沖縄戦集団自決事件をめぐる
「反日神話」の背景(2)

椿原泰夫(自由主義史観研究会会員)
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▽「集団自決」神話の真相
「確信犯」的執筆者について言うべきことは多いが、その前に事実関係を概観しよう。
大東亜戦争は沖縄戦で実質的に幕を閉じたとされるが、その沖縄戦は、沖縄本島西海岸(嘉手納の北方)に十万の米軍が上陸した昭和二十年四月一日に本格的に始まった。
日本守備隊の、民間人を巻き添えにしての死闘は三ヶ月に亘り、軍司令官牛島中将の自決する六月二十三日まで続けられる。
しかし、米軍が先ず最初に上陸したのは、沖縄本島の那覇から約三十キロ西に位置する慶良間列島であった(三月二十六日、阿嘉島と座間味島、翌二十七日、渡嘉敷島)。
ここに海上挺進隊という特攻基地があった。
座間味島に梅澤少佐を隊長とする第一戦隊、阿嘉島と慶留間島の二島に野田少佐の第二、渡嘉敷島に赤松大尉の第三と、隊長以下各百四名ずつ(兵員数は、後記『明日への選択』所収中村粲教授「『軍命令』はなかった」によるが、関係資料によって多少の異同あり)の三戦隊が配置され、米艦隊が沖縄本島に進攻したらその背後から奇襲する計画であった。
奇襲用の舟艇について中村粲教授は次のように書いている(同右)。
〈この舟艇とは幅二メートル、長さ五メートルくらいのベニヤでできた一人乗りのボートで各戦隊に百隻ずつありました。 これに自動車のエンジンと百二十キロの爆薬を二つ付けて、敵の航空母艦などに角度三十度で突っ込み、直前に切り離して米艦に爆薬をぶち当てようとしたわけです。〉
ところが米軍は、予想に反して、沖縄本島に上陸する前に、先ずこの慶良間列島に上陸してきた。沖縄本島上陸の補給基地にする目的であった。上陸に先立って米艦隊は、これらの島々に実に畳二枚に砲弾二十一発という猛烈な艦砲射撃を加え、山野は瞬く間に焦土と化したという。
意表をつかれたわが軍は、何らなすところなく持久戦に入った。特攻戦隊も奇襲計画が頓挫し、舟艇を海底に沈めて山中に立て籠もることになったのだ。
爆撃で丸裸同然にされて、身を隠すところもない小島に、弾薬も食糧も底をついた軍隊と、不安におののく民間人が取り残された。
ここに「集団自決」という惨劇が起こる背景はあった。人道主義的センチメンタリズムの入り込む余地など全くないのが実態だ。
同様の特攻基地が奄美にもあったことは、海軍予備学生出身の隊長として、奄美諸島の加計呂麻島に基地を設営して待機中に終戦を迎えた作家島尾敏雄の作品(代表作『出発は遂に訪れず』)を読んで知っている人も多いだろうが、ここは幸い米軍の上陸を免れたためにそのような悲劇の舞台とはならなかった。
「集団自決」を教科書で教えるなら、何故それが起こったか、その背景と経過を正確に、全体のバランスにも配慮しながら、慎重に、思慮深く、扱う必要があろう。
「本土決戦のために捨て石にされた沖縄」という言い方を朝日新聞などは好んでするが、これも「ためにする」ものであろう。
「撃ちてし止まん」という昭和一桁の人なら誰でも知っている標語も、実は朝日新聞などが主催したキャンペーンの入選作だったし、「いざ本土決戦」と戦意高揚に一役買ったのも当時の大新聞であった。
後知恵でどんなことでも言えるが、歴史の解釈はそんなに簡単なことではないだろう。まして何の予備知識もなく、白紙の状態の子供たちを一方的な偏向史観の犠牲にするような罪深いことは、この辺で打ちきりにしなければならい。
さて、沖縄慶良間列島の惨劇が「軍命令」によるとされた経緯は、諸氏の調査研究によりすでに明らかであるが、要は、「自決」した民間人の遺族に対する「戦後補償」のために「軍命令」という「便法」が使われたということである。
これは「戦後補償」を求めて厚生省(当時)に出向いた関係者に対して担当官のもらした「軍命令があったのなら・・・」という言葉がヒントになって、村当局ではその線で必要書類を作成して厚生省に申請(昭和二十八年)、それを受けた厚生省が、集団自決で負傷した村民と遺族に年金を支給することになった、というのが座間味村についての真相である。
このために思わぬ災難を被ったのは、冤罪を着せられた梅澤少佐(座間味島駐屯第一戦隊隊長)であった。
「軍命令による集団自決」という神話を、初めて活字にした(とされる)『鉄の暴風』(沖縄タイムス社、昭和二十五年初版発行)は、「隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」と書いた。
ところが、現在もなおご健在の梅澤氏は、おかげで、その後職も転々とし、またご家庭も崩壊状態になったという。幸い氏の場合は、長年の隠忍自重の末、昭和六十年代に入って座間味村の関係者が真相を公表し、謝罪して身の潔白が証明されたが、真実を語れば村民の「戦後補償」のからくりを暴露することになるのをおそれて沈黙を守り、冤罪を晴らせぬまま他界した赤松大尉(渡嘉敷島駐屯第三戦隊隊長)の場合は、その心中は想像に余りある。
私事に及ぶが、筆者の不肖の娘は、例の「百人斬り訴訟」で、世紀の冤罪の犠牲者として南京雨花台で刑場の露と消えた向井・野田両少尉の遺族たちの名誉回復のために、原告代理人として法廷に立っている。
『鉄の暴風』(前記)や、他の類書は今日なお、堂々と書店の書架を賑わしている。汚辱にまみれた赤松大尉の名誉はいったい誰が晴らすのか。
