エルトゥールル号の遭難
トルコ人が日本好きになった理由

安達 弘(『教科書が教えない歴史』執筆者)
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みなさんはトルコという国を知っていますか。トルコはアジアとヨーロッパの中間に位置していて、アジアとヨーロッパの文化の交流点になっています。トルコ人には親日家が多く、「どこの国へ行ってみたいですか」と聞くと10人中9人までが「日本へ行きたい」というほどだそうです。トルコの人たちがこれほど日本人を好きになってくれた最初のきっかけが、こからお話しする「エルトゥールル号の遭難」という事件です。
19世紀末、日本では明治政府が誕生したころのことです。「天皇を中心とした新しい政府をつくるため、政治や社会の改革をすすめました。この改革を明治維新といいます」(小学校社会科教科書より)。
このころオスマン・トルコ帝国も日本と同じような立場にありました。両国とも同じように国内の改革を進め、対外的にはヨーロッパ列強に対し、平等な扱いを認めさせようと努力していました。当時のアブドル・ハミト2世は明治天皇への特派使節としてオスマン・パシャ提督を選び、日本に派遣することを決めました。
トルコの使節団総勢650人はエルトゥールル号に乗り込み、約1年をかけ遠路はるばる航海して、1890年(明治23年)6月5日に横浜に到着しました。一行は上陸すると盛大な歓迎を受け、明治天皇に拝謁して晩餐会が催されました。
エルトゥールル号乗組員
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神戸救護病院で手当てを受けた乗組員
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目的を果たした一行は、9月15日に帰国の途に就くことになりました。ちょうど台風シーズンに当たるこの時期に出港するのは危険だとして日本の関係者は帰国を遅らせるよう勧めましたが、オスマン・パシャ提督は「私たちはアラーの神に守られ、インド洋の荒波を越えてやってきたのです。心配には及びません」といって出発してしまったといわれています。
運命のいたずらか、エルトゥールル号は神戸に向かって航行中台風に遭い、和歌山県大島の樫野崎沖において難破・沈没してしまったのです。オスマン・パシャ提督を含む587人が死亡するという大惨事でした。生存者は69人で、翌日の未明にかけて岸に流れついた人々は、地元大島の村人に救われました。
紀伊大島にあるトルコ記念館
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昭和12年6月3日に除幕された慰霊碑
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この大惨事に対して日本は生存者の救助、介護、犠牲者の遺体・遺品の捜索、船の引き揚げなど事後措置を官民あげて手厚く行いました。義援金の募金が広く行われ、樫野崎に慰霊碑も建てられました。生き残った69人は軍艦「金剛」「比叡」により丁寧に送還されました。
イスタンブールの海軍博物館には、今もエルトゥールル号の遺品や日本で作られた追悼歌の楽譜などが展示されています。
この日本の手厚い事後措置にトルコの人たちは感激しました。これ以来、今日まで日本とトルコは深い友情で結ばれているのです。
※この記事は、藤岡信勝・当会著『教科書が教えない歴史』第1巻(扶桑社刊)からの抜粋です。
追記:イラン・イラク戦争が始まった1985年。空襲が予告されたイランの首都テヘランでは、各国の航空会社が国外へ脱出する自国民を乗せて次々と飛び立っていったが、215人の日本人が空港に取り残されていた。日本政府の対応が遅れ、空襲の危険が迫る中、トルコの特別機2機が到着。日本人乗客をイスタンブールへ運び、難を逃れた。トルコが特別機を派遣した理由について、当時のトルコ外交筋はこう説明したという。「エルトゥールル号の借りを返しただけです」
(2002年1月22日西日本新聞掲載・坂井政美)
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