という一次資料”から引用したものかご存じないでしょうか!?

■回答(2)

名越先生のこの記事を確認しました。これは寺内が朝鮮に赴任する前に、明石元二郎を呼び、憲兵司令官兼警務総長に任じ、治安体制をここに述べられているよう改革させた事だと思います。どこから引用されたかは分かりません。

しかし私の読んだ資料、小森徳治『明石元二郎 上』台湾日々新聞社1988年大空社復刻では、 <韓国人を憲兵隊の補助員として採用したのは1908年6月で3000人募集した。補助員の数は次第に増え、1909年には憲兵1人に付き補助員3人になった>とあります。
義兵運動は1907年7月の高宗退位から始まり、1908年がピークであり、補助員の質の悪さも問題になっていますので、たちの悪い補助員は解雇されたのだと思います。

私の「データから見た日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン」(一次資料、朝鮮総督府統計年報)では1910年以降19年くらいまでの朝鮮人警官の比率は約60%になっています。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(3)

先生にご紹介頂いた『データから見た日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン』を注文しましたが、まだ届かない為、その間、反日在日撃退用の「在日差別の由来」という資料パンフを作成しました。

完成した為、ざっと斜め読みで良いので目を通して頂けないでしょうか? (ファイル省略)

■回答(3)

1.強制連行 1938年「就職を許可」を「求人を許可」に訂正した方がよいと思います。この年内地・台湾では徴用令が発動されましたが、朝鮮では内地の企業が、朝鮮で求人活動を行うことが許可されました。それまでは内地での労働需給を乱すため、内地企業が朝鮮で求人活動を行うことが禁止されていました。

2.済州島からの移民が多いのに驚きました。ブルース・カミングス教授の説を知りませんでした。

(ブルース・カミングス教授の説:

戦前は、一大畜産地・済州島で牛の疫病が発生して生活難に陥った島民が、当時 存在した済阪航路 に乗って大阪に大量流入し、その後全国に広がった。

大阪や東京では7割ぐらいを同島出身者が占めていた。戦後も在日ネットワークを頼って1970 年頃 まで韓国人の日本への密入国が続いた。

在日における済州島出身者の比率の異常な大きさと、朝鮮半島の総人口に占める 同島民の比率の小 ささを考えると、朝鮮総督府の土地調査事業で土地を奪われた農民が、仕事を求めてやむなく来日し たというのも嘘だとわかる。

今日の在日韓国・朝鮮人には、戦後の密入国者とその子孫がかなりの比率を占めている。 日本政府は、在日の永住権を巡る韓国政府との外交交渉で、密入国者に関しても寛大に扱った。)

元々済州島は流人の島であり、最も差別された島であったこと、戦後大虐殺が行われたこと、日本に一番近いこと等が、済州島出身者が多い理由だと思います。ブルース・カミングス教授の説も一因でしょう。

朝鮮人が日本に移住した理由は、人口増に相当する農地の開墾が進まなかったからだと思います。 30数年で人口が2倍以上に増えています。その他内地・満州にも合わせて400万人ほど移住しています。

3.3国人 ここでも書いておられますが、朝鮮人を連合国民として扱うか、敗戦国(日本人)の一員として扱うのか、米国の態度が不明であったため生じたものです。 更に10月4日監獄にいた共産主義者や独立運動家が一斉に釈放されました。当時のアメリカは共産主義に洗脳されていました。 釈放された朝鮮人は戦勝国の国民と認定されたと考え、日本政府も警察権が及ぶのかどうか分かりませんでした。 連合軍が日本の警察の断固とした取り締まりを認めたのは、約1年後の46年11月です。

個々の犯罪事例については知りませんが、大筋についてはその通りだと思います。 民団系と総連系の違いはどうなのですかね。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(4)

<1.強制連行 1938年「就職を許可」を「求人を許可」に訂正した方がよいと思います。>

訂正させて頂きました。

<2.済州島からの移民が多いのに驚きました。ブルース・カミングス教授の説を知りませんでした。>

私は関西人ですが、大阪には済州島出身者が多い事で有名なんです。 生野区を中心に九万人だそうです。 (参照・「在日韓国朝鮮人 -若者からみた意見と思いと考え-」 金容権・李宗良編 1985年 三一書房) 芸能人の和田アキコの両親も済州島出身です。

