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授業案報告
占領期の日本

白洲次郎を通して

高橋智之(岩手県公立小学校教諭)
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《はじめに》
昭和20年の終戦から始まる、日本が占領されていた時期についてどのようなイメージを持っているだろうか。私のイメージを極簡単に振り返ってみる。
最初のイメージは、昭和20年8月15日で戦争が終わり、占領されているという意識は希薄であった。GHQ・マッカーサー・サンフランシスコ講和会議とうの知識はあったが、占領された特別な時期であったという意識とは結びついていなかった。
次のイメージは、遅れた野蛮な国が無理な戦争を引き起こし、世界に多大な迷惑をかけた。日本(遅れた国)をアメリカ(進んだ国)が教え導いて日本をすばらしい国に生まれ変わるための改革をGHQ主導で行った時期という、所謂、東京裁判史観と言われるイメージであった。
そのようなイメージは、言論統制のもとにアメリカに都合よく作られたイメージであり、実態は、日本の弱体化(占領前期と占領後期の国際情勢の変化、GHQ内における主導権争い等での方向修正はあるが)の目指したものであり、つまりは、アメリカの国益を中心に考えて改革が行われていた時期である。
そのような占領政策の実態について取り上げた授業案をいくつか実践されている。その内容は、「占領の実態は〜でした。」というアメリカ側が何をしたかという視点(占領期の実態を暴くイメージ)で展開されているように思う。占領期とは、決してありがたいものではない、(現在でも、占領期をありがたい時期であったと思っている人は結構いると思うが)日本にとっては主体性を失った辛い時期であったと捉えるならば、私は次のステップとして次のような疑問がわいてきた。
GHQと交渉にあたった日本側の人間は占領期をどのようにとらえ、どのように行動していたのだろうか。戦争に負けたという圧倒的にふりな状況の中で日本側はどのような行動をしたのかという、日本側の視点から占領期についてアプローチしようと考えた。
《授業展開案》
(1)めあて
戦争に負けたという圧倒的な不利な状況の中でも、日本人としてのプライドを忘れず、その後の日本について考えながら行動(特にも憲法改正に関わって)した人物(白洲次郎)を通して、占領期について日本側からのイメージで理解する。
※本時は、占領政策の実態を捉えた次の段階としての授業案である。
※今回のポイントは、憲法の中身でなく、憲法がどのようにしてつくられたかという
過程に重点をおく。かりに、どんなにすばらしい憲法だとしても、与えられたというのでは、自主性という観点から問題があると考える。
※白洲次郎の考えや行動は、現在の日米関係のあり方についても一石と投じるものではないかと考える。
(2)時数2〜3時間
(3)展開案
○は教師の発問・指示・説明、●は、予想される児童の反応、※は留意事項、・検討事項
@終戦の状況
○(皇居前で玉音放送を聞く人々の写真を提示)昭和20年8月15日、日本の人々はラジオ放送で日本が戦争に負けたことを知りました。その時はどのような気持ちだったのでしょう。
●悲しい。うそだ。まだ戦う。戦争が終わってほっとした。
○その後、マッカーサーを中心とするGHQ(連合軍最高司令部)が日本を占領しました。占領政策の目的はなんだったのでしょうか。
※服部先生の占領史の導入、公職追放を小学校バージョンで行う。
※日本という国の枠の外に、GHQという強大な権力が存在したことをおさえる。
A白洲次郎を通して憲法改正について理解する。
○占領期に活躍した人物を取り上げて学習していきます。(写真を見せながら)白洲次郎という名前です。写真を見て気がついたことを発表してください。
●かっこいい 頭がよさそう、お金持ち など
○白洲次郎の生い立ちを紹介します。 (資料1)
○そんな白洲次郎が43歳の時、外務大臣吉田茂に抜擢されて、終戦連絡事務局参与(後に次長)という役職につきます。GHQと日本政府の間を取り持つ調整役のような仕事していました。(資料2)
