沖縄戦集団自決事件をめぐる
「反日神話」の背景(終章)

椿原泰夫(自由主義史観研究会会員)
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▽「軍命令」という虚構を崩す
自由主義史観研究会(以下「研究会」と略記)が去る五月二十日から実施した二泊三日の「沖縄戦慰霊と検証の旅」に参加した。「研究会」代表の藤岡信勝拓殖大教授を始め総勢九名、沖縄戦のいわゆる「集団自決」の地である慶良間諸島の座間味島と渡嘉敷島にそれぞれ一泊した。
実は昨年暮れ、個人的に渡嘉敷島を訪ねるために、沖縄本島に宿を取り、家人を連れて渡航を試みたが、初日は交通渋滞に巻き込まれてフェリーに間に合わず、翌日は後れぬように早く出かけたのに強風のため出港の予定が立たないというので、諦めたことがあった。あの計画が実現していたら今回の旅には参加しなかっただろうし、そうなると、今回の貴重な体験はできなかっただろう。
「集団自決」については、上杉千年先生の『総括・教科書問題と教育裁判』、曾野綾子氏の『ある神話の背景』、中村粲先生発行の『昭和史研究所會報』などを参考にしてまとめて、私の個人誌にも掲載したことがある。
今回のツアーには戦史研究者の自衛官が休暇を取って参加するはずだったが、直前に中止された。その経緯は「研究会」の会報『歴史と教育』第93号に、藤岡先生が書いておられる。
私には旅行社から出発の前日に電話があり、「地元新聞や活動家が騒いでいるので、空港では自由主義史観研究会の名を伏せて『○○さんご一行』の看板にします」と言ってきた。案の定、空港から始まって、那覇市内の行く先々で、怪しげな男たちがしきりにカメラを向けたりして樣子を窺っていた。
二日前の十八日付「沖縄タイムス」には、 《県内の沖縄戦研究者らは「ある一面だけをとらえて軍命による『集団自決』はすべてなかったとする同会の主張は沖縄戦の実相を大きくゆがめていくものだ」として警戒を強めている。》(傍点は引用者)などと、あたかも、「集団自決」そのものを「研究会」が否定しているかのような印象を与える書き方の記事があった。
いわゆる「従軍慰安婦の強制連行」にせよ、「南京大虐殺」とされるものにせよ、その事実関係を明らかにしようとすると、決まって「慰安婦制度があったことを否定している」、「虐殺は一切なかったと主張している」などと、真意を故意に歪めて伝える常套手段だ。
また「同会の主張」と書いているが、個々の歴史的事象について、「研究会」としての一定の考え方や主張などがあるという認識は、賛助会員の一人である私にはない。
直前に不参加を決めた自衛官については、同研究会の活動の政治性との関係については、『研究会の活動内容をよく知らなかったので、参加を改めて検討する』と話した。》(傍点は引用者)と書いているが、これは「研究会」が政治的な活動をしているという意味なのか。
この「沖縄タイムス」の記事が公平な報道と認められないのは、自社に都合のいい取材だけで記事を書いていることだ。
那覇市内のある見学先で待っていた同社の記者が藤岡先生に取材を申し込んで断られたらしかったが、取材をするなら、当然十八日の記事を書く前にすべきであろう。
因みに集団自決は「軍命令だった」という作り話を初めて書いたのは、昭和二十五年に朝日新聞社が出版した『鉄の暴風』だったが、同書はその後、沖縄タイムス社発行となった。
私の手元にある昭和五十年版には、初版本にあった梅澤元隊長に関するきわめて非礼な中傷記事一行余りが削除されている。
「沖縄タイムス」の右記事(五月十八日付)は、高嶋琉球大教授らが前日開いた記者会見を踏まえた形だが、彼らが「研究会」の活動に神経質なのは、「軍命令」が否定されれば、この作り話を真実として、活字にした新聞社としても、学説(?)の根拠とした学者としても、その立場がなくなるからだ。
