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聖徳太子が教える独立

2003.01.06/産経新聞東京朝刊掲載

齋藤武夫(自由主義史観研究会副代表・さいたま市立島小教諭)
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西暦六〇七(推古天皇十五)年、聖徳太子は推古天皇の摂政として小野妹子を隋に派遣した。あわせて留学生たちが隋に学んだ。いわゆる遣隋使である。
当時東アジアは、中国の皇帝を世界の中心とする華夷(かい)秩序(冊封(さくほう)体制)の下にあった。当初「倭国」と称したわが国もまた、この華夷秩序に組み
込まれていった。わが皇室の遠い祖先も、中国中心の国際秩序のなかでは、中国皇帝 の一家臣として遇される時代が続いたのである。聖徳太子の意図は、わが国が隋の属国ではないということを明確に主張し、国家としての自立を達成することにあった。
私の授業では、その歴史的な意義を学ぶ。まず国書の冒頭部分、「日出(ひいづ)
る処(ところ)の天子、書を、日没(ひぼつ)する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」を、声をそろえて数回音読した。歯切れよい、意思的な韻律を味わうためだ。
聖徳太子が書いた手紙が、推古天皇から隋の皇帝煬帝にあてた国書であることをおさえてから、次のように問う。
「隋の皇帝はこれを読んで、火のように怒ったという。どの言葉に怒りを覚えたのだろう?」
子供たちは言う。「日出る処と日没する処ではないか」「中国が日没するみたいで、暗い感じがす
る」「日出るは日が昇っていくということで、日本の文化がこれから発展していくと いう感じで明るい」。
それも、一理あると認めてから、実は「天子」が核心の語である、なぜだろうと問うた。「本当は中国の方が上なのに、対等になった感じだ」「日本の天皇と中国の皇帝が
同じ偉さになってしまう」「中国の方が大きくて強いのに、位を同じにされたから怒ったのではないか」。
次にこの言葉にこめられた聖徳太子の意図を考えた。 「国と国のつきあいを平等にしたいという気持ちだ」「これからは、中国と日本の
関係を親分子分じゃなくして、日本は独立して中国に従うのじゃなく、自立した国に なる」「これまでは、中国に従っていたから、邪悪の邪とか(邪馬台国)、卑しいとか(卑弥呼)、悪い字を使われていたじゃないですか。そういう関係はイヤだと思ったのではないか」「独立するということだ」。
弥生時代からの学習で、華夷秩序の下にある日本に歯がゆい思いをしていた子供たちは、わがことのように熱く語った。
最後に、二年後の国書を読んだ。「東の天皇、敬(つつ)しみて西の皇帝に白(もう)す」。
子供たちは、「天皇」という言葉から、太子が方針を貫いたことを知る。「皇」は
中国の皇帝専用の文字であり、「王」はその家臣である。この国書で初めて、倭国王 は「天皇」を名乗り、長い歴史をつらぬいて今日がある。わが国は、東アジア世界で
唯一、華夷秩序を離れて自立した国となったのである。
中国に学んで国づくりを進めるが、国家の関係はあくまで対等である。この歴史的
達成を学んだ子供は次のように書いた。「これで日本も自分の足で立った。聖徳太子は自分の国に誇りを持っていたのだと思う」。
このけなげな感想を、いま国政・外交の要職にある諸氏に読ませたい思いである。
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