平成17年度全国大会模擬授業
公職追放


服部 剛(横浜市公立中学校教諭)

1.戦後初めて民意を問う総選挙

『1946年4月10日、戦後初めて民意を問う総選挙が実施されました。【資料1】は総選挙の結果、各政党の獲得議席数です。』


【資料1】

自由党141 進歩党94 社会党93 協同党14 共産党5 諸会派38 無所属81 合計466

【問1】資料1から、次の総理大臣になるのはどの政党の党首だと思いますか?

『連立政権を樹立させるなどいろいろなパターンが考えられますが、常識的に考えると第一党である自由党を中心にして政権が成立するものと予想できますね。では、【資料2】で確認してみましょう。』


【資料2】
 

東京1区でトップ当選を果たした自由党総裁の鳩山一郎は、「選挙をやって第一党になったのだから、政治をまとめる責任は第一党党首の私にある」と、政権獲得へ高い意欲を示していました。社会・協同両党との連立政権構想が進展しなかったので、鳩山は前総理大臣の幣原喜重郎ひきいる進歩党の協力を取り付けた上で、自由党単独政権の実現を目指すことに決めました。鳩山からこの決定を伝えられた幣原首相は、5月3日参内(皇居に行き、天皇陛下に会うこと)して後継首班として鳩山を昭和天皇に奏上します。同日夜には、吉田茂外相を通してGHQにこの旨承認を求める文書を提出させました。そして、翌4日には勅命によって組閣という順序も決定しました。


2.総選挙に至るまで


『やはり、第一党の自由党党首・鳩山一郎が首相になることに決定したようですね。ここで、ちょっと時間をさかのぼって総選挙に至るまでの流れを見たいと思います。幣原内閣は、選挙法の改正に取り組み、婦人参政権の賦与や選挙年齢引き下げ(25歳から20歳)等を実現させました。以下、確認しましょう。』

・1945(昭和20)年
 12.15 改正選挙法が成立
 12.18 衆議院解散。翌1.22 に総選挙の実施を決定する
    →GHQ、総選挙の延期を命令
・1946(昭和21)年
 1.4 GHQ、「公職追放令」でパージ(追放)が開始される

『GHQは新日本にふさわしい「進歩的人物」を政界に入れるため、わざわざ総選挙の実施を延期させて、政党人の一掃に取りかかりました。そして、総選挙は追放指令と一体化したものになったのです。では、この「公職追放令」とは、どのようなものだったのでしょうか。』


【資料3】

連合国総司令部指令「好ましからざる人物の公職からの除去及び排除」(要約)
一、ポツダム宣言(第6条)は「日本国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及び勢力は永久に除去せられざるべからず」と規定す。
二、ポツダム宣言の右条項を実行するため、日本政府に対し左に掲ぐる一切の者を公職より罷免し、かつ官職より排除すべきことを命ず。

・A項〜戦争犯罪人
・B項〜陸海軍職業軍人
・C項〜極端なる国家主義団体、暴力的団体又は秘密愛国団体の有力分子
・D項〜大政翼賛会、翼賛政治会および大日本政治会の活動における有力分子
・E項〜日本の膨張に関係した金融機関、開発機関の役員
・F項〜占領地の行政長官
・G項〜その他の軍国主義者および極端なる国家主義者

『A〜G項に該当する者が「好ましからざる人物」とされ、追放の対象になりました。公職追放は、アメリカ(形式的には連合国)による日本の「物質的武装解除」に続く、日本人の「精神的武装解除」の一環と位置づけることができます。 間接統治の形を取っていましたので、日本政府はGHQ指令を法令化してこれを運用していきました。』

・2.24 「政党、協会、その他の団体の結成の禁止に関する件」公布
・2.28 「就職禁止、退官、退職等に関する件」公布 

「公職資格審査委員会」発足 『この内閣直属の委員会が公職就任にふさわしい人物か否かを審査したのですが、実質的にはGHQ民政局がダブルチェックする仕組みになっていました。以下、どんな人たちがパージ該当者になったのか、見て下さい。』

