道徳授業実践報告
「アメリカ人が見た日本人」


服部 剛(横浜市公立中学校教諭)

対象は中学1年生。以下、●は教師の解説・○は生徒の発言。 また、各資料は中学生向けに要約し、リライトした部分があります。

▼「幼児を背負った少年」の写真に注目させる。
 

●この写真は、1945年の占領下、長崎県で撮られたものです。ジョー・オダネルというアメリカ軍のカメラマンが撮影しました(『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』より)。


▼【発問1】次の4点に注目して、写真から気がついたことをメモしよう。

@少年の顔つき

○キリッとして賢そうな顔をしてますね。
○険しい表情。
○歯を食いしばっている。
○少年はとても悲しそうな顔をしている。
○思い詰めた表情。

A少年の服装

○服がボロボロ。寒そう。
○裸足。手足が黒い。

B少年の姿勢

○少年は気を付けをしていて姿勢がいい。
○ピシッとしている。

Cおんぶされている幼児

○幼児は…寝てる?
○赤ちゃんは、あれじゃあ頭に血が上ってしまう。
○赤ちゃんは眠っているけど、弱々しい。
○食べ物がなさそう。ぐったりして死にそう。 ○幼児は死んでいるように見える。


▼【発問2】少年は、どんな気持ちで立っているのだと思いますか?

○すごく悲しい思いで立っていると思います。 ○アメリカ兵が憎い。
○負けて悔しい。 ○何かと戦っているみたいだ。 ○早く自由にならないかな…。
○悲しさを押し込めて立っている。 ○何でこんなことになったのだろう?


●この写真は、終戦直後の長崎で撮られたものです。原爆が投下された直後のことでした。撮影したのは、ジョー・オダネルというアメリカの従軍カメラマンです。オダネルさんは、19歳の時にアメリカ海軍軍人として大東亜戦争(太平洋戦争)に参戦しました。  
日本軍による真珠湾攻撃を知って、敵国日本に敵愾心を燃やしていた青年ジョー・オダネルは、日本の敗戦とアメリカの勝利を太平洋の洋上で聞きました。
「ざまあみろ! ジャップめ!」「ようやくこれでアメリカに帰ることができる!」と、そう思っていた矢先、彼は敗戦直後の日本の調査を命じられました。
敗戦後の日本で彼ら一行が見たものは、自分たちが想像していたような日本人たちではありませんでした。  
写真をよく見て下さい。少年の足元に「ひも」のようなものが見えます。その前では原爆によって殺された人々の死体が焼かれていました。この少年は死体を焼く「焼き場」の前に立っているのでした。  
この時の様子をオダネル氏は次のように言っています。
【資料@】を読んでみましょう。

【資料@】「焼き場に立つ少年」

佐世保から長崎に入ったわたしは、小高い丘の上から下を眺めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目につきました。男たちは50センチほどの深さに掘った大きな穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と投げ入れていたのです。  

10歳くらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきに掛けて、幼子を背中にしょっています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも足ははだしです。  

少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。  

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちが静かに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時わたしは、背中の幼子が既に死んでいることに初めて気づいたのです。男たちは幼子の手と足を持つとゆっくりほうむろうとするように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。  

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけないほおを赤く照らしました。  

その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりきつくかみしめているため、唇の血は流れることもなく、ただその下唇に赤くにじんでいました。  

夕日のような炎が静まると、少年はくるりと焼き場に背を向けて、沈黙のまま去っていきました。

(「目撃者の眼」より)


●この写真は、戦争で死んでしまった弟をたった一人で焼き場に火葬しに来た少年の写真だったのです。一人で来たということは、もしかするとこの子は両親も失って、弟を最後まで自分一人で守ってきたのかもしれませんね。  
もう一度、良く写真を見てご覧なさい。こんな状況で、これほど素晴らしい姿勢で気を付けをできる子供が今の日本にいるでしょうか?