しかし、「軍命令」があった証拠はない。この作り話を最初に活字にしたのは恐らく『鉄の暴風』だろうが(拙前稿参照)、我々が二日目に訪れた渡嘉敷島の「民俗資料館」で売られていた『渡嘉敷村史』(村役場発行)にも「重大な事実」として記録されている。藤岡先生が資料館でこれを購入された時、金城館長のどことなく気乗りなさそうな様子が気になったが、後になって思い当たることがあった(後記)。
こういう事情があるにしても、それが作り話であることを私は疑わない(今回の旅で一層はっきりした)し、今回の旅行の主たる目的の一つは「検証」ということであったが、私の関心はむしろ次の二点であった。
ア.集団自決という異常な事件が起こったのは何故か
イ.「軍命令」という作り話が生まれたのは何故か
昨年の暮れ渡航を試みたのも、慰霊というだけでなく、現地に立てば何か感じ取ることがあるのではないか、という思いからだった。
▽集団自決は何故起こったか
座間味で聞き取り調査に応じてくれたのは昭和三年生まれの、数え年十八で徴用されて戦隊本部付伝令を務めたという宮平敏勝氏であった。氏はその立場上、事件の現場に居合わさず、事件は後で聞いて知ったということだが、その証言は「軍命令」のなかったことの傍証になろう。氏はその後、事件の現場や、「昭和白鯱隊玉砕の地(挺進第一戦隊の五十有余名が米軍陣地に突撃して玉砕した跡地)」などに案内してくださった。
その日の午後、座間味島から、エメラルドグリーンに輝く珊瑚礁の海をモーターボートで走り、渡嘉敷島に渡った。一泊して翌日は前記の「民俗資料館」に行き、金城館長から説明を聞いた。その中で金城氏は、この島に徴用されていた朝鮮人軍夫(当時は日本国民)のことを「強制連行された」と説明したので、我々との間で多少の議論があったが、双方がこの問題では深追いせず、氏の案内で事件の跡地に向かった。現地での説明は、さすがに、島民の一人として現場に居合わせた、と言うだけあって、真に迫るものがあった。そこで実際に命を落としたのは三百二十九名、残りの約六百名が村長とともに赤松隊長の下に駆けつけて「機関銃で殺してくれ」「自決用の手榴弾をくれ」と頼んだが、断られた経緯、目の前で敵弾に当たった兵士が、断末魔の苦しみの中で、「おかあさーん、おかあさーん」と叫び続けたことなど(訥々とした沖縄弁で大変聞き取りにくかった座間味の宮平氏とはうって変わって)、実に臨場感溢れる説明で、一同固唾を呑んで聞き入った。氏は「軍命令」など決してなかった、そんなでたらめな話を書いた『鉄の暴風』など信じる者は渡嘉敷島には一人もいないと、語気を強めて断言した(「軍命令」を「重大な事実」と記す村史を藤岡先生が求めた時に感じさせた氏の不自然さはこのことと無関係ではなかろう)。
だが何故この悲劇が起こったかということは、残念ながら氏の説明にもなかった。
私は話の場から一人離れて、雑木林をかき分けて惨劇の現場という谷底に降りていった。 きっとあの時も流れていたに違いない小さな谷川の音にしばし耳を傾け、その夜の情景を思いめぐらせたが、これだ、と確信出来るようなものは思いつかなかった。
あの悲劇の原因としては、幾つかのことが「複層的」にあったのではないかという私見の一端は前稿でも披瀝した。重複することもあるが、改めて整理しておこう。
@恐怖感
座間味でも渡嘉敷でも、高所から大小の島が点在する美しい海を眺めることができたが、ここに蟻の這い出る隙もないように米艦隊が蝟集した情景が島民に与えた恐怖感は想像に難くない。この艦隊は畳二枚に砲弾二十一発を撃ち込んだともいわれるが、島民の陥った「錯乱状態」は座間味生き残りの宮城初枝の手記にもあるとおりだ。
A「戦陣訓」
