授業報告
「尊王」の起こりはいつからか


今の歴史教科書がえたがらないこと、それは「我が国の尊王精神が庶民にいたるまでごく自然な感情として存在し続けた」という歴史的事実!

服部 剛(横浜市公立中学校教諭)

なぜ「尊皇」を教えるか

幕末、激動の時代の始まりである。そのキーワードの一つが「尊王」であることは論を待たないであろう。佐幕派も勤王派も開国派も攘夷派も共通するスローガンは「尊王」であった。欧米列強の侵略政策に直面した当時の日本人は「尊王」の一点で結集し、我が国の国家的危機状況を乗り切った。未曾有の国難に臨んだ時、対立する異論を超越させ、国民意識を一つにまとめることができる日本民族の精神的中心は「天皇」という歴史的存在しかなかった。「天皇」なくば、その後の明治維新も成功したかどうか、また、以後の近代国家づくりも成功したかどうか心もとない。
そもそも、まさに弱肉強食、列強の草刈り場と化していた当時の国際社会で、国論を統一できないままであったなら我が国が存続できたかどうかも疑わしい。

さて、我が国を統一に導いた重要なキーワード「尊王」。この考え方はいつ頃から起こってきたのであろうか。幕末に突如として起こったのか、それとも連綿と流れていたものなのか。 教科書の記述を見てみると、それは唐突の感が否めない。しかも、なぜに尊王なのかの説明もなし。  
「何で『尊王』なんだろう?」 教師は生徒の疑問に何と答えているのだろうか。

民族・国家の核としての尊王の精神は、日本人の中に一貫した流れがあったというのが事実である。その表出する形において強弱の違いがあるだけだ。 例えば、皇室が衰微していたといわれる戦国時代でさえも、戦国大名たちはこぞって天皇に使者を派遣し、多額の献金をして官位を受けた。官位の授受は分国の支配体制を構築するための権威付けという性格が濃いが、尊王精神はありありである。

また、武力で戦国の世を統一した豊臣秀吉は、天皇の権威が政権維持に不可欠のものとして認識していたことも明らかだ。そして、実際にその通り、官位による序列という形で諸大名を統制し、天下統一を維持した。

皇室に対して強圧的であったといわれる徳川にしても大いに遠慮があった。「禁中並公家諸法度」にしても本来の皇室の姿を確認したと見ることが出来る。 庶民レベルでいえばどうだろう。司馬遼太郎が作品中で紹介した幕末一般庶民の天皇認識に関するエピソードは有名である。維新を迎えたある日の庶民の会話。「今度の新しい将軍様は『天皇』っていうんだそうだ」「へぇ」というようなもの。庶民にとってそれほどに天皇の存在感はなかったということらしい。 この司馬遼太郎のエピソードは左翼史家お好みの話だが、眉唾である。

定期的に爆発的な大流行を見せた「伊勢おかげ参り」は何だったのか。庶民は無知で、御祭神の天照大御神が皇室の祖先であるとも知らずに参ったとでもいうのであろうか。また、江戸期、庶民の間にも大流行した「雛祭り」はどうか。何の「雛形」なのか知らずにただお祭り気分で浮かれていたのか。そんなことは考えられない。

極めつけは「鳴物停止令(なりものちょうじれい)」である。これは将軍やその一族、老中などが死去したときに一定期間の日数、鳴物を停止する御触れである。この期間中は工事などの普請の停止や遊芸の音、種々の騒音などを禁止して、追悼の意を表わす「自粛」が命じられた。そして、この法令は天皇をはじめ上皇、女院などのご逝去の時にも全国に発せられたのである。「鳴物停止令」によって、全国民は生身の天皇の存在を認識してきたのである。 その他、「改元の御触れ」や近松の浄瑠璃のうち一連の天皇劇などあげれば枚挙にいとまが無い。

当時、人口の大半を占める農民は、村の氏神・神社を核とした年中行事を通じ、常に皇室との結びつきを実感していた。同様に町人も年中行事への取り組みは熱心であった。  
左翼史家諸氏は何かというと「民衆の歴史」を云々するが、まったく一方的で偏向した視点のみで語っている。我が国には上から下まで、その日常生活の中に、また、人生の節目節目に尊王の意識が存在していた。国の隅々で高貴な精神生活を営み続けた誇り高き日本の民衆をなめてもらっちゃ困る。司馬遼太郎のエピソードは、もしあったとすれば、当時流布したジョークの類であろう。