因みに、筆者がつい先日某書店で見つけた大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書)に、次のような記述がある。
《生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件(=座間味村、渡嘉敷村の軍命令による集団自決を指す・筆者註)の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、(中略)かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう》六十九〜七十頁)
《新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で(中略)「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた》(二百八頁)
《かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐいをみたしていることか》(二百九頁)
長々と引用したが、この新書の、二十五頁からなる最後の章の随所には、赤松元大尉に向けられた言葉の限りを尽くした呪詛が書き記されている。
もう一つだけ、同書の最末尾の数行を転記しておこう。
《僕はまた、集団自決をひきおこすことになった島を再訪しようとして拒まれた旧守備隊長に、おまえはなにをしにきたのだ、と問いかける沖縄の声のひきだした答が、「英霊をとむらいにきました」というものであったこと、抗議の列をすりぬけて、星条旗をつけた米民間船に乗った旧守備隊長が、ついに渡嘉敷島にいたり花束を置いていったという報道をグラフ誌に見い出す。
日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という暗い内省の渦巻きは、新しくまた僕をより深い奥底へとまきこみはじめる。そのような日々を生きつつ、しかも憲法第二二条にいうところの国籍離脱の自由を僕が知りながらも、なおかつ日本人たりつづける以上、どのようにして自分の内部の沖縄ノートに、完結の手だてがあろう?》(傍点は引用者、二百二十八頁)
ところが、ひょっとして無実ではないか、という露ほどの懸念もなく、これだけの罵声を浴びせた元戦隊長に、直接にインタビューをしたことも、その島を尋ねた形跡も、文化勲章を日本の天皇から受け取ることを拒否し、ノーベル賞は、異国の王様の手から拝領したこの作家にはなかった、という。
さて、話を元に戻すが、座間味村が「戦後補償」申請の方便として「軍命令」を捏造したのは、昭和二十八年であった。ところが、『鉄の暴風』はすでにその三年前に「軍命令」による「集団自決」を活字にしている、という事実は何を物語るのか。
《ここまでの参考文献等一覧》
1.中村粲「『軍命令』はなかった」 (『明日への選択』十四年八・九月号)
2.中村粲著『教科書は間違っている』 (日本政策研究センター)
3.『昭和史研究所會報』(発行人 中村粲)四三、四四、五五、五六、六四、六六、七二、七三、八〇〜八三、の各号
4.石川水穂「近隣諸国条項の害毒に侵されきった高校教科書」(『正論』十五年六月号)
5.曽野綾子「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」(『正論』十五年九月号)
6.曽野綾子著『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』(文芸春秋社刊)
7.上杉千年著『総括・教科書問題と教育裁判』(善本社刊)
8.大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書)
9.沖縄タイムス社編『鉄の暴風』
【付記】
厚生省は、集団自決は「軍命令による」と認定し、「援護法」の対象とした。筆者は、厚生省は同時に「自決者」も靖国神社祭祀の対象としたであろうと考え、先日靖国神社に照会して、その確認をいただいた。
▽憂うべき教科書検定
中学・高校生のための歴史教科書の多くが戦前の日本を貶めるための姑息な手段として利用され、さながら左翼政党のパンフレットと見まがうばかりの惨状を呈している。
沖縄戦のいわゆる「集団自決」が軍の命令によるものではないことが、研究者や関係者の努力によって明らかにされ、それに対する有効な反論もまったくないという状況の中で、それにもかかわらず「軍命令による集団自決」などという作り話が大手を振ってまかり通っている。
さきに紹介した大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書)のように、何の証拠もないのに、一人の元軍人をさして、嘘つきだの恥知らずだのと罵るようなことがどうしてできるのか。
大江自身これを書いた時点(昭和四十五年初版発行)ではまだ本当の事は多分知らなかったのだろう。
しかしそれにしても、当事者がまだ存命中であったのに、本人から直接話を聴くこともせずにあれだけのことが書けるということ、そして実際は「軍命令」などなかったのだということがはっきりした現在、依然として、一字一句の書き換えもせずに出版されていることに驚きを禁じ得ない。
日本の次代を担うべき子供たちの使用する教科書もまた同様である。
歴史の教科書を書こうというほどの人であれば、「軍命令」が事実ではなかったということぐらいはすでに解っているだろう。それでもやはり、現行の多くの教科書では、「軍命令」はあったことになっている。
