1.靖国神社の祭神について

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はじめまして。 幕末大好き人間です。 長州と靖国神社の関係に興味があり、調べていたところ こちらにたどり着きました。

そこで合祀なんですが「かつての賊」である会津藩、西郷隆盛は含まれていないという サイトを目にし、あれ、こちらと違うなと思ったのであります。 長州出身者により作られたんですから当然とは思うのですが…。 軍用鳩まで祭られているのに不思議ですね。

■回答

こんにちは、HPを見て下さってありがとうございます。 靖国神社は基本的には国のために戦死した方を祭るところです。だから外国の軍隊の兵 隊は祭られていません。これが原則です。

西南戦争や戊辰戦争の場合は、東京招魂社として最初に官軍の戦死者を祭った歴史的経 緯があるのだと思います。もちろん国内の戦いでは敵側も祭るようにすべきだという議 論があってもおかしくないと思います。

ただ、境内に鎮霊社という社があって、ここには本殿に祭られる以外の霊がまつられる ことになっているので、靖国神社の境内で西郷隆盛や会津藩の戦死者に対して慰霊する 場合はここにお参りすることになります。

戦死者や軍人を祭る場合、世界各国ではいろいろな基準があると思います。アーリント ン墓地などは南軍も葬られていると聞きますが、条件は軍籍にあるということです。軍 籍がなかったことがわかると掘り返されて移されてしまうそうです。

自由史観研究会会員 渡辺 龍二

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まさか御返事頂けると思わなかったので、とても感激です。 メールしてみてよかったです。 本当にありがとうございました。 会津藩、西郷隆盛の事、大変勉強になりました。 また、アーリントン墓地の事も。

私事になってしまうんですが、実は「大村益次郎の銅像がなんで靖国神社にあるの?」という疑問から はじまったんです。 それで靖国神社の事しらべるようになったんです。


2.朝鮮における日本の政策についての質問

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貴webページ拝読させていただいております。 以下アドレスの 日韓関係の近現代史

2.米の飢餓移出ですが、 そもそも、当時の朝鮮人の主食は雑穀であり、雑穀の消費量は一貫して減っておりません。 よって米を輸出へ回しても、主食が減るという事は無かったようです。 そもそも朝鮮人は昔から米を主食とはしておりませんでした。

よって南北朝鮮で良く言われる「米を盗り上げられたので飢餓に苦しんだ」は誠に詭弁であります。 enjoykoreaで詳しくスレッドが出ているようですので、拝見されてみてはいかがでしょうか?

次に 4.熱狂的な志願兵の応募 ですが、62倍以上の応募者というのは、青年層どころか、兵として不向きな高齢層の人数を入れないと 、応募者数が到底勘定に合わないのです。つまり猫も杓子も志願に殺到していた、という方が正しいと 思われます。さらに、実際に業務に支障のない日本語が話せる朝鮮人は、青年層でさえ2割に満たない程 度だったという総督府の調査があります。

つまり、日本語さえまともに話せぬ朝鮮人が老いも若きも殺到していたと言うのが事実でしょう。 その辺りをご検討戴ければ幸いです。

■回答

貴重なご意見有り難うございました。

朝鮮人の主食は東北部ではご指摘の通り、雑穀でした。しかし西南部では米でした。 1915年から19年までの朝鮮人一人当たりの米の消費量は0.7石であり、粟は0.3石でした。 (武田幸夫編『朝鮮の歴史』)

それが1930−36年には米の消費量は0.43石まで減ったのです。その分粟やその他雑穀が増えています。 要するに高く売れる米を売り、安価な雑穀を買ってつじつまを合わせたのです。

餓死者は朝鮮総督府統計年報によれば、施政当初人口百万人当たり31人であったものが次第に下がり、21−25年には14人まで下がりました。それが26−30年には25人に増えましたが、その後又次第に下がり、41−42年には7人にまで下がりました。それにしてもかなりの餓死者がいたのですね。(小著『植民地朝鮮の研究』)

志願兵の応募について、最も人数の多かった昭和18年は約30万人でした。 初等教育就学状況の統計資料(古川信子論文 小著『データから見た台湾・朝鮮プラスフィリピン』に引用)から推定すると1年当たり男子は25万人ほどです。従いまして、兵として不向きな高齢層までいかなくてもその程度の人数になるように思います。