慶良間諸島に渡る前、那覇市にある波上宮という沖縄総鎮守・旧官幣小社に私達は参拝した。昭和十九年十一月三日(当時は明治節)、沖縄県知事が県下全市町村の長をこの神宮に集めて「虜囚の辱めを受けるな」と訓示した、という話があるので、事実かどうか確かめようとの藤岡先生の提案によるものだった。
真偽は明らかにならなかったが、事実なら、それは「出張と称してそのまま本土に帰ってしまった」と産経新聞(十四年八月十日付)に杉浦記者が書いた(『鉄の暴風』にも同様の記述)泉守紀知事のことになる。
いずれにせよ、村長や指導層が集団自決を考えた背景にはその発想は当然あっただろう。 だが、敵のために女子供は弄ばれ、なぶり殺しにされるという恐怖感は、当時の日本人の多くにあっただろうが、「戦陣訓」による「軍国教育」が島民一般に徹底していたとは考えられない。
B「玉砕するも甎全を恥ず」
虜囚の辱めを厭う気持ちと明確に区別することは出来ないが、惨めな死に方はしたくないということよりも、むしろ積極的に立派に生を全うしたい、という美意識は、日本人に限らず洋の東西を問わずある。
西暦七十三年の、人工の要塞マサダで起こったユダヤ人の集団自決を曾野綾子氏は紹介している(拙前稿参照)が、国内の例では、会津藩出身の陸軍大将柴五郎の祖母・母・姉妹たちが戊辰の役で覚悟の自決をしたことは、規模は小ながら精神において右に劣るものではない。
座間味島に駐屯した梅澤元隊長の「手記」は「内地人の処遇の域に迄向上せん」と協力した島民の「赤心の現れ」が、集団自決の背景にあることを指摘しているが、慶良間の人たちは、生を全うするという意識に加えて、戦隊のために民間人として出来る限りの協力をした上で、最後は軍の足手まといにならぬように、自ら死を選ぶことで日本人としての忠誠心を示そうとしたのではないか。
東京裁判で「A級戦犯」として起訴された広田弘毅の妻静子が、夫の生の未練を少しでも軽くしておくのが自分の役目と、自裁した例もある。
梅雨期と聞いていたが、幸い好天に恵まれ、珊瑚礁の海は明るい陽射しに映え、遙か遠くまで点在する緑の島々の風景はのどかだった。渡嘉敷島の宿の直ぐ先に、白い砂浜の続く入り江があった。陽が落ちて暗くなった浜辺で単調な波の音を聞いていると、六十年前、この島で非業の最期を遂げた老幼男女の悲しみがしきりに思われた。その彼らの死を、彼らの身になって悼むのでなく、ただ祖国糾弾のために利用することしか知らない連中を私は改めて憎んだ。
いくさ場に果てにし子らのうへしのび
昏きなぎさにしばしたゝずむ
▽「軍命令」という作り話の背景
あの悲劇が起きた原因や背景などについて、新たな証言が得られたという印象は私個人としてはなかったが、旅行中に得た貴重な証言から、私は「軍命令」が完全な作り話であるという確信を改めてもつことが出来た。
座間味の事情は、生き残りの関係者の証言ですでに明らかになったが、渡嘉敷の場合はより複雑な事情があり、課題を残している。
渡嘉敷島の金城氏が「軍命令」を語気強く否定したことはすでに書いたが、昭和六年の生まれ(事件当時十三、四歳)というから、その作り話が生まれた経緯(拙前稿参照)を知りうる立場になかったことは明らかだ。
しかし、村民の誰も信じていない、と断言する氏自身が、一方で、それが「くわしく」書かれている村史を求めに応じて販売するという不思議、そこに私は改めて、六十年後の今なお引きずっているこの島の複雑な事情を垣間見る思いがする。
実はこの旅行中、私達は、この島の特異な状況を窺わせる貴重な証言を得た。
島民のために、自らの潔白を晴らすことが出来ず、ノーベル賞作家の大江某の如き輩の罵倒を甘んじて受けながらこの世を去った、赤松元大尉の慰霊蔡が、毎年この渡嘉敷島で秘かに行われているということだ。
赤松元大尉の、そしてこれらの島で非業の死を遂げた軍民の御霊のご冥福を心からお祈りしたい。合掌。
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