模擬授業
宗教の心


森 一郎(神戸市立楠高等学校教諭)

はじめに

※本稿は、本年一月二八日、関西自由主義史観研究会において、参加者を生徒役として実施した模擬授業の記録である。

日本国憲法及び教育基本法の改正が本年も引き続き話題に上るのは必定と思われる。従来からも、右記の改正に際しては、宗教教育の重要性が説かれてはいる。しかし、具体的にどのような教材を使って、どのような教育をするかについては、ほとんど明確な案が出ていない。今回の模擬授業は、こうした点を考慮し、公立学校での宗教教育を考える手掛かりを得たいと考えた。具体的には、高校「現代社会」または「倫理」の授業を想定した授業案である。


1 学校教育と宗教

授業の導入として、学校教育の中での宗教の取り扱いという問題それ自体について、法律の面から考えさせた。

憲法二十条(信教の自由)では、なるほど信教の自由はこれを保障すると書かれているが、第三項において「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」と定められている。また、教育基本法第九条(宗教教育)では、「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は教育上これを尊重しなければならない」と規定していながら、第二項では「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教活動をしてはならない」としている。つまり、宗教についての教育は大切であるが、特定の宗教を教えてはいけないとしているのである。言葉を代えて言えば、神や仏という言葉を使わずして宗教について教えなさい、と言っているようなものである。以上の点を確認する。


2 「天」―「神」や「仏」に代わる言葉

われわれの日常生活の中で、「神」や「仏」に代わる言葉を探させた。生徒役からは「絶対者」「創造主」「超越者」「天」などの言葉が挙げられた。加えて、授業者からは、村上和雄氏が『生命の暗号』等で述べている「サムシング・グレート」という言葉もあると紹介した。
しかし、今回は、「天」と言う言葉を使って、宗教的な物の見方・考え方を一緒に考えてみようと告げ、この天という言葉を使った佐藤一斎の『言志四録』を取り上げた。


3 佐藤一斎と『言志四録』

佐藤一斎とはどのような人物なのか。また『言志四録』とはどのような書物なのか。

a.佐藤一斎(一七七二〜一八五九)は、美濃岩村藩家老の次男として生まれる。五五才のとき、岩村藩の家老となり、七十才のとき、幕府が設立した唯一の大学である昌平坂学問所(昌平黌(こう))を統括した儒官となる。今で言えば東京大学の総長に当たる。門下生は三千人とも言われ、その中には佐久間象山、渡辺華山らがいる。また日米和親条約締結の際には外交文書の作成にも関わった。

b.『言志四録』とは、一斎の四二歳から八二歳までの四十年間にわたって書かれたもので「言志録」、「言志後録」、「言志晩録」、「言志耋(てつ)録」の全四巻を合わせて『言志四録』といっている。全部で一一三三条から成る語録で、その内容は学問、思想、人生観など多岐にわたり、まさに一斎の魂の結晶といえる大作である。


4 小泉首相が引用した一斎の言葉

平成十三年、国会で教育改革関連法案を審議している時、小泉首相は佐藤一斎の次の言葉を引用して演説した。

少(わか)くして学べば、則(すなわ)ち壮にして為(な)すことあり。壮にして学べば、則ち老いて衰(おとろ)えず。老(お)いて学べば、則ち死して朽(く)ちず。

現代語訳:
子供のころからしっかり勉強しておけば、大人になって重要な仕事をすることができる。大人になってからも更に学び続ければ、老年になってもその力は衰えることがない。老年になってからも尚(なお)学ぶことをやめなければ、死んだ後も自分の業績は残り、次の人々にも引き継がれていく。

以上の言葉を声に出して読み、『言志四録』の中の言葉は、現代においても様々な場面でよく引用されていることを紹介する。


5 「天に事(つか)うる」

次の二つの原文を読み、一斎が天という言葉をどのように使っているのか確認する。

凡(およ)そ事を作(な)すには、須(すべか)らく天に事(つか)うるの心有るを要(よう)すべし。
人に示(しめ)すの念(ねん)有るを要(よう)せず。

現代語訳:
すべて事業をするには、天に仕える心をもつことが必要である。ひとに示す気持ちがあってはいけない。

つまり、人から評価されるために行動するのではなく、あくまでも天の基準にそって行動することが大切である、ということ。また、日本人が伝統的にもっている、「人が見ていなくてもお天道様が見ている」という考え方にも通じるものであることを確認する。

