|
第17回授業作りセミナー報告
“『天皇』をどう教えるか”/PartT
尊皇の起こり、
江戸時代の人々を結びつけたものは?

幕末期の天皇

服部 剛(横浜市公立中学校教諭)
|
1.はじめに
今日は幕末における「尊皇」についてお話しさせていただきます。激動の幕末のキーワード「尊皇」がいつ、どのようにして起こってきたのかというのがこの授業のテーマです。
先に結論を申し上げてしまいますと、我々日本人の核として、尊皇精神はその歴史の中に一貫して流れていたというのが事実です。
尊皇精神について中学校歴史教科書には、どのように書いてあるかというと、ペリー来航の後に突然の「尊皇」です。そこにどうして「尊皇」なのかの説明はありません。何せ、これ以前に登場する天皇は後醍醐天皇なのです。建武の新政以来、全く天皇が登場しないわけですから、生徒にとってとても唐突なのです。「何で『尊皇』なんだろう?」というわけです。
教師は生徒の疑問に何と答えているのでしょうか。実は、将軍・大名から庶民まで皆、日本人は尊皇精神を持ち合わせていました。江戸時代の人々にとって、天皇の存在は生活の端々に登場するものでした。例えば、「鳴物停止令」というのがあります。天皇が崩御された時、全国に発せられました。一定期間の日数、工事などの普請や種々の騒音などを禁止したものです。今風にいえば、「自粛」ですね。この法令は天皇だけでなく、上皇や女院、将軍や老中などが亡くなった時にも全国に発せられました。この「鳴物停止令」によって、庶民は生身の天皇の存在を認識してきたわけですね。
他にもあげれば、きりがないのですが、爆発的な大流行を見せた「伊勢おかげ参り」です。庶民は無知だから御祭神の天照大御神が皇室の祖先であるとも知らずに参ったとでもいうのでしょうか。そんなことはあり得ませんね。また江戸期、庶民の間に大流行した「雛祭り」はどうですか。何の「雛形」なのかも知らずにただお祭り気分で浮かれていたわけがありません。人口の大半を占める農民は、村の神社を中心として年中行事を通じ、常に皇室との結びつきを実感していました。町人も同様です。我が国の尊皇精神は庶民に至るまで、ごく自然な感情として存在し続けたという事実を教える必要があります。尊皇の精神は悠久の古から継続しているものですから、実のところその始まりはわかりません。ですから、この授業の題名にある「尊皇の起こり」は、あくまで便宜上そうしたことをお断りしておきます。前置きが長くなりましたが、授業の方に入っていきましょう。時間が押していますので、解説風になってしまいますが、ご了承ください。
2.授業の流れ
では、最初の問題です。
[問1]江戸時代、国家的危機ともいえる社会問題は、何だと思いますか。
次の( )には何が入りますか。
・1782年〜( )
・1783年〜( )
生徒は年表を使って、すぐに調べられます。
( )の中には、それぞれ(天明の飢饉)(浅間山大噴火)が入ります。
いろいろな社会問題がありますが、庶民にとって最大の危機は、やはり「飢饉」でしょう。江戸時代のこの時期、我が国は全国的な飢饉に見舞われていました。米価が高騰し、餓死者も多く出る地獄のような状況でした。
そして、むかえた1787年6月7日。京都で突然、驚くべき光景が展開されました。生徒に次の資料1を読ませます。
《資料1》
天明七年(一七八七年)六月七日。京都で驚くべき光景が展開された。突如として「御千度参り」と称するものが起こり、連日繰り返されたのである。庶民が突然、(
A )に大量につめかけ、その塀の周りをぐるぐる廻り始めたのである。
( A )の周囲は約一三〇〇メートル。 その日は四〜五千人であったが、三日後の十日には何と三万人もの老若男女が参詣に押し寄せた。その数は増え続け、十八日の前後には一日に七万人を数えた。当時の総人口が約三千万人程度のことであるから、これは大変なことである。その後、三カ月以上続き、九月に入っても参詣者があったという。御千度参りに来た人々は(
A )の周りを廻りつつ、正面の門の前に来ると懐から取り出した賽銭を投げ入れた。そして、手を合わせて一心に祈ったのである。中には願い事を書いた色紙で銭十二枚を包んで投げ入れる者もいた。
では、問いの2です。
[問2]人々はどのような気持ちで廻っていたと思いますか。
これは、中学生でもすぐ分かります。「救済」(板書)を祈っていますね。
[問3]この救いを求める数十万〜数百万に及ぶ大量の庶民たちは、ズバリ、どこに参ったのでしょうか。資料1の(A)には何が入りますか。
