1.マッカーサーによる占領

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私は学校のレポートのため、マッカーサーによる占領を調べています。

1、マッカーサーの占領目的はなんだったのか
(大統領選に利用?社会主義国に対抗?アメリカの文化をアジアに伝える基盤・・・?)

2、マッカーサーは軍人であるのになぜ日本を平和な国にしようと試みたのか。

3、マッカーサーによる日本の占領は「今の日本」にどの点で影響を与えているか。
(悲惨な敗戦後、豊かになったという意味で)

この3つの点についての解答と、利用できる本を教えて下さい。お願いいたします。

■回答 A−1

昭和16年12月8日日本とアメリカは戦争に突入しました。日本では大東亜戦争、アメリカでは太平洋戦争と言われます。 その戦争で日本は敗れ、昭和20年8月15日に降伏しました。マッカーサーはその占領軍の司令官として来ました。

1.マッカーサーの占領目的は2度とアメリカと戦争を始めない國にする事だと思います。    

2.日本を平和な國にしようとしたのではありません。アメリカは楽勝したのではありません。大変苦戦しました。 だから日本が2度と戦争を始められないよう、弱い國にすることが目的だったと思います。

3.目的通り弱い國になったと思います。軍事に使うエネルギー、資金を産業の発展に向けたという点では、早く復興したと言えると思います。
しかし成田空港で見られるよう、公より私が優先される利己主義が蔓延し、地域の発展の大きな阻害になってきています。

参考書と言われてもレベルが分かりませんし、万巻の書があり、自分で図書館へ行き調べてください。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■回答 B−1

HPを読んでくださってありがとうございます。

さて、ご質問ですが、学校の夏休みのレポートでしょうか。こういう問題は、膨大な資 料があり、簡単に答えが出せる問題ではないと思います。

1、マッカーサーの占領目的はなんだったのか

普通に考えれば、戦争に勝ったのでその後始末のために占領したわけです。マッカーサ ーにとっては、戦争に勝つことが第一番であって、もともと特別に強い占領目的を持っ ていたわけではないと思います。また、占領政策はマッカーサー1人がやったのではな く、日米で膨大な人間と組織が関わっていて、それぞれ意見も違うわけです。また、占 領政策も日々変化し、大きく転換したこともあります。

2、マッカーサーは軍人であるのになぜ日本を平和な国にしようと試みたのか。

平和な国というのは何を意味するのかわかりませんが、戦争放棄のことでしたら、日本 周辺における軍事は米国が占有するということだったと思います。マッカーサーは親子 二代にわたり実質的にフィリピンを支配していたというか、陰の実力者でフィリピンに関 わりが深かったのです。
当初そのフイリッピンでは激しい独立運動がありましたが、ア メリカはそれを武力で抑えました。そして軍事力はフイリッピン人に持たせずに、アメ リカが持つというようにしたわけです。それで1935年からのフイリッピン憲法には 、日ちょうど本国憲法と同じような戦争放棄条項がありました。当時のマッカーサーの 頭にはこれがあったのかもしれません。

そうだとしても、マッカーサーは朝鮮戦争で考えが変わったと思います。朝鮮戦争によ って、日清・日露戦争以来の戦前の日本の立場がマッカーサーに実感できたのだと思い ます。朝鮮戦争では、アメリカの若者がたくさん戦死しましたが、日本が独立していれ ば日本が戦ったはずの戦争でした。日本にとっては、アメリカの若者が代わりに戦って くれるのでラッキーでした。しかし、マッカーサーはこの朝鮮戦争以降、日本が悪いと いう戦争中の考えからかなり転換して、日本の再武装を進める方向に向います。

3、マッカーサーによる日本の占領は「今の日本」にどの点で影響を与えているか。

戦前の日本の体制で、古臭くなったり既得権のためにネックになっていた点が改革され ました。反面では、良き伝統の何割かが失われました。プラスマイナスの両面がありま す。確かに、アメリカ的なものが入ったことにより、日本の弱点を修正する大きなプラ ス面はありました。

こういうことなんです。もし幕末に日本がアメリカに占領されていたら、保護国のよう になったかもしれませんが、江戸時代の旧習を改革して近代的な諸制度が早く導入され たと思います。また、アメリカかキューバを占領すれば、キューバは民主主義化したと 思います。しかし、独立国に対して他国が武力を背景にそこまでやっていいのか、とい う問題もあります。

