平成17年度全国大会講演
敗者の戦後を考える
ナポレオン・ヒトラー・昭和天皇を通して

入江隆則(明治大学教授)
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(一)はじめに 三つの模擬授業の感想から
最初の安達先生の「占領期の昭和天皇」の授業は感動的で私も涙ぐみました。
昭和天皇とはどういうお方だったのか、この授業を聞いておりますと、昭和天皇の偉さは自分の一身をかえりみないで日本国民の安寧をマッカーサーにお願いしたということです。しかしあえて批判的なことを申し上げますと、天皇が個人として偉かったということを教えることも大事ですが、天皇制度というシステムが大変優れたものであるということをわからせる必要もあります。そのあたりについての先生のコメントが少なかったのではないか。あまり難しいことを言っても小学生は理解できないこともありましょうが、昭和天皇を含め天皇制度のシステムの素晴らしさ、その日本の政治文化の優れた点を小学生にも教えていく必要があります。
そのためには外国と比較せざるを得ない。日本の場合は天皇は百数十代にわたって連綿と受け継がれ革命がない、ところが隣の中国には易姓革命がありまして、大変残虐な王朝の交代がありました。前の王朝を虐殺して後の人たちに都合の良いように歴史を書き換えていくわけです。権力と権威が分離したということであれば、ヨーロッパ中世にも例があります。カトリックの法王という権威があって、諸国の国王が権力をもつという形で、権威と権力の分立があったわけです。日本の場合すばらしいのは、権力が機能しなくなると、普段は権威として一歩退いている天皇が、国家の危機的状況が生じた時一時的に権力と権威を掌握して政務に、あたることで乗り越える制度になっていることです。これは世界広しといえど日本にしかないわけです。
まさに終戦の時がそうでありました。鈴木内閣は立派な内閣であったわけですが、天皇は普段はだいたい大臣の輔弼がなければ、あるいは陸海軍大臣の輔弼がなければ何もできないというシステムです。ところが敗戦という国難に直面したとき、権威としての天皇がご聖断というかたちで終戦の終結を決定する。そういうすばらしいことができた制度だということをわからせることが必要なんだと思います。
昭和天皇が大変立派な方だったということをわからせることが重要であると同時に、日本の天皇制度の伝統をわからせることが大事だと思います。 日本の天皇制度をイギリスの王朝と比べることが多いです。日本の場合は天皇が存在して、帝国憲法の場合は各大臣の輔弼によって成り立っている。天皇は旧憲法では「神聖にして侵すべからず」ということでしたが、各大臣の輔弼があり、天皇はそれを決して拒否しないという形で権威としての天皇制度が成り立っていたわけです。
イギリスの王室の歴史は十六世紀から十七世紀にかけてヘンリー八世とエリザベス一世と続いて、このエリザベス一世で女王がイギリス王室の基礎を築いたわけです。それは王権と議会の分立ですが、日本の天皇制度はみごとに権力と権威を分けたわけです。幕府が交代しても天皇制度には関係ない、幕府や内閣の交代があってもシステムとしては機能する。だから革命が起こらないわけです。
しかしそれでもうまくいかない時は、敗戦のご聖断のようなことがある。幕末においても同じことがあったと思います。ペリー来航により開国を迫られる。幕府は機能しなくなる。内乱の状態です。薩長が兵力を派遣しましたがその時天皇が存在した、孝徳天皇ですね。天皇の存在で内乱が最小限に防げたわけです。同様にして敗戦の時も、陸海軍のクーデターが防げたわけです。
ですから制度的に二つのことを、権威と権力の分立を教える必要があるわけです。これは今の大学生は理解しておりません。日本の天皇制度というものがすばらしいものであることを小学生、中学生の段階で教えていく必要があります。
そういうことを安達先生の授業では感じました。昭和天皇とマッカーサーの会見とその核心をしっかりととらえており立派なものと思いました。
二つめは服部先生の授業「公職追放」。
大変細かくどのような人たちが追放されたのかを批判的に扱われましたが、これは占領軍がとんでもないことをした、日本の良き伝統がなくなってしまったという基調のお話しになっておりました。