@パージ該当者は、
・公職から「除去(即刻退職)」および「排除(再就任禁止)」
・退職金、恩給、他の諸手当支給の権利を剥奪⇒実質的に社会から抹殺

Aパージに該当する職種
職業軍人、議員、政党人、官僚、全県の警察首脳、特高警察関係全職員、特殊法人の会長・社長・幹部職員、軍需品・鉄鋼生産の中枢に参画した者、教職員、元軍医、裁判官、人権蹂躙を指導・実施した者、戦争と全体主義を宣伝した者、言論統制を行った者、そのほか懲罰に値する活動をした者など。

B新たに公職に任命される者はすべて審査され、「好ましからざる人物」は排除された。

『この公職追放規定に基づいて審査された結果、現職の国会議員はどうなったでしょうか?【資料4】を見て下さい。』


【資料4】

《「国会議員の資格審査」の前と後》
 自由党43→13
 進歩党274→14
 社会党17→7   協同党23→2 『総選挙を実施する前に、何と現職議員の83%が立候補の段階で追放になったのです。』


3.「新日本」の門出を飾る総理大臣は?


『こうした状況で総選挙に突入し、先に見た【資料1】の結果になったのですね。では、話を戻しましょう。あの鳩山一郎はどうなったのでしょうか?』


【資料5】

《自由党党首・鳩山一郎はどうなったのか?》

組閣の勅命が下りる5月4日当日の午前、鳩山が組閣本部に行くと、鳩山宛のパージ指令がGHQから届けられていました。閣僚名簿もほぼ出来上がり、いよいよ参内しようという直前でした。鳩山の日記には、衝撃の大きさと無念の思いが次のようにつづられています。

「形勢急転悪化報ぜらる、十一時頃追放確定。追放の内容全く意外の事実のみ。一言の説明の機会与へられずして三十余年の議会生活より追放され、組閣の機会を逸す。」


【板書】

戦後初の総選挙  → 第一党 自由党党首・鳩山一郎、突如の公職追放
[追放理由]公職追放令のG項(軍国主義者・極端な国家主義者)に該当

『果たして、これが民主主義に則った選挙だと言えるでしょうか?
【資料3】のA項以下は、対ドイツのパージ政策を模倣して作られたのですが、実はG項だけは新たに民政局次長ケーディスらが発案したものでした。G項の曖昧さが民政局(ニューディーラー多数)の思惑を実現可能にしました。すなわち、自分たちが気に入らない人物の追放を決定してから、後で都合良く理由を盛り込んでいくことが可能だったのです。』


板書】

《公職追放の性格》
・日本を非軍事化する計画の一段階 
 ↓(変化)
・日本の「民主化」に有害と見なされる人物を全て公職から排除する手段
・日本政治を統制するテコ


4.拡大(第2次)公職追放令


『GHQのパージ政策はさらに厳しくなっていきます。戦後初の地方選挙に標準を合わせ、全国規模の追放がスタートしました。1947(昭和22)年1月4日、「拡大公職追放令」が発令されました。以下で確認しましょう。』

@拡大された追放の対象
経済パージ 政府の統制を受ける特殊会社、銀行などの金融機関、公益性のある団体、主要な企業の経営陣や主要役職者とその三親等内の親族、大株主など
言論パージ 学者、ジャーナリスト、作家、マスコミ界有力者など
地方パージ 都道府県市区町村の末端まで網羅して、追放を実施

Aパージに該当する職種
都道府県知事及び市町村長、地方議会議員、地方公務員、町内会長、部落会長、警察官、教職員、武徳会役員(地方の有力者は武道振興団体「武徳会」の役員を務めることが多かったから)、事業家、言論・報道関係者など

