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模擬授業報告
祝昭和天皇の御巡幸

竹内孝彦(千葉県公立小学校教諭)
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《はじめに》
戦後復興の精神的な原動力となった昭和天皇の御巡幸の授業である。本授業のタイトルである「昭和天皇の御巡幸」は、発問の中で考えさせるため、それは、伏せたまま授業を始めた。
《授業展開》
終戦直後のお話です。
家を焼かれ、衣服を失い、その日の食べ物にもことかいていました。配給米は、一日分が二合一勺しかなく、主食の代用にジャガ芋、大豆、豆かすなどが配給されると、その分だけ米の量が減らされるのでした。国民は、袋をかついで農家へゆき、なけなしの衣類や貴重品とひきかえにやみ米を手に入れました。皮(衣服)をはいで食べるところから、筍生活といわれたものです。
■発問 直接、間接の御体験をお話下さい。
●小学校三年生のころですが、食料がなくてひもじい思いをしました。配給は、高粱や澱粉粕でした。澱粉粕は、くさったような饐えたようなにおいがします。それを洗って団子にして食べました。空腹感でお腹がひりひりしていましたが、おいしく食べた記憶があります。
●お米の代わりに砂糖が配給されました。キューバ島の赤茶色のものです。
昭和天皇は、二十年九月に連合国軍最高指令長官マッカーサーとの会見におのぞみになり、次のように仰せられます。
「一切の責任は自分にあるから、どのようにしてもらってもよいが、国民を飢えさせたいでもらいたい。」
■昭和二十年八月の終戦時にお詠み遊ばされた御製です。次の四首から選んでください。
○みほとけの教まもりてすくすくと生ひ育つべき子らにさちあれ
○わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ
○身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
○ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ
※参加者のほとんどは「身はいかに」の御製を選ぶ。
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
■昭和天皇は二十年十月に、ある御決意を語られました。何を語られたと思いますか。
○御退位。戦争を開始した責任を感じられ、天皇の地位を退くことを語られた。
○アメリカに負けないように食糧を作っていこう。
○困窮した全ての国民に会って励ましたい。それほど国民のことを愛されていた。
○臥薪嘗胆。いつの日かアメリカを倒せる強い国民になろう。
○実際に国民のなかに入っていくと、国民に袋叩きになるのではないか。
○それでもかまわない。それをさしおいてでも責任を一身に担おう。それが「身はいかに」の御製に表れている。
当時、この仰せを拝した宮内府次長加藤進氏(平成五年没)は、その御言葉を次のように書きとどめられています。
〈この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。このことをどうしてもなるべく早い時期に行いたいと思う。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。宮内官はその志を達するよう全力を挙げて計画し実行してほしい。〉
昭和二十一年から二十九まで満八年半かかって、全国を御巡幸なされました。行程は三万三千キロ、総日数は百六十五日、御成りの場所は千四百十一ヶ所に及びました。
昭和二十一年二月、御巡幸の最初、神奈川県川崎・横浜両市御視察のときにお詠み遊ばされた御製はどれでしょう。(残りの三首を提示する。)
※参加者は、「わざはひを」あるいは「ふりつもる」の御製を選ばれた。
わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ
●拝誦し、筆写する。
