模擬授業報告
硫黄島の戦い
陸軍中将・栗林忠道の死闘


服部 剛(横浜市公立中学校教諭)

《はじめに》

今回、実施した模擬授業「硫黄島の戦い〜陸軍中将・栗林忠道の死闘」は昨年3月、中学2年生に実施したものの再現である。

現在の教育現場の実態からいえば、軍人を取り上げる授業というものは意図的に忌避されてきた。ずいぶん前に東郷平八郎元帥が教科書に登場することになった時も「軍国主義賛美」と大騒ぎになったと記憶している。世界的に評価の高い東郷さんでさえ、こうなのである。当時に比べ、日本人全体の軍事アレルギーは緩和されてきたとはいえ、教育現場では軍人は常に悪者でなければいけないという空気が支配的だ。

この度、映画『硫黄島からの手紙』の効果で、栗林忠道中将の存在が広く認知され、たいへん喜ばしい。しかし、これまで中将のことを知る日本人は決して多くなかったことと思う。「硫黄島の戦い」も決して詳細には学んでこなかったのではなかろうか。

一方、対戦国のアメリカでは、この「バトル・オブ・イオウジマ」を知らない者はほとんどいないという。学校教育ではもちろんのこと、国立アーリントン墓地に「イオウジマ・メモリアル」と呼称される25bもの巨大なブロンズ像を建てて顕彰し続けている。

アメリカ人は「バトル・オブ・イオウジマ」と聞くと、何とも言えない愛国心を伴った厳粛な感情を呼び起こすとのこと。それは、この硫黄島戦が合衆国とアメリカ人にとって、最も重要な戦いだったからこそである。

当然のことながら、彼らにとっての敵将・栗林中将も畏敬の対象であり、その素晴らしい戦術能力と統率力を多くの者が知っているという。硫黄島の戦いが知られていない我が国の現状と全く対照的である。

しかし、アメリカがそうであるならば、我が国においても硫黄島の戦いは忘れてはならない重要な戦いと位置づけて記憶し続けなければならないはずである。

歴史教育・人物学習の観点からいえば、栗林中将のような素晴らしい軍人がいたことを知れば、現代の子供たちもすぐに我が国の誇りを思い出し、自虐史観から立ち直る契機になりうると感じている。

また、硫黄島戦の意義(後述)を知ることによって、今日への繋がりを自覚し、先人に対する感謝の念を呼び起こすことができると思う。


【授業のコンセプト】

@栗林中将の「情愛の深さ」は「国家を守る使命感」の強さに繋がっているということ。栗林中将の過酷な戦術が「本土の日本人が一日でも長く、無事でいられるように!平穏でいられるように!家族で幸せに過ごせるように!」との思いに発することを生徒にわからせたい。この栗林中将の思いの根源は、中将が家族や部下に対して示していた情愛の深さゆえである。「個」の理念が「公」と繋がっているということを伝えたい。

A我が将兵の犠牲は、決して無駄死になどではなかったということ(硫黄島戦の意義)。アメリカの歴史始まって以来の多大なる被害を出した硫黄島(沖縄戦も)の激戦で、アメリカが得た教訓は、「もう二度と日本とは戦いたくない」ということであろう。硫黄島戦はアメリカにとっても、もう続けられないギリギリの戦いであった。
その結果、アメリカはこれまでの無条件降伏の方針を転換し、ポツダム宣言(条件付き降伏)を提示するに至るのである。


【授業で押さえるべきポイント】

@硫黄島の位置の重要性

A栗林中将の作戦のすばらしさ…水際作戦をやめたこと

B栗林中将の人間性…労苦を乗り越える兵士の結束力を生む
 家族への手紙からわかる栗林中将の情愛の深さは、部下にも注がれていた。
  それゆえに将兵も中将とともに死を決することができたのである。

C硫黄島戦の意義

【実際の授業】

授業の多くの部分が資料を読むことに費やされる構成になっているので、ゆとりを持った展開が必要と思う。特に「決別の辞」などは十分な解説を要する(2時間枠で実施したクラスもある)。
また、読むだけでは生徒が飽きてしまいかねないので、要所々々で写真教材等を黒板に掲示して、適宜解説をした。

以下、授業の流れである。

◆◇◆

■栗林忠道中将の写真を掲示する。
この人は誰ですか?