しかしお聞きした限りではマッカーサー、占領軍は半分は良いことをしたなという印象をもちました。そうするとこの授業のねらいと違ってくるのではないかと思いました。占領期間において戦勝国は敗戦国の法の改正をしてはならないというハーグ陸戦条約の規定があります。日本国憲法がいかにも日本国民がつくったようにみせかけ、その上で日本人の精神的パックボーンとなるようなものを潰したわけです。しかし皇室と天皇をつぶすことはできなかったわけです。天皇制度をつぶすにはさらに百万の軍隊が必要であったとマッカーサーが語っております。
マッカーサーは皇室の範囲を縮小するとか、家族制度を崩壊させるとか、占領期間中に教育制度をふくめ日本の弱体化政策をとりました。アメリカと戦ったことはもちろん、憲法九条やその前文をよんでわかるように悪い日本だけが武装解除させられ、他の国々は平和愛好国だったような印象を与えるための一環として公職追放が行われたことをもっと強く打ち出してもよかったのではないかと思います。
生徒たちに岡崎久彦氏と増田弘氏の解釈が並べられて、両論を読み感想を書くということでしたが、授業のねらいとしてはあくまで占領軍が勝者の権威をかさにしてよくないことをした面があることを強く打ち出す必要があると思います。
そして三番目の授業、「阿南陸相と終戦」です。
これは大変むつかしい問題ですが、中学生ではこれくらいの問題を考えさせる必要がありますね。何がむつかいかと言いますと日本が外国と戦争して負けた、昭和二十年の敗戦でどういう困難なことがあったかということです。鈴木総理自身は内心敗戦を受け入れざるを得ないと思う、その一方で机をたたいて本土決戦を主張する阿南陸軍大臣がいた。(本心はどうかわからないですが)現在のわれわれにはわからない困難な状況が沢山あったわけです。
大東亜戦争を始めるにあたっての苦悩、敗れた時の状況、ポツダム宣言を受け入れるこが、いかに大変だったかを理解させることです。もう一つは、阿南大臣が、机をたたいて本土決戦といいながら腹の中では、どうやって陸軍を押さえるか苦心していたことです。陸軍の中では、本土決戦が主流であったですから非常に困難な政治的状況の中で、リーダーがいかなる態度をとるにべきかという問題がテーマです。
困難な状況にたったとき、一つの例ですが、赤穂浪士が主君の恨みを晴らすわけです。浅野内匠頭が切腹を命じられ、同時にお家断絶、城を明け渡すことになるわけですが大石内蔵助は城を明け渡すか、戦って城とともに自害するかの判断を求められるわけです。そこでもっとも賢い判断は何か、リーダーとしての決断を求められるわけです。
阿南大臣の絶望的状況を理解し、中学生が阿南の立場でどうすればよいのかを考える学習課題といえます。当時の困難な状況ては二・二六事件以上ですね。このような状況の中でどういう行動がありうるか。阿南大臣のリーダーとしての行動を考えてみる必要があります。厳しい状況、いろいろな問題を視野に入れながら身を処していく。最後は切腹によって陸軍の全体の行動を押さえたということです。現在の、平和で経済的に繁栄した時代とはまったく違う状況です。
昨日まで九州の基地から特攻機が飛び立つ、原爆投下、ソ連の参戦など困難な状況の中で、阿南大臣は切腹という行動をとったわけです。それで終戦ということになる。現在の青少年がインターネット等で呼びかけ仲間を募ってどうやって楽に死ねるかという情報を交換している状況がありますが、その中であえて苦しんで切腹によって死ぬことがどれだけ大変であるか、考えてわからせる、それが歴史の授業の精髄だと思います。
原さんの授業はその可能性をもった授業だと思います。明治維新の時、薩摩が東京を灰だらけにするといったわけですが、勝海舟が西郷と会談し、それを防いだわけです。状況の困難さを理解させることが歴史の授業の中核となるわけですね。
歴史は暗記物ではなく、三つの授業は当時の状況を理解させ当時の人々の決断を理解させる良いものだったと思います。これで三つの授業のコメントを終わりとします。
(二)敗者の戦後
ナポレオン・第一次大戦後のドイツと占領期の日本を比較する
今日の三つの授業の共通点は敗戦に際しての指導者の対処ということです。アメリカ軍が日本に勝者として乗り込んできて日本を改造しようとしたわけですが、阿南陸軍大臣が陸軍の暴走を止めようとしたのも、敗戦のありかたに関係したからですね。
日本の敗戦を理解するためには日本だけを見ていただけでは駄目です。世界の例を調べてどんな戦争をしたか、どんな負け方をしたのかをみる必要があります。日本人としての国民性もあるでしょう。
そこで私は『敗者の戦後』という本を書いた中で、日本の敗戦を第一次大戦のドイツと比較してみたわけです。第一次大戦で死者は多数出て、毒ガス、生物兵器、戦車、飛行機等が登場しました。第二次大戦では原爆は使用されましたが毒ガス等は禁止されていました。もう一つ何が違っていたかは元首の身の処し方ですね。安達先生の授業でもわかったように、昭和天皇はマッカーサーに会い、「自分はどうなってもいいから国民を助けてやってくれ」とおっしゃった。