<朝鮮人が日本に移住した理由は、人口増に相当する農地の開墾が進まなかったからだと思います。>

はい、その事は先生の著書で存じ上げております。 しかし、統治下の朝鮮の人口増加を証明するデータは手に入っても、 人口増加が原因で移民した事を証明するデータが今ひとつ揃わなかった為、ブルース・カミングスの説を採用しておきました。 私見ですが、「人口増加が原因の移民」と「戦後の密入国」を示す資料を集めて比較して見るに、 どうも「密入国」の方が多いような印象を受けました。 (済州島出身者は、戦後も、頻繁に日本と半島を行き来していたようです)

<連合軍が日本の警察の断固とした取り締まりを認めたのは、約1年後の46年11月です。>

この部分、「在日コリアの負の歴史」の“2”に追加させて頂きました。

<民団系と総連系の違いはどうなのですかね。>

民団系も総連系も、南朝鮮出身者がほとんどだと聞きました。 その時々の都合に応じて、同じ人が、民団と総連を行き来しているそうです。 聞く所では、総連の支部長と民団の支団長を同一人物が兼任している場合もあるとか。(確認はしておりませんが) 昔は互いに抗争を起こす事があったものの、反日に関しては共闘し、日本社会に同じ迷惑を掛けている為、当ファイルでは区別いたしませんでした。

以上により完成しました。 http://resistance333.web.fc2.com/patriotism/patriotism_top.htm

え〜と、本館がリンクされておりますが、そちらについては詮索されないで下さいませ。

では、次のファイルの作成に掛かります。 完成したら、また、目を通して頂ければ幸いです。

友人の協力を借り、ハングル訳版も作成してゆく予定です。 (可能なら英語版も作成してみます)

お忙しい中、有難うございました。


8.反日撃退用パンフの作成 2

■投稿(1)

お忙しい中、失礼致します。

創氏改名に関して、
<満州に入植した朝鮮人が、満州人に差別されるので、日本名を名乗る事を要望した事が始まり> という指摘がありますが、これの出典をご存知でしょうか?

確か、先生のサイトで、朝鮮に関するQ&Aのページがどこかにあった気がするのですが・・・・まだ残っているならばURLを教えて頂けないでしょうか?

■回答(1)

これは麻生外務大臣が数年前、東大の5月祭の講演会で話した事です。 彼が何処でこの事を知ったかは知りません。

しかし常識として、満州に渡った朝鮮人、内地に来た朝鮮人は殆ど通称として日本名を名乗っていました。 それは朝鮮名を名乗るのと日本名を名乗るのとでは、相手の扱いが全然違うからです。即ち満州に渡った朝鮮人、内地に来た朝鮮人の殆どが、正式な名前を日本式の名前にしたいと思っていたと思います。

麻生さんのこの言葉が正しいか否かは知りません。というより内地に来た人の希望が先か、満州に渡った人の希望が先か、誰にも分からないと思います。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(2)

以前、反日韓国撃退用ファイルを作成していると申し上げた者です。 中々、発注した資料が届かなかった為、(手違いで自宅に届きませんでした)先に「日本の朝鮮統治2」を作成いたしました。

個性的な作りになっておりますが、著しい間違いがないかどうかだけ、軽く目を通して頂ければ幸いです。 ファイルサイズが大きくて添付できなかった為、添付せず、ここから落とせるようにしました。

■回答(2)

創氏改名について

1939年発令となっていますが、施行されたのは1940年(皇紀2600年)の紀元節です。

日本における氏と姓の違いについては知りません。

朝鮮における創氏改名のいきさつは私の見解とは異なります。

朝鮮では同姓男女の結婚禁止が民事令で決められていました。この規定を残したことから、ややこしくなりました。 好きな人が出来たが、同じ姓で結婚できない。では姓を変えよう。 このようなことが認められれば、同姓男女の結婚禁止の規定は意味がなくなります。 だから姓は一生変えることが出来ません。

だから日本式の名前への変更を認めるために、すべての人に姓名と氏名の2つの名前を持つこと強制したのです。 6ヶ月以内に氏を決め、届け出ることになりました。届出がない人は戸主の姓を以て氏とする事になりました。 朝鮮は夫婦別姓ですから、奥さんの姓は必ず主人の姓と異なります。一方、氏は家族単位ですから、奥さんの氏は戸主の氏と同じになります。 姓名は結婚の合法性のチェックのために戸籍に残り、常時使うのは氏名となったのです。