■硫黄島の全景写真を掲示する。
ここは、どこですか?

■前記二つの質問、昨年の生徒は一人も正答せず。今年なら映画の影響で答えられる生徒もいるやに思われる。

硫黄島の戦い〜陸軍中将・栗林忠道の死闘

今から60年前、各戦地では祖国日本とそこで暮らす家族を思いながら、一身を賭けて盾となろうとした兵士たちが、血みどろの闘いを繰り広げていました。

1.硫黄島の戦略的意義〜日米ともに重要拠点だった硫黄島

硫黄島は日本本土から南に1200キロ、徒歩半日で一回りできる小島です。サイパンなどのマリアナ諸島と東京の中間に位置しています。昭和19年6月以降、マリアナ諸島を制圧した米軍は、サイパン島からB29爆撃機を飛ばし、日本本土への無差別爆撃を実施していました。米軍はB29が故障した際の基地として、三つの飛行場をもつ硫黄島を必要としていました。一方、日本にとっても飛行場や無線所がある硫黄島は何としても死守しなければならない島でした。

■サイパン、テニアン、グアム、パラオなどの各戦闘を年表にしたものを掲示し、これまで学習した太平洋での戦いを復習する。
この際、これまでの島嶼の戦いの多くが「水際作戦」で行われ、最後は「万歳突撃」で多くの将兵が玉砕していったことを確認する。

■「東京ー硫黄島ーサイパン島」の位置関係を黒板に略地図を書いて解説する。
本土空襲の出撃地であるサイパン島と東京のちょうど中間の位置に硫黄島が位置することを確認し、B29の中継地としてアメリカにとって、どうしても手に入れたい島であるということを理解させる。

このことは、裏返せば、硫黄島が日本本土防衛にとって大変重要な島であることを意味している。実際の授業では、ここであえてふれなかったが、その重要性は、授業が展開していく中でわかってくるようにした。

2.日米の戦力差

この硫黄島を守るために派遣されたのが、栗林忠道を総司令官とする総勢2万1000人の将兵たちです。しかし、日本軍には中年の老兵も多く、米軍に比べて乏しい火力と弾薬しか持ち合わせていませんでした。

【栗林忠道中将プロフィール】

(1891〜1945)
住所:東京都世田谷区。
職業:大日本帝国陸軍中将。
家族:病弱の妻義井[当時40歳]と子供3人(長男太郎、長女洋子、次女たか子[当時10歳])。
陸軍大学校を出て、アメリカに留学。陸軍きってのアメリカ通と言われ、米国の巨大な工業力を知り尽くした将軍。硫黄島の戦闘時、54歳。

■もう一度、肖像写真を見ながら、栗林中将のイメージをふくらまさせる。

昭和19年12月8日以来、米軍は硫黄島に連日74日間にわたり、世界戦史上空前の2万1926発もの爆弾を降らせました。米軍は5日間で硫黄島を占領する計画でした。翌年2月16日午前8時、戦艦7隻を中心とする26隻のアメリカ艦隊が硫黄島を包囲し、その南沖合には護衛空母11隻が配置されました。

最初の3日間で800機の航空機による空爆と5000トンの砲撃が行われました。18日には、日本軍が立てこもる擂鉢山に向けて、600回を越える空爆と砲撃を加えて、山の4分の1を吹き飛ばしました。着弾の衝撃によって地面が大地震のように揺れる中、日本兵は堪え忍びます。そして、19日午前6時40分、米軍は艦砲射撃・ロケット弾9500発を射撃した後、第4・第5海兵師団、歩兵8個大隊、戦車1個大隊が続々と上陸していきました。

■硫黄島に殺到する米軍上陸艇の写真を掲示する。その夥しい数に中学生は驚愕。
                      
【問1】
圧倒的な日米の戦力差でした。こうなることはアメリカのことをよく知る栗林中将には、充分わかっていたのです。
実を言うと栗林中将は、この硫黄島から41通もの手紙を東京の家族に送っています。栗林中将は、どんなことを手紙に書いていたと思いますか?