GHQの指令の中で特に重要だったのは、憲法の改正問題です。憲法とは国の一番大事な決まりですから、それをかえるというのは、とても大変な作業になります。明治憲法は、10年ちかくかけてつくっています。
○日本政府は、憲法改正について次にような意見を持っていました。(資料3)昭和21年2月13日水曜日に、松本案の説明のため、日本側とGHQとの間で話し合いもたれました。日本側が松本案について説明しようとしたときに、GHQ側の方から驚くべき提案がありました。
それはなんだと思いますか。
A 話し合いをキャンセル
B 松本烝治の逮捕
C GHQ独自の憲法案の提案
D その他
※資料集などに記載があれば調べさせる。三択にするか、ノーヒントで考えさせるかはそのときの状況に応じて考える。(今後の展開にいても同じ。)
○GHQは独自の案(マッカーサー草案)を日本に受け入れるように迫りました。
このようなGHQの対応についてどう思いますか。
A 戦争で勝った国なので憲法を押し付けることは許される。
B 戦争に勝ったからといってなんでもしていいとは限らない。勝った国も守らなきゃいけないルールはある。
○実は、1899年にハーグ条約という取り決めがなされています。その第43条には占領者占領地の現行法律を尊重しなければならないと定められています。GHQがしたことは、この条約に違反していることなのです。
日本側の一人である白洲次郎は、どのように対応したらいいと思いますか?
A マッカーサー草案は、断固拒否する。
B なんとかしてGHQを説得する。
C 日本は戦争に負けた国なのだから素直に言うことを聞いて受け入れる。
D その他
※意見が分かれれば、おもしろい。Aについては、「そんなことをできる力が日本にあるのか。」、「日本政府とGHQの対立は、ソ連の介入を招き分割統治の可能性があった。」Bについては、「それでは、どのような方法があるのか。」Cについては、「自分達の憲法なのにGHQに決めてもらって平気なのか。」それぞれ切り返す。
○白洲次郎は、Bを選びました。手紙を書いてなんとかGHQを説得しようとしました。手紙は、ジープウエイレターと呼ばれるもので、次のようなことが書いていました。(資料4)
○白洲次郎の手紙は、受け入れられませんでした。前の勉強からも分かりますが、この手紙を受け入れてもらえる可能性は少ないだろうと白洲次郎も分かっていました。だめだと分かっていながら、無駄な行動かもしれないが、なぜ、白洲次郎はわざわざこのような手紙を送ったのでしょうか。白洲次郎は、後年のように話しています。(資料5)
○結局、その年(1946年)の11月3日,ほぼGHQ案そのままに、日本国憲法は公布されました。そのときに気持ちを白洲次郎は次のよう書き残しています。(資料6)
○昭和26年まで公表されず、国民に知らされることはありませんでした。このようにして決まった日本国憲法は、施行されてから60年近く経ちます。憲法を改正すべきかどうか今議論になってきていますが、みなさんはどうしたらいいか考えていく必要がありますね。
○最後に、それから5年後のサンフランシスコ講和会議の時のエピソードを紹介して終わります。サンフランシスコ講和条約は、日本が独立することを認める条約でした。その時に日本は、受諾の演説することになっていました。原稿は、外務省が日本で作ってサンフランシスコに持ってきていましたが発表する2日前に白洲次郎が書き直させています。戦勝国も敗戦国も独立するのだから平等の立場であるべきと考えていたからでしたが、原稿にはそれに反して、「appreciaition」という言葉が入っていました。どのような意味だと思いますか。予想してみてください。
○「(占領を)感謝する。」というような意味です。占領されたことを感謝してどうするんだということだったんですね。内容だけでなく、言葉も英語から日本語に直させています。敗戦という辛い時期に、「戦争で負けたが、奴隷になったわけではない」という強い信念をもって行動した人物がいたことを私たちは覚えておきたいですね。
《検討事項》