金〇〇の奥さんはそれまで朴〇〇と呼ばれていたのが、金〇〇さんと呼ばれるようになりました。 しかしこの奥さんの姓は朴さんで変わらず、氏が金さんになったのです。

姓が変えられたことは全くありません。

第2項以下のことは勉強不足で私は知りません。貴重な情報有り難うございました。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(3)

<1939年発令となっていますが、施行されたのは1940年(皇紀2600年)の紀元節です。>

訂正させて頂きました。

<日本の氏と姓の違いについては知りません。。

徳川家康の場合
「姓」(氏族名)=「源氏」
「氏」(住居地)=「松平」「徳川」
になります。

「徳川」は、元は「得川(えがわ)」であり、祖先が群馬県新田郡世良田村“得川庄”に住んでいた為だそうです。
「松平」は、三河東加茂郡“松平”郷に移住した為です。

なお、「姓」が「源氏」だというのは、征夷大将軍の位を貰う為の捏造です。
しかも、南北朝時代の南朝の英雄である「新田家(源氏の嫡流)」の子孫という事にした為、
当時、大日本史を編纂させていた徳川光圀は、禁裏への対抗心から「南朝正統論」なんてものを唱えております。

豊臣秀吉の場合
「姓」(氏族名)=「平氏」「藤原」「豊臣」
「氏」(住居地・他)=「木下」「羽柴」
になります。

「平氏」は、信長の姓が「平氏」であった為、それを真似た為です。
お陰で、彼は征夷大将軍になる事ができず、代わりに関白の位をもらう為に「藤原」に養子縁組し、最後は「豊臣」という新姓を天皇から貰っています。
「氏」の方は、元々無かった為、「木下」(嫁の浅野家の旧氏を貰ったが有力)「羽柴」(柴田と丹羽を合体させたもの)と好きに付けております。

まあ、この辺りは先生らもご承知だと思いますが・・・・。

創氏改名の部分、先生のご指摘に従い、補強させて頂きました。

■回答(3)

氏を創ることは許可ではありません。強制です。

創氏しなかったと言われる人たちは、戸主の姓を氏としたのです。 例えば洪思翊は姓も氏も洪ですが、洪思翊の奥さんは姓は金(仮 正確な姓は知らない)のままですが、氏は洪になったのです。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(4)

<氏を創ることは許可ではありません。強制です。>

“強制”という言葉には「暴力が伴う」「逆らえば罰則を受ける」というイメージが漂う為、“許可”で通そうと思ったんですが・・・・
全ての朝鮮人に“氏”を名乗るように命じたのであれば、確かに、“許可”の表現はおかしいですよね。
う〜ん、でも“強制”という表現は誤解を招きそうな気がする為、「義務付け」という表現に変えてみました。

ちなみに日本でも、「姓」は結婚しても変化しませんね。
北条政子は、源頼朝と結婚しても、姓は“平”のままでした。
頼朝は「氏」を持っていなかったので、政子は「氏」も“北条”のままですね。
(結婚すると女性の「氏(居住地)」が変わるのは、実家から夫の「氏(居住地)」とへ変わる為であって、女性蔑視とかは全く関係ないですよね)

■回答(4)

確かに強制と書くのは抵抗がありますね。「義務付け」というのも抵抗があります。
やはり制度の変更というのが一番良いかと思います。届を出さなかった人は自動的に戸主の姓が氏になったのですから。
ポイントは、その時、姓を失ったのではなく、姓と氏という二つの名字を持つようになったのです。

日本の姓と氏について、我々平民階級は姓を持っていません。氏が居住地という説にも賛成しかねます。
私の出身地の近くには、米、塩、味噌、魚、豆腐と言った珍姓の多い所があります。
町の坊主が、姓か氏か知りませんが、明治の始めに届出を出すとき、相談を受けて、おまえは米屋だから米にしようとか、じゃおまえは味噌にしようと言って決めたとの話です。真偽の程は知りませんが。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(5)

お忙しい中、いつもお世話になっております。

気になった為、前回話題になった日本の「姓」と「氏」について、少し調査して参りました。 その過程で、意外な事が分かった為、参考までにお知らせ致します。

参考資料は、法学者・牧英正先生らの編集による「日本法制史」(青林書院)と、山本博文先生の著書を幾ばくか。その他、雑学書も少し。
牧英正先生は「道頓堀裁判」(安井道頓の子孫が、道頓堀の所有権を主張して起こした裁判)で有名な方です。
山本博文先生は、以下のような本を書かれている方です。 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8ER%96%7B%94%8E%95%B6/list.html