執筆者ばかりではない。教科書を検定する文部科学省もいったい何を考えているのか。この問題についても検定は何の役割も果たしていない、むしろ事実に反する記述にお墨付きを与えることによって歴史の改竄に積極的に荷担していると言うべきであろう。
検定の段階で執筆者(あるいは出版社)と検定担当者との間でどんなやりとりがあったか知らないが、このような記述が認められる検定に何ほどの意味があるだろうか。
このような無責任な検定のもたらす害毒はまことにはかり知りがたいものがある。
しかも国民の大半はこのことを知らない。どころか、学校の先生方も(校長を含めて)実情を認識している人は少ない。筆者自身、定年退職した平成五年頃まで、歴史教科書の偏向記述について殆ど関心を持たなかったし、「集団自決」に関しても完全に無知であった。
だが教科書は、実は氷山の一角に過ぎないのではないか。学校では、もっと恐ろしいことも起こっている。数年前、当時住んでいた枚方市内の某中学校を訪問したことがあった。ちょうど文化祭の時期であったので、ついでに校内を一回りしようと通りかかった廊下に張り巡らされた模造紙には、教科書にも載っていないような、旧日本軍の「悪事」の数々が書き並べてあり、思わず足のすくむような思いをしたことがあった。現在法廷で争われている「百人斬り競争」の記事もあった。
偏向教科書だけに目を奪われているうちに、私たちの目の届かないところで、野放しの副教材などを思いのままに活用した洗脳教育が堂々と進められている。
国家の解体を密かにもくろむ悪魔の手が子供たちの心を着実に蝕んでいる。
▽座間味島の場合
米軍が沖縄本島に上陸したのは昭和二十年四月一日のことであった。問題の「集団自決」はその前に米軍が上陸した慶良間列島で起こった。
列島は、那覇市の西方約三十キロの海上、渡嘉敷、座間味、阿嘉、慶留間などの島々から成り、渡嘉敷村、座間味村の二村に分かれている。
海上挺進隊という陸軍の特攻艇基地があり、座間味島に梅澤少佐率いる第一戦隊、阿嘉島と慶留間島に野田少佐の第二戦隊、渡嘉敷島に赤松大尉の第三戦隊が駐屯していた。
さて座間味島については、すでに述べたとおり、昭和六十年代に入ってようやく、村の関係者が真相を公表して、「軍命令」は「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の適用を受けるための便法であったことが明らかにされ、元第一戦隊長梅澤少佐の汚名は雪がれた。
ところで座間味島の真相が明らかにされる経緯は、同島に駐屯した第一戦隊の梅澤裕元隊長の手記によって知ることができる。
右手記は中村粲獨協大学教授の発行になる『昭和史研究所會報』の第四十三号・第四十四号(平成十二年十一月・十二月発行)に掲載された。
これを参考にして「集団自決」の実態と、その後の経過を概観する。
一、自決の前夜
昭和二十年三月二十五日夜(座間味島は、二十三日空襲、二十五日の艦砲射撃に続いて、二十六日米軍の上陸があった)、村助役宮里盛秀以下五名が戦隊本部壕を訪れた。
用件はこうだった
@老幼婦女子は豫ての決心により軍の足手まといにならぬ様及び食糧保全を考え自決する。
A忠魂碑前に集合する。爆雷で一思いに爆殺して欲しい。駄目なら手榴弾、小銃弾を戴きたい。
隊長は愕然として、
@決して自決すべきでない。
A弾薬はやれぬ。
B陸上戦、持久戦となる。共に奮闘しよう。
と答えたが、五名は三十分ほど懇願を続けて、隊長も「ほとほともて余した」という。
敵の艦砲射撃が再開し、五人は引き揚げた。ところが、翌二十六日から三日ほどの間にこの五人のうち女子青年団長宮平初枝を除く四人を先頭に、次々と村人は自決した。
その数百七十二名であった。
二、戦後生まれの「軍命令」構想
座間味島は、民家の大半が破壊され、村民八百人のうち三百五十八人(集団自決者を含む)が戦没した。
戦争が終わり、出征していた島の出身者が復員してこの惨状を見、驚愕し、激怒した。怒りは駐屯していた部隊、特に梅澤元隊長に集中して向けられた。
このような状況下で復員者が中心になって村の復興、補償要求のための「軍命令」構想がたてられていった。
折しも沖縄本土は反戦反日本政府の運動が盛んで、この「軍命令」説は火に油を注ぐ形となり、マスコミもこれを利用して民心を煽り立てた。
三、戦後補償の申請
昭和二十八年三月より、戦後「集団自決を命じた責任者」とされ、自らも自決した元助役宮里盛秀の実弟宮村幸延氏、戦没者・自決者等遺族の補償業務を担当。
昭和三十一年三月、集団自決者(乳幼児を含む)全員「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の対象者として認定される。
四、関係者による真相の告白・謝罪
昭和五十七年六月、座間味島軍民戦死没者慰霊地蔵尊の開眼式に招かれた梅澤元隊長に宮平初枝(前記)から真相の告白と謝罪。
昭和六十年三月以降、沖縄タイムス、琉球放送、沖縄県教職員組合等々、「軍命令」の誤りを認め謝罪。
昭和六十年七月三十日付神戸新聞(朝刊)、「絶望の島民悲劇の決断、日本軍命令はなかった」と大きく報道。
昭和六十二年三月、宮村幸延(前記)、
「昭和二十年三月二十六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の宮里盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむを得ず隊長命として申請したためのものであります」なる証言一札を梅澤元隊長に入れ謝罪。