また、戦前の日本は世界の中からみて決して遅れていた国ではありません。ぜひ、この HPのQ&A→日本とはどの様な国ですか→戦前の民主主義についてを開いてみてくだ さい。

戦後の日本が豊かになったことは、戦後の世界が自由貿易体制になったことが大きいの です。戦後は世界の多くの国が独立して自由に貿易できるようになりました。戦前にこ のような環境であったら、日本はアメリカと戦争する必要は全くありませんでした。戦 前は世界のほとんどが、欧米の植民地であり、さらに戦争前はブロック経済というのに なっていて自由な貿易ができませんでした。

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このレポートのテーマは非常に高度な問題を含んでいます。先生の期待する答えがある かもしれませんし、夏休みも終りなので時間的な余裕はないと思います。本格的にやれ ば何年もかかかるような問題なのです。

本はたくさんありますが、左翼の人の視点や日本を批判する立場から書かかれたものが 多いです。戦後の日本はそういう時代でした。例えば、手に入りやすいものでは、中公 文庫で『マッカーサーの二千日』『マッカーサー大戦回顧録〈下〉』というのがありま す。このような本で適当に調べればまとまると思います。

しかし本当の意味でに知りたければ、まずマッカーサーという人間の思考方法を知る必 要があります。例えば、マッカーサー米議会証言録というのが「正論」という雑誌に連 載されています。これは朝鮮戦争時のことが多いのですが、これを読めば実際のマッカ ーサーという人間が、どういう視点からどういう考え方をする人かわかります。

夏休みも終りなので無理をしないようにお過ごしください。 もしご質問やご意見があれば、 staff@jiyuu-shikan.org宛でお願いいたします。

自由史観研究会会員 渡辺龍二


2.中国に於ける日本人抑留者について

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最近、軍事のイロハhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4890631798 という本を読んでいたのですが、同著、202頁に、「この自ら出した宣言(ポツダム宣言)に違反したのはソ連(日本人抑留者55万人)と中華民国(同4万人)、それを継承したとされる中華人民共和国です。両国とも多数の日本国籍をもつ軍民を抑留し、強制労働につかせました。ソ連はエリツィン大統領が謝罪しましたが、中国はいまだ謝罪を行っていません。」とあります。

ソ連による日本人抑留者は聞いたこともあるし、ネットでも探すことができるのですが、中国での場合、日本人残留孤児というのはニュースでもよく聞くのですが、4万人の日本人抑留者及び強制労働は探せませんでした。参考になる文献、サイトなどご存じのものがありましたら、ご教示いただければ幸いです。

■回答

色々仕事もあり、返事が遅れました。
私の友人に重慶大学から東京工大に編入し、昭和34年に卒業した人がいます。はっきりした帰国年月は知りませんが、昭和30年頃に帰国したように思います。現役で入学した人と同じ卒業です。親が大連で抑留され、技術者として新中国の建設に貢献されたようです。

松本俊郎著『満州国から新中国へ』名古屋大学出版会発行「第7章鞍山の製鉄所の復興と日本人製鉄技術者」には終戦後のソ連軍、国民党軍、共産党軍の対応が書かれています。今一度しっかり読み直さないとはっきり言えませんが、彼らが帰国を認められるのは昭和28年くらいのようです。

田辺敏雄著『検証 旧日本軍の「悪行」』自由社発行には「第7章 抑留生活と洗脳について」という章があります。 この本では、彼らが帰国後作った中帰連と言う組織が如何に偏向した組織であり、彼らの証言が如何に矛盾しているか検証しています。

又『蒋介石秘録』や『マオ』からマーシャル元帥の調停工作による休戦期間中に、数万人の日本兵が、ソ連から中共に引き渡され、中国兵を訓練したことにより、形勢が逆転したことが分かります。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(2)