明治憲法体制は民主主義革命をめざす自由民権運動の弾圧の上に形成された『外見的立憲制』であり、人民の権利・自由は抑圧され、その下での立憲政治・議会制度は十分な発展を妨げられ、結局は、『天皇制絶対主義』権力の圧制のかくれみのとなったにすぎなかった、等々というわけである」。(鳥海靖『日本の近代』1996年、放送大学教育振興会、14ページ)

かくの如く、我が国において天皇の存在は要所要所で人心を収拾し、また、豊かな文化を育み、国を発展させてきた。  
しかし、このことは教科で教えなくなっており、実際、教科書では十四世紀初頭の後醍醐帝以来、天皇は登場しない。それゆえ幕末に至って突然「尊王」の登場という印象になるのである。生徒たちも何か腑に落ちないまま、通りすぎてしまう。  
我が国の尊王精神は庶民に至るまで、ごく自然な感情の発露として存在し続けたという事実を教える必要がある。

今回の授業案は空白となっている江戸時代に起こった、にわかには信じがたいすさまじい尊王の現象を取り上げる。「御千度参り」である。この話を紹介すれば、幕末に突如として「尊王」が出てきたわけではないことを生徒は知り、その理解に整合性を持たせることが出来るであろう。
また、維新の指導者と一般庶民の意識が全く乖離しておらず、一致していたこともわかり、幕末の国家的危機に臨んだ時、幕府も含め、尊王で結束して困難を打開する道しかなかったということを理解するであろう。   
尊王の始まりは悠久の古から継続しているものであるが、この授業案の題名「尊王の起こり」は、あくまで便宜上そうしたことをお断りしておきたい。

授業の流れ

[発問]
江戸時代は平和な時代でしたが、国家的危機ともいえる社会問題は何だと思いますか。 いろいろな問題がありますが、中でも最大の危機は「飢饉」でしょう。

[板書]
一七八二年  天明の大飢饉
一七八三年  浅間山大噴火  

江戸時代のこの時期、我が国は全国的な飢饉に見舞われていました。米価が高騰し、餓死者も多く出る地獄のような状況でした。
そして、迎えた一七八七年六月七日。京都で突然、驚くべき光景が展開されました。次の資料を読みましょう。

《資料1》

「天明七年(一七八七年)六月七日。京都で驚くべき光景が展開された。突如として「御千度参り」と称するものが起こり、連日繰り返されたのである。  
庶民が突然、(  )に大量につめかけ、その塀の周りをぐるぐる廻り始めたのである。(  )の周囲は約一三〇〇メートル。その日は四〜五千人であったが、三日後の十日には何と三万人もの老若男女が参詣に押し寄せた。その数は増え続け、十八日の前後には一日に七万人を数えた。当時の総人口が約三千万人程度のことであるから、これは大変なことである。その後、三カ月以上続き九月に入っても参詣者があったという。
御千度参りに来た人々は(  )の周りを廻りつつ正面の門の前に来ると懐から取り出した賽銭を投げ入れた。そして、手を合わせて一心に祈ったのである。中には願い事を書いた色紙で銭十二枚を包んで投げ入れる者もいた。」

[発問]
人々はどのような気持ちで廻っていたと思いますか。 当時の記録にはこうあります。米穀段々高値になり…人民いたって困窮し、難儀に及ぶ」「飢渇困窮につき、祈誓」「五穀成就の祈り」、ということは。
庶民は飢饉の苦しみからの救済と五穀豊饒を祈っています。

[発問]  
では、この救いを求める数十万〜数百万に及ぶ大量の庶民たちは、ズバリ、どこに参ったのでしょうか。 (  )の中には何が入りますか。

では、「資料2」から読みとってください。

《資料2》  

この大量の人々はどこから来たのだろうか。  
当初は各自思い思いに出かけて行ったが、そのうちいくつかの町が一緒にそろっていくようになり、集団参拝の形になっていった。
大阪や近国では御千度参りの噂で持ち切りとなって、庶民は我も我もと京都を目指した。御所への道は御千度参りに行く人々でごった返した。道々には菓子やところてん、瓜を売る露店商が五〜六百人も出てにぎわったという。  