能(よ)く子弟を教育するは、一家の私事(しじ)に非(あら)ず。是(こ)れ君(きみ)に事(つか)うるの公事(こうじ)なり。君に事うるの公事に非ず。是(こ)れ天に事(つか)うるの職分(しょくぶん)なり。

現代語訳:
よく子弟を教育するのは、一家の私事でない。これは君に仕える公事である。いや、それどころではない。教育は人間として天に仕える大切な本分である。
以上の二つの原文から言えることは、人の行動は、他人の評価を気にしたり、また自分(家)の利益のみとらわれるのではなく、あくまで天の規準に沿った行動を行うべし、ということである。


6 天には道理、すじみち、法則がある

それでは、一斎のいう天とはそもそもどのようなものであろうか。同じく原文によって確認していく。

人、患(さいかん)に罹(かか)れば、鬼神(きしん)に(いの)りて以って之を禳(はら)う。苟(いやしく)も誠を以て(いの)らば、或いは以て験(しるし)を得可(うべ)し。然(しか)れども猶(な)お惑(まどい)なり。凡(およ)そ天来(てんらい)の禍福(かふく)には、数(すう)有りて、趨避(すうひ)す可(か)ならず。また趨避(すうひ)する能(あた)わず。鬼神(きしん)の力、縦(たと)い能(よ)く一時之を禳(はら)うとも、而(しか)も数(すう)有るの禍(わざわい)は、竟(つい)に免(まぬが)るること能わず。天必ず他の禍(わざわい)を以て之に博(か)う。譬(たと)えば頭目(とうもく)の疾(やまい)諸(これ)を腹(ふく)背(はい)に移すが如し。何の益か之れ有らむ。故に君子は順(したが)いて其(そ)の正を受く。

現代語訳:
人が災いや心配事に出会うと、神様にお祈りして、これをはらおうとする。誠の心で祈るならば、あるいは効験を得るかも知れない。しかし、それでも惑(まど)うものである。凡(およ)そ天から来る禍(わざわい)や幸福は、道理があって避けるべきものでないし、また、避けられないものである。鬼神(きしん)の力がたとえ一時的にこれをよくはらったとしても、道理に支配される禍(わざわい)は結局免れることができない。天は必ず他の禍をもってこれに換(か)えるものである。例えば、頭や目の病気
を腹や背中に移すようなものである。これでは何の益もない。故に君子は天に従っていれば、正しい生き方ができる。

現代語で「道理」と訳した部分は、原文では「数」という漢字で表現している。漢和辞典の「数」の項のコピーを配布して、ここでの「数」は「道理」と解するのが妥当と説明した。

天を以(もっ)て得(う)る者は固(かた)く、人を以て得(う)る者は脆(もろ)し。

現代語訳:


天然自然の法則によって得たものは堅固(けんご)なものであり、人の智謀(ちぼう)によって得たものは脆(もろ)い。

以上のことから、天には道理、すじみち、法則があり、それは一つの矛盾もなく堅固なものである、と解釈することができる。


7 天の道理とは

では、一斎のいう「天の道理」とは、具体的にどのようなものであろうか。再び原文に当たって確認する。

人情(にんじょう)、吉(きち)に趨(おもむ)き凶(きょう)を避(さ)く。殊(こと)に知(し)らず、吉凶(きっきょう)は是(こ)れ善悪の影響なるを。

現代語訳:
人情は「吉」を求め、「凶」を避けるものである。しかし、殊(こと)に人の吉凶はその人の行いの善悪の影(かげ)や響(ひび)きであることを知らない。

ある人の人生が「吉」であるか「凶」であるかは、何で決まるであろうか。一斎は、結局はその人の行いの善か悪かによって決まると言っている。つまり良い行いをすればよい結果が生じるし、悪い行いをすれば悪い結果となると。たしかに当たり前のことではあるが、しかし道理とは本来そのようなものではなかろうか。結局道理とは、