■生徒の発言が尽きたところで、実際の手紙を読む。

<栗林中将の手紙 その1>

妻への手紙から

「島の将兵はみな覚悟を決め、悲壮そのものです。私ももちろんそうですが、やはり弱い人間であきらめきれない点もあります。それも結局、妻子がどうなるのだろうかの一点です。人間は死の関頭に立てば、やはり一家のことが、一番気にかかることがはっきりします」(昭和19年7月6日付)

「未曾有の大戦争下ではあるが、皆して元気に暮らしていることと思います。たこちゃん(次女たか子のこと)は学童疎開で友達と一緒に行ったか? 氷飽へ一人で行ったか? 案じています。何しろあの小ささで、両親と別れて暮らさねばならぬ運命におかれたことをほんとに気の毒に思います」
(昭和19年8月2日付

■栗林中将はどんな人柄だと思うか、聞いてみる。

一様に優しい夫であり、優しい父親の姿を読み取る生徒。

2万を超える部下に対しても優しく接していた中将の逸話などを補足し、次のように聞いてみた。

■『栗林中将は情愛あふれる人でした。この優しい将軍は、この後アメリカ軍とどんな戦いをしたと思いますか?』

生徒からは、優しすぎて「将軍としてはちょっと頼りないのでは」とか「平和な時は良いけど、戦争中は…、ビミョー」という意見も出た。

■言うだけ言わせておいて「米軍、擂鉢山占領の写真(星条旗を立てている有名な写真)」を掲示する。

『実は、ものすごい戦いになったんです。これはアメリカ人なら知らない者はいないという有名な写真です。アメリカ人ならば、決して忘れることのできない戦い、それが硫黄島の戦いなのです』

併せて「アーリントン墓地のブロンズ像」「記念切手」の写真も紹介し、アメリカ人にとって硫黄島の戦いが、特に重要な位置づけがなされている戦闘であったことを教える。

『では、栗林中将の戦いぶりを詳しく見ていきましょう』

3.栗林中将の作戦

これまで太平洋の島々における戦いでは、日本軍は米軍を水際で食い止める作戦で戦ってきました。しかし、米軍を水際で迎え撃とうとしても、空爆や艦砲射撃ですぐに殲滅されてしまうのです。

栗林中将は、全島の地下10〜20mに延々と壕を掘って洞窟陣地を作ることにしました。強固な地下壕陣地にこもって空爆と砲撃をしのぎ、上陸してきた米軍に対して地下壕から神出鬼没に飛び出してゲリラ戦を挑む作戦です。物量ともに圧倒的優位に立つ米軍に対して、「持久戦」に持ち込む決意をしたのでした。「十倍の敵をうちのめす堅陣とせよ!」、全軍に栗林中将の命令が発せられました。

日本軍は総力をあげて地下壕を掘り進めましたが、洞窟内は硫黄ガスが立ちこめ、地下10mの温度は何と45〜60度! 1人の作業が可能なのは3〜5分間です。交代で作業して1日1mを掘り進むのがやっとの状態でした。さらに兵を苦しめたのは水不足でした。雨水だけでは、1日4人に水筒1個分しか配給できなかったのです。米は硫黄臭い地下水か海水で炊くので、皆ひどい下痢で悩まされました。栗林中将は自らの食事も水も特別扱いを許さず、全島を廻っては地下壕作りを陣頭指揮しました。兵たちは中将の作った「敢闘の誓い」を口ずさみながら、苦しい作業を進めました。

「一、我等は全力を奮って本島を守り抜かん。…一、我等は一発必中の射撃によって敵を撃ち倒さん。一、我等は各自敵十人を倒さざれば死すとも死せず。一、我等は最後の一人となるも『ゲリラ』によって敵を悩まさん!」。

こうして米軍が攻撃を開始した昭和20年2月の時点で、総延長18キロに及ぶ地下壕が掘られ、島南部の擂鉢山には6キロの蜘蛛の巣状の地下陣地が張りめぐらされました。硫黄島は1500もの地下室に2万人余りの将兵がひそむ地下要塞になったのです。