一方、御所の方では、最も暑さの厳しい旧暦六月ということで、参詣者たちを心配した。そこで、塀の周囲の溝をきれいに掃除して冷たい湧き水を流した。冷たい水で手や足を洗ってもらおうという配慮であった。
また、上皇からは参詣者にリンゴがふるまわれたが、一人に一つずつ配ったところ、三万個が昼過ぎになくなったと記録されている。
その他、赤飯が施されたり、茶や握り飯が配られるなど天皇、上皇、宮家、公家たちから参詣者をねぎらう接待が盛んに行なわれた。  

もう、わかりましたね。( )には、「御所」という言葉が入ります。

[板書]  
御所〜京都御所。 天皇の住まい。 今で言う「皇居」。 

[発問]  
この数百万もの人々は、なぜ、御所に参って、天皇に祈願したのでしょうか。 なぜ、実際に政治を行なっている幕府にお願いしなかったのでしょうか。

凶作は自然現象が原因ですから起こるときは起こる。しかし、凶作が飢饉になるということは政治の責任です。常日頃から食料を備蓄して備えることなどを怠った政治の問題なのです。しかも、多くの餓死者まで出ている。庶民は幕府に対して、何度も救済を嘆願したのにもかかわらず、いっこうに改善のきざしが見られませんでした。

この幕府始まって以来、最悪といわれる大飢饉に直面して、幕府の政治責任を問う声が庶民の間に蔓延していきます。それは一揆や打ちこわしという形でも爆発しました。それでも、幕府は有効な手を打てないでいました。  
そこで、庶民の中から自然発生的に「我が国は太古の昔から天皇が中心に治めてきた」という記憶が蘇ってきたのです。庶民は直感的に、この窮状を救ってくれるのは、幕府より上位にある「皇室」しかないと考えたのでしょう。  
しかし、国民の救済というのは政治上の問題です。それを庶民は幕府ではなく天皇に願ってます。幕府の立場から見れば、これは一大事なわけです。政治は幕府の専権事項ですから。  
時の老中は松平定信。実は、寛政の改革の最中でした。「御千度参り」という庶民の巨大なエネルギーのうねりを見た幕府はどうしたでしょうか。

[発問]  
幕府は「御千度参り」にどう対応したでしょうか。

1.祈っている庶民を取り締まってやめさせた
2.祈られている方の皇室を取り締まった
3.やめさせることができなかった

答えは3です。  

実は、幕府は「御千度参り」を統制することができませんでした。それにしても、強権を持つ幕府が取り締まれないなんて。不思議ですね。どうしてでしょうか。それは、この後わかってきますよ。

さて、この時の天皇は第百十九代光格天皇でした。明治天皇のひいおじいさんです。一七七一年八月十五日生まれ。一八四〇年十一月十九日、七十歳で崩御されました。一七七九年、わずか九歳の時、天皇に即位されます。 この御千度参りは光格天皇十七歳の時でした。

[発問]  
飢饉に苦しみ、尋常ではない庶民たちの様子を見た光格天皇はどういう行動に出たと思いますか。答えを「資料3」から探ってみましょう。

《資料3》  

日に何万人もの群集が御所を廻っている中、六月十二日に光格天皇は関白に自分の考えを幕府に伝えるよう指示された。その内容は記録によると、次のようなものである。

『世の中が困窮し、餓死者が数多く出ているということを光格天皇はたいへん不憫に思われ、たびたびその危惧の念を表わされた。朝廷から〔施し米〕を行なうか、幕府が〔救い米〕を出すかして国民を救うことは出来ないのか、と深くお心を悩ましておられた。幕府に申し入れるべきとのお考えである』。

そして十四日、幕府の代表・京都所司代の戸田忠寛は御所に呼び出され、天皇の考えをまとめた文書を手渡されたのである。

庶民の行動を目の当りにした光格天皇は、ついに幕府に「窮民救済の申し入れ」をしたのです。
実はこの行為は幕府始まって以来の「異例」なことでした。それまでは、政治は幕府が担当し、祭りごとと儀式は朝廷が担当するという役割分担が定着していました。これが、一〇〇年以上もの長きにわたって続いた慣例だったのです。
幕府は決して政治には口を出させませんでした。そもそも朝廷の収入は極々わずかで、さまざまな経費は幕府が丸抱えで支給していたのです。ですから経済的に困っている朝廷が幕府の政治内容に口をさしはさむ立場にはなかったわけです。
それが今回、幕府史上始まって以来の朝廷からの政治的「申し入れ」です。それも「庶民を救済せよ」というある意味幕府の失政を問うような要求でした。