まず、初期(古代)の「姓」と「氏」の違いですが、以下のようになります。
【 氏 】朝廷によって“編成された集団(豪族)”に与えられた名。
*当時の豪族は「血縁集団」ではなく、「同郷集団」「同職集団」という特徴がありました。そして、その傘下の民にも、氏は許されていした。
【 姓 】朝廷によって、氏の名と共に与えられた階級名。

しかし、大化の改新によって、この制度が崩壊致しますと、“賎民を除く、全ての民に「姓」が許される”ようになります。 その時、民に許されるようになった「姓」が『百姓』です。

元々、「百姓(もろもろの姓)」と書いて「おおみたから」と読む『百姓』は、公民の呼称として使用されておりました。 しかし、大化の改新以降、民に「姓」が許されますと、この「百姓」が、そのまま民の「姓」となったようです。

次に、11世紀頃になりますと、「姓」自体が「姓と氏」の双方を意味するようになり、豪族の「姓」は「源平藤橘」の四姓にほぼ統一されます。
しかし、同じ「姓」を持つ者が増えては、ややこしい為、新たに「氏」が作られるようになりました。 主に、都では居住地を「氏」とし、地方では所領地(田畑)を「氏」と致しております。

例えば、藤原の一族で、京都の三条通りに住む分家は「三条に住む藤原」という意味で『三条』の「氏」を名乗ります。 平家の一族で、地方に下って杉本庄を所有した分家の場合は「杉本を所有する平」という意味で『杉本』の「氏」を名乗ります。 「氏」の事を“名字”と申しますが、これはまさに「字(土地)の名」の事です。 即ち、11世紀以降は、「姓=血筋」「氏=居住地・所有地」を表すのです。

ちなみに、初期の武家のフルネームは、「氏・姓・通称・諱」の四つから構成されており、名前を見るだけで“身分の詳細”が分かる仕組みとなっておりました。

【フルネーム】
氏=住居地か、所有地
姓=血統
通称=続柄か、官名
諱=個人名

嫡流の家以外は、平素は「姓」を略して「氏」だけを名乗り、宮中では「姓」と「氏」の両方を繋げて名乗ったようです。

しかし、時代が経つに連れ、「氏」と「通称」の二つは、本来の意味を成さなくなります。
例えば、初期の「通称」は、生まれた順番に太郎、次郎、三郎と名付けて行き、孫の代は、孫太郎、孫次郎、孫三郎・・・、
その次の代は、彦太郎、彦次郎・・・、 と分かり易いものでした。

しかし、その内、「父親の通称が“次郎”だから、その最初の息子は“次郎の長男”になる」という意味で、長男に「次郎太郎」と名付けたり、
先代の“七郎”が立派だったという理由で、それにあやかって長男に「七郎」と名付けたりと、 だんだんややこしくなって参ります。

さらに戦国時代からは、偽官名を通称に使うのが大流行致しまして、 時代劇に出てくる「○○衛門」「○○兵衛」「○○助(介)」「○○丞」等の名前は、全て官名を真似たものだそうです。 (戦国時代以前も、官名を真似た通称は多かったようです)

そして、「氏」に関しましても、前回申し上げました通り、居住地や所有地とは関係の無い「氏名」が流行し始め、庶民も、署名する時は、私称で職名・村名・屋号・その他を「氏」の代わりに使用したようです。

すなわち、明治以前まで、平民も“百姓”という「姓」を有し、私称で「氏」も持っていたのです。 で、1875年に公式の「氏」を付ける事が義務付けられますと、私称を公称に変えたり、お殿様の氏にあやかったり、神主や僧侶に付けてもらったりと、 実にいい加減な形で全ての国民が公式の「氏」を持った訳でございます。 また、この時に、女性は結婚すると夫側の「氏」を名乗る事が法制化されました。

前述の話はともかく・・・・。 また、どうしても分からない部分が出てきた為、先生にお尋ねいたします。

http://mirror.jijisama.org/kankoku_heigou2.htm#31unndou
「韓国・中国歴史教科書を徹底批判する」 勝岡寛次 2001年 小学館文庫
<1919年に起こった三・一独立運動を韓国の教科書は、日本軍の残虐さだけを強調して書いている。 だが、事実は「平和的な方法で独立万方歳を唱え示威をする人々」だけではなかったのである。 全国的に及んだこのデモは、地方では暴徒化し、警察署・村役場・小学校等を襲い、 放火,投石・破壊・暴行,惨殺を行って手がつけられないありさまとなったのだった。>

勝岡先生は、かように申されておりますが・・・・
その証拠としては、名越二荒之助先生の『日韓2000年の真実』という三次四次資料を取り上げているだけで、 根拠となる一次資料は明記されていないようです・・・・。
先生は、この根拠となる一次資料をご存知でしょうか・・・?

