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模擬授業(高校日本史)
江戸時代における武士の公共的精神

※この模擬授業は自由主義史観研究会全国大会で行われました。

飯島利一(國學院高等学校教諭)/文責・斎藤武夫
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《はじめに》
尾藤正英先生の論文に、「明治維新と武士」(『江戸時代とはなにか』所収)がある。この論文で先生は、武士独自の性格であった公共的精神に注目している。武士社会には、武士の私的な利益よりも、藩や国家など組織全体の公共性を優先する意識が育まれていた。これを抜きに幕末の志士たちの活躍は説明できないし、武士の特権を自ら放棄した廃藩置県も説明できない。この近代的な公共精神こそが、世界史の中で、日本の武士に独自の地位を与えているのである。
飯島氏はこのような武士の本質の授業化という壮大な挑戦をされた。飯島氏は上杉鷹山を中心とする教材構成や史料の選択などについて何度も何度も推敲を重ねた。その結果、藩政改革の具体例を通して、武士の公共精神が普遍的な史実として理解できるような授業構成に到達したのである。また、ふだん高校でやっておられる情報伝達型の教授方法を修正して、学習者の心情や思考を触発しながら全体像の理解に導くという方法を模索されてきた。このご授業は、「武士を教える授業づくり」の教材開発としても、授業法の革新という面でも、画期的なご提案であった。また、ここに至る数度の研究会に渾身の力を傾けて来られた、飯島氏の情熱にこの場を借りて敬意を表したい。
さて、以下に飯島先生の模擬授業の実際を紹介していこう。
《授業の展開》
1.JFKが尊敬していた日本人とは?
@『今日の授業のキーパーソンを紹介しましょう。次の写真は誰でしょうか?』
『アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ。アメリカで最も人気がある大統領のひとりですね。彼が大統領に就任したとき、日本人記者から「日本の政治家の中で最も尊敬するという人物は誰ですか。」という質問を受けました。そのときJFKが答えた人物は誰だったでしょうか。その場にいた日本人記者は誰も知らなかったそうです…。』
◆会場から「上杉鷹山」という声が上がり、その正解を取り上げて次に進んだ。
A(次の絵を掲示する)『実は、上杉治憲(鷹山)は江戸時代後半の大名です。なぜ、民主主義のリーダーであるJFKが、日本の江戸時代封建時代の大名である上杉治憲を尊敬していたのでしょうか。今日は、上杉治憲という人物をきっかけにして、江戸時代の武士が、藩を統治する者としてどのような考えやルールを持っていたのかを掘りさげていきます。しっかり勉強して、授業の最後には、JFKがなぜ鷹山を尊敬していたのかが答えられると良いですね。』
◆この学習課題づくりはみごとだった。そして、授業の終末に来る課題解決の方向性を予告して、学習の到達地点を明示した。
2.上杉治憲(鷹山)の政治姿勢
@『まず、上杉治憲(鷹山)がどんな人物だったのかを紹介しましょう。プリントをみてください。』(プリントの〔 〕は空欄)
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【〔 上杉治憲 〕のプロフィール】
@宝暦元年(1751)〜文政五年(1822)。実名は治憲、隠居してのち鷹山と号した。
A日向国高鍋藩主秋月種美の次男。母方の縁で上杉重定の養子となって、十五歳で出羽国米沢藩の第九代藩主となる(1766)。
B有名な言葉
「〔 為せば成る 〕 為さねば ならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」
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◆教師は説明しながら〔 〕に入る答えを教え、上杉治憲が強い意志の持ち主だというイメージをつくった。
A『米沢藩主になった上杉治憲には、厳しい現実が待っていました。』
◆こう話して、以下の資料で米沢藩が危機的な財政難にあった実情を説明した。
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【米沢藩上杉家の状況】
@上杉家の領地…(秀吉時代)120万石 →15万石に縮小
A家の格式も、家臣の数(約5000人) もほとんど減らすことなく維持
B江戸や越後の豪商から借金(約20万両)
C領民の生活は困窮、農村の荒廃 →藩は〔 財政危機 〕…藩の領地を幕府 へ返上する案が浮上→上杉治憲は財政再建 のための〔
藩政改革 〕に立ち上がる。
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◆15歳の少年藩主を襲った過酷な運命と、それに敢然と立ち向かう治憲の姿が、学習者の心に深く残るエピソードであった。
B『では、上杉治憲の財政再建策・藩政改革の内容は、どのようなものだったのでしょうか、エピソードを紹介しましょう。』
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【改革エピソード問題@】
@上杉治憲は、藩内に産業を興し=〔 殖産興業 〕、藩の収入を増やそうと提案した。
(1)漆→漆工芸(2)桑の栽培→養蚕から生糸 (3)苧→縮み布(米沢織) 他藩の職人を招聘して技術を学び、原料か ら商品にまで高めて販売する。
Aしかし、家臣一人が治憲に質問した。「例えば漆や桑を植えるといっても、百姓だけではと ても人手が足りません。誰に働かせるでしょ
うか。」
≪問≫漆・桑を植える畑仕事の担い手について、治憲はどのように答えたでしょうか。
(ア)百姓や町人、その家族にも働かせよう。