五、恩讐を超えて
梅澤元隊長の手記の末尾に、「追記」として、この問題に対する梅澤元隊長の感想が述べられている。概略左記のとおりである。
1.「軍命令」問題発生の背景
沖縄戦における島民の「献身的愛国的行動」「親切」に深く心打たれた。
「決戦なく終戦を迎えた内地防衛軍に対する怨嗟の声は当然であろう。」
(ここには書かれていないが、戦後米国の施政下にあって、焦土と化した島の復興問題に加えて、米軍駐留等、複雑で困難な事情があったことも無視できないだろう。)
2.集団自決の歴史的背景
他に後れて日本国沖縄県となった歴史が、沖縄戦で集団自決が起こった背景にある。自決は、「内地人の処遇の域に迄向上せん」と協力した島民の「赤心の現れ」と見る。
3.最後に、村の指導者として自ら率先して自決した宮里助役、戦後補償に情熱を傾けたその実弟に対する理解と敬意が記されている。
▽渡嘉敷島の場合
座間味島の真相は右のごとくであり、かくて積年の冤罪晴れた梅澤元隊長も、手記の最後を「座間味よ栄えあれ」と結んでいるが、方や渡嘉敷島の赤松元第三戦隊長は、ありとある悪罵を浴びせられ、遂に冤罪を晴らせぬまま昭和五十六年死去した。
沖縄の集団自決が「軍命令」だったという作り話を初めて活字にしたのは、沖縄タイムス社編著『鉄の暴風』だと見られている。
昭和二十五年に朝日新聞社が発行したが、その後沖縄タイムス社発行と変わっている。
この本には、第二戦隊の駐屯した阿嘉島と慶留間島に関する記述は全くなく、第一戦隊の座間味島については一頁足らずの記述で、住民に「玉砕を命じ」た軍は「最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしき二人と不明死を遂げた」と、でたらめなことが書かれている。そして赤松大尉の第三戦隊の渡嘉敷島については九頁が費やされている。
さて曾野綾子氏によれば、本件(「軍命令」による集団自決)については数多くの文献・資料があるが、それらの基になったと思われるものは次の三つである。
1.『鉄の暴風』(昭和二十五年刊)
2.渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』 (二十八年三月二十八日の日付があり、手書き・ガリ版刷り。以下『戦闘概要』と略記)
3.渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』 (日付なし。手書き・ガリ版刷り。以下『戦争の様相』と略記)
興味深い点は、まず第一に、これら三者の「集団自決」の記述の文言が酷似していることである。
その一例を、曾野綾子著『ある神話の背景』(文藝春秋刊。以下『神話の背景』と略記)から転記しておこう。
1.『鉄の暴風』より
「轟然たる無気味な響音は、次々と谷間にこだました。瞬時にして─男、女、子供、嬰児、─の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、(後略)」
2.『戦闘概要』より
「轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が(後略)」
3.『戦争の様相』より
「轟然たる不気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が(後略)」
三つの引用文を比べて考えられることは、右のうちどれか一つが基になり、それを他の二つが下敷きにしたのだろうということである。 しかも、後の二文A、Bは、句読点一カ所の違いを除けば全くの瓜二つである。
曾野氏によれば、このように酷似した表現は随所にあるということである。
ところで、問題は三つの資料の作成順序がどうであったかということである。
それが分かれば「軍命令」を最初に「証言」したのは誰かが分かるはずであるが、厄介なことにBには起筆の日付がないのである。
これらのことについて以下、項目を分けて検討を試みよう。
一、「軍命令」記述を巡る謎
曾野綾子氏の『神話の背景』は、右三つの文献を比較、検討して、結論としてそれらは、『鉄の暴風』→『戦闘概要』→『戦争の様相』の順で作成されたであろうとしている。
『戦闘概要』と『戦争の様相』はどちらも、手書きのガリ版刷りで、この両者の筆跡等を検証して、『戦争の様相』は『戦闘概要』を引き写したことが明らかだという。
ところで、『鉄の暴風』と『戦闘概要』には赤松大尉の「命令」があったことが明記されているが、最後に書かれたであろうとされる『戦争の様相』には、「軍命令」があったという記述がない。
では、『鉄の暴風』は何を根拠に「軍命令」があったと断定したのか。 また、『戦闘概要』を殆ど丸写ししながら、なぜ『戦争の様相』は肝心の「軍命令」だけは敢えて記述しなかったのか。
二、『鉄の暴風』の取材・執筆事情
昭和二十三年に創立された沖縄タイムス社が本書の編纂を企画したのは翌二十四年であった。そしてその「まえがき」には、 〈壕中で新聞発行の使命に生きた、旧沖縄 新報社全社員は、戦場にあって、つぶさに 目撃体験した、苛烈な戦争の実相を、世の 人々に報告すべき責務を痛感し、(後略)〉(傍点は引用者)
と書かれている。
また「まえがき」は、執筆者が牧港篤三、伊佐良博両沖縄タイムス記者であったとしているが、曾野綾子氏は執筆者の「太田良博氏」に取材したことを『神話の背景』で紹介している(太田良博というのは、「まえがき」の伊佐良博と同一人物であろう)。