詳しい情報提供感謝致します。

田辺敏雄著『検証 旧日本軍の「悪行」』自由社発行第7章にて当該箇所を調査の上、英文でもこの件について公表していきたいと考えています。

< 又『蒋介石秘録』や『マオ』からマーシャル元帥の調停工作による休戦期間中に、数万人の日本兵が、ソ連から中共に引き渡され、中国兵を訓練したことにより、形勢が逆転したことが分かります。> Maoの英語版はもっているのですが、第何章くらいに書かれているかわかるでしょうか?もしご教示頂ければありがたいのですが・・・

■回答(2)

『マオ』「第28章ワシントンに救われる」です。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(3)

早速のご返答有り難うございます。さっそく調べてみます。感謝致します。

なお、田辺敏雄氏のHPで抑留者の洗脳についてネットで公開されていました。http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/yokuryu-sya-syogen/frame3.html

■回答(3)

尚左側の本としては、新井利男・藤原彰編『侵略の証言・中国における日本人戦犯自筆供述書』岩波書店1999年があるとの事ですが、私は読んでいません。

岡部牧夫氏によると最終的に1964年(昭和39年)3月3人釈放されたとのことです。

自由史観研究会理事 杉本幹夫


3.「従軍慰安婦の真相」<検証編>がようやく完成

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「従軍慰安婦の真相」<検証編>がようやく完成しました。 どうか、お暇な時で構いませんので、著しい間違いがないかどうかだけ、軽く見て頂ければ幸いです。 今回は資料が多すぎる為、要約・抜粋・省略を繰り返しましたが、それでも予定の20頁を大幅に超えてしまいました。

PDF版(27頁)

圧縮版

■回答A

「従軍慰安婦の真相」<検証編>大変良く調べられましたね。感心しました。 今後益々彼らのデマ写真を暴き、世界に発信されることを期待しています。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■回答B

南京大虐殺の写真の真偽ですが、写真は内容よりも、いつどこで誰が撮ったかやその 写真の来歴が重要です。これで9割5分以上は片がつきます。内容の話は、水掛け論に なる場合が多いので、残りの5分以下のものだけをきちんとやればいいと思います。
お参考までに

自由史観研究会会員 渡辺龍二


4.所謂マニラ虐殺についての質問

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 初めまして。 ここ2年前後でウォー・ギルト・インフォーメーション・プ ログラムの事を知り、遅まきながら大東亜戦争について学んで いる者です。

 貴サイトのQ&A――マニラ虐殺の記事を拝読して、一つお 教えいただきたいことがあり、メールさせていただきます。

 所謂マニラ虐殺事件は所謂南京大虐殺に負けず劣らず不思議 な事件です。
 ローレンス・テイラーの『将軍の裁判』によれば、圧倒的優 勢の攻撃軍に完全包囲された状況で、ただでさえ劣勢の兵力を 、より大きな脅威である包囲軍を無視して、差し迫った脅威と なっていない市民の虐殺に割き、結果的に全滅の憂き目を見た のですから。

 『将軍の裁判』の中で岩淵少将は市街地の破壊と市民の虐殺 を部下に命じた、と書かれているのですが、この様な状況下に 置かれれば、如何に追い詰められていたとはいえ、いえ、追い 詰められているからこそ、損害を無視した包囲突破作戦を選択 するのではないでしょうか。
 包囲されたままでは、皆殺しにされるのは目に見えているの です。

 市民虐殺を命ずるような卑劣な指揮官であれば寧ろ、寡兵と はいえ2万の兵力があったのですから、一点集中突破を試みれ ば指揮官だけでも脱出できる、という計算が働くのが人の情と いうもののような気がします。

 そこでお教えいただきたい事は、所謂マニラ虐殺なるものが 、一体何を根拠にしているものなのか、ということです。
 山下将軍の弁護人達は、少しでも将軍に有利な証拠を発掘し ようとしたが、岩淵少将とその部下が全て死んでいた為に、持 ち出す事の出来た証拠は余りなかったとローレンス・テイラー は『将軍の裁判』に書いています。

 また同著の中で、マニラ裁判の証人達が錨のマークをつけた 日本兵が残虐行為を行なったと証言していると書かれています が、この証人達は一体何時、日本軍の残虐行為を目撃したので しょうか。残虐行為の開始時点とアメリカ軍の突撃開始時点に は、何万件にも上る残虐行為を目撃できるだけのタイムラグが あったのでしょうか。