■生徒に解説を施し、地下陣地の様子を想像させる。その規模のすごさを理解させるために、出来れば島の断面図などの教材を用意できると良いと思う。

『さぁ、いよいよ米軍の上陸開始です』

4.栗林中将の戦いぶり@

2月16日、硫黄島を包囲した米艦隊からの艦砲射撃と空母艦載機からのすさまじい空爆が3日間にわたって続きました。しかし、日本軍は不気味に沈黙したままでした。猛烈な爆弾が舞い上げた灰で島が見えなくなり、アメリカ兵は、島が粉々に吹き飛んでしまうのではないかと思いました。ある兵は戦友にこう尋ねました。
「俺たち用の日本兵は残っているのかな?」。

19日午前9時、米軍の水陸両用装甲車500隻が上陸を開始し、わずか3キロ程度の狭い海岸は3万の兵と4万トンの機材であふれました。とても静かで、米兵はやたらと歩きまわっていました。栗林中将は、この時を待っていたのです。

9時29分、突如、日本軍が一斉に砲撃を開始。正面と左右の三方から、日本軍の迫撃砲が集中し、米軍の戦車・装甲車が吹き飛び、胴体や手足が散乱しました。1日で島の南半分を確保する計画だった米軍は海岸に釘付けにされ、上陸後わずか18時間で死傷者は2312人にものぼりました。さらに上陸3日目にして米兵の死傷者は50 00人を超え、この報告を聞いたルーズベルト大統領は息をのんだといいます。米国民も大変なショックを受け、以後、アメリカで死傷者数は報道されなくなりました。

「ここに転がっていたら、ジャップの射撃の的になるだけだ」と前進命令が発せられ、勇猛な海兵隊は死者も負傷者も無視して、半狂乱になって突き進みました。

■「上陸するも海岸に釘付けになる米軍海兵隊」の写真を掲示する。

『あるアメリカ兵は「硫黄島では1メートルごとに戦闘があった」と証言しています。精強な海兵隊がまったく動けなくなってしまったのです』

■ここで米軍側の記録を紹介する。

●風雨の中、泥の中をはい回りながら前進した海兵師団参謀 W・クラーク大尉
「あの視界の悪い雨の中で、どうやって狙いを定めるのか、日本兵の姿は見えないのに、こちらが頭をあげると、とたんに正確な弾丸が飛んでくる。ジャップが射撃の天才であることは、われわれの負傷が頭と腹に多いことからも、分かる。」

●戦死したある小隊長の日記
「この島では前線にいるだけでも勇気がいる。日本兵が、今座っている地面の下にいるかもしれないからだ。この島では部下に前進を命じるには勇気がいる。確実に死が予想されるからだ。そして朝、目を覚まして起きるのは最も勇気がいる。また、同じことをしなければならぬからだ。だが、他に方法はない。」

物量にものを言わせた米軍は、塹壕やトーチカを一つ一つ潰し、一歩一歩前進していきました。擂鉢山を占領して頂上に星条旗が翻ったのは23日午前10時31分。この時の写真が翌日、全米の新聞のトップを飾り、アーリントン墓地の硫黄島モニュメントとして残されることになります。

南部を占領し、残るは中・北部のわずか数キロ。しかし、今までに数えた日本兵の死体はわずかに1231人だけでした。まだ、2万もの日本兵がその数キロ先に手ぐすねひいて米軍を待ちかまえていたのです。

5.栗林中将の戦いぶりA

日本軍の巧妙なゲリラ戦は、米軍の記録によると次のように書かれています。

「彼ら(日本兵)はわが砲撃の間は地下にかくれ、終わると外に出て待つ。我々が近づけば集中射撃を浴びせ、われわれが損害をうけて釘付けになると、いくつかの銃器と死体を残して、またトンネルにもぐりこむ。我が大隊長は、ロケット・火砲の援護を要請して進むが、たどりついた陣地には敵が置いた銃と死体しかなく、不審の首をひねっているとまたもや集中する銃弾に包囲される。
負傷者が出て『コーズマン!』と衛生兵を呼ぶと、『コーズマン』と答えて近づくのは、しばしば米兵の軍服を奪い、衛生兵に扮装して、銃剣と手榴弾を握った日本兵だった。何気なく転がっている酒びんや鉄カブトを持ち上げると、仕掛けられていた爆薬が爆発した」。