Aにはすべて同じ言葉が入ります。生徒の答えは「神社」とか「お寺」などが多いですね。殿様のいる「お城」に参っていると答える生徒もいました。ごく少数ですが、「皇居」と答える生徒もいます。
正解を次の資料2から読み取らせます。
《資料2》
この人々はどこから来たのか。当初は各自思い思いに行ったが、そのうちいくつかの町が一緒にそろっていくようになり、集団参拝の形になった。大阪や近国では御千度参りの噂で持ち切りとなって、我も我もと京都を目指した。御所への道は御千度参りに行く人々でごった返した。道々には菓子やところてん、瓜を売る露店商が五〜六百人も出てにぎわったという。一方、御所の方では、最も暑さの厳しい旧暦六月ということで、参詣者たちを心配した。そこで、塀の周囲の溝をきれいに掃除して、冷たい湧き水を流した。冷たい水で手や足を洗ってもらおうという配慮であった。また、上皇からは参詣者にリンゴがふるまわれたが、一人人に一つずつ配ったところ、三万個が昼過ぎになくなったと記録されている。その他、赤飯が施されたり、茶や握り飯が配られるなど、天皇、上皇、宮家、公家たちから参詣者をねぎらう接待が盛んに行なわれた。
そう、正解は「御所」(板書)です。
[問4]この数百万もの人々は、なぜ、実際に政治を行なっている幕府にお願いに行かなかった でしょうか。
実は、庶民はすでに幕府に救済を嘆願していました。しかし、なかなか改善しなかったのです。凶作は自然現象が原因ですから起こるときは起こります。しかし、凶作が飢饉になるということは政治の責任です。庶民の政治への不満は一揆や打ちこわしという形で爆発しました。でも、幕府は有効な手を打てないでいます。そこで、庶民の中から自然発生的に「我が国は太古の昔から天皇が中心に治めてきた」という記憶が蘇ってきたのです。庶民は直感的に、この窮状を救ってくれるのは、幕府より上位にある「皇室」しかないと考えたのでしょうね。
しかし、国民の救済というのは政治上の問題です。それを庶民は幕府ではなく天皇に願ってます。幕府の立場から見れば、これは一大事なわけです。政治は幕府の専権事項ですから。
時の老中は寛政の改革で有名な松平定信でした。「御千度参り」という庶民の巨大なエネルギーを見た幕府はどうしたでしょうか。三択です。
[問5]幕府は「御千度参り」にどう対応したでしょうか。
@祈っている庶民を取り締まってやめさせた。
A祈られている方の皇室を取り締まった。
Bやめさせることができなかった。
ここは、生徒にはいろいろと意見を言わせるところですが、今日は先に進みます。実は、幕府は「御千度参り」を統制することができませんでした。強権を持つ幕府が取り締まれないなんて不思議ですね。どうしてでしょうか…、その答は後に取っておきます。
この時の天皇は、「第119代、光格天皇」(板書)です。
明治天皇のひいおじいさんにあたる方です。1771年8月15日生まれ。1840年11月19日、70歳で崩御されました。1779年、わずか9歳の時、天皇に即位されます。御千度参りは光格天皇17歳の時でした。若いですね。
では天皇側の動きを見ていきましょう。
[問6]飢饉に苦しみ、尋常ではない庶民たちの様子を見て、光格天皇はどういう行動に出たと思いますか。資料3から読み取りましょう。
《資料3》
日に何万人もの群集が御所を廻っている中、六月十二日に光格天皇は関白に自分の考えを幕府に伝えるよう指示された。その内容は記録によると、次のようなものである。
『世の中が困窮し、餓死者が数多く出ているということを光格天皇はたいへん不憫に思われ、たびたびその危惧の念を表わされた。朝廷から「施し米」を行なうか、幕府が「救い米」を出すかして国民を救うことは出来ないのか、と深くお心を悩ましておられた。幕府に申し入れるべきとのお考えである』。そして十四日、幕府の代表・京都所司代の戸田忠寛は御所に呼び出され、天皇の考えをまとめた文書を手渡されたのである。
庶民の行動を目の当りにした光格天皇は、幕府に対してついに、「『庶民を救済せよ』と申し入れ」(板書)をしたのです。これは、「開幕以来、初めて幕府の失政を問う」(板書)ものでした。実は、この行為は極めて「異例」なことでした。それまでは、政治は幕府が担当し、祭りごとと儀式は朝廷が担当するという役割分担が定着していましたから。これが、100年以上もの長きにわたって続いた慣例だったのです。幕府は決して政治には口を出させませんでした。そもそも朝廷の収入は極々わずかで、さまざまな経費は幕府が丸抱えで支給していたのですから、朝廷側が幕府の政治内容に口をさしはさむ立場にはなかったわけです。