マニラ虐殺の証拠は、マニラ裁判の検察側証言だけなのでし ょうか。  
マニラ市民は日本軍の虐殺を証言したのでしょうか。  
その証言に信頼性はあるのでしょうか。

 貴研究会におかれましては、所謂マニラ虐殺を虚構のものと お考えの事と思いますが、その虚構性を検証する為にも、マニ ラ虐殺の根拠となっているものについて、ご教授いただけたら 幸いです。

■回答

Q&A――マニラ虐殺の記事を書いた杉本です。

私は貴兄ほど詳しく調べていません。しかしマニラ死守を貫き通した岩淵少将麾下の部隊は玉砕したと言われるので、日本側の証言は出ないのではないでしょうか。日本軍が虐殺を命じたとは思えません。

岩淵少将は山下総司令官の「マニラを非武装都市宣言をし、マニラから撤退する」との方針に徹底的に反対、マニラ死守を主張した人です。一点集中突破・脱出の戦略はあり得ません。陸軍と海軍の違いで、山下総司令官はマニラの非武装都市宣言を諦めましたが、山下総司令官の主張通り、マニラの非武装都市宣言をしておれば、このような問題は発生しなかった訳で、真に残念です。

マニラの戦闘は2月3日に始まり、3月3日まで1ヶ月間、市民を巻き込んだ市街戦が展開されました。その間陣地構築のための民家の破壊、米軍による民家の焼き払い、敗残兵を襲うゲリラとの戦いなど住民の被害も大変なものだったと言われます。(奥村房夫監修・近藤新治編『近代日本戦争史、第4編大東亜戦争』同台経済懇話会発行』

赤子を投げて刺し殺すというような殺し方は日本人には出来ません。これは中国人のやり方、つまり彼らによる作り話だと思います。
東南アジアの華僑のネットワーク、宣伝力はすごいものがあります。
シンガポール虐殺事件、インドネシアの労務者強制連行等は彼らにより増幅されたように感じます。
スマトラの穴が現地人により否定された事実もあります。

マニラを死守したのは海軍ですが、陸上戦でも、あの目立つ服装だったのですかね。


答えになっていませんが、お許し下さい。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(2)

早速のご回答ありがとうございました。

マニラ裁判で山下将軍の弁護士が岩淵少将麾下の部隊を証人に しようとしたが、できなかったとのことですので、岩淵少将が市街地の破壊と虐 殺を命じた、というのはプロパガンダであると断定して構わないと思います。 この様な命令があった、と証言できるのは、岩淵少将麾下の将 兵だけですので。

参考書籍のご紹介、ありがとうございます。 南京戦も同様ですが、戦闘の実態がある程度分かれば、何が捏 造されているのかもある程度見えてきます。
マニラ戦の実態を研究してみようと思います。


5.日本の幸運 幕末から西南戦争まで

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幕末から明治にかけて日本は目覚ましい発展をとげて植民地化を免れ、ついには日露戦争に勝利して一流国の仲間いりをしました。
 しかし、ここにいたるまでの、特に幕末から明治初期の歴史を見た時、日本が非常な幸 運に恵まれていたと言えるでしょう。 日本の近代国家建設の成功は単に日本人の努力だけではなかったのです。

 日本が植民地化を免れた大きな要素の一つは当時の世界情勢がたまたま日本に非常に 有利に進んだ事が大きかったと私には思えるのです。

 では、日本に有利な世界情勢とは何か。  具体的には二つの要素が挙げられます。
一つは明治維新前後は欧米諸国が戦争につぐ戦争だったという事です。 具体的に欧米と日本国内の戦争を年代ごとに並べるとこんなふうになります。

 
欧米日本
1848〜49年第一次イタリア統一戦争   
1853年     ペリー来航
1853〜56年クリミア戦争
1856年  第2次アヘン戦争
1859年  第二次イタリア統一戦争
1861〜65年南北戦争
1862年  薩英戦争
1864年  馬関戦争
1866年  普墺戦争
1868年  戊辰戦争
1870年  普仏戦争
1877年  西南戦争
1877〜8年 ロシア・トルコ戦争 
1879年  ズールー戦争