5日間で占領すると豪語した米軍を相手に、日本軍は「今までの戦場では見参し得なかった巧みさ」をもって1ヶ月近くも死闘を続けたのです。

■栗林中将の作戦と硫黄島守備隊の戦いぶりの感想を生徒に求めると、「すごい、すごい」と感心することしきりであった。

6.栗林中将の戦いぶりB

栗林中将は、決して「玉砕攻撃」を認めませんでした(玉砕=一斉に突撃して全員が戦死すること)。「自爆」「突撃」の禁止です。圧倒的戦力を持つ米軍を相手に、どんな苦しい状況になっても「命ある限り戦い続ける」ことを命令したのです。想像を絶した極限状態にある兵たちは「いっそ死んで楽になる」道に惹かれました。栗林中将の命令は、将兵にとって大変に過酷な戦いだったのです。

一方、これは米軍にとっても辛いものでした。日本軍の反撃に手を焼いた米軍は、地下壕を一つづつ、火炎放射器や爆薬で潰していく他ありませんでした。入り組んだ地下壕には、上から掘削機で穴を開け、ガソリンを注入して焼き尽くしました。また、ブルドーザーで入り口を塞いで窒息死させる方法も用いました。衆寡敵せず、とうとう日本軍は島の北辺に追いつめられ、残る人員も約900人になってしまいました。ピアノ線と鉄条網に包囲されて進退きわまった千田少将は、3月7日、栗林中将に玉砕攻撃の許可を求めました。しかし、この期に及んでも栗林中将は玉砕を許可しませんでした。

【問2】
なぜ、栗林中将は「玉砕」を認めなかったのでしょうか?

■この質問は、この授業の核心ともいえる質問であるが、中学生には少々難しい。「最後の最後まで戦え」ということでしょうとの解答。これはこれで正解ではあるのだが、「最後まで戦う」ことの意義が重要なのである。

次の中将の手紙を読み、ここだと思う箇所に傍線を引くよう指示する。

栗林中将の胸中を推し量る一通の手紙があります(戦闘開始前、昭和19年9月12日付)。

<栗林中将の手紙 その2>

妻への手紙から

「妻のお前にはまだ余りよい目をさせず、苦労ばかりさせ、これから先と云ふ所で此の運命になつたので、返すがえす残念に思ひます。私は今日あつて明日ない命である事を覚悟してゐますが、せめてお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい念願で一杯です…。私も米国のためにこんなところで一生涯の幕を閉じるのは残念ですが、一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けないやうに祈つています」

■この手紙を通して、栗林中将の思いを整理しながら、次の(  )の中に入る言葉を考えさせた。

「玉砕」を認めない栗林中将の狙いは?

2万の兵に玉砕を覚悟させながらも、生きてぬいて一刻でも長くここを守る
[死に急ぐのはかえってたやすい]

      ↓

苦しい死闘を、より長く、戦い続けるのだ!

      ↓
(               )

■( )に入る言葉は、次のようにまとめた。

日本本土が少しでも長く空襲を受けないようにする = 国民の命を守る!

■ここまで中将に付いてきた名も無き兵士たち一人一人の心も同じだったであろうと推察する。そうでなければ、最強の米軍海兵隊を唸らせるここまでの戦いは不可能だったと思うからである。

7.栗林中将の最期

死闘1ヶ月。もはや、これまでと3月16日午後、栗林中将は本土の参謀総長宛に訣別の辞と辞世を電報で送りました。

戦局遂に最後の関頭に直面せり。十七日夜半を期し、小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。

敵来攻以来、想像に余る物量的優勢をもって陸海空よりする敵の攻撃に対し、よく健闘を続けたるは小職のいささか自ら悦びとするところにして部下の将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり。しかれども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ、為にご期待に反し、この要地を敵手に委ぬるやむなきに至れるは、誠に恐懼に堪えず、幾重にもお詫び申しあぐ。特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思い、たとえ魂魄となるも誓って皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。

今や弾丸尽き水涸れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つらつら皇恩のかたじけなさを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。ここに将兵とともに謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、とこしえにお別れを申しあぐ。

 国の為 重きつとめを 果し得で
      矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
 仇討たで 野辺には朽ちじ われは又
      七度生まれて 矛を執らむぞ
 醜草の 島に蔓る その時の
      皇国の行手 一途に思ふ