これによれば、渡嘉敷島における集団自決に関する取材はきわめて杜撰なものであった。
渡嘉敷島に自身は行かなかった太田記者は、「辛うじて那覇で《捕えた》」二人の証言者から取材したことに実はなっている。
ところが、この二人の証言者というのが、不可解である。
一人は、「当時の座間味村の助役であり、現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏」、もう一人は、「南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏」だという。
一方は隣の座間味島で集団自決を目撃しているが、渡嘉敷島の直接経験者ではない。
しかも、『鉄の暴風』の座間味島の集団自決に関する記述が事実に反すること(前記)は、少なくともこの人の座間味島に関する「証言」そのものが偽りであったか、正しく伝わっていなかったか、のどちらかでしかないことを示している。まして自らは目撃してもいない渡嘉敷島の事件についてどんな「証言」をしたのだろうか。
もう一人の「証言者」も、事件の目撃者ではないし、しかも不可解なことに、この人は、「そのような取材を受けた記憶はない」と言っているという(『神話の背景』五一頁)。
『鉄の暴風』には、「地下壕内」の将校会議で「非戦闘員をいさぎよく自決させ、云々」という赤松大尉の主張を聞いた副官知念少尉(沖縄出身)は「悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と書かれているが、知念元少尉本人は、昭和四十五年、曾野氏に対して、「地下壕」はなかった、「将校会議」も事実でない、第一、沖縄の報道関係者から一切の取材を受けたことがない、と証言している(同百十二頁)。
「渡嘉敷島に関する最初の資料と思われる」と曾野氏が言う『鉄の暴風』の正体はかくのごとくである。
残る疑問は、山城氏や、宮平氏(取材を受けた記憶はないと言うが)に、事件当時の状況を誰が説明したか、ということである。
その前に、第二の資料『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』について触れておこう。
三、『戦闘概要』の場合
本資料は前記のとおり、渡嘉敷島遺族会の編纂、手書き・ガリ版刷りで、昭和二十八年三月二十八日(集団自決はちょうど八年前のこの日に起こった)の日付になっている。
その中に、次の二つの記述がある。
1.「三月二十七日、夕刻、駐在巡査、安里喜順を通じ、住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた」
2.「三月二十八日、午前十時頃、(中略)赤松大尉から防衛隊員を通じて、自決命令が下された」
「集合命令」について安里元駐在巡査は、曾野氏の取材に、隊長の「命令」ではなく、「あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ」と隊長に言われて、住民を「生かすために」山の中に避難させたところ、「村長以下、皆、幹部もね、捕虜になるよりは死んだ方がいい」と、半狂乱になり、恐怖に駆られていた状況を説明している。
ところで、赤松隊長の副官であった知念氏同様、この安里氏も昭和四十五年三月まで、地元のジャーナリズムの取材を一切受けたことはなかった、という。
「自決命令」の方はどうだったか
『鉄の暴風』では、「避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた」と書かれているが、その命令が、どういう形で、誰を通して来たかは、明記されていない。
ところが、『戦闘概要』では前記のとおり、「防衛隊員を通じて」大尉の命令が来たことになっている。
この「防衛隊員」とは何か。具体的には誰のことを指すのか。
那覇市在住の作家・星雅彦氏は、昭和四十四年四月三日付沖縄タイムス掲載のエッセイで、この『戦闘概要』が、「当時の村長米田惟好(旧姓古波蔵)、元防衞隊長屋比久孟祥、役所職員の協力を得てまとめたとなっている」と書いている(『神話の背景』四四頁)。
また、第三の資料である『戦争の様相』にも、「当時、村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿ってその概要を纏めたものでありますが・・・」という記述があるという(同四六頁)。(傍点及び傍線は引用者=筆者)
【注】 右に引用した星雅彦氏のエッセイの傍点の箇所は、元村長の姓が、昭和四十四年には米田に変わっている(と、少なくとも星氏は認識していた)ことを示している。
ところが、その星氏自身が、月刊誌『潮』(昭和四十六年十一月号)に、「防衛隊の一人は、古波蔵村長にいち早くほぼ正確な伝達をした」と、旧姓を使って書いている (『神話の背景』一〇四頁参照。傍点筆者)。
さて、右二つの引用文によれば、元村長とともに『戦闘概要』、『戦争の様相』の編纂に協力したとされる屋比久孟祥氏は、渡嘉敷島の防衛隊長であったことが分かる。
因みに、座間味島の防衛隊長は、集団自決を命令し、自身も率先して家族とともに自決したとされる、村助役(当時)宮里盛秀氏であったことが梅澤裕元少佐の手記(『昭和史研究所會報』掲載、前記「座間味島の場合」参照)に出てくる。