B違反者への罰則は、調査票に虚偽の記載や漏れがあったり、追放該当者が政治活動などをした場合
→「3年以下の懲役または1万5千円以下の罰金を課す」

『この結果、1948年5月にGHQが「パージ終結宣言」を出すまで、この2年半に「約21万人」が追放されました。パージを恐れて事前に辞職した者やその家族を含めると100万人以上が被害者となったのです。』『戦争中、ほとんどの日本人は勝利を目指して国に協力していました。ですからGHQは、その気になれば全日本人をパージの対象にすることができたのです。しかも当時、追放は「永久に(ポツダム宣言)」続くものと考えられていたので、多くの日本人が自分がいつ処罰されるかと恐怖におののきました。』


5.二分割された日本人


『公職追放の結果、我が国の社会はどのようになったのでしょうか。
公職追放は、日本人を「民主国家・日本」にとってふさわしい国民か否か、二つに切り分ける「ナイフ」の働きをしました(増田弘『公職追放論』より)。ここで問題です。』

【問2】公職追放は、日本人を次の二つのタイプに二分しましたが、次の(  )にはいる言葉は何ですか?
 @戦争の遂行に協力した(    )主義者
 A平和国家にふさわしい(    )主義者

【答】@軍国 A民主

【問3】実は、上記@のグループには、もう一つある種の人々が入ります。それは、どんなタイプの日本人だと思いますか?
【資料6】を読み、「占領政策に(     )日本人」という形で答えなさい。


【資料6】


唐島基智三(東京新聞記者)の言葉「追放令そのものが、該当のワクの解釈に曖昧な点があり、総司令部の政治的配慮で、どうにでもなるような面があった。このことが日本の政治を暗いものとした。『従わねば追放する』この一言がすべてを決定するアイクチともなって、政治家を完全に総司令部に隷属させる結果となり、政府は総司令部の出先機関となってしまった」(増田弘『政治家追放』より引用)

【答】占領政策に(逆らう・従わない・楯突く)日本人

『無言の圧力ですべてを決定するGHQの姿が見えるようです。『泣く子も黙る占領軍』と恐れられた所以ですね。』

※補足〜石橋湛山のケース

大蔵大臣としてGHQの経済政策に従わず、抵抗した。怒ったGHQ民政局は、石橋を政治家としてではなく、言論人時代の主張を理由として超国家主義者と断定し、追放した。

『一方、当時の政権担当者は公職追放をどのように見ていたのか、【資料7】から読み取りましょう。』


【資料7】

《吉田茂(総理大臣)の回想(吉田茂『回想十年』より要約)》
従来、我が国の社会の第一線に立っていた者が、みんながみんな軍国主義者や極端な国家主義者だったわけではなく、自由主義者・議会主義者もたくさんおった。明治以来、相当長い期間にわたって、日本の社会制度・国家機構の根本思想は、自由主義的・民権主義的にもかなり進歩していたことは、歴史に徴しても明らかなことである。一時的な状態をもって、これを本質的なものとあたまから決めてしまうのは早計であり、また酷だと思った。追放は追放令の規定でどうしても画一的な基準によらざるを得ないし、短期間に処理せざるを得ないので、明らかな誤りの事例や公正を欠く事例も少なからず含まれていた。また、被追放者は単に公職から締め出されたばかりでなく、民間の職に就くのにも、周囲の無理解などから、商売を始めるのにさえ実際上の障害を感ずる事例もあったと聞く。追放の問題もここに至ると、実に社会問題・人道問題だった。当時の情勢として、これを表向きに批判・攻撃することはほとんど不可能であった。


6.公職追放の終わり


『冷戦の進行により、米国の対日方針は転換しました。米国は日本を…、 経済的自立化・反共防波堤化 する方向に変化させざるを得なくなったのです。以下の流れを押さえておきましょう。』