しかし、ここに来てまで栗林中将は最後の攻撃を延期します。「今、攻撃しても包囲されて照明弾でやられてしまう。もう少し様子を見よう」という理由でした。最後まで敵に打撃を与えることを考えていたのです。

以後10日間の抵抗を続け、最後の突撃は26日の夜明けでした。
部下の兵士たちに対して「予は常に諸子の先頭に在り」と宣言した栗林中将は、残存の兵・約400の先頭に立って急襲し、米軍に死傷者172人の損害を与えました。

師団長自らが突撃した例は、日本軍の戦史・戦例にはないといわれています。
敵弾で負傷し、ついに歩けなくなった栗林中将は「屍を敵に渡すな」と部下に言い残して、自決しました。最期を見届けた2人の部下も栗林中将の遺体を大木の根元に埋めた後に、自決したと伝えられています。栗林中将の遺体は、今も見つかっていません。

■『国を守る崇高な使命を果たさんと壮絶な最期を遂げた栗林中将でした。敵として多大なる被害を被った米軍は、栗林中将をどのように思ったでしょうか? 

●硫黄島の戦いに従軍したロバート・シャーロッド記者
「日本側がどんな勲章を授けたか知らないが、最高の勲章は、硫黄島の日本軍守備隊最高指揮官・栗林忠道中将に授けられてしかるべきであろう」(『硫黄島』)

●米軍海兵隊の最高指揮官ホーランド・スミス中将
「栗林の地上配備は、第一次世界大戦にフランスで見たいずれの配備より遙かに優れ、第二次世界大戦のドイツの配備をも凌いでいた」「明らかに栗林が指揮を執っていた。彼の個性は、その強靱な抵抗にはっきりと示されていた。…硫黄島では断崖から飛び降りて自殺する者は一人もいなかった。…栗林は、アメリカ兵を一人残らず道連れにするつもりだった」「硫黄島の戦いは、わが海兵隊がこれまでに戦った最も激越な戦いである」「統帥の鬼、偉大なる将軍栗林。かかる智将と巡り合い、戦闘をまじえることのできたのは、一生の名誉というべきだ」

■栗林中将に対して、憎しみどころか尊敬の念が生じていることに、生徒たちは感心する。

日本軍は乏しい火力と弾薬を最大限に生かして36日間持ちこたえ、約2万人が戦死しました。一方の米軍は、戦死者6821人、負傷者2万1868人を数え、死傷者の合計数では日本軍を上回る数になりました。「実質的には敗戦ではないか?」との一大論争が米国内に巻き起こったほどの衝撃でした。

8.まとめ「硫黄島戦の意義」

硫黄島が陥落すると、日本本土への空襲がとたんに激しくなりました。
「重き務を果たし得で」と中将は詠みましたが、この36日間の死闘は、その後の歴史にとって、次第に重い意味を持つようになっていきます。

【問3】
「硫黄島の死闘」は、後の歴史にどのような影響を与えたと思いますか?
次の文章で、「硫黄島戦の意義」と思うところに傍線を引きなさい。

硫黄島、沖縄戦における日本軍の戦いぶりは、米軍の心胆を寒からしめた。神風、回天そして戦艦大和の特攻攻撃等々は、実際の戦果はさておいて、連合軍の兵士たちに与えた心理的恐怖の点で「戦略的」に重大な意味があった。連合国が「無条件降伏」方式を放棄して、停戦交渉の提案(ポツダム宣言のこと)に切りかえたのは、戦争末期における我が勇士たちの捨て身の攻撃に遭って、日本国民の戦意に心底からの恐怖を抱いた故である。
(小堀桂一郎「正論」2004.8.14産経新聞)

2万あまりの日本軍が守るちっぽけな小島を占領するのに、アメリカ軍は2万8000人もの死傷者を出したのです。
しかし、まだ日本本土に237万人以上、中国大陸他には310万人を超える陸軍兵力がいました。もし、これらの日本兵が硫黄島と同様のゲリラ戦を展開したらどうなるでしょうか?

