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鎖黒船来航の授業
「開国か、攘夷か」

齋藤武夫(自由主義史観研究会副代表・さいたま市立島小教諭)
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『一八五三年七月八日午前四時頃のことです。一人の漁師が伊豆の沖合をものすごいスピードで進むある物体を発見しました。真っ黒で煙をもくもく吐いていたその物体はこれです』
黒板に黒船の絵を貼る。
『その漁師は大急ぎで番所に走り、お役人に伝えました。お役人はすわと、早馬を江戸に走らせました。その後、次から次へと海岸沿いに目撃情報が続きました。その情報から、幕府はその船が江戸湾に向かっていることはまちがいないと判断しました。オランダから寄せられていたあの情報は本当だったとわかったのです。うわさは江戸の町人たちにもすぐに伝わり、騒ぎはしだいに大きくなっていきました』
明治維新の学習は、こうして「黒船来航」の授業から始まる。主な登場人物は、江戸幕府老中首座だった阿部正弘と米国東インド艦隊司令長官ペリー提督である。
この授業の中心の学習課題は「攘夷か開国か」という阿部正弘の苦悩の選択を考えることにある。子供たちの意見は、次のように真っ二つにわかれた。
A、鎖国を守って戦う(十九名)
B、開国してアメリカとも貿易を始める(十八名)
歴史の大きな岐路に立つたびに、このような政策選択の討論学習を設定する。大きな転機ほど、今回のように子供たちの意見分布が拮抗する傾向がある。このとき重要なのは、阿部正弘の目を通した状況イメージと政策選択上で重要な情報を、子供たちが共有することである。
B、「あんな蒸気で走る軍艦も大砲もなく、鉄砲だって火縄銃しかなくて、鎧を着て刀と槍で戦っても勝てません」
「アメリカは貿易をしたいんだから、いまは貿易を有利にするにはどうしたらいいかを考えるべきだ」
「ここで怒って戦争をして負けたら、こんどは本当に支配されて日本は滅びてしまう。なんか、それではアメリカにはめられたみたいになってしまうぞ」
歴史の実際はこれらBの意見の道を進み、わが国は二百年の鎖国の祖法を捨てて開国に至った。その決断と苦悩のために、阿部正弘は三十九歳の若さで早逝していくである。
ではAの側の意見はムダだったのか。決してそうではない。
歴史学習では、「結果的に採用されなかった意見」の意味を考えることも、たいへん重要なのである。例えばこんなふうに。
A、「大統領の国書や白旗の手紙は日本をバカにしていて、武士の誇りを傷つけています。そんな言いなりになるだけでは、日本はダメだと思います」「アジアの植民地を見ればわかるが、(戦争か貿易か)どっちを選んでも西洋は日本を支配しようとしている。戦わないで支配されるよりも、ぼくはイチかバチか戦ってみたい」
このAの主張は、薩英戦争と馬関戦争に結晶する。武士の誇りをかけた二つの戦いを通して、薩摩と長州は〈攘夷の不可能〉をさとり、幕末の歴史は大きく転回していった。そのうえ、彼ら武士のプライドが、かえって大英帝国の信頼を勝ち得る結果になったのである。そうとらえれば、この二つの攘夷戦争は、明治日本を支えた日英同盟への第一歩でもあったといえるかもしれないのである。
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