こんな調子で、よくもまあこれだけドカドカやるものだと思えるほど戦争につぐ戦争で す。まったく戦争するのが当たり前という時代だったんですね。

 こんな調子だからアメリカ人のマキシムという電気技師がヨーロッパを訪問したさいに友人から  「電気なんかやめてしまえ。もっといい事は年がら年中殺し合いばかりやっている ヨーロッパの連中に効率のいい殺人道具を売りつけることだ」 と言われて一念発起(?)し、近代機関銃の元祖となるマキシム機関銃を開発して財をなし、戦場はいよいよ死体で埋め尽くされるなんて事にもなりました。

 そしてもうひとつはまさにこの機関銃に代表される新兵器の登場です。
 これは諸刃の剣ともなる要素でした。もしペリー艦隊の来航が南北戦争の後だったら 或いは日本の近代化がもう10年遅れていたら日本が植民地化を免れたかどうかはなはだ疑問です。
 これはアメリカが日本の殖民地を狙ってせめて来ただろうというのではありません。 南北戦争と第二次産業革命をきっかけにして欧米の兵器類の大幅な近代化が進んだから です。

軍艦は蒸気機関が当たり前になっただけでなく甲鉄艦が出現しました。 19世紀末は海軍史では甲鉄艦の時代と呼ばれます。
また、鉄道の重要な軍事的価値が認識されました。
 大砲は従来の滑腔砲にかわりアームストロング砲に代表される旋条砲が普及しました。
 しかし、何といっても一番大きな進歩はカートリッジ式弾薬の実用化でしょう。 従来のマスケット銃では1分間に3発の発射がせいぜいでしたがカートリッジ型の弾丸によって単発銃でもこれよりはるかに早い連射が可能になり、たちまち連発銃が開発され、さらに機関銃が登場しました。
 これらはいずれもカートリッジ式の弾薬がなければ不可能なことでした。

 このめざましい銃の発射速度の向上は従来の密集戦闘隊形をいっぺんに葬ってしまいました。 そしてここが重要な点ですが、近代的な火器を持たない勢力はもはや欧米の植民地化に 武力で対抗することが事実上不可能になったのです。 しかし、植民地化を免れる最後のチャンスでもあったのです。

 これらの新兵器が開発されてから充分に配備されるまでにはかなりのコストと時間がか かったでしょう。 おそらく鉄の生産量を大幅に増やすことから初めなくてはならなかったでしょう。
 全軍の小銃をマスケット銃からライフル銃に交換するだけでも大変な事は容易に想像で きます。このような新兵器の導入のために欧米各国は莫大な軍事費を投じざるをえず、結 果的に極東で大規模な軍事行動を起こす余裕が無くなったのでしょう。

 つまり戦争につぐ戦争、更に新兵器の開発、配備競争(これに負ければ次の戦争で不利になる)によって結果的に植民地獲得競争は一時的な停滞期に入ったのです。
確かに薩英戦争や馬関戦争がありました。 しかし、この時、襲来した外国艦隊は当時の日本人には威風堂々の大艦隊に見えたでしょう、。しかし、欧米の基準からみると大した艦隊ではありません。
どちらの戦争でも旗艦であった英国海軍のフリゲート艦ユーリアラス号は砲数35門。 最大の艦は馬関戦争に登場した英国海軍のコンカラー号で砲数48門、他にフランスのセミラミス号が35門ですが、当時の主力艦はこの3隻ぐらいです。これ以外の艦はせいぜい砲数が多くても22門程度(少ないのは6門とか2門)のコルベット艦やスループ艦などの中小艦艇です。
この程度の艦隊を送るのが精一杯だったのでしょう。同時にこれで充分ということもあったでしょうが。

 そして新兵器の量産体制と配備が概ね満足すべき水準に達した時、新たな植民地獲得競争がはじまりまりました。 この典型的舞台になったのがアフリカです。

 1879年 英国とアフリカ原住民のズールー族との間でズールー戦争が始まりました。
ズールー族は武器といえばほとんどが短めの槍と牛の皮を張った盾しかありませんでした。それでも緒戦は人海戦術が成功してズールー族が優勢でした。
しかし、英軍が本格的に新型小銃(マルティニー・ヘンリーライフル、単発のライフル銃)や機関銃(ガトリング銃)を投入して反撃に転じると戦況はたちまち逆転、かつては シャカ王に率いられてアフリカの大半を征服した勇猛な戦闘種族の人海戦術も英軍の新 型火器の前には屍で野を埋めるばかり、ズールー族の王セテワヨが 「死者を弔う涙はいくらあってもたりない」と嘆くほどの有様でズールー族は降伏を余 儀なくされました。