(イ)さらに家臣たちにも働かせよう。
(ウ)さらに家老や重臣たちにも働かせよう。
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◆〔 〕に「殖産興業」の語を入れ、商品作物を充実させて財政収入を増やそうとする治憲の具体案を解説してから、〔問〕を示し、学習者の意見分布を確認した。(ア)はごく少数、(イ)は少数(ウ)は大多数だった。
『正解(ウ)です。とくに上級武士まで殖産興業の当事者に指名したことが重要です。治憲は言いました。「城下の武家屋敷には家屋のほかに空いている敷地が多くある。そこに畑をつくって桑や漆を植えるのだ」と。事実、治憲自らが城内に畑をつくったということです。このほか新田開発・治水事業でも、上級家臣も例外なく動員したといいます。』
◆このエピソードから、治憲自身も家老などの上級武士も、率先して領民の手本となるべきだと考えていたことがわかる。学習者の常識的な封建支配者観は、ここで大きく揺らぐだろう。
C『さてこの改革を進めると、治憲の前に大きな壁が立ちふさがりました』
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【改革エピソード問題A】
@上杉治憲は支出を抑えるために徹底的な〔 大倹約令 〕を発布した(1767)。
(1)治憲自身、食事は一汁一菜、着物は木綿。年間の生活費1500両→
200両に削減。
(2)家臣・領民にも厳しい倹約をうながす。贈答なども禁止。賭博を禁止。
違反者を処罰。
(3)祝い事など贅沢な行事を延期・中止。
A徹底した倹約に対して、贅沢になれた重臣たちは不満を募らせた。「治憲は養子のくせに、名門上杉家の格式や風習を無視して、自分たちに勝手な倹約令を押しつけてくる。」とくに老臣たちは屈辱を感じて、改革に協力しなかった。
B安永2年(1773)七月ある日の早朝、 家老・重臣の7人が登城して、治憲をとり囲 み、改革に反対する意見書を提出した。その内容は「藩内で改革をのぞむ者は、治憲とその側近以外だれもいない。だから、改革を即
刻中止して、上杉家伝来の風習に戻すべきである。」というものだった。以後、その7人は、治憲の召出に応じず不出仕(登城せず勤めにでないこと)という行動にでた。
≪問≫断固として改革を誓っていた治憲は、これに果断に対処。治憲はどうしたでしょうか。考えたものを書いてください。
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◆畑仕事にかり出された上に大倹約令を押しつけられた上級武士達が大きな抵抗勢力として姿を現してくる。治憲大ピンチである。教師はここで前半の最も重要な〔問〕を用意した。自由記述させ、発言させていった。家老らを切腹させる、家老らに改革の対案をださせる、「万機公論に決すべし」(みんなの意見を聞いた)という意見がでた。
D『では、治憲が実際にどのように対処したのかを見ていきましょう。』
◆教師は以下のフリップを掲示して説明。
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●治憲の対応策
@大目付(監察職)・使番(伝令役)などに、意見書の内容が本当なのかを確認する。→家老・重臣が述べていることは不当に事実を歪曲したものと証言
A中下級武士に、改革政治の賛否について問う。→改革にのぞむ藩主の姿勢を家中・領民ともに支持していると回答
Bその上で、家老・重臣7人を処罰(2人が切腹、2人が知行半分没収、3人に隠居閉門)
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『ここで注目すべきは、すぐに反対派を処罰せず、その手続きとして家臣や領民の意思を確認したということ。すなわち藩全体の意思を尊重したということです。結局、この騒動がきっかけになって、家臣全体の改革への意識・関心はかえって高まり、治憲以下一致団結して改革を成功させることができました。』
E『上杉治憲は隠居して、次の藩主治広にその地位を譲るとき、藩主としての心得をつたえます。これは彼の政治思想をよく表しています。』
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【資料1 伝国の辞】
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、 我れ私すべき物にはこれ
無く候
一、人民は国家に属したる人民にして、我れ私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立てたる君にて、君の為に立てたる国家人民にはこれ
無く候
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『治憲は、国家・人民のために藩主がいるのだから、それを私物化してはならないと述べています。これは、西欧で言うデモクラシー、ほとんど民主主義の近い考え方になっているという研究者もいます。』
◆この史料は、上杉治憲という一封建領主の統治観がきわめて近代的な公共精神にもとづいていることを、学習者に強烈に印象づけることができる。
F◆教師は、前半の学習内容「上杉治憲の政治理念」を、〔 〕のキーワードを板書しながら、以下のように簡潔にまとめた。
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【上杉治憲の政治理念 まとめ】
@武士は〔領民の手本〕を示す
A家臣・領民、〔藩全体の意思〕を確認 →〔衆議に則った公論〕を尊重
B藩主は国家(藩)・人民を〔私物化〕せず、〔公のために尽くす〕存在
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3.江戸時代における武士の政治理念とは?