第一次大戦後のウイルヘルム・カエサル皇帝は早々と逃げるわけです。ドイツはフランス、イギリス、ロシアが敵であったわけです。同盟国はオーストリアでした。ロシアはロシア革命で脱落しています。東部戦線でロシアと戦い、西部戦線では、フランス、ベルギー、イギリス、と戦っていました。ヒンデンブルグ将軍やルーデンドルフ将軍が統帥部をにぎり指揮をしておりました。ドイツ国民でこのルーデンドルフが英雄であり、彼は東部戦線でロシア帝国を壊滅させてしまった。
ロシアに革命が起こり、ドイツは東部軍を西部にもっていけば勝てると思いました。しかしその途中で小さな戦争をいくつも行いました。そのため西部戦線で結局大敗北をしてしまった。この様子は第二次大戦の日本の末期と似ています。どの国にも負け方のパターンがあるわけですが、ルーデンドルフがドイツが負けると言ったとたん、ドイツ国民の戦意がなくなってしまう。そして講和になるわけですが、その時にドイツ皇帝がじゃまになる。連合国も皇帝の引退を迫ります。しかし亡命先のオランダ皇帝がドイツ皇帝を断固として守りました。日本の天皇と違うところは、日本国民は当時の閣僚と一緒に天皇制度を守ることに心血を注いだことです。他方ドイツでは、ドイツ皇帝がいるから不利な講和になるのでは、退位してもらわないと困るという考えだったわけです。
つまり敗れ方を比較する必要があるわけです。第二次大戦後の日本、第一次大戦後のドイツ、さらに百年さかのぼってのフランスのナポレオン戦争。ナポレオン戦争の終結は一八一五年、十九世紀始めですね、これは二〇世紀に比べると悠長な戦争でした。ナポレオンはその悠長さを全部ぶち壊していきました。二十世紀、十九世紀の戦争と違い貴族的な戦争でした。スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争など王朝戦争は、戦場でまず使者を交換する。例えばドイツとフランスが戦争する場合ですね、午前中両方の使者を交換し合い、その使者と相談し、「まずフランスから発砲を」と言った場合、「いやそんな事はナポレオン軍として出来ない」等々、こんなやりとりが、使者同士で延々と続くわけです。午後になってちょっと小競り合いのようなことをやり、どちらかがひるんだらそれで勝敗が決まる。だから当時の戦争は死者はあまり出ませんでした。
中世の戦争は死者が多く出ると困るわけです。だいたいが傭兵です。傭兵隊長が困るわけです。だから悠長な戦争だったわけです。しかし二十世紀、特に日露戦争以後非常に戦争が残虐になります。王朝戦争は、あらかじめ倉庫を造り食料や武器などを、戦場になりそうな場所に保管しておきます。冬はシーズンオフで戦争をしない。それがナポレオン戦争までなんです。
当時は勝者は敗者に寛大でした。ナポレオンはフランス革命を経ていますから、傭兵ではなく徴兵だったから強かったんですね。ナポレオンは中世的なものをどんどん壊していきました。ナポレオンは最後には負けますが、当時は敗者には寛大である気風が残っていました。フランスの領土は増えています。また略奪してきた貴重な美術品など返さなくてもよかったわけです。
十九世紀、二十世紀の戦後処理とナポレオン戦争までの戦後処理はまったく違います。この戦後処理がどんなに違うかをはっきりさせるために私は三つを比較したわけです。ナポレオンは死刑にはなりませんでした。戦争犯罪人を死刑にして敗者に仕返しをするという発想は現代人の考え方です。戦闘者平等の原則がありまして、紛争が解決した後は、勝者は敗者に寛大でなければならないという精神が生きていたわけです。
ナポレオン戦争後の紛争処理にあたったのがフランス外相タレーランでした。現在の六カ国会議のように殺伐たる雰囲気ではなく、優秀な料理長を一人を連れて行きました。連日連夜舞踏会、音楽会等が催され、そこで出されるフランス料理はヨーロッパにおけるフランスの文化的優越性を示すことになるわけです。またタレーランの姪で美貌と知性と教養の三拍子そろった美女を連れて行き、舞踏会などで積極的に各国の情報を手に入れるわけですこの講和会議はフランスが敗れた戦争のあとのものですが、タレーランの手腕でどっちが敗者なのかわからない会議になったといわれております。タレーランは会議の冒頭、勝者も敗者もみな平等であると主張します。それに対してだれも文句は言わない。戦争は国際紛争を解決する手段なわけです。政治の一手段に過ぎない。戦争が終われば勝者も敗者もない、これがナポレオン戦争の戦後処理です。
