第17回授業作りセミナー報告 “『天皇』をどう教えるか”/PartV
ご巡幸を通して考える「昭和戦後期の天皇」

戦後期の天皇


黒田裕樹(自由主義史観研究会大阪事務局長)

今回与えられたテーマは「昭和戦後期の天皇」で、授業時間は35分ということだったので、縦断的にピンポイントで授業を進めていかざるを得ない。そこで、戦後の昭和天皇にとって重要なテーマである「ご巡幸」と「崩御」に的を絞って解説という形式を採用した。


1.昭和天皇のご巡幸への決意とGHQの思惑


昭和天皇のご巡幸は、陛下自らのご意志で実現したのであるが、これは従来の世界の常識からは考えられないことであった。戦争に敗北した国の元首は、亡命又は自殺あるいは人知れず不運な人生を終え、その血は途絶えてしまい、全く新しい王朝に取って代わるのが当然であったからだ。それだけに、陛下の全国巡幸の計画を聞いたGHQ(米国占領軍総司令部)は、当初「意図がわからない」と当惑したが、やがて一つの確信を得るに至って、ご巡幸を許可したのであった。彼らの目には、昭和天皇が多くの国民から無視され、蔑まれ、疎まれ、あるいは暴力を持って迎えられる惨めな姿しか想像できなかったに違いない。


2.ご巡幸における国民の感激、与えられた勇気


昭和21年(1946年)2月の神奈川県下の昭和電工を振り出しに、昭和29年(1954年)8月の北海道ご視察まで、日数165日、述べ3万3千キロに及ぶご巡幸は、GHQの思惑とは大きく異なり、各地で国民の熱狂的な歓迎を受けられた。陛下が直接お声を掛けられた人々は2万人にものぼったという。

しかし、何と言っても終戦直後である。ご巡幸の過程で、列車の中や学校の教室にお泊りになるなど、各地での宿泊施設や入浴もままならないこともあったが、昭和天皇は「戦災の国民のことを考えれば何でもない」と意に介されなかった。 真夏に福島県の炭坑をご巡幸なさった際には、落盤の危険も顧みず、地下奥深くの坑内にまで入られて、灼熱の中で坑夫たちを励まされた。佐賀県の戦災孤児の施設のあった寺では、両親を亡くしながらも「自分は御仏の子供だから淋しくない」と気丈に答えた小さな女の子に対し、涙を流されたこともあった。

ところで、昭和30年代から始まる戦後復興における高度成長は、あたかも突然始まったかのように教科書に記載されていることが多いが、実は昭和天皇のご巡幸こそがその根本的な遠因なのである。昭和29年まで続いたご巡幸において、人々を励まし、人々と共に悲しみ、涙を流す昭和天皇のお姿を見た国民は大いに感激した。そして、陛下の御心に恥じぬように頑張らねば、という気持ちが芽生えていった。戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのである。


3.今上陛下にも受け継がれたご巡幸への思い


昭和天皇のご巡幸への思いは、今上陛下にも受け継がれている。10年前の平成7年(1995年)1月に阪神・淡路大震災が発生した際、余震の危険性が残されていたにもかかわらず、わずか2週間後に、天皇・皇后両陛下が被災者お見舞いのため神戸市などをご訪問なさった。

復旧作業の妨げになってはいけないという両陛下の強い意向で、随員はわずか数人で、現地の移動は交通規制を行わない相乗りバスでという異例のご訪問に、多くの被災者は圧倒され「本当の優しさを見せて下さった」と感激した。多くの随員を大名行列のように引き連れながら、他人事のような対応しか出来なかった当時の村山首相との違いが話題になったものである。

このご訪問では、感涙もののエピソードがある。避難所をお見舞いなされた皇后陛下が若い女性の下へ歩まれて、お座りになって声を掛けられた瞬間、堰を切ったように女性が号泣したのである。その女性は震災で家族を亡くしたらしく、国母であらせられる皇后陛下のお姿に、亡くなった家族の生前の姿が重なったらしい。激しく泣きじゃくる女性に対し、優しく声を掛けられた皇后陛下。今でもその光景を思い出すと、筆者は涙ぐんでしまう。実際に模擬授業で話していた時にも、感極まって数秒間言葉が出なかった。