昭和5年の就学率は23%位ですので、実際に業務に支障のない日本語が話せる朝鮮人は2割くらいというのは、それ程外れた数字ではないと思います。ただ青年団等で学校へ行けなかった青年の夜学による教育も行われていましたので、もう少し上のような気はしますが。

自由史観研究会理事 杉本 幹夫


3.西郷と征韓論

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 本日17日の産経紙で、「西郷どんは“ハト派”!?」と題して、興味深い記事が 掲載されていた。

 明治の元勲の一人である西郷隆盛が武力で朝鮮に開国を迫ったという「征韓 論」を唱えたという高校教科書の記述に対して、西郷の故郷である鹿児島の伊藤 祐一郎知事が、平和的解決を目指した「遣韓論」も記述するように教科書ま発行元 に要望書を送付したというものだ。都道府県知事が教科書の記述の変更を求める のは極めて異例だという。

 ご承知の通り、明治4年に岩倉具視を全権大使として、木戸、大久保、伊藤らを副 使 とする使節団が不平等条約の改正に向けて1年9ヵ月に及ぶ米欧歴訪の旅で出たが、 米国との改正交渉が不調に終わり、その後、ヨーロッパ各国を歴訪して見聞を広める 中、 一行が痛感したのは条約改正の前提として内地整備が急務であることだった。一方、 留守政府を預かった参議達の間では、江戸時代に友好関係を保った朝鮮に対して、 改めて国交を開くことを求めたものの、清国を宗主国として仰いでいた朝鮮は我が国 の 国書の受理を拒否し続け、板垣は軍隊派遣を主張、西郷は使者を派遣して交渉するこ と を提案、自らが全権大使として朝鮮に渡ることで閣議では内定したものの、米欧視察 の 旅から帰った一行の内地優先の主張が通り。結局、政府は分裂、西郷は下野する事件 に発展した。

 記事によれば、現在、使用されている高校教科書は8社18種類あるが、西郷と征韓 論を明確に区別しているのは明成社の「最新日本史」だけで、ほとんどが西郷が「征 韓論を唱えた」「征韓派」などと記述しており、平成16年には鹿児島県の指宿市で開 催 された日韓首脳会談の際にも、韓国の一部からは「征韓論の故郷は開催地にふさわ しくない」との、韓国一流の「難くせ」をつけられたこともあったという。

 学界では西郷は、閣議になどで征韓を主張したという史料は見つかっていない、逆 に 即時出兵などの強硬論を抑え、非武装の使節として自らを派遣するよう求めた事実か ら 征韓論ではなく、平和的・道義的解決を摸索した遣韓論だったという説も有力であ り、二 分化しているとのことだ。

 小生が学生時代から明治以降の歴史を学ぶ際に尤も紐を解いた葦津珍彦先生の 『永遠の維新者』の中で、西郷と征韓論について、次のように書かれている。

(対韓使節について、西郷本人が書いた論争最後の文章の解説として)

 西郷本人の文には、征韓の文字はなく、「朝鮮御交際の儀」とある。しかもその論 旨 は、韓国側に近来、乱暴の風があるからとて一大隊の護衛兵をつれて行くとの評議 があるが、それは国際儀礼上もよろしくない。あくまでも「ぜひ交誼を厚くしたい」 との趣旨 をもって、平和使節として行くのではなくてはならない、と主張している。兵力の行 使という ことは、韓国側が交わりを拒否し、戦闘をもって臨むことが事実においてあきらと なった上 でのことでなくてはならない。それまでは武力示威など決して非礼のことをしてはな らない。

 これが西郷の申し分である・すくなくともかれの文章からみるかぎり、かれの説に は決して 好戦でもなく威圧的でもない。19世紀の列国外交が、つねに兵力を率いて強硬外交を した 事実とくらべてみれば、「論理的」にははるかに平和的で、礼儀正しい。(以上、引 用終わり)

結局、我が国の近代外交は西郷が目指した王道的外交路線と大久保が目指した覇権 主 義的外交路線が折り重なったものになっていくのだが、西郷が「征韓論」に与してい たか否か はそれほど重要な問題なのである。