A  →  B
X  →  Y

と表わせるようなものである。つまり、Aという原因からBという結果が生じるし、またXとい原因であればYという結果が生じるようなものである。言葉を代えて言えばAと言う原因からはYという結果は生じないことになる。ところが現実には悪い行いをしながら良い結果を求める者の何と多いことか。

次の原文も現代に通じるような例である。罪(つみ)無(な)くして愆(とが)を得(う)る者は、非常の人なり。身は一時に屈(くつ)して、名は後世に伸(の)ぶ。罪有りて愆(とが)を免(まぬが)るる者は、奸佞(かんねい)の人なり。志(こころざし)を一時に得て、名は後世に辱(はずかし)められる。古(いにしえ)に謂(い)う。「天定まりて人に勝つ」と。是れなり

現代語訳:
罪がないのに罰せられる者は、大人物(だいじんぶつ)である。こういう人はある一時期は屈服するが、その名は後世までほめたたえられる。反対に、罪があるのに罰せられない者は、よこしまで悪賢(わるがしこ)い者だ。こういう人は、一時目的を達しても、その名は後世に辱められる。昔の言葉に「天の道理が定まっていて、到底人の及ぶ所ではない」とは、これをいうのである。

悪いことをして人をごまかせたとしても、天はしっかり見ており、ごまかせないということである。まさに最近起こった一級建築士の耐震強度偽装問題そのものを言っているかのごとくである。

この原文を要約すると、
罪がないのに罰せられた人 → 後世までほめられる 
罪があるのに罰せられない人→ 後世まで辱められる 
と表わすこともできる。これもまさに道理である。

富人(ふじん)を羨(うらや)むこと勿(なか)れ。渠(か)れ今(いま)の富(とみ)は、安(いず)くんぞ其(そ)の後(のち)の貧(ひん)を招(まね)かざるを知(し)らんや。貧人(ひんじん)を侮(あなど)ること勿(なか)れ。渠(か)れ今の貧は、安(いず)くんぞ其(そ)の後の富を胎(たい)せざるを知らんや。畢竟(ひっきょう)天定(てんてい)なれば、各(おのおの)其(そ)の分(ぶん)に安んじて可なり。

現代語訳:
富める人を羨(うらや)んではいけない。彼の今の富が、どうして後日の貧乏(びんぼう)を招かないものであることがわかろうか。また貧しい人を侮(あなど)ってはいけない。彼の貧しさがどうして後日の富のもとでないことがわかろうか。
結局、貧富は天の定める所であるから、各人はその分に安んじていればよろしい。(それぞれの立場で最善をつくしていればよい)

これもまた最近の流行語にもなっている「勝ち組」「負け組」を連想させるような言葉である。「勝ち組」と言われるIT長者においても結局は一時的な場合が多いのである。つまり今の「富」や「貧」はいつまでも続くものではないことを示している。

今の富 → 後日の 貧 
今の貧 → 後日の 富 

富や貧は、いずれも天の道理にしたがって導かれるものであるから、各人は自分の与えられた役割をしっかり果たすことが大切であると言っている。

人に事(こと)を共にするに、渠(か)れは快事を担(にな)い我は苦事に任(にん)ぜば、事は苦なりと雖(いえど)も意(い)は則(すなわ)ち快(かい)なり。我は快事を担(にな)い、渠(か)れは苦事に任(にん)ぜば、事(こと)は快なりと雖(いえど)も、意(い)は則(すなわ)ち苦なり。

現代語訳:
人と仕事を共にする場合、相手が愉快な(楽な)仕事を分担し、自分が苦しい仕事を引き受けるならば、仕事そのものは苦しいけれど、心は愉快である(はればれする)。反対に自分が愉快な仕事を分担し、相手に苦しい仕事を押しつけるならば、仕事は愉快(楽)であるが、心は苦しい。