@『上杉治憲の政治家としての性格は確認できましたが、江戸時代の大名の中には、身勝手でまさに政治を私物化する藩主もいたはずです。その場合はいったいどうなるのでしょうか。ある事例を紹介しましょう。』
◆授業の後半は、殿様が名君ではなかった場合はどうなのか、である。本時の学習課題を一般化するためには、久留米藩のような反対事例の教材化が欠かせなかったのである。そしてこの教材は、藩主がダメな場合の危機管理システムを教えるのである。
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【肥前久留米藩 有馬則維の場合】
@有馬家は21万石の大藩だったが、享保(18C初め)のころ財政が悪化。
A第六代藩主の有馬則維は、藩主として強い 指導力を発揮し、藩財政の建て直しを推進。
(1)財政問題に関して、家老との合議による 決定を廃止して、藩主の
直接指導体制を一方的に宣言。
(2)領民に対し、米以外の収穫物(麦・野菜・ 木綿など)に対する税率
を従来の10分の1 から、3分の1に引き上げた。
(3)役職者四八名を一度に解任。低い身分の 家臣を重用して側近の
みで藩の組織を固めた。
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◆同じように藩主主導型の財政再建の事例だが、改革の具体策が米沢藩とは大きく相違していること(増税など)に気付かせて、次に進む。
A『久留米藩の場合もやはり藩主の前に壁が立ちふさがります。』
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【エピソード問題B】
@藩主有馬則維の独断的で強引なやり方に 対して、家臣からは怨嗟の声が高まった。解任された者たちは不当な人事であると不満をもらし、藩主を非難する家臣もあらわれた。
Aさらに享保13年(1727)に、農民一揆 (約5700人が蜂起)が久留米領内一円におこり、藩内は収拾不能の事態に陥った。
≪問≫農民一揆の発生によって、藩はどのように対処したでしょうか。
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◆この〔問〕も自由記述で意見を書かせ発表してもらう。まず百姓一揆を弾圧した、それから、家老らが藩主を失脚させたという、するどい発言があった。
B『有馬藩がどうなっていったのかをみていきましょう。』(次のフリップを掲示。)
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●久留米藩の対応策
家老稲次正誠らが中心となって家臣が結束
@新税を停止して農民一揆を収拾
A失政の責任者である藩主を強制隠居(押込)。その世子を新藩主に擁立 →(1)独断的な政治(2)藩全体に混乱もたらした責任を追及
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『藩主は周囲の意見を聞かず、独断専行して政治を私物化してしまいした。そのような藩主に対して、家老や家臣がとった行動は、強制隠居させることだったのです。これを主君「押込」といいます。』
C『このように藩の組織には、家老や重臣が主君に対してもつ職務・権限がありました。』
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【藩組織のポイント】
・藩主が理不尽で勝手な政治(政治の私物化)をした場合、
→〔家老・重臣らの職務〕
・主君に(1)〔諫言〕(2)〔押込の慣行〕
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『藩主が理不尽で勝手な政治をおこなった場合、家老らが中心となって、殿様の間違いを言葉で指摘して改めさせたり(諫言)、聞き入れられない場合は、家臣が結束して主君を拘禁し強制的に隠居させ(押込)、家老・重臣の合議で政策転換を進めることができたのです。それが暗黙のルール(慣行)として認められていました。江戸時代には同様の事例がいくつもあります。』
D『それでは、江戸の社会における武士のあり方についてまとめておきましょう。対照的な上杉治憲と有馬則維。その違いはどこにあったのでしょうか。』
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【資料2 江戸時代の藩(武士組織)の理念】
・米沢藩上杉治憲の場合 
・ 久留米藩有馬則維の場合 
藩の組織・・・〔為政者の恣意的な政治〕
(国家・人民の私物化)を防止する機能