4.ご重体、そして崩御


昭和20年代に全国をご巡幸された昭和天皇であったが、昭和47年(1972年)に米国から返還された沖縄県へのご巡幸だけが達成できていなかった。ようやく昭和62年(1987年)に秋の国体が沖縄で行なわれることになり、開会式ご出席も兼ねて念願のご行幸が実現できると思った矢先、直前になってご病気によって中止となってしまった。陛下のご無念は如何ばかりであっただろうか。

実はこのとき、昭和天皇は病魔に蝕まれていたのである。宮内庁は陛下の玉体にメスを入れる決断を下した。手術は成功し、一時は奇跡的に回復なさったが、翌年の昭和63年(1988年)9月19日夜、大量の吐血をなされてご重体となられた。

天皇陛下のご不例に、各地で計画されていた祭りや祝賀行事が一斉に中止になるなど、日本国内は自粛モード一色になった。その余りもの自粛ぶりに、一部の国民やマスコミ(この「一部」と言うところがミソであるが)からは不満の声も上がったが、自分の身内が一大事の際に馬鹿騒ぎする奴がいるものか。その証拠に、陛下のお見舞いに皇居へ記帳に訪れた国民の数は、ご不例後3ヶ月間で延べ800万人を越えたという。

昭和天皇のご容態はその後も芳しくない日々が続いた。しかし、そんな中でも、陛下は国民のことを第一にお考えになっていた。ある日、陛下は病床で「もう、だめか」と言われたことがあった。付き添っていた医師たちは、ご自分の命のことかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。ご自身が生命の危機に瀕しても尚、沖縄ご訪問に意欲を燃やされる昭和天皇の気高き御心であった。

しかし、陛下のご執念は実らなかった。年が明けた昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分、太陽が静かに沈んでいくように、昭和天皇は崩御された。御年87歳であった。陛下の崩御に、多くの国民が悲しみに包まれた。そして2月24日に新宿御苑でおごそかに行なわれた大喪の礼では、折からの氷雨にもかかわらず、世界163ヶ国、28国際機関からの弔問施設が世界各国から参集した。わずか半世紀前に、世界の多くの国を相手にして激しい戦争を戦った国の元首にあったにもかかわらず、恩讐を越え、昭和天皇に敬意を表したのである。また、皇居から新宿御苑へ続く6.5キロの雨の沿道で昭和天皇をお見送りした国民の数は60万人に及んだという。いかに昭和天皇が多くの国民に慕われていたかを如実に物語る事実である。


4.まとめと今後の意向


昭和という激動の時代を生き抜き、まさに国民の象徴として、我が国を支えてこられた昭和天皇。自らが果たすことがかなわれなかった沖縄ご巡幸は、今上陛下によって平成5年(1993年)に実現された。また「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」との目的で、昭和天皇のご生誕の日である4月29日は、平成19年(2007年)から「昭和の日」として蘇る。

昭和が終わって早や17年の歳月が流れたが、国民とともに歩まれた昭和天皇の御心は、今も尚、そして永久に我が国と国民の心の中に生き続けているのである。

このような形式で模擬授業を締めくくったのであるが、幾人の先生方から貴重なご意見をいただいた。上原卓先生からは、昭和天皇が残された御製(=和歌)を授業で取り上げてみてはどうかと言う提案があった。数多く残された御製を集めて、それだけで授業を行なうのも確かに魅力的である。また、藤岡代表からは、これを機会に是非本格的な授業形式を学び、次回の模擬事業に生かしてほしい、との有難い言葉をいただいた。今まで関西例会の事務局員として、非教師の立場から数多くの先生方の模擬授業を拝聴してきたが、これを期に将来は社会人出身の異色の教師を目指してみるのも一つの生き方かもしれない、と密かな野望(?)を持つに至った。ひょっとしたら、数年後には皆さんの仲間入りを果たすことになるかもしれませんよ。

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