■回答(5)

姓や氏についての調査有り難うございました。

3.1独立運動については朝鮮総督府が詳細な報告書を残しています。
又名越二荒之助先生の『日韓2000年の真実』の巻末に色々参考文献が掲載されています。

韓国や、反日学者のバイブルは、当時上海に亡命していた朴殷植が人の噂をまとめ、でっち上げた「朝鮮独立運動の血史」です。 彼は反日独立運動の闘士であり、この本はそのプロパガンダの為の物と理解しています。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(6)

先生の著書「データから見た日本統治・・・」読ませて頂いておりますが、 他の資料とデータが異なる部分が多いですね・・・・。
耕地面積一つ取っても、他の保守先生がたの資料では1911年度は246万町歩となっておりますが、先生の本では426万町歩になっております。
就学率や人口に関する部分も、他の資料とは若干異なりますね・・・・・。

良く確認してみたら、先生の本は1997年に発行されたものですね。 十年前の本であるが故に、最新の研究から出たデータと、相違が発生しているのではありませんか?

後、web上に出回っている「日本の統治によって、韓国の平均寿命が24歳から56歳に変わった」という主張は、先生の本では裏付けが取れませんでした。
この平均寿命の推移、先生は事実かどうか、ご存じないでしょうか?
私は幾らなんでも、日本統治前の寿命が24歳だったというのは、無理があると思うのですが・・・・。

■回答(6)

耕地面積については溝口又次他「旧日本植民地経済統計」を引用しました。
Young Il Chung、Sung Hwan Banからの引用となっています。

ご指摘の通り、1911年から1918年くらいまでの朝鮮総督府の公表数値と大幅な違いがあります。この間農地調査が行われ、課税地総面積2867千町歩として予算を取り、測量を始めたところ4249千町歩あったことが判明しました。即ち1911年から1918年の間の増加は隠し田の発見による物が多いのだと思います。
この点を溝口又次他「旧日本植民地経済統計」は補正してあると思います。
ただ1919年以降の数値も5%程、溝口又次他「旧日本植民地経済統計」の方が大きくなっています。

尚明治43年の朝鮮総督府統計年報の数値はご指摘の通り、246万町歩です。

就学率については古河さんの論文を借用しましたが、基本的な部分は朝鮮総督府統計年報です。書堂分を就学率に加えたのでその分就学率が上がっています。

平均寿命については、資料が見つからず、書くことが出来ませんでした。
台湾の場合死亡率から推定し、当初は30歳前後と推定しました。(37ページ)
朝鮮の場合は統計データの脱漏が多く、このような推定が出来ません。30歳前後20歳代の可能性は多いと思います。
人口は朝鮮総督府統計年報からの転記です。

朝鮮の場合国勢調査の年に人口が急増しており、毎年のデータは誤差があるが、趨勢として理解すべきだと思います。
人口については「朝鮮総督府統計年報」以上の物が新しく作られるわけがないと思いますので、外国人、日本人、在日、在満、亡命朝鮮人等の取り扱いをどのように考えるかの問題だと思います。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(7)

「反日勢力撃退用PDFファイル」が出来上がりました。著しい間違いが無いかどうかだけ見て頂けないでしょうか? ↓よりファイルを落とせます。

http://resistance333.web.fc2.com/html/patriotism_web.html (20頁以内に押えたかった為、内容は広くて薄いものになっております)

それと質問なのですが、3.1独立運動の死者は、総督府側の記録では553人になっているそうですが、 それは総督府の何という資料に記録されているかご存知でしょうか?