それが今回、幕府史上始まって以来の朝廷からの「政治的申し入れ」です。それも「庶民を救済せよ」というある意味幕府の失政を問うような要求でした。
[問7]なぜ光格天皇は、このような異例の行動をとられたのでしょうか。資料4から読み取ってみましょう。
《資料4》
@一七九九年、後桜町上皇から与えられた「天皇の心得」を記した教訓に対して、光格天皇が応えた手紙が残っている。 「(意訳)君主というものは『仁(慈しむ心)』の心を根本に持たなければなりません。私も常にそれを心掛け、『人徳』が第一のことと思ってきました。自分の欲を無くし、天下万民のことのみを、慈悲の心をもって思いやることこそ、君主になる者の第一の教えです。自分のことは後にして、天下万民のことを先に取り組み、そして仁の心・誠の心を朝夕昼夜、常に忘れないことです」
A御千度参りでのエピソード御千度参りでの庶民によるお賽銭はおびただしい量であった。記録によると一日で銭四十貫文もあり、寛永通宝にすると四万枚にもなった。光格天皇は「飢饉で飢えており、苦しんでいるのだから、わずかな額であっても賽銭を投げ入れないように」と言われた。さらに、賽銭をやめさせるよう幕府に申し入れている。
B光格天皇が即位時に詠まれた御製
身のかひは 何を祈らず 朝な夕な 民安かれと 思ふばかりぞ
C光格天皇が将軍徳川家斉に贈った御製
民草に 露の情けを かけよかし 代々の守りの 国の司は
D庶民への伝達
一方の庶民の側も、天皇の意をよく理解していたと思われる。なぜなら、BCの歌は「万民の安泰をひたすら願う天皇」のありがたい御歌として、当時、世に広まっているからである。
今の中学生にとっては、「仁」といっても分からないんですね。しかし、ここが天皇の本質を理解する重要な箇所です。資料を丁寧に解説する必要があります。
●天皇の務めとは?=天下万民に「仁(慈悲の心)」を施すこと
と板書します。これは、
「太古からの天皇の義務」(板書)とされているものです。その御心は資料のAからも分かりますし、Bの御製「民安かれ」からも良く伝わってきます。Cに至っては、将軍にしっかりやりなさい、と叱咤激励しているようなものですね。
[問8]天皇から慣例にはない異例の「申し入れ」を受けた幕府は、どうしたでしょうか。
@激怒して、光格天皇をはじめ朝廷を処分した。
A今まで例がないとして天皇の申し入れを拒否した。
Bもっともな事なので、受け入れた。
やはり、@かAを選ぶ生徒が多いですね。答えを資料5から読み取らせます。
《資料5》
京都所司代・戸田忠寛は朝廷からの申し入れの趣旨と御千度参りの様子を六月二十八日付けで江戸に報じた。七月八日、ついに幕府は「救い米」五〇〇石の放出を決定し、朝廷に報告する。幕府では、勘定奉行に評議させ、さらに追加の米が必要ならば、京都所司代の判断で取り計らうように、との指示を出した。
これを受けた戸田は、八月五日に「救い米」一〇〇〇石の追加放出を決定し、朝廷に報告した。
生徒は驚きです。板書で以下のように整理します。
●天明の飢饉
↓
御所「御千度参り」
↓
光格天皇、幕府へ『庶民を救済せよ』
↓
幕府、「救い米」を供出
・7月 500石(7.5トン)
・8月 1000石(15トン)
実は、天皇から申し入れを受けた幕府は、なかなか有効な打開策をとりませんでした。天皇は何度も申し入れ、圧力をかけました。そして、幕府は開幕以来、初めて朝廷の政治的意見を聞き入れたのです。これまた異例中の異例、前代未聞の驚くべきことでした。
[問9]幕府の方も、朝廷に従うという異例の行動をとったのは、なぜしょうか。もし、幕府が御千度参りを取り締まったり、朝廷の申し入れを拒否したとしたら、どんなことが起こるでしょうか。
生徒にも容易に想像がつきます。「これは百姓一揆や打ちこわしが起こるな」ということです。幕府もそれを心配しました。幕府といえども庶民の支持がなくては政治をすることは不可能なのです。ですから、「幕府は庶民の支持する天皇の意向を踏まえなくては政治が出来ない」ということなのです。
実際これ以降、幕府の権威は落ち、相対的に天皇の権威は上昇していきました。深刻な社会不安に直面した庶民の天皇を信じる行動が歴史の流れをかえたのです。 これ以後、我が国に起こった「内憂」と「外患(対外的危機)」を簡単に資料6で見ていきます。
《資料6》
・我が国に起こった深刻な「内憂」と「外患(対外的危機)」