「防衛隊長の命令は軍の命令と見なせる」として、「軍命令による集団自決」の筋書きを考えたという、元助役の弟、宮村幸延氏の「談」も、前述の梅澤手記にはある。
宮村氏から梅澤氏に宛てた「証言」(前掲)には、宮里氏が村の「兵事主任」も兼ねていたことが記されている。
ところで、沖縄戦では、「国家総動員法」の趣旨に基づき、十四歳以上四十五歳までの健康な男子は「防衛隊員」として召集されていた。軍による動員であり、「正規軍」の一員としての扱いであった。
榊原昭二著『沖縄・八十四日の戦い』(新潮社刊)によれば、事件当時、渡嘉敷島には、赤松大尉の海上挺進第三戦隊百四人の他に、配属部隊約二百三十人、防衛隊約七十人と、朝鮮人軍夫二百十人がいたという(傍線筆者)。
四、『戦争の様相』をめぐる問題点
第三の資料『戦争の様相』は、作成の日付がなく、「軍命令」が明記されていない、という違いはあるが、手書き・ガリ版刷り、という点では第二の資料『戦闘概要』と同様である。 酷似した表現が二つの資料の随所にあり、一方が他方を引き写しにしたであろうことが歴然としていることは前述のとおりである。以下、本資料について、いくつかの問題を箇条的に検討する。
1.『渡嘉敷島における戦争の様相』と題する本資料が、なぜ座間味村と共編であるのか。
『戦争の様相』は、昭和二十八年の日付のある『戦闘概要』を下敷きにして(従って、二十八年以降に)作成されたものであろうと、『神話の背景』の曾野氏は見ているが、曾野氏はまた、星雅彦氏(前記)は『戦争の様相』を『鉄の暴風』より以前に(従って、二十五年以前に)作成されたものと見ていることを月刊誌『正論』平成十五年九月号で紹介している。
筆者は曾野氏説が当たっているのではないかと考えている。曾野氏の推論の仕方に説得性があり、加えて筆者は、『戦争の様相』が渡嘉敷島の「集団自決」を記述するために座間味村との共編にする意味は、昭和二十五年以前にはなく、あるとすれば、二十八年以後であろうと考える。
筆者がそう考える理由は、昭和二十七年に施行された「戦傷病者戦没者遺族等援護法」(以下「援護法」と略記)のことがある。
この法の適用を受けるために、座間味村の宮村氏が「軍命令による集団自決」を構想したのは昭和二十八年であった。
『戦争の様相』を共編するということは、両村の間にはそれだけ密接な協力関係があり、相互に連絡を取り合っていたことを窺わせる。 とすれば、座間味村が集団自決を「軍命令」によるものとして「援護法」の適用申請をすることにした時点では、おそらく渡嘉敷島でも同様の方針が決定されていたであろうと考えられる。
【注】 渡嘉敷島集団自決の犠牲者も、「援護法」の適用者として厚生省の認定を受け、戦死者(沖縄第三十二軍所属の元軍属の身分)として靖国神社にも祭祀されている。ご祭神は四百三十二柱(靖国神社調べ)。
以上のことから、筆者はこの『戦争の様相』は渡嘉敷村が厚生省に申請する際に添付する参考資料(またはそのための下書き)として作成されたものではないか、と考える。
2.『戦闘概要』をどう見るか
本資料は渡嘉敷村遺族会著となっており、記述内容ではほとんど同じ『戦争の様相』が公的な位置づけがされているのに対して、これは私的な(内向きの)性格の文書である。多分『戦争の様相』の下書き(素案)として書かれたものであろう、と筆者は考える。
3.『戦争の様相』に「軍命令」の記載がないことについて
二つの資料の編纂には、渡嘉敷島集団自決の生き残りであり、当時村の指導的な立場にいた二人の人物が協力した(前述)。古波蔵元村長と屋比久元防衛隊長である。 ところが、渡嘉敷村遺族会著『戦闘概要』には「軍命令」が明記されていて、座間味・渡嘉敷両村共編の『戦争の様相』にはその記載がない。
公的な立場にいた二人が、公的な文書に、「軍命令」を敢えて記載させなかった事実は、推測の域を出ないが、「軍命令」がなかったことを物語っている。
『戦争の様相』に、二人「等の記憶を辿ってその概要を纏めた」とあるが、「軍命令」は二人の記憶になかったのだろう。
仮に「援護法」適用申請のための提出書類の一部(添付文書)であったとしても、その記載を避けた事情は推測に難くない。
座間味村の宮里元助役兼防衛隊長のように、集団自決で死亡していて、その実弟が、兄を「軍命令」の責任者に仕立てたのとは事情が異なる。
4.『戦争の様相』の作成時期について
星雅彦氏が、この文書を『鉄の暴風』以前に作成されたと見る理由はよく分からないが、筆者は「援護法」との関連で別の見方をしていることは前述のとおりである。
もう一つの理由もある。 『鉄の暴風』の「まえがき」に、
「この記録は、(中略)住民の動き、非戦闘員の動きに重点をおいたという点、他に類がなく、独自な性格をもつ」と書いている。仮にその時点で、一方が他方を丸写しにしたことが明らかと言われるほど、内容、表現とも酷似した文書である、『戦争の様相』が存在していたとしたら、右の「まえがき」が書かれたとは考えられない。この意味でも、『戦争の様相』は『鉄の暴風』の後に書かれたと考えるべきであろう。
五、「軍命令」を証言したのは誰か
では、渡嘉敷島の「軍命令による集団自決」を最初に文書にしたのが『鉄の暴風』であるとすれば、その証言者は誰だったのか。
「二、『鉄の暴風』の取材・執筆事情」で述べたように、証言者の一人は、座間味村の助役山城安次郎氏であり、もう一人は、戦後南方から復員した宮平栄治氏であった(自身は取材を受けた記憶はない、という)。
どちらも渡嘉敷島の惨劇の立ち会い者ではなく、「証言」したとしても、間接的なものでしかない。