・1948(昭和23)年5月、ワシントンの命令により「パージ終結宣言」。ただし、審査業務は継続。
・1950(昭和25)年、6.6 マッカーサーはレッドパージを指令する一方で、軍人パージを緩和する
6.25 朝鮮戦争勃発
・1951(昭和26)年、4.16 マッカーサー、解任により離日
 6.18 「訴願」による「パージ解除」を開始
・1952(昭和27)年、4.28 講和条約発効とともに公職追放関連諸法令を廃止
→全パージ解除(レッド・パージを除く)

『米国側の都合によりパージが終結したという事実は、公職追放の政治性を明瞭に表しているといえるでしょう。』


7.まとめ


『では、まとめましょう。公職追放について、今日の評価は大きく二つに分かれています。次の二つの評価【資料8】を読んで、どう思ったか自分の考えと感想を書いて下さい。』


【資料8】


A〜「公職追放は戦後日本の変革に大きく貢献した。日本の社会から軍国主義を一掃し、政界や官界、経済界、言論界等を浄化し、世代交代を促進した。また、地方の都市と農村を民主化した。
官界や経済界では上層部の人々が追放されたので、四〇歳代の中堅クラスが長きにわたりトップの座を占め、奇跡といわれた一九六〇年代の高度経済成長をもたらしたのである。ある意味で、占領期のパージは、古い指導層を葬り去った幕末・明治維新期に似ている。今までの古い世代に代えて、新しく若い世代を各界の第一線へと押し上げた。それとともに、古い価値を消し去り、新しい価値をもたらした。」(増田弘『公職追放』より中学生向けに要約)

B〜「公職追放によって明治・大正以来、日本の社会が営々として育て上げた指導層をことごと く失いました。マッカーサーや民政局のケーディスは『これで日本の世代交代が進み、活力が出る』と説き続けました。一つのことを繰り返して言い、反論は言論統制によって許さない期間が長く続いた場合、一般の思考形式にも影響を与えます。このような理屈が正しいならば、どの国でも一定基準を設けて首切りすれば、活性化することになります。スターリンの粛清後のロシアを見ればわかるように、無理をすれば必ず弊害の方が大きくなることは明らかです。公職追放の結果、明治・大正・昭和の初期の平和な時代に深い教養を培い、時代の過渡期を責任ある地位にいた世代が失われ、中途半端な役職を務めた経験しかなく、海外経験も乏しい世代が戦後長きにわたって日本の指導者になったのです。」(岡崎久彦『百年の遺産〜日本近代外交史』より中学生向けに要約)  

(授業終わり)

※補足:今回の模擬授業では、補足として以下の点を加えた。

1.日米の文化的背景の相違について
我が国には公職追放といった文化的概念は歴史上、存在しない。しかし、米国では、既に南北戦争後、北部連邦政府が敗者・南部に対して広くパージを実施している。特に経済パージは過酷だったという。ゆえに、米国にとってパージは「自然の摂理」に基づいた敗者への対応であったと言える。

2.公職追放政策は、同時に実施されていた「検閲政策」と車の両輪の関係にあったこと。

3.パージ解除後も、実際はGHQの「無言の圧力」が残っていたこと。敷衍すれば、占領自体は継続していたから、いつでも「パージ復活」の恐れがあったのであり、この意味で、日本人は依然として閉塞状態に置かれ続けていたのである。 言論空間において、検閲が事前から事後に変わった後も「自己規制」という形で実質上の検閲が残り続けたことと同じ構造が見て取れる。

【参考文献】

・増田弘『政治家追放』(中公叢書、2001年)
・増田弘『公職追放』(東京大学出版、1996年)
・増田弘『公職追放論』(岩波書店、1998年)
・『GHQ日本占領史6 公職追放』(日本図書センター、1996年)
・岡崎久彦『百年の遺産〜日本近代外交史』(産経ニュースサービス、2002年)
・竹前栄治『日本占領 GHQ高官の証言』(中央公論社、1988年)
・広見直樹『日本官僚史』(ダイアモンド社、1997年)
・秦郁彦、袖井林二郎『日本占領秘史』(朝日新聞社、1986年)

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