1.日本の朝鮮統治時代

■投稿(1)

いつもお世話になっております。
ある米人の教師によれば、朝鮮統治時代、朝鮮の人々は韓国の歴史を教えたり、愛国的歌を歌ったりしただけ、逮捕されたり、拷問を受けたりしたそうです。http://www.occidentalism.org/?p=485#comment-12749
(これは朝鮮人としての自覚(identity)を称揚するような行為に対しては日本が手ひどく扱ったということの具体例としてあげられています)。
(1)朝鮮の歴史は日本の歴史の一部として教えられたとこのサイトの回答であったと記憶しますが、どうでしょうか?
(2)逮捕拷問を受けた人々というのは、日本でそうであったように、共産主義者とか反体制の人々ではなかったのでしょうか? ご教示頂ければ幸いです。

■回答(1)

どんどん研究が進んでおられるご様子何よりです。
ご指摘のページ開こうとしましたが開けませんでした。org/?p の ? が違っているのではないでしょうか。

寺内総督や小磯総督は古代史に興味を持っており、共に日韓同祖論を展開しています。又斎藤総督は「朝鮮語は日本語の方言のようなものだ」と言っています。 つまり日本統治時代は日韓同祖論が主流でした。共通の先祖の研究、分家の歴史の研究に障害があったとは思えません。

又東郷元帥が李舜臣を大変尊敬していたというエピソードも残っており、このメールの内容は偽造、歪曲のように感じられます。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(2)

ありがとうございます。 討論が続いております http://www.occidentalism.org/

私の主張は韓国では31運動以後、抵抗運動は少なかったというものです。以前、半島以外での抵抗運動といえば、マンセー事件くらいだ、と回答があったことを記憶しており、また、その抵抗運動も当時の日本の学生の教師に反抗程度のものというものがあったと記憶しておりますが、マンセーと云って抵抗したと云われる事件での規模、また逮捕者の数などご教示いただければ幸いです。

■回答(2)

申し訳ありませんが、私が何を言ったか、思い出せません。

マンセー事件と言えば通常3.1独立運動を示すと思います。朝鮮半島ではそれ以後大きな事件はなかったと思いますが、内地では昭和天皇に手榴弾を投げた李奉昌の事件があり、上海では白川大将が死に、重光公使が片足を失う事件(第一次上海事件後の祝賀式・犯人は尹奉吉)がありました。

満州との国境付近では金日成等のゲリラ軍が暴れていましたし、第2次世界大戦には重慶で軍を編成し、参戦したと主張しています。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(3)

ありがとうございます。 多分61万歳運動についてだったと記憶します。 韓国の教科書では、例えば、 http://members.tripod.com/textbook_korea/8_3.html#8_3_3 以下のような記述があります。

引用開始

3 学生の抗日運動
6・10万歳運動

 1920年代に入って、民族主義系と社会主義系が対立し、独立運動はその進路を模索していた。このような時期に6・10万歳運動が起きた(1926年)。

 大韓帝国の最後の皇帝である純宗の大葬の日を期して起きた6・10万歳運動は、3・1運動ですでに中枢的役割を栗たしていた学生を中心に、わが民族が再び展開した独立運動であった。この事件の本質には日帝の収奪政策と植民地教育に対する強い反発があった。

 6・10万歳運動は専門学校と高等普通学校の学生、そして社会主義系の人びとによってそれぞれに推進された。純宗の大葬当日、日帝の物々しい警備のなかで行事に参加していた学生は、激文を散布し独立万歳を叫びながら大規模な群衆示威運動を展開した。そしてこの運動は6月10日だけで終わったのではなく、各級学校に連鎖反応を起こし拡大していったが、これによって数多くの学生が逮捕、投獄された。

6・10万歳運動時の撒文
  朝鮮民衆よ!
  われわれの不倶戴天の敵は資本・帝国主義の日本だ。
  2000万同胞よ! 死を覚悟し戦おう!
  万歳 万歳 朝鮮独立万歳。