これが大きく変化したのが第一次大戦、さらに第二次大戦です。しかし第一次大戦の戦後処理では、精神の改造まではやらなかったですね。第一次大戦の処理では、ドイツに対し軍事的な制限をやったわけです。さらにもう一つの大問題は、前ドイツ皇帝ウイルヘルム二世、ヒンデンブルグ将軍、ルーデンドルフ将軍らの「戦争責任」を処罰すべきかどうかの問題でした。日本の西園寺公望を主席全権とする代表団は、戦争が終わった後で戦勝国が一方的に戦争裁判を強行するのは国際法に違反すると主張し、フランス、イギリスと対立します。そもそもドイツはセルビア・オーストリアの紛争に巻き込まれて戦争になったわけです。ドイツ国民の中には、なぜこんな賠償金を負担しなければならないのか、怨嗟の声が出てくるわけです。これがヒトラーの出てくる素地になるわけです。
ナチスがどんどん力をつけてくるのは、ベルサイユ条約の戦後処理がドイツに過酷だったからです。最後に日本の戦後処理をみてみます。アメリカは第一次大戦後の戦後処理で学習したといえます。ドイツに対するようにいくら外からいろいろ軍事的に規制しても駄目だ、敗戦国民の精神を洗脳しなければ駄目だということです。賠償金をとっても恨みが残る。ドイツへの軍事的制限をみてもわかる。
ですからアメリカが日本に乗り込んできたとき、非常に寛大でした。まず食料の援助を行いました。戦争で悪いのは一部の指導者と軍閥だということにしたのです。国民は被害者だということにして、その国民の精神の改造に乗り出しました。
公職追放、憲法改正、神道指令、教育基本法の制定など、戦後民主主義の素晴らしさを印象づけ、ナチスのような勢力の出現をさせない、これが初期の対日政策でした。
その結果左翼勢力が非常に強くなりました。私の勤める明治大学でも、講師として三〇年前に勤めていた頃は大学紛争のもっとも盛んな時期でした。安田講堂での東大紛争の時代ですね。社会党を中心として左翼的心情が広まっていたわけです。 経済路線では吉田内閣から池田内閣まで大きく飛躍します。初期の占領政策と左翼と吉田茂の経済の三つが戦後日本をつくったといえます。
朝鮮戦争の頃から対日政策が変化します。東アジアの共産化へのアメリカの警戒が現れます。しかし日本は経済路線一本で進む。田中内閣はその象徴です。しかしその経済一本路線は成功したかにみえますが現在見る通りそれは不十分だったわけです。ダレスが日本に再軍備を要求したとき、吉田は断った。やはり敗者としての日本のあり方を日本人自身が今こそ見直す必要があると思います。時間がまいりましたのでこれで終わりとします。
質問者A:ナポレオン戦争で敗者に寛大であったにしても当時から黄色人種への蔑視はあったのではないか。
入江氏:ナポレオン戦争などはヨーロッパ人同士の戦いでしたね。しかし同じ時代にアメリカ新大陸やアジアや南アメリカではヨーロッパ人はずいぶん残虐な戦い方をしています。そこから考えて大東亜戦争の緒戦で日本が勝ったことはアジア人への大きな励みになったといえます。日本は最後には敗れましたが、その後の経済成長、アジアの経済成長を考えれば、大東亜戦争はそれなりに意味があったと思います。
質問者B:先生の講演はヨーロッパの戦後処理が中心でしたが、先般の中国や韓国の反日デモから考えると田中内閣がやった日中国交回復で戦後処理は終わったようにみえますが、教科書問題等から考えて結局は中国とソ連のパワーゲームに巻き込まれただけで何も問題は解決しなかったのではという考え方もありますが、先生のお考えは、?
入江氏:戦後冷戦が始まりましたね。ソ連・中国・北朝鮮対アメリカという構図です。私の考えでは、その後アメリカはソ連を封じ込めるために中国を自分の方に引き込んだと思います。
つまりニクソンとキッシンジャーの戦略ですね。ソ連の崩壊で冷戦は終結しますが、中国が分離されていたため中国・北朝鮮対アメリカを中心とした自由主義陣営という構図は今でも残っています。ですから田中内閣のやった国交回復は真の戦後処理といえるのか疑問があります。東アジアには共産勢力が残ってるのです。アメリカも最近では中国などの共産勢力に厳しい態度をとっていますが、当然です。日本でもはっきりした態度をとる必要があるという考え方が多くなってきました。日本と中国との今後の関係においてもこれは当然だと思います。
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