[発問]  
では、なぜ光格天皇はこのような異例の行動をとられたのでしょうか。資料4から読み取ってみよう。

《資料4》

@一七九九年、後桜町上皇から与えられた「天皇の心得」を記した教訓に対して、光格天皇が応えた手紙が残っている。  

「仰せの通り、人君は仁を本と致し候事、…常に私も心に忘れぬよう、人徳の事を第一と存じまいらせ候事、…身の欲なく天下万民のみ、慈悲仁恵に存じ候事、人君なる者の第一の教え…。何分自分自身を後にし、天下万民を先とし、仁恵・誠仁の心、朝夕昼夜に忘却せざる…。」

A「御千度参り」でのエピソード   
御千度参りでの庶民によるお賽銭はおびただしい量であった。   
記録によると一日で銭四十貫文もあり、寛永通宝にすると四万枚にもなった。光格天皇は「飢饉で飢えており、苦しんでいるのだから、わずかな額であっても賽銭を投げ入れないように」と言われた。そして、賽銭をやめさせるよう幕府に申し入れている。

B光格天皇が即位の時に詠まれた御製(ぎょせい)

身のかひは 何を祈らず 朝な夕な 民安かれと 思ふばかりぞ

C光格天皇が将軍徳川家斉に贈った御製  

民草に 露の情けを かけよかし 代々の守りの 国の司は

D一方の庶民も天皇の意をよく理解していた。その証拠に、BCの歌は「万民の安泰をひたすら願う天皇」のありがたい御歌として、当時、世に広まっている。

[板書]
天皇の務め 天下万民に「仁・慈悲」を施すこと  

というわけで、光格天皇は天皇としての義務感から庶民の救済を申し入れることにしたのですね。

[発問]  
では、天皇から慣例にない異例の「申し入れ」を受けた幕府は、どうしたでしょうか。

1.激怒して、光格天皇をはじめ朝廷を処分し
2.今まで例がないとして申し入れを拒否した。
3.もっともな事なので受け入れた。  

答えは資料5から読みとってください。

《資料5》  

京都所司代・戸田忠寛は朝廷からの申し入れの趣旨と御千度参りの様子を六月二十八日付けで江戸に報じた。七月八日、幕府は「救い米」五〇〇石の放出を決定し、朝廷に報告した。幕府では、勘定奉行に評議させ、さらに追加の米が必要ならば、京都所司代の判断で取り計らうように、との指示を出す。これを受けた戸田は、八月五日に「救い米」一〇〇〇石の追加放出を決定し、これも朝廷に報告した。

ということは、答えは3ですね。  
幕府はあわせて一五〇〇石もの米を出しました。整理しましょう。

[板書]  
天明の飢饉
  ↓  
御所「御千度参り」
  ↓  
光格天皇、幕府へ「窮民救済」の申し入れ
  ↓  
幕府、了承。救い米を出す  
七月 五〇〇石(七.五トン)  
八月 一〇〇〇石(十五トン)  

実は、申し入れられたけれども、幕府は最初なかなか有効な打開策をとりませんでした。天皇サイドは何度も申し入れ、圧力をかけています。そして、幕府は開幕以来、はじめて朝廷の意見を入れたのです。これもまた、異例中の異例、前代未聞の驚くべきことでした。

[発問]  
なぜ、幕府は朝廷に従うという異例の行動をとったのでしょうか。  
もし、幕府が御千度参りを取り締まったり、朝廷の申し入れを拒否したとしたら、どうなるでしょうか。  

ただでさえ、飢饉で庶民の生活はぎりぎりで幕府政治へのいらだちは頂点に達しています。百姓一揆や打ちこわしが至るところで頻発したかも知れませんね。  

こうして、深刻な社会不安に直面した庶民の朝廷を信じる行動が歴史の流れをかえたのです。実際、これ以後、幕府の権威は落ち、相対的に天皇の権威は上昇します。その結果、幕府政治は庶民の支持する天皇の意向を踏まえなくてはならないというように変わっていきます。
以後、どんなことが我が国に起こったかというと、以下の通りです。まず、深刻な「内憂」に加えて「外患」すなわち対外的危機が加わっていきます。

一七九二年  ラクスマン(露)来航
一七九六年  ブロートン(英)来航
一八〇四年  レザノフ(露)来航
一八三三年  天保の飢饉
一八三七年  モリソン号事件  大塩平八郎の乱  