▼【資料@】を読んで、思ったことや考えたことを書きましょう。

○読んでいて胸の奥が締め付けられるようだった。
○まだ小さいのに一人になって、かわいそう。
○戦争では、この少年のような人がたくさん出る。もしこれが僕だったらと考えるととても怖い。
○見た目ではキリッとしてしっかりしているけど、心の中では悲しかったのだろう。
○何て言って良いかわかりません、この少年の気持ちは…。すごくつらい、でも必死で生きてる…って感じです。
○弟も死んでしまって一人になってしまったのに、泣かないでまっすぐ前を見つめて、きっとこの少年はすごく強い子なんだろうなって思った。
○家族が死んでしまっても、まっすぐ立っているなんて、すごい子だと思いました。最後も、後ろを振り返らずにピシッとして帰って行くのもすごいです。


▼【発問3】敗戦と飢餓の中で、当時の日本人はアメリカ人にどんな態度をとったと思いますか。

○アメリカ人を殺してやりたいなど、すごく恨んでいたと思う。
○絶対、憎んでいた。 ○軽蔑したと思う。
○怒った態度と悲しみの表情。私なら怒りの態度をとる。
○言うことを聞かずに反抗的な態度をとった。
○従わないで、常に反発したんじゃないか。そういうイメージしかわかない。自分だったら確実に恨んでいる。
○心の中では「ムカツク」って思っているが、態度は従ったのではないか。
○無視すると思う。関わらないように避ける。 ○普段と変わらない態度では。
○家族を返して欲しいから、泣いて叫んでいた。


●では、実際の日本人はどのような態度でアメリカ人に接していたのでしょうか? 【資料A】を読んで確認しましょう。

■【資料A】「その後のオダネル氏」

私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。

あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。

アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。

(『トランクの中の日本』より)

◆ ◆ ◆

わたしは言葉さえかけることのできなかったこの少年が気になって仕方がありませんでした。自分で慌てて着たようなしわしわの服、はだしの足、おんぶひももよじれてかかっていました。もしかしたら家族をみんななくしてしまったのかもしれない。服を着せてくれるお母さんはもういないのか、家はあるのだろうか、考えれば考えるほど気になります。そこでわたしは日本の新聞にこの写真を載せてもらいました。「どなたかこの少年を知りませんか?」という問いかけを添えて知り合いに頼んで何度も載せてもらいました。 でも、なんにも反応はありませんでした。わたしにこれほどの衝撃を与えたこの少年は、たった一枚の写真を残していなくなってしまったのです。  

長崎に3か月滞在し、それから広島に行きました。そこでも悲惨な写真をたくさん撮りました。わたしは戦争の写真を撮りながら、自分にこう言い聞かせてきました。これは将来のために撮るのだと。わたしの見たものをみんなに見せるために撮るのだとカメラはわたしの眼だったのです。

日本に行くまで、わたしは日本人を見たことがありませんでした。終戦直後、日本に初めて行ったわたしは、日本人の丁寧さにただただ驚きました。

大変な時に、これほど礼儀正しい国民がいるでしょうか ! 1945年の9月から7か月間の日本滞在の後、何度も日本に行きました。友達も増えました。50年以上のつきあいになる友人もいます。  

戦争は二度と繰り返してはなりません。原爆は決して落とすべきではありませんでした。戦争終結に必要だったと言う人がいます。でも、だれが何と言おうと、わたしはこの眼で見たのです。原爆でやられたのは、老人と女たち、そして子供たちだったのです。原爆が必要だったわけなどありません。わたしは、死ぬまでそのことを言い続けるつもりです。なぜなら、You don't forget what you saw. (見たものは忘れない)から。

(「目撃者の眼」より)


●終戦直後、オダネル氏が見た日本人は、自分たちアメリカの攻撃によって徹底的に痛めつけられ、家族や親戚・友人らを失ったというのに、アメリカ人に対して温かく、親切に接する日本人の姿でした。そして、そのような時に出会ったのが、写真の少年だったのです。では、同じく終戦直後に、東京であったお話を紹介しましょう。