そしてこのズールー戦争をきっかけにヨーロッパが一斉にアフリカに襲い掛かったと 言ってよい現象が発生しました。

 フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、更にベルギー、オランダまでが アフリカの植民地化にのりだしたのです。
 なにしろアフリカの原住民は武器といえば少数の旧式銃以外は槍と棍棒あるいは弓矢か 刀剣ぐらいしかなく、基本的に人海戦術がたのみですからマスケット銃ならともかく機関銃や発射速度の速いライフル銃にはまったく歯が立たなかったのです。
 それまではアフリカ大陸における植民地はアフリカ全土の10パーセント程度でしたが ズールー戦争の20年後には90パーセント以上が植民地になってしまいました。

 1877年、つまりズールー戦争の2年前が西南戦争勃発の年ですから西南戦争は 日本人同士が外国の大規模な干渉を受けずに戦争をやっていられる最後の時代でした。 もうすこし日本の近代化が遅れていたらダメだっただでしょう.。
相手が機関銃では日本刀がズールー族の槍以上に有効な武器になったとは思えません。 日本の独立と近代国家建設の成功は図らずも幸運に恵まれたギリギリの滑り込みセーフだったと私は思うのです。

 こういう事実をわきまえず、全アジアが植民地化したに等しい時代に日本が独立を保ち えたのはひとえに日本人が優秀性の故であり、これからも日本人さえしっかりしていれば 世界の情勢がどうだろうと大丈夫だ。などと思い上がれば日本の将来に巨大な墓穴をほる ことになるでしょう。

  幕末以降の日本史は世界史と切り離して考えるべきではないと思います。
 世界的な視点にたった歴史観や観察力は非常に重要です。
世界の流れを見極めこれにうまく乗ることあるいはつけいることが重要なのです。 そうそういつも幕末のような幸運に恵まれるはずもないのですから。

■回答

大変参考になるご文章ありがとうございました。確かに、日本は幸運だったですね。南北戦争後にペリー来航ということだったら大ピンチだったかもしれませんですね。

しかし、どうしても指摘すべきは清中国のだらしなさです。クリミアでイギリスは大戦争をしているさなか、(セバストポーリ要塞をめぐる戦いで、英仏合わせて7万の戦死者を出すほどの大激戦です)に、第二次アヘン戦争でもろくもやられているというていたらくとと日本の対応の比較をしなくては何も分からなくなってしまうと思います。単に日本が優秀だとか何とかでなく、どうして日本はこうした大中国の陥った情けない対応と全く違った対応ができたか、ということが大事かと思います。

なお、ズールー戦争については全くその意味を知りませんで、大変勉強になりましたが、あとの方で、日本刀では云々しているのは蛇足ではなく、大間違いです。そもそも日本では戦国時代後半からは、開戦はまず大砲と鉄砲の一斉射撃から始まり、それで相手の陣地を崩しておいて、今度は長やり密集隊が突撃して相手の陣地突破を図り、そして突破してからは白兵戦を日本刀を使って行う、というのが基本となっていました。

幕末かなり弱体化していたとはいえ、すぐにこの基本戦法を最新式の銃砲を取り入れることによって展開したのであり、戊辰戦争はその典型です。何も日本刀主力で戦ったのではありません。いわんや、西南戦争はちがいます。よく薩摩の切り込みたいのことが言われますので、薩軍は日本刀主力で戦ったかのように錯覚している方もいますが、とんでもない話で、それは陣地突破後の接近戦、白兵戦でのことです。お互い銃砲で相手にダメージを与え、そしてそれに競り勝って始めて陣地への切込みができるわけで、日本刀主力の戦争などでは全くありません。このことは、「ラストサムライ」をめぐって、ある方と論争したことがあります。

アメリカ人の投書のほうがその点をよく知っていて、あの映画のでたらめさを指摘していたことを思い出します。誤解があるといけないので、一言申し上げました。

自由史観研究会会員 水本繁