・吉田茂が、日本語で演説を行ったのは分かるが、その時に流れた(同時通訳で流れた)英語は、日本語に直した内容を訳すことができたのか、変えたのは、日本語の演説だけだったのか。
・「appreciaition」は、「感謝する」という意味のほかにもいろいろあるので、文脈において検討する必要がある。
《参考文献・資料》
・「白洲次郎 占領を背負った男」 北康利著 講談社
・「白洲次郎」 河出書房新社
・「風の男 白洲次郎」青柳恵介著 新潮社
・「歴史街道 8月号」
・NHK その時歴史が動いた「白洲次郎」
・「さんま白洲次郎に会いに行く」(深夜番組)
占領期の授業―資料編―
資料1 白洲次郎の生い立ち
ハンサムで身長180センチ,抜群の英語力を持った白洲次郎の生い立ちを簡単にたどってみましょう。
白洲次郎は,明治35年(1902年)2月17日,現在の兵庫県芦屋市で生を享けた。父親の文平は,綿花の貿易で大成功を収めた実業家であった。子どもころから喧嘩っ早く学校の枠にはまらない型破りの腕白少年でした。4万坪という豪邸に住み,17歳の時は,日本に数台しかないアメリカの車を乗り回していた。
19歳のとき,イギリスに渡航し名門ケンブリッチ大学に留学。7年に渡る留学生活でイギリスの貴族階級の学友との交流を深めました。そこで身につけたのが英国紳士の伝統でした。英国紳士の伝統とは,「プリンシプル」と「ノブレス・オブージュ」と言われるものです。プリンシプルとは,考え方でも行動でも筋を通して曲がったことはしないとうことです。ノブレス・オブージュとは高貴な者に伴う義務のことです。簡単にいうと,偉い人には,普通の人以上に責任があり,それを全うするため勇気が必要だということです。
昭和3年に日本に帰国。伯爵樺山家の令嬢正子と結婚。貿易業に携わり海外を飛び回る生活を送るようになりました。やがて,白洲は自らの運命を大きく変える出会いをします。妻正子の実家樺山家と親しかった外交官吉田茂(後の総理大臣)との出会いです。次郎は,吉田の国際情勢の深い洞察から反戦を貫く姿勢に深く共鳴します。吉田も時々ふらっとあらわれては,歯に衣着せぬ正論を述べる次郎に心を許し24歳の年の差を越えた友情を育んでいきました。
敗戦の翌月,吉田茂は外務大臣に就任しました。吉田の仕事は占領政策を行うGHQと日本政府との仲立ちをすることでした。このもっとも厄介な任務の現場責任者として吉田が抜擢したのが白洲次郎でした。
※どのようなエピソードを取り上げ,どのような書き方にすべきかはさらに検討する。
資料2 日本政府の憲法改正に対する考え
戦前、軍が強くなったのは憲法が悪かったのではなく、明治憲法でも民主的な国づくりは可のだと考えていた。そのために、多少の修正をほどこせばよいと考えていた。そのような考えのもと、国務大臣松本烝治が中心となってつくった憲法の改正案をつくりました。その改正案は松本案と言われています。
資料3 ジープウエイレター
松本案もマッカーサー案も民主的憲法の必要を切望しているという意味において目的は同じであり、進め方が違うだけである。
マッカーサーの案は日本固有の事情を全く顧みない、「エアーウエイ」(空路)のようなものである。それに対して、松本案は日本の狭くて曲がりくねった山道(固有の事情)をなんとかジープで走っていこうとしているわけです。回り道であっても日本の伝統と国情に即した道をとる方が混乱を招かないからです。是非この考えをご理解下さい。

資料4 白洲次郎の言葉
自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりになったのではない、ということを国民にみせるために、あえて極端な行動をしているんだ。為政者があれだけ抵抗したということが残らないと、あとから国民から疑問が出て、必ず批判を受けることになる。
資料5 白洲手記
憲法の制定過程のGHQとのやり取りを書いたあとの一番最後の文に、「斯くの如くしてこの敗戦最露出の憲法案は生る。「今に見ていろ。」という気持ち抑え切れず。ひそかに涙す。
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