光州学生抗日運動
 3・1運動以後、活発に展開された様々な民族運動と国内外の抗日闘争は、青年学生に民族自主意識を呼び起こし、自らが民族独立闘争の重要な存在であることを自覚させた。
 6・10万歳運動直後から全国各地の各級学校では大小の抗日結社が組織され、植民地教育に激しく抵抗する同盟休学などの形で抗日闘争を展開した。さらに民族唯一党運動で組織された新幹会の活動によって国民の自覚を高めた。
 このような状況の下で光州で日本人男子学生が韓国人女子学生をひやかした事件を契機に、韓日学生間に衝突が起こった。これを収拾する過程で日本警察が一方的に韓国人学生だけを検挙、弾圧すると、光州のすべての学校の学生が決起し(1929年)、これに一般国民も加勢することによって、光州学生抗日運動は全国的な規模の抗日闘争に拡大した。

 学生の抗日闘争は翌年3月まで全国で闘われ、194個の各級学校学生5万4000余人が参加することによって、3・1運動以後最大の民族運動に発展した。さらに満州にまで及んで、この地域の民族学校学生も参加し、日本に留学していた韓国人学生も決起した。
 このように、3・1運動以後にも民族の独立抗争は6・10万歳運動、光州学生抗日運動に継承され、とくに学生は独立闘争の主役になるとともに、全国的な規模に発展していった。

光州学生抗日運動時の撤文
“学生、大衆よ決起せよ!
検挙された学生はわれわれの手で奪還しよう。
言論・結社・集会・出版の自由を獲得せよ。
植民地教育制度を撤廃せよ。
朝鮮人本位の教育制度を確立せよ。"
“勇敢な学生、大衆よ!
最後までわれわれのスローガンを支持せよ。
そして決起せよ。
戦士よ力強く戦え"

[資料:同盟休学件数]
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
引用終わり。

こうした学生運動はひどく誇張されているように思われます。それに対して、先生が日本の学生も教師に対しての反抗形式としてその程度はした、ということだったろうと記憶します。

規模、逮捕者数、また、この点についてのご意見などありましたらご教示してくだされば幸いです。

■回答(3)

6.10万歳運動の詳細について調べたことがありません。しかしそれ程大きなものではなかったことは、今日殆ど問題にされていないことから想像できます。

中学・高校のストライキは全国的な風潮で、私の出身校である旧制高岡中学でも数回行われました。 母校の同窓会史によると、1931年のストライキの時の記事に「高岡中学はストライキ校として有名」と書いてあり、それまでにも何回かストライキがあったことが想像されます。その後も1936年のストライキが年表に掲載されています。 尚兄の話では最初のストライキの実質的な主導者は正力松太郎とのことですから、明治時代です。

光州の中学でストライキが行われたこと自体はそれ程大きな問題とは思いませんが、底流として独立運動があったことは事実でしょう。その後も朝鮮語学会との対立、キリスト教徒との対立等は独立運動家の取り調べだと思います。

それと共に内鮮一体化、皇民化の合唱が次第に強くなっていきました。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(5)

ありがとうございます。助かりました。


2.占領軍の犯罪(原文英語)

■投稿(1)

私はパリ大学の歴史研究者です。私は日本占領時の連合軍と日本民衆の草の根レベルの関係について研究しています。 日本政府は占領軍の犯罪による被害者(殺人及び傷害)の補償を承諾したとの記事を読みました。この問題についてより詳しい情報を得たいと願います。例えば何人補償を得たのか、どのような理由であったのかと言うことです。

もしこのような事を研究している学者とコンタクト出来れば有り難いのですが。

■回答(1)

ご質問有り難うございます。 この問題は大変大きく簡単には答えられません。

まず最初に占領軍による犠牲者の定義がよく分かりません。

日本は天皇の命令一下、戦闘を停止しました。従って米英中、各国の正規軍との間では、占領に伴う戦闘はありませんでした。

しかし先遣隊上陸に伴い、婦女暴行、略奪等の犯罪はかなりあったようです。しかし1週間ほどで治安は回復しました。 それは先遣隊の人数が少なく、米軍が情報を厳しく秘匿したからです。従って殆ど問題になっていません。