■回答(7)

写真とセットで説明してあると迫力がありますね。感心しました。

国王の露館への脱出は親露派とロシア公使による陰謀だと私は思っていますが、ここはこれでよいでしょう。

伊藤博文は暗殺される前、山県との会談で併合に合意し、7月将来の併合が閣議決定されています。但し、時期は未定でした。

大変良く調べられており、感心しました。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫


9.元大学教授様の意見について

■投稿(1)

杉本先生。お元気で御活躍のほど嬉しく思います。 いつもいつも私どもへ「勇気」を与えていただき衷心より感謝致しております。

さて、貴ホームページの4月分に「元大学教授様」のご意見が掲載されており、 その中で、故「東条英樹大人命」が靖國神社にご祭神として祀られていることに批判的 なご意見を述べられておられましたので、日々神明に奉仕致しておる者と致しまして いたたまれなくなり、少しばかり申し上げたく存じます。

先ず、結論から申し上げますと、一度ご祭神としてお祀り申し上げたからには、 その後どのような事情があったとしても「お祀りの対象」からはずすことが出来ない と言うのは、神道のみならず、全世界の常識です。

例えば、キリスト教カトリックにおきましては、「聖人」という形で実在された 人物を崇敬されておられます。(最も最近の例では、マザーテレサが有名です) この場合も、一度聖人に祀られた場合、そのご遺族が異議を唱えられても、聖人 からはずすことは出来ません。

同じく、日本の神道におきましては「人事によって神事をかえる事勿れ」の大原則 により、一度ご祭神としてお祀り申し上げた「お御霊」は如何なる理由によっても 取り外すことは出来ません。(戦死されていなかった方々についても同様です) また、東条英樹大人命に関しましては、既に杉本先生が述べておられるように、 既に、処刑という形でご自分の命をあの無責任極まりない東京裁判の判決に殉じて 捧げておられます。

我々日本人は、亡くなられた人をも鞭打つような風習は持っていませんでしたし、 中国に於きましても、死んだ者の遺体を鞭打つのは「越人」の風習だと蔑視していました。 また、財団法人日本遺族連合会の会員諸氏が、いわゆるA級戦犯の合祀の取り下げを 靖國神社に求められた事は寡聞にして存じません。

(尚、朝日新聞御用達のよく似た名称の遺族会を語る団体もありますが、これは全く の別物であり、ご遺族のほとんどが非常に憤慨されておられます。この事は、実際に ご遺族の方々から伺った真実の話です−遺族年金目当ての卑しい団体と言われています)

元大学教授様!このホームページに接した事を機会に、今無責任極まりないマスコミが 先人の遺業を汚そうとしている事実に目を向けていただき、東条英樹大人命を始め当時の 我が国の指導者達は、絶望的とも言える状況を国民共々打破するために命をかけて立ち 向かわれたと言う真実にお気づきいただきたく思います。

そのためには、多大なる犠牲もありましたが、先人達はそれこそ命がけで立ち向かい 今の繁栄の礎となられたことに何卒思いを馳せていただきたく思います。

本日当神社にご参詣された「お兄様・弟様」を戦争で亡くされたご兄弟のお言葉が 耳にこびりついております「あいつのこと思うと終戦から六十年経った今も泣けてくる、 静かに眠ってくれ、お前のお蔭でわしらは平和に暮らして行けるのだ…」

長くなりましたが、元大学教授様。私たちの歴史は断続させられたものではありますが、 先人達の行いを思うとき、決して恥ずべきものではないはずです。 どうぞ、戦犯はあくまでも「作られた存在である」事に目を向けていただきたいと思います。 そうでなければ、我々日本人はすべて犯罪者の子孫になりかねません。

■回答

ご意見有り難うございます。

去年の夏の石原都知事発言でもありましたが、東条さんに対する反発は強いですね。古賀誠遺族会会長?が何か変なことを言っていますが、どういうつもりなのですかね。

一つ教えていただきたいのですが、小野田さんのように戦死と認定されていた人が、生還された場合の扱いはどのようになっているのでしょうか。 それまで通り、靖国神社に生きたまま祀られているのでしょうか。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫

■投稿(1)

杉本先生におかれましてはご健勝にて御活躍の程大変嬉しく存じます。 また、早速にメールを頂戴致し、お忙しい中を恐縮に存じます。

東条英樹大人命への批判については以前より存じております。 ただ、石川五右衛門と同じレベルにするのは違うかと思いましたので 拙い意見を申し上げました。

<一つ教えていただきたいのですが、小野田さんのように戦死と認定されていた人が、生還 された場合の扱いはどのようになっているのでしょうか。> につきまして、以前にも申し上げましたとおり、実際のところは 分かりませんが(ご祭神に関することは靖国様に聞かれてもお答え いただけないでしょう…それほど重要な問題なのです) 恐らく、祭祀を取り下げることはなされておられないと考えます。

何度も申し上げますが、一度ご祭神として祀られた方は、どのような 状況になろうとも祭祀を取りやめることは出来ません。 カミ様の事を人間の都合であれこれ出来ないわけです。