昭和天皇が全国御巡幸でまず会われたのは、戦死して遺された家族、海外からの引き揚げ者、そのなかでも特にいたいけな幼児たちでした。陛下は、食糧の増産のため、田の畦をあゆまれ、むさくるしい農家の中へもドンドンはいってゆかれました。産業再建のためには、石炭の増産が急がれます。陛下は作業服をお召しになり地下千五百メートルの炭坑にも入ってゆかれ、坑夫たちを励まされました。
昭和二十四年五月二十二日、佐賀県では、まず第一番に戦災引揚孤児を収容した「洗心寮」に入られました。ここには三十九名のよるべなき幼児、児童がいます。主に満州で両親を亡くした子供達でありました。
孤児たちは父母の位牌を抱いています。
このいとけない孤児たちに陛下は思わず涙ぐまれ、「みんなよく帰って来ましたね。立派な人になって頂戴ね。」と御声をかけられ、一人一人に「いくつになるの」とお尋ねになられると「六つ」「七つ」「八つ」「十三」と孤児らは涙ぐんで答えました。
父はソ満国境で戦死、母は引揚げの途中で死亡、その最後の息の下で「天皇陛下のいらっしゃる祖国は安全だから帰れ」といわれ、叔父に連れられて帰国した小学四年の女の子には、「どこから帰ったの」と尋ねられ、二度も頭をなぜられました。
同じく満州から引揚げて来た小学五年の男の子が、いつの間にか陛下の御服の端をつかんで離さず、陛下の後をくっついて歩き出しました。周りの者が驚いて手を放させようとしますが、陛下はニコニコ笑っておられます。そして、とうとう御帰り御車の所まで着てしまいます。陛下が御車に乗ろうとされたとき、その子が「また来てね」と申し上げると、陛下は「また来るよ、また来るよ」と御答えになられました。寺の境内を埋め尽くした奉迎者の中には、声をあげて無きくずれる人もありました。
後日、このときの様子を御詠み遊ばされた御製はどれでしょう。
みほとけの教まもりてすくすくと生ひ育つべき子らにさちあれ
●拝誦し、筆写する。
昭和天皇の御巡幸、または、陛下の行幸、お出ましのときの印象をお聞かせ下さい。
●山形駅のホームのわきに天皇陛下をお慕いする民がぎっしりつめかけ万歳三唱していたのを覚えています。
〔ビデオを御覧下さい。〕
(これ以降は、時間の都合で説明するにとどめた。)
■昭和天皇のように、全国を御巡幸された天皇がもうお一方お出でになりますが、どのお方だと思いますか。
●明治天皇
明治天皇の六大御巡幸
明治五年 西国巡幸・・・中国、四国、九州地方
同 九年 東北巡幸・・・東北地方、函館
同十一年 北陸、東海道巡幸・・・ 北陸、京都、東海
同十三年 中央道巡幸・・・甲府、松本、名古屋等
同十四年 東北、北海道巡幸
同十八年 山陽道巡幸・・・山口、 広島、岡山、神戸等
明治天皇行在所、明治天皇御小休所といった御遺跡は全国で三百十五箇所もあります。 明治天皇は、地域の特産物を御覧になり、産業を御奨励されました。また、大元帥陛下として、軍隊の鑑兵式にお臨みになり、士気を高められました。地方の大きなお宮を御参拝になられました。
●国民を励まされた。
●士気を高められた。
●日本の危機にあたって、御巡幸された。
●ほぼ全国をまわられた。
昭和天皇が敗戦でうちひしがれた国民をお励ましになられたことに似て、国民の精神を賞め、励まされ、その向かうところを知らしめます。なお、大正天皇は御病弱であらせられたため、お出ましになられませんでしたが、皇太子時代に御巡幸なされています。
この御巡幸がやがて国民を統合させ、明治での富国強兵、殖産興業、昭和の戦後復興そして高度成長の原動力となりました。
《参考文献》
・『昭和天皇の御巡幸』鈴木正男 平成四年 展転社刊
・『昭和天皇のおほみうた』鈴木正男 平成七年 展転社刊
・『昭和天皇』小堀桂一郎 平成十年 PHP研究所刊
・『鳥見のひかり・天杖記』保田與重郎 平成十一年 新学社刊
・『歴史と教育』第九十九号/「昭和戦後期の天皇」黒田裕樹、「昭和戦前・戦中期の天皇」安達 弘 平成十八年 自由主義史観研究会刊
・『明治天皇行幸年表』昭和八年 聖文閣出版部刊
『東京明治天皇聖蹟』昭和十五年 明治神宮祭奉祝会刊ビデオ「昭和天皇」江藤淳監修 毎日映画社製作
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