■【資料B】「靴磨きの少年〜一片のパン『幼いマリコに』」

81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。  

手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。  

東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。アリヨシ氏は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。  

アリヨシ氏は手紙で「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と書いている。  

彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2カ月しかいなかった。再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。そして、1974年、日系人として初めてハワイ州知事に就任した。

のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」…。

アリヨシ氏の手紙には「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されている。  

そして、今を生きる日本人へのメッセージが、最後にしたためられていた。
「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘を、もう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」。

「*凛とした日本人たれ」。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の祖国への思いが凝縮されていた。(平成7年11月6日産経新聞「【やばいぞ日本】」より)/[*凜=引きしまっていること]


▼【発問4】焼き場の少年やマリコの兄から学ぶ事は何でしょうか。

○たった一人になっても、自分の弟を丁寧に埋葬し、生きていこうとする「生きる力強さ」「勇気」。そして、苦難にたじろがず、貧しさを分かち合う「思いやり」「無私の心」「隣人愛」など…。  

●自らの努力と気概で、日本人は敗戦と飢餓という未曾有の危機を乗り切りました。それから60年、今の社会に広がる数々の忌まわしい事件は何なのでしょうか!?


▼今日学んだことを今日に照らして、どう思いましたか。感想を書きましょう。

○沢山の人たちが死んで、家族も殺されて多くの犠牲を払ってやっと戦争が終わったのに、くだらないことで家族を殺したりして、今の日本人は何をしてるんだろうなぁと思った。本当に友達や家族を大事にしていた昔の日本人の心、相手や身の回りを思いやる優しい心を取り戻してほしいと思う。(女子)
○僕は今、欲しい物はいつか手にはいると簡単に口に出して言ったりしています。しかも食べ物は好き嫌いがあったり、わがままを言ったりとたくさんある。しかし、これからは「がまん」や「人のため」にということを思って生きていきたい。(男子)
○私が思っていた勇気や思いやりなどは一瞬のことだけで、今日知った勇気や思いやりはもっと深く、温かいものだった。(女子)
○僕らは豊かすぎて大切なことをいろいろ忘れている。僕らが終戦直後に生きていたらきっと生きのびられないだろう。このような少年たちの心を学ぶべきである。(男子)
○自分の家族を殺したアメリカ軍の兵士に対しても礼儀をしっかりと守っていたのはすごいと思った。昔の日本人は「思いやりの心」が、今の日本人よりあったのだと思う。今の日本人は、昔の日本人に学ぶことが多い。(男子)
○昔の日本人は必死で生きていたのに、現在の日本人は殺人や自殺サイトなどでわけもわからない死に方をしている。先祖がいるから自分がいるのに、くだらないことで死んでいくのは先祖に対しても失礼だと思うし、そんなことで命を落としてはいけないと思った。(男子)
○平和な世界に生まれて良かったなぁと思う。でも、昔の日本人は素晴らしいのに、今はすぐに鬱などになったり、自殺したりと、日本は変わってしまったんだと思った。(男子)
○60年前、日本人と今の日本人は、心がだいぶ変わってしまったと思った。焼き場の少年のことなどをもっと知れば、今起きている事件は減ると思う。(女子)
○あの頃の日本人は、本当は悲しいのだろうけど、その悲しさを表に出さなかった。自分ならきっと泣いていただろうと思う。今は、親が子を殺したりする事件がある。でも昔の人みたいに一緒に生きたくても生きられなかった人がいたのだから、もっと命を大切にしなければならないと思った。(女子)
○私だったら、7歳の少年みたいにはできないと思います。すごいなぁーと思いました。3歳の妹の笑顔を見たら、「明日も頑張ろう」って思ったんだと思います。(女子)
○こういう少年は今はいないのではないかと思った。自分もこの少年のようなたくましい日本人になりたいです。(男子)
○僕だったら絶対にこんなことはできないと思いました。でも、僕はこの資料を読んで、妹をもう少し大切にしようと思いました。(男子)

(終わり)

授業づくり最前線の目次へ