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『やはり藩主が、家老・家臣・領民の意思や利益を尊重せず、政治を私物化したか否かが問題だったのです。久留米藩有馬家の場合、稲次ら家老が中心となって主君「押込」を実施したのは、藩主が家臣・領民の意思のありかをかえりみず、結局、政治を私物化したためでした。一方、米沢藩上杉家で、家老たち7人が処罰されたのは、家臣領民の意思を汲んだ藩主を欺き、家老らが藩政を私物化しようとしたため、ということができます。いずれも政治の私物化を防止し、全体の意思を汲み上げるしくみが機能していたことがわかります。ですから藩主といえども、家臣・領民を無視して政治を遂行することは困難であり、藩全体の意思から自由ではなかったのです。』(〔 〕にキーワードを板書する)。
4.まとめ
●@『今日の授業は、次のようにまとめることができるでしょう。』
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【江戸時代の武士の社会 まとめ】
公共性を尊重する政治理念
(1)国家・人民は私のものではなく公のもの
(2)武士はその公に尽くす存在である
(3)衆議公論に則った政治を尊重する
=武士社会には〔公共的精神〕ともいうべき価値意識があった
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『上杉治憲のような優れた藩主だけでなく、家老や、その他の家臣たちのなかにも、藩の組織を運営する上で、公共性を尊重する考え方が意識されていました。つまり、江戸時代の武士の中に、公共的精神というべきものが流れていたことがわかるのです。』(〔 〕に「公共的精神」を板書する)。
A『最後に、冒頭に紹介した、「民主主義社会のリーダーだったJFKがなぜ、身分社会の江戸時代の大名であった上杉鷹山を尊敬していたのか」その理由は何だったのか、書いてみましょう。』(例:公共的精神をもって政治を実践した人物と評価したから)
『参考に、JFKは大統領就任の演説で、有名な次の言葉を述べました。この言葉は、JFKが上杉鷹山を尊敬したことのヒントとなるでしょう。』
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【資料3 JFケネディ 大統領就任演説】
そして、わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家 があなたのために何をしてくれるかではなく、 あなたがあなたの国家のために何ができるか
を問おうではないか。
(And so, my fellow Americans…ask not what your country can
do for you…ask what you can do for your country.)
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『ケネディ大統領は、国民一人一人が公共的な精神をもつことの大切さをよびかけています。つまり、上杉鷹山を尊敬していたケネディは、民主主義のリーダーとして、わが国の武士のごとき「公共的精神」をもった国民を求めていたと言えるでしょう。そしてこの姿勢は、わたしたち日本人こそが鷹山から学ぶべきところではないでしょうか。』
《おわりに》
授業後の検討会では賞賛の言葉が多かった。が、安藤豊氏のご指摘は今後の課題として残ったと思われるので紹介しておきたい。記憶を頼りに書くので間違っているかもしれないが、「政治は結果責任であるのだから、有馬を押し込めた家老たちが、実際はどんな施策を行いその結果はどうだったのか、有馬の殿様よりもよい結果が出せたのかが示されないと、話は収まらないのではないか」というご趣旨であったと思う。これは政治的な決定の手続き論と結果論の問題である。
飯島先生のご授業では、より多数の民意を反映した政治的な意志が勝利できる仕組みがあったという江戸時代の藩政の仕組みについて学び、江戸時代の武士における政治目標としての「公」と、それを支える「公論」の優位が学ばれる。例外的な名君の場合と、君主がだめな場合の危機管理システム(諫言・押込)の両方を取り上げることで、それが江戸時代の武士(藩)だったという理解を可能にする。
しかし、安藤氏のご指摘のように、ただ多数の民意に添えば必ず政治の結果が善いというわけではない。ポピュリズムを持ち出すまでもなく、開明的なリーダーだけに先が見えていて、衆愚は目先の利害に振り回されて正しい判断ができないというケースも多いことは、現代も同じである。
ここで問われていることが本当は何なのかを再考してみた。
《主な参考文献》
・尾藤正英 『江戸時代とは何か』 岩波現代文庫
・横山昭男 『人物叢書 上杉鷹山』 吉川弘文館
・笠谷和比古 『武士道と現代 江戸に学ぶ日本再生のヒント』 扶桑社
・笠谷和比古 『主君「押込」の構造 近世大名と家臣団』 講談社学術文庫
・藤岡信勝編 『教材開発の記録「江戸の社会を考える」東京大学教育学部
教材開発研究レポート集』
授業づくり最前線の目次へ 特集・『武士』を教えるへ
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