 伊藤知事は教科書記述の修正の要望であるが、しばし我が国の近代外交の行き詰ま る 歴史に思いを馳せることも、中国、韓国、北朝鮮といった狡猾な近隣諸国を相手にし ている 我が国の姿勢はどうするべきか考える上で、新しい叡智を引き出してくれるかもしれ ない。

丸山 公紀

■投稿(B)

大阪の石黒大圓です。 丸山さんありがとうございました。

この報道を待っていました! 以前から西郷さんの冤罪を拭い去りたかったのです。 これはサヨクに対する一つの反撃です。

産経新聞に載った記事の最後に「昭和50年代から『西郷=征韓論』説を批判してきた毛利敏彦・大阪市立大学名誉教授(日本政治外交史)は「高校生は読書などで遣韓論が有力だと知っている。 教科書は学説状況を反映すべきだ」と話している。」

30年ほど前に親友の韓国人が大阪市立大学公開講座で毛利教授の話を聞いてきて、興奮気味に「西郷は征韓論やないんや」と語っていたのが印象に残っています。 彼は今は韓国に戻っていますが、彼のように日韓両国に愛情を感じている韓国人もいるのです。 あるHPに「教科書的な解釈に反発する本として、毛利敏彦著『明治六年の政変』(中公新書)がある。 西郷は征韓論者ではない。使節派遣は平和的な交渉をするためだった」とありました。

明治政府は西郷を征韓論者として政府中枢から排除して、自らを正当化するために西郷=征韓論説を流布させた。 それを受け継いだのがサヨク日本歴史学会で、アジア侵略の発端として、この征韓論と西郷を批判しきたのです。  それはまさにアメリカGHQの東京裁判史観を日本のサヨクが受け継いで、自虐史観としてきたのと同じ構図です。 

西郷隆盛は「遣韓論」を唱えた (YAHOOニュース)

西郷隆盛は「遣韓論」 知事が出版社に要請へ

鹿児島県の伊藤祐一郎知事は28日の県議会答弁で、西郷隆盛らが「征韓論」を唱えたとされることを取り上げ、西郷が対話による開国を目指した「遣韓論」を唱えていたことも併記するよう、教科書出版社に要請する意向を明らかにした。 
自民党県議から、西郷の遣韓論を浸透させるべきだと求められて答えた。

征韓論は幕末から明治初期にかけて、政府首脳らによって唱えられた武力で韓国を開国させようとする主張。西郷を開国に向けた使節の大使として派遣することが決定したが、欧州視察から帰国した大久保利道らが内政重視を唱え、西郷の派遣は幻となった。 (共同通信) - 6月28日20時35分更新

詳しくは以下へ
@ 西郷隆盛の生涯 「西郷の遣韓論」

A「政変は何のため」

明治6年の政変(ウィキペディア)


(韓国に対して)武力行使も辞さないという強硬派が現われた。西郷はそれを押さえ、まず自ら非武装で朝鮮に行き、礼を尽くして談判後それでも決裂した場合、朝鮮の罪を明らかにし非を問うべきだと主張。元々士族の窮状に心を痛めていた西郷は、自らが朝鮮で殺されることを以て征韓を政府に決行させようとしていたとも言われる。
(略) 

大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず西郷が朝鮮に行った場合必ず殺される、そうなった場合結果的に朝鮮と開戦してしまうのではないかという危機感、当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断(略) などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。

10月14日〜15日に開かれた閣議は紛糾したが、採決で同数になった結果、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。(略)

10月23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、西郷派遣は無期延期の幻となった。閣議決定が工作により覆されたのである。
(略)賛成派の参議5人は下野した。また征韓論に賛成する軍人、下野した参議と懇意であった官僚も大量に辞職。
(略)この政変により、後の明治政府の方針は大久保の主導によることが確定した。
また佐賀の乱、西南戦争などの士族反乱や自由民権運動の発端ともなった。