しかしソ連軍はひどいものでした。ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、広島に原爆を投下された後、満州、樺太、千島に一斉に攻め込みました。日本軍が降伏したにも関わらず、予定された地域を攻め続け、占領しました。私は貴方がこの時の犠牲者を戦争によるものとと定義されるのか、占領によるものと定義されるのか分かりません。 日本では彼らは戦争被害者と定義づけられています。占領に伴う犠牲者はいないことになっています。

その後の占領軍の個人の犯罪行為や、業務上の土地接収等の被害はありましたが、これは個別折衝で解決されたと思います。

戦争による被害者は、軍の関係者と民間人では全く異なります。 軍人の戦死者の遺族には遺族年金が支払われています。

日本で特徴的なことは、戦争後抑留中に死んだ人や、戦争犯罪者として死刑になった人も戦死者として扱われている事です。 又看護婦等の軍属や、軍の命令遂行中に被災した人も、軍人に準じて扱われます。 民間人は原爆の被災者等、一部を除き、大半は補償がありません。

海外から引き揚げた人に対し、1957年、見舞金が支給されましたが、50歳以上の人で約78ドルに過ぎません。 東京等、空襲で死んだ人には、消防士、警官等職務に殉じた人以外、何の弔慰金も支払われていません。

自由史観研究会理事 杉本幹夫

■投稿(2)

回答有り難うございました。添付ファイルで鶴見俊輔の本から引用した文書を送ります。 これには補償の実績が書かれています。私はここで提示されている占領中に蒙った被害に対する補償が何を意味するか、もっと正確に知りたいのです。

この問題についてより詳細な文書が出てくることを期待しています。

見舞金はどれだけ支払われたか
死亡見舞金障害見舞金療養見舞金
年度件数金額 円件数金額 円件数金額 円
昭和212087,91228,32164,896
昭和22324361,4004419,1363991,227,695
昭和23144224,3002428,3183081,982,790
昭和242126,824,43777999,1404335,234,540
昭和2529014,289,702962,234,6007267,247,735
昭和2627532,856,0861425,703,3905977,983,750
昭和271,14580,259,72552825,810,6427018,775,666
昭和281,91591,426,28466916,438,5578866,564,173
年度不明1414,00021,001990,354
合計4,329226,343,8461,58451,243,1554,07539,111,609
総計 9,998件 316,698,610円

備考
1.昭和21−26年度は厚生省の主管で支給された。
2.昭和27年度から調達庁で支給された。
3.27−28年度はこれまでの支給洩れ件数と、21年度に遡っての差額を追加支給した件数が大部分である。
従って講和条約以降に発生した事件と補償金支払いの実情はこの表には含まれていない。
4.なお本表には未申請の件数や強姦件数は含まれていない。
調達局労働組合調べ
『廃墟の中から 1945−1952』筑摩書房 初版1960年

■回答(2)

貴方が日本のことを大変良く調べておられることに感心しました。 残念ながら私はこの問題を調べたことがありません。

■感想

今改めてこの表を見ると非常に不自然である。と言うのは講和条約が発効された昭和27年以降、急増していることである。 これは備考にも記載されているように、それまでの支給洩れを支給したものであり、強姦事件が含まれていない等、これに数倍する犯罪があったことを窺わせる。

昭和史研究所会報には、平成13年7月から10回に渡り、「米軍による横浜陵辱記」が連載されている。 これによると、米軍上陸直後から10月末まで、横浜市内及び一部周辺地区における米軍の犯罪は 殺人4件、強姦29件、障害殴打40件、金銭強奪235件、時計等の強奪552件、自動車事故32件、警官サーベル53件、その他の暴行12件、計957件、金銭の強奪は屋内95件28万円、屋外140件2万円となっている。

「未届の案件、特に強姦事件はこの数倍に達するだろう。その後のインフレを考えると金銭強奪は数億円に達するだろう。」と書いてある。これが横浜周辺の僅か2ヶ月弱の実績ですから、この調達局の数字の数倍、数十倍に達する犯罪があったのではないでしょうか。

今慰安婦問題が騒がれているが、日本軍は現地人強姦防止の目的で、日本人慰安婦を連れて廻ったのである。