実際に証言できる人ば、直接事件を体験し、または目撃した島民と、当時島に駐留していた軍人だけである。
しかし、軍の関係者で、何らかの取材を受けた人は、赤松隊長はもとより、隊長の副官(従って隊長の命令はすべて承知しているべき立場)で、沖縄出身の知念元少尉も含めて、一人もいない。
軍と島民との間で連絡役などもした巡査、安里喜順氏も、知念元少尉と同様沖縄出身だが、地元ジャーナリズムの取材は一切受けたことがないという。
残るは古波蔵元村長以下、事件を体験、または目撃した渡嘉敷島民だけになるが、事件の起こった当時の異常な状況を考えれば、軍の命令があったかなかったか、あったとして、誰を通して、誰に来たかなどを証言できる人は、村長、助役等、ごく少数のはずである。
山城、宮平(前記)両氏が、『鉄の暴風』の取材に実際に協力したとしても、事件の現場にいて指導的立場にあった古波蔵元村長や屋比久元防衛隊長等に証言を求めざるを得なかったであろう。
しかし、沖縄タイムスが、『鉄の暴風』の「まえがき」に謳うように、「苛烈な実相を、世の人々に報告すべき責務を痛感し」たのであれば、戦後は内地に復員していて連絡が取りにくかったであろう赤松元大尉はともかく、少なくとも、沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にすら、インタヴューした形跡もないということは、沖縄タイムスの編集方針が当初から、政治的で偏ったものであったか、または地元住民側からこれらの人を排除する働きかけがあったか、のいずれかとしか考えられない。
因みに、赤松元大尉をはじめ、知念元副官も含めて複数の元隊員に、さらに安里元巡査に対して精力的な取材をして『神話の背景』を纏めた曾野綾子氏は、当然、古波蔵元村長にもインタヴューをしている。
『神話の背景』に紹介されている古波蔵元村長とのインタヴューの内容や「古波蔵手記」に見る限り、元村長は元赤松隊と安里元巡査に対して、異常と思えるほどに激しい反感を示している。
例えば元巡査について。
「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽くしたい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」(同一二二頁)
また、「安里さんを通す以外の形で軍が直接命令するということはないんですか」と、曾野氏が尋ねると、
「ありません」
「あの人は口を閉ざして何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」
元村長は、軍から命令を直接受けることはない、あらゆる命令は安里氏を通じて受けとることになっていた、と言い、右のように、安里氏の人間性までも否定するような、実に厳しい言葉である。
ところが、肝心の「自決命令」については、とたんに歯切れが悪くなる。
「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけきいたんじゃなくて住民もそうきいたし防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て・・・・安里巡査も現場にきてますよ」(同一一八頁。傍点引用者)
「安里(巡査)さんは赤松さんに報告する任務を負わされているから、といって十五米ほど離れて谷底にかくれていましたよ。君も一緒にこっちへ来いと言ったら、そこへは行かない。見届けますからと言って隠れていました」(同一一九頁)
赤松元隊長に対しては、「赤松の異常心理」「赤松隊長の非人道的な行為」等、その激しさに辟易するような非難の言葉が投げつけられる。
幸か不幸か、一点非の打ち所のない神のような人にも、鬼畜のように冷酷無比な人間にも、お目にかかった経験のない筆者には、古波蔵元村長の特異な人間観に、一種文学的な興味を覚えざるを得ない。
▽「神話」の背景
「戦陣訓によって投降することを禁じられていた日本軍では、一般住民にも集団自決が強いられたり・・・」
右は現行の高校生用歴史教科書(東京書籍・日本史B)の記述である。
この日本語としてもおかしな、その言わんとする内容からしてもまことに怪しげで胡散臭い記述が、文部科学省の検定に合格するという、わが日本国の現状に絶望的な思いに駆られて、沖縄戦の「軍命令による集団自決」という神話の真相の解明に努めてきたが、その犯人を追いつめることは遂にできなかった。
渡嘉敷村と座間味村で、それはあの悲劇の犠牲者の遺族に対する戦後補償を申請するための方便として構想されたことは、少なくとも座間味村については、関係者の告白と謝罪によって明らかになっている。
問題は厚生省が、「軍命令による集団自決」を認定した(昭和三十二年)行政措置の見直しをあくまで拒否していることである。
仮にその認定を取り消したとしても、遺族に対する援護措置まで取り消す必要はなく、「援護法」の運用基準なりを一部訂正することで足りることである。
厚生省が行政としての「無謬性」に拘泥することは、延いて文部科学省の無責任な教科書検定に口実を与えることになる。
日本国民の教育に最大の責任を持つべき文部科学省が、率先して国の歴史を歪めているこの現状を、多くの国民はどうして座視し続けることができるのか。
「軍命令」の神話の背景の一つは右のとおりであった。しかし、問題はそれだけではなかった。
「援護法」適用を受けるための便法という構想は、昭和二十八年に初めて生じたことであった。