またこれにより、天皇の意思が政府の正式決定に勝るという前例が出来上がってしまった。これの危険な点は、例え天皇に取り入った者が天皇の名を借りて実状にそぐわない法令をだしても、そのまま施行されてしまうという危険性があるというように、天皇を個人的に手に入れた者が政策の意思決定が可能な点にある。その為、この時その危険性に気づいた伊藤博文らは大日本帝国憲法制定時に天皇の神格化を図り、「神棚に祭る」ことで第三者が容易に関与できないようにし、合法的に天皇権限を押さえ込んだ。

明治無頼伝

(略)不平士族の乱がたびたびおこり、政府軍が敗走していたということに驚かされました。  「明治6年の政変の際、鹿児島県士族の多くが職をなげうって帰国したた め東京の巡査が足りなくなった。 そこで、旧会津藩士達300人が採用された。 西南戦争勃発の際この採用された旧会津藩士達が大活躍し、『東京巡査と決死隊がなけりゃ、今は東京に踊りこむ』と薩軍の間で歌われた、という史実には驚きました。 又、そのなかに元新選組隊士の斎藤一が加わり「戊辰の復讐戦」と刀をふるっていたというくだりを、興味深く読みました。

(このような「戊辰の復讐戦」としての西南戦争があった。 旧会津藩士達がいたのも政府側が戦勝できた原因の一つだ、ということを今回初めて知りました。 すごい因縁です)

大阪府 石黒 大圓


4.近衛文麿元首相の靖国神社合祀

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貴「歴史論争最前線」における理事 岩田義泰様の 「靖国神社諸問題の基礎知識」について質問がございますので、ご教示いただければまことに幸いでございます。

四、昭和殉難者補備において

「GHQよりA級に指定されたが、逮捕前に自決された人達も合祀されている。 例、近衛文麿首相、本庄繁関東軍司令官、杉山元参謀総長、小泉親彦年医師中将(厚相)」とあります。」 合祀については合祀基準(首相官邸全国戦没者追悼式)に則り、行われていると承知しております。いわゆる「A級戦犯」(昭和殉難者)については、同基準(1)軍人直属4項、平和条約11条により死亡した者が該当していると思います。

しかるに、上記近衛首相などは同基準のどこにも該当いたしません。すなわち、法務死に該当しません。

1.もし、合祀が本当であれば、いかなる基準に基づいているかご教示ください。

2.また、靖国神社には本社殿だけでなく、いくつかあると思いますが、本社殿に英霊と合祀されいるのでしょうか。合祀年月日も知りたいのですが、ご教示いただけないでしょうか。

昨今の合祀問題についてやかましいのは、いわゆるA級戦犯として死刑になった方は戦死に準ずることで理解できるのですが、近衛首相などが合祀されているとしたら、なしくずしに該当者が拡大されていることになり、なかなか納得が得られないと存じます。松岡外相なども判決確定前の獄死であり、基準には該当いたしません。

ご面倒と思いますが、よろしくお願いします。

■回答

遅くなりましたが、私の理解している事を報告します。

靖国神社には公務死・昭和殉難者として、終戦直後自決した阿南陸相等も祀られています。(公務殉職?)

終戦と共に多くの人が自決されました。彼らの遺族に対する遺族年金の支給要請について国民的な要請があり、遺族年金の支給が決まったと思います。 更に戦犯としての処刑者、獄中死の方に遺族年金の支給が支給されるとなれば、逮捕前に自決された人達も含まれる事になったのは、当然の帰結と思います。

遺族年金・恩給の支給該当者が靖国神社の合祀対象者となったと思っています。詳細な支給基準、経過については調べていません。

祀られているのは本社殿です。

尚インターネットで検索していると次のようなものを見つけました。 http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/TOOJOINOUE.html

<なお、従来自決死の公務扱いは至難のこととされていたので、終戦時に恩給法の解釈上、自決者の取扱いに関して、部隊関係者や復員関係者は複雑な取扱をしたが、1955(昭和30)年8月8日法第143号(恩給法の一部を改正する法律の一部改正)により、終戦に関連する責任自決が、公務死と認定され、公務扶助料の額が支給されるようになった。現に自決者の大部分は、公務死と認定され、靖国神社に合祀され、遺族は、戦死者と同額の公務扶助料を受けている(糠田担編『改訂版世紀の自決』12頁)。 >

自由主義史観研究会理事 杉本 幹夫