この他、全国あちこちで百姓一揆、打ちこわしが頻発します。  
ここからは、光格天皇崩御後ですが、

一八四〇年  阿片戦争
一八四一年  天保の改革
一八四四年  仏軍艦琉球に来航
一八四五年  英軍艦琉球に来航  英艦長崎の測量を要求
一八四六年  英・仏軍艦琉球来航 ビッドル(米)浦賀来航 仏軍艦長崎来航

などなど、きりがないのでやめますが、それまでとは比較にならないほど続々と外国船が我が近海を脅かします。  
国内問題に限れば、庶民にとって切実だったのは、「天保の飢饉」でした。そして、この時も朝廷は、またもや次のような過程を通って事態を収めていきました。

[板書]  
天保の飢饉
  ↓  
大塩の乱
  ↓  
天皇、幕府に「窮民救済」の申し入れ  

前回の光格天皇の時と同じような流れですね。
ここでも、どん底の窮地に陥った庶民は、幕府を超えたより権威ある存在として天皇を見いだし、そこに救いを期待しました。また、天皇の方も困っている庶民に対して、慣例を破ってでも救済しようとします。幕府もその天皇の要求を受け入れざるを得なくなっていきます。

[発問]  
庶民の中に現れた天皇の慈悲の心を信じ、そこに結集していこうとする精神のことを漢字二字で何というか、知っていますか。

[板書]   尊王  

「尊王」といいます。歴史の流れを大きく変えたこの「尊王」の二文字は、この後やってくる動乱の幕末のキーワードになっていきます。  
ところで、ちょっと寄り道すると、当時三百諸侯といわれた大名たちの天皇に対する思いはどうだったのでしょうか。

[発問]  
諸大名は「尊王」だったと思いますか。それとも何とも思ってなかったでしょうか。どっちだと思いますか。  

大名たちは官位というものを持っていました。『忠臣蔵』の浅野内匠頭を知っていますか。この「内匠頭」というのは官位です。

[発問]  
大名の官位は誰から与えられるものですか。  

官位は天皇から与えられるものです。朝廷における政治上の役職や序列を表わしています。  
以前学習したことを思い出してください。天皇から武家の棟梁に与えられる官位は何ですか。  
「征夷大将軍」ですね。これも官位なわけです。  
実は江戸時代を通して、大名たちは朝廷から官位をもらうことに躍起になっていました。なぜ、大名はそんなに官位がほしいのでしょうか。  
大名たちは、こう考えていました。「将軍」も官位だ。自分の持つ「○○のかみ」も官位だ。ということは、自分は将軍の家来なんかじゃない。ともに天皇から与えられた役職を持っている天皇の家臣なんだ。天皇のもとに将軍と自分は「同格」なのだ、という考えを持っていたわけです。  
このように全ての大名が、天皇を将軍より上位に置き、その権威の中で政治的地位を安定させていました。そこには自ずから「尊王」の精神が存在しています。

まとめ  

では、まとめましょう。我が国の歴史では、天皇の存在は要所要所で国民の心を結集させ、国を発展させてきました。  
しかし、教科書では「建武の新政」の後醍醐天皇以来、天皇は登場しません。そこで教科書だけで勉強していると、幕末に至って突然「尊王」という風潮が出てくるような印象になってしまって、混乱してしまいます。  

本当はそうではなくて、尊王精神というのは歴史の中に一貫して流れていたものでした。それが強く出ているか、弱くて目立たないのかという「程度の差」であって、大名から庶民に至るまで、日本人であればごく自然に持っていた自然な感情だったのです。  
そして、幕末。相次ぐ外国船の襲来という未曾有の国家的大危機がやってきました。ボケボケしていたら、我が国は欧米の植民地になってしまうかも知れない。この危機を打破するには国民が強くまとまって力を結集しなければなりません。
この時、上から下まで一致団結して対処するための核となれる存在は一つしかありませんでした。
そう、それが他ならぬ「尊王」の精神だったのです。

【参考文献】

■『天皇から読みとく日本』高森明勅(扶桑社)
■『この国の生いたち』高森明勅(P HP研究所)
■『幕末の天皇』藤田覚(講談社選書 メチエ)
■『幕藩制国家の政治史的研究』藤田 覚(校倉書房)
■『戦国大名と天皇』今谷明(福武書 店)
■『武家と天皇』今谷明(岩波新書)

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