つまり、  
相手が愉快な仕事、自分は苦しい仕事 → 仕事は苦しいが、心は愉快
自分が愉快な仕事、相手が苦しい仕事 → 仕事は愉快だが、心は苦しい
ということになる。これも道理である。


8 天は我々に何を望んでいるのか

以上に見てきたように、天には道理があることがわかった。では、天は一体我々に何を求めているのか、また何を望んでいるのか。原文で確認していく。

人は須(すべか)らく自ら省察(せいさつ)すべし。「天何(なん)の故に我が身を生み出し、我をして果(はた)して何の用に供(きょう)せしむる。我既(すで)に天物(ぶつ)なれば、必ず天の役(えき)あり。天の役共(つつし)まざれば、天の咎(とが)必ず至(いた)らん」と。省察してここに到(いた)れば、則(すなわ)ち我が身の苟(いやしく)も生くべからざるを知る。

現代語訳:

人は誰でも次のことを反省し、考えてみる必要がある。天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか。自分は天のものであるから、必ず天から与えられた役割があるはずである。その天の役をつつしんで果たさなければ、必ず天罰(てんばつ)を受けるであろう。こう考えてくると、うかうかと生きていけないことに気づくはずである。

最近は「自分探(さが)し」が盛んである。「自分は一体何者なのか」「自分は何ができるか」と問うことが、一種の流行のようになっている。しかしその根底には、自分にとって得になるためには、という自己中心の発想があるのではないだろうか。

一斎はそのことについて、あくまでも「天」からの視点で考えようとしている。つまり「天」の視点から自分の存在、自分の役割を見つめることがいかに大切かを、この一文は示している。また「天」から与えられた役割も様々あるが、すべてに共通することは、人のためにつくすということではなかろうか。働くとは「傍(はた)を楽(らく)させる」ということだといわれているが、別の言葉でいえば「人様(ひとさま)のお役に立つ」、ということである。そして、もしそうした役割をはたさなければ、天罰があるといっている。

つまり、
天から与えられた役割を果たす → そうでなければ天罰があるということである。これも道理である。

凡(およ)そ遭(あ)う所の患難(かんなん)変(へん)故(こ)、屈辱讒謗(ざんぼう)、払(ふつ)逆(ぎゃく)の事は皆天の吾が才を老(おい)せしむる所以(ゆえん)にして砥礪(しれい)切磋(せっさ)の地に非ざるは莫(な)し。君子は当(まさ)に之(これ)に処する所以を慮(おもんばか)るべし。徒(いたず)らに之を免(まぬが)れんと欲するは不(ふ)可(か)なり。

現代語訳:
すべて我々が人生の途中で出会うところの苦しみ悩み、突然の変わった出来事や人から辱めを受ける事、人からそしられる事、自分の思うようにならない事などは、すべて天が自分の才能を成熟・成長させようとするものであって、いずれも自分の修養になくてはならないものばかりである。したがって人の上に立つような人は、このような事に出会ったならば、これをいかに善処すべきかを真剣に考えるべきであって、これから逃れようとしてはいけない。

現代は「癒(いや)し」ブームである。癒し音楽のCDや、癒しグッズがよく売れているという。たしかに、煩(わずら)わしいこと、いやなことは避けたいというのは人間の本能であろう。しかし、かつての日本人はいやなことに対して、すぐにそれを避けたいとは思わなかったはずである。「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にする」という言葉があるように、つらいこと、いやなことは自分の成長にとって必要なことだと認識していた。つまり、いやなこと、煩わしいことは天が自分に対して与えた試練であり、それを乗り越えることこそが自分を高めるのだということを共通認識としてもっていたのである。


9 天の道理を会得(えとく)するために

最後に、こうした天の道理を実際に会得するには、どのような方法があるのかを考えていく。ところで、一般に宗教にはある種の行為が付随しているのが通常である。そこで、次のような演習課題を出し、宗教的行為について考える。

演習課題:
宗教の心(信仰)をつかむためには単に書物を読むだけでは、会得できません。それには行動・行為、あるいは態度に表わす必要がありますが(宗教的行為)、具体的にはどのようなものがあるでしょうか。