硫黄島での地獄の経験を、米国は沖縄戦でもう一度思い知らされました。硫黄島と沖縄での日本軍の死闘がなければ、「無条件降伏」の方針は変更されなかった可能性が大きかったと言われています。となると、歴史は本土決戦への道に至ることになり、膨大な数の一般市民が犠牲になったことでしょう。

それからおよそ50年の時が過ぎた平成6年2月、小笠原諸島復帰25周年を記念して、天皇皇后両陛下は硫黄島に行幸(ご訪問されること)されました。その時、両陛下は次のような鎮魂の御製・お歌をお詠みになられました。

・天皇陛下 御製

 精根を 込め戦ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき

・皇后陛下 御歌

 慰霊地は 今安らかに 水をたたふ 如何ばかり 君ら水を欲りけむ

■御製・御歌を鑑賞し、天皇皇后両陛下は国民を代表して慰霊されたことを理解させた。

■最後に、栗林中将が次女たか子さんに宛てた次の手紙を読んで授業の締めくくりとした。「国家・国民を命懸けで守る」という使命感の源となった中将の「情愛の深さ」をもう一度確認したかったからである。

読みながら、落涙を禁じ得ない女子生徒もあった。

たこちゃんへ
たこちゃん元気ですか?
お父さんが出發の時、お母さんと二人で御門に立つて見送つて呉れた姿がはっきり見える気がします
それからお父さんはお家に帰ってお母さんとたこちゃんを連れて町を歩いてゐる夢などを時々見ますが、それは中々出来ない事です
たこちゃん、お父さんはたこちゃんが早く大きくなつてお母さんの力になれる人になる事許りを思つてゐます
からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言付をよく守り、お父さんに安心させる様にしてください
それでは左様なら
戦地のお父さんより

(授業終わり)

◆◇◆

平成6年の両陛下の硫黄島行幸啓について、述べておきたい。
この行幸啓はたいへん重大な意味を持っているように思われてならない。先述の通り、戦後この方、我が国では硫黄島戦への関心は薄く、残念な状況が続いていた。
栗林中将が最後の総攻撃を前に兵士に述べた訓辞にこうある(このシーンは映画の中でも渡辺謙扮する栗林中将も熱演をもって述べている)。

予が諸君よりも先に、敵陣に散る事があっても、諸君の今日まで捧げた偉功は決して消えるものではない。いま日本は戦いに敗れたりと言えども、日本国民が諸君の忠君愛国の精神に燃え、諸君の勲功を讃え、諸君の霊に対し、涙して黙祷を捧げる日が、いつか来るであろう。安んじて諸君は国に殉ずべし。

この傍線の部分を我々日本国民はどう受け止めたらよいのか。我々はこの50年、黙祷どころか忘却してきたのではなかったか。国民の命を守らんと自ら過酷な戦いを課して、国に殉じた2万もの将兵の御霊をないがしろにしてきたとはいえまいか。

両陛下の行幸啓は、中将の右の言葉を受けられて、「忘れていない日本人がいる」ということ…これを身をもってお示しになられたと拝察する。中将はじめ兵士たちの無念を晴らされたのだと思う。

中将の辞世一首目をご覧いただきたい。「散るぞ悲しき」である。陛下の御製の最後「島は悲しき」と見事にシンクロしているではないか。また、この授業では紹介し得なかったが、皇后陛下はこの行幸啓時、もう一つ御歌を詠まれておられる。        
 銀ネムの 木木茂りゐて この島に 五十年眠る み魂悲しき

何と「み魂悲しき」である。もう間違いないと確信し、大御心とはこういうものか、と感動に打ち震えた次第である。
この視点を次の授業づくりで活かせればと思っている。ご教示をお願いしたい。


【参考資料】

・吉田津由子編『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫)
・梯 久美子『散るぞ悲しき』(新潮社)
桜井裕子「硫黄島で奮戦した益荒男たちに捧ぐ」
(↑ページ中程より少し下/ブラウザから記事名でページ内検索してください)
国際派日本人養成講座「栗林忠道中将〜精根を込め戦ひし人」
・上坂冬子『硫黄島いまだ玉砕せず』(ワック)
新藤義孝後援会HP「祖父栗林忠道陸軍大将のこと」(http://www.shindo.gr.jp/)
硫黄島協会HP「硫黄島戦史」(http://www.iwo-jima.org/)
・留守晴夫「陸軍中将栗林忠道」(「月曜評論」平成12年7月号〜13年4月号)

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