だが、「軍命令」という作り話は、「援護法」の施行された昭和二十七年よりも前に企画・編纂された『鉄の暴風』(昭和二十五年初版)にすでに登場する。
この「援護法」とは関係のない作り話が生まれた背景は何であったのか。
その答えは、『神話の背景』の次の一節に暗示されていると思う。
「それは主に沖縄本島で、私が聞いたことであった。本当の渡嘉敷の悲劇は、太平洋戦争が終って、出征して南方にいた兵士たち、或いは他の理由で島を出ていた人たちが帰って来た時に始まった、というのである。
当然のことながら、島には生き残った人々がいた。その人々が、死者たちの声を背後に背負って責めさいなまれることになったのである。」(一六八頁)
そういえば、『鉄の暴風』の取材に協力したことになっている(本人は曾野氏に対して「取材を受けた記憶はない」と言っている)宮平栄治氏も事件当時は南方にいたという。一方に、戦後になって島に帰ってみると、家族が自決していて、一人も残っていない場合もあれば、家庭によっては犠牲者が一人もいない場合がある、という現実に直面した人たちがいた。
他方、生存者の中には、その立場上、事件について説明する責任を免れぬ人たちもある。典型的な人物は古波蔵元村長であり、曾野氏のインタヴューなど(前記)に見られる、赤松元隊長や安里元巡査に対するあからさまな人身攻撃的言辞や、事件当日の「軍命令」についての(曖昧で、一貫性のない)説明などから判断する限り、元村長として何らかの「責任」を感じていた様子はない。
元村長と立場は異なるが、やはり生き残りの一人として、帰島者たちへの説明責任を背負わされた人物が『神話の背景』に登場する。「手榴弾による自決が失敗に終ったあと、自らの手で、母や妹の命を絶つ手伝いをした」事件当時十六歳の学生だった金城重明という、日本キリスト教団・首里教会牧師(昭和四十五年現在)である。
『神話の背景』に登場する多くの生存者で、集団自決の「命令」があったと証言するのは、元村長とこの人だけである。
金城牧師が曾野氏に寄せた手記の一部を引用しよう。
「三月二十八日、自決場へ集結せしめられてから、死の命令が出るまでの数時間は極めて長く重苦しく感ぜられた。(中略)
いよいよ自決命令が出たので、配られた数少ない手榴弾で、身内の者同士が一かたまりになって自決を始めた。(中略)
私は兄と二人で母や弟妹達の命を自分達の手で断った時、生まれて始めて悲しみの余り号泣した。(中略)
軍国主義的皇民思想の死の教育を全身全霊に受けた十六歳の少年は、全く疑う事をしないで、他者の死を助けることが、唯一最高のみちだと信じ込んでいた。(後略)」
『神話の背景』は、ある生き残りの母子の眼で描かれた金城重明氏の「もう一つの姿」(『潮』昭和四十六年十一月号)というのを紹介している。
「その人(金城氏)は大きな棒を拾って、『まだ生きているか』と確かめながら、殴り殺して歩いていました。私たちの所へも来ました。その人の棒で、母は二回打たれ、血まみれでくずれました。弟は一打でまいりました。私も頭の上を打たれました」
筆者は、古波蔵氏や金城氏のことを、例えば大江健三郎氏が赤松元隊長を糾弾誹謗するように、その責任を告発する気は毛頭ない。筆者は、古波蔵氏が戦後、「軍命令」があったかのような、しかし曖昧な説明に終始し、金城牧師が「軍国主義的皇民思想の死の教育」に自己の異常な行為の原因を求めて、深刻な「個人的反省」の弁が一切出てこないことに、むしろこの事件のもつ特殊な状況を感じざるを得ない。
座間味島駐屯の元第一戦隊長梅澤裕氏の手記(前記)は、昭和五十七年に同島を訪れた際、村の長老連が、集団自決は役場幹部の指導で決行されたこと、軍命令などなかったことは衆知の事実であること、幹部は一ヶ月前から自決の打ち合わせをしていたことなど、「交々」語るのを聞いたと記している。
渡嘉敷島も事情は同じだったのだろうが、それをストレートに口にするのを憚るような状況が、終戦後の村にはあったのであろう。
▽おわりに
戦前の日本の暗面を針小棒大に誇張し、捏造までして告発することが、いかにも誠実で人間的であるかのように錯覚している日本人が後を絶たない。沖縄の集団自決もまた然り。なぜ、どうして、どういう状況の中で、それが起こったのか、自らの国の問題として、謙虚に、考えてみる必要があるだろう。
『神話の背景』から、赤松隊の第二中隊長であった富野稔元少尉の言葉を引用する。
「私は防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったろうと思います。今の考えの風潮にはないかも知れませんが、あの当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して、軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持はあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、自らの命を絶った、という面もあると思います。死ぬのが恐いから死んだなどということがあるでしょうか。
むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさをおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」
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