授業者が用意したいくつかの「宗教的行為」を紹介する。

宗教的行為:
祈(いの)り、拝(おが)む、 礼拝(れいはい)、参拝(さんぱい)、参(まい)る、お参(まい)り、 遥拝(ようはい) 、唱(とな)える、合掌(がっしょう)、祈?(きとう)、祓(はら)う 禊(みそぎ)、座禅(ざぜん)、踊(おど)る、巡礼(じゅんれい)、祀(まつ)る(祭(まつ)る)、瞑想(めいそう) 黙想(もくそう)

本時では、このような宗教的な行為の中から一斎が取り上げた「坐る」という行為に注目する。

凡(およ)そ生物は皆(みな)養(やしない)に資(と)る。天(てん)生(しょう)じて地(ち)之(こ)れを養(やしな)う。人は則(すなわ)ち地気(ちき)の精英(せいえい)なり。吾(わ)れ静坐(せいざ)して以(も)って気を養い動行(どうこう)して以(も)て体(たい)を養い、気体(きたい)相資(あいし)し、以て此の生を養わんと欲(ほっ)す。地に従いて天に事(つか)うる所以(ゆえん)なり。

現代語訳:
凡(およ)そ生きとし生けるものは皆「養(よう)」の一字に頼らないものはない。天が万物を生じ、地がこれを養うことはいわずもがなである。そして人は(地上における最も勝(すぐ)れたもので)地気の精髄(せいずい)ともいうべきものである。このように万物の霊長である自分は静坐によって、天から受けたこの気を養い、(精神を修養し)運動をしてこの体力を養い、心身相資(あいたす)けて、この生命を養おうとしている。これは万物を養う地に従って、万物を生じた天に事(つか)える所以(ゆえん)である。

一斎は「静座」により、天から受けた気を養い、またそれが天に事(つか)えることだと言っている。

端坐(たんざ)して経(けい)を読む時は、間思(かんし)妄念(ぼうねん)自然に消滅す。猶(な)お香気(こうき)室(しつ)に満ちて、蚊(ぶん)ぼうの入(い)る能(あた)わざるがごとし。

現代語訳:
端然と坐して、経書を読む時は、一切の煩悩妄想(もうそう)が自然に立ち消え、ちょうど室内に良い香りが満ちていれば、蚊やねきり虫などが入ることができないようなものである。

静坐(せいざ)する数刻(すうこく)の後、人に接するに、自(おのずか)ら言語の叙(じょ)有るを覚(おぼ)ゆ

現代語訳:
静坐して数時間後に、人に接すると、自然に話す言葉に筋道が立っていることに気付くものである。

以上三つの原文は、いわば一斎による静座のすすめである。静座することによって、天から受けた気を養うことができ、また静坐した後、話をすると言葉に筋道が立っているという。つまり言葉に筋道が立つということは、すなわち道理がわかるということである。このように、一斎は「坐る」ということが、天の法則である道理をつかむ一つの方法であると言うのである。


おわりに

「天」という言葉の起源をさぐっていく、と中国の儒教あたりに行きつくが、日本人はその天という言葉を生活の中にも取り入れていった。「天が見ている」、「天に向かってつばを吐く」など、日常生活にも天と言う言葉を使って、自分の行動を律していた。しかし、戦後、日本人はこの「天」という言葉を失ってしまったのではなかろうか。いま一度、「天」の思想を取り戻(もど)す必要があるように思われる。


参考文献

・川上正光訳注 『言志四録』 講談社学術文庫
・神渡良平 『佐藤一斎「言志四録」を読む』 致知出版社
・赤根祥道 『自分を磨く名著「言志四録」を読む』 三笠書房
・京極高宣 『儒教に学ぶ福祉の心「言志四録」を読む』 明徳出版社
・中村安宏 『誰でもわかる重職心得箇条』 平凡社
・山折哲雄 『「坐」の文化論』 講談社学術文庫
・貝塚茂樹 『戦後教育の中の道徳・宗教』文化書房博文社
・杉原誠四郎・大崎素文・貝塚茂樹 『日本の宗教教育と宗教文化』 文化書房博文社

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