一七九二年 ラクスマン(露)来航
一七九六年 ブロートン(英)来航
一八〇四年 レザノフ(露)来航
一八三三年 天保の飢饉
一八三七年 モリソン号事件、大塩平八郎の乱 、この頃、百姓一揆・打ちこわしが頻発
一八四〇年 阿片戦争
一八四一年 天保の改革
一八四四年 仏軍艦琉球に来航
一八四五年 英軍艦琉球に来航 、英艦長崎の測量を要求
一八四六年 英・仏軍艦琉球に来航、ビッドル(米)浦賀に来航、仏軍艦長崎に来航
それまでとは比較にならないほど続々と外国船が近海を脅かすようになりました。また、国内問題では、庶民にとって切実だったのは、「天保の飢饉」です。
この時も天皇は、またもや次のような過程を通って事態を収めていきました。
板書して次のように、整理していきます。
●天保の飢饉
↓
大塩の乱
↓
天皇、幕府に「庶民救済」の申し入れ
前回の光格天皇の時と同じような流れですね。この時も、窮地に陥った庶民は幕府を超えた、より権威ある存在として天皇にすがり、救いを期待しました。また、天皇の方も困っている庶民を救済しようとします。その結果、またもや幕府は天皇の要求を受け入れていくわけです。ここで、今回の本題です。
[問10]庶民の中に現れた天皇の慈悲の心を信じ、そこに結集していこうとする精神のことを漢字2字で何といいますか。
これぞ「尊皇」(板書)です。
歴史の流れを大きく変えたこの尊皇精神は、この後やってくる動乱の幕末のキーワードになっていきます。
ところで、当時三百諸侯といわれた大名たちの天皇に対する思いはどうだったのでしょうか。
[問11]諸大名の考えは次のどっちだと思いますか。
@尊皇。
A天皇を何とも思っていなかった。
(ヒント)大名の「官位」は誰から与えられたのでしょうか?
大名たちは官位官職というものを持っていました。中学生には少し難しいですが、かつて勉強した『忠臣蔵』の浅野内匠頭を思い出させます。この「内匠頭」というのは官位です。その他、吉良上野介とか柳生但馬守とか…。このような官位は天皇から与えられるものです。
朝廷における政治上の役職や序列を表わしていますね。生徒も「武家の棟梁に与えられる官位は何ですか」と聞けば征夷大将軍と答えられます。「将軍職は誰から与えられるものでしたっけ?」と問えば「天皇からです」と答えます。さて、江戸時代を通して、大名たちは朝廷から官位をもらうことに躍起になっていました。なぜ、大名はそんなに官位をほしがったのでしょうか。大名たちは、こう考えていました。
「『将軍』も官位だ。自分の持つ『○○のかみ』も官位だ。ということは、自分は将軍の家来なんかじゃない。ともに天皇から与えられた役職を持っている『天皇の臣』なんだ」と。天皇のもとに将軍と自分は同格なのだ、と考えていたのです。このように全ての大名が、天皇を将軍より上位に置き、その権威の中で政治的地位を安定させていました。そこには自ずから「尊皇」の精神が存在しています。ということで[問11]の答は当然、「@尊皇」ですね。
3.まとめ
生徒には次のように話してまとめます。「これ以降、幕末の学習に入っていくわけですが、我が国は相次ぐ外国船の襲来という未曾有の国家的大危機に直面して行きます。ボケボケしていたら、日本が欧米の植民地になってしまうかも知れません。この危機を打開するには国民が強くまとまって力を結集しなければなりませんね。こんな時、日本人が上から下まで一致団結する核となるのは何でしょうか? 誰を中心にまとまったらいいですか?」。生徒は迷わず「天皇しかない」と答えます。
「御千度参り」の話を紹介すれば、幕末に突如「尊皇」が出てきたわけではないことを生徒は知り、その理解に整合性を持たせることが出来ます。
我が国の歴史では、天皇の存在は要所要所で国民の心を結集させ、国を発展させてきました。尊皇精神というのは歴史の中に一貫して流れていたものです。それは、その時代の要請に従って、強く出ているか、弱くて目立たないのかという「程度の差」であって、大名から庶民に至るまで持っていた自然な感情だったのです。
以上で私の発表を終わらせていただきます。(詳細は拙書、扶桑社刊『先生、日本のこと教えて』をご覧ください)
【参考文献】
・高森明勅『天皇から読みとく日本』扶桑社
・高森明勅『この国の生いたち』PHP研究所
・藤田覚『幕末の天皇』講談社選書メチエ
・藤田覚『幕藩制国家の政治史的研究』校倉書房
・今谷明『戦国大名と天皇』福武書店
・今谷明『武家と天皇』岩波新書
このシリーズの次の記事を読む 授業づくり最前線の目次へ
|