五箇条のご誓文と韓国合併
壬午軍乱から甲申政変まで


大場敏夫(自由主義史観研究会会員)

仮題『満州国と辛亥革命』について

昨年は拙論「従来の『征韓論』解釈の誤り」を完成、本年は仮題『満州国と辛亥革命』を構想、関係文献を渉猟中です。次の@〜C関係が曖昧な部分です。
1.満人政権清は、前王朝より悪逆で、全漢人の憎悪の的であったのか?
2.《辛亥革命》後、南京もしくは北京に(正式な)国会は存在したのか?
3.右に関連して(Cも)、革命政府は本当に共和国政府と呼べたのか?
4.満州国成立当時、蒋介石政権を含め政府として機能していたのか?

これらの疑問全ての答えが「No」であれば、満州国だけが政府機関として唯一機能していた国家だったと言えるのです。
さらにアメリカ領土の拡大と同じで、
5.政権固めができれば、満州から長城内に繁栄(領土)を拡大する意図はあったのでは?

アメリカ西部開拓を侵略と呼ぶなら、5も侵略でしょう。しかし、「偽(満州)政権」ではなく[臨時]政権と呼ぶべきです。ですから、その後の日中戦争についてもDの観点からも考察すべきでは?

近刊『中国の歴史10』(講談社)の菊池氏によれば、中国近代史研究は共産党政権成立後の一九四九年からで、
「革命に貢献したか、反対したか」で善悪を判断してしまう先入観をかかえていた。…一九七二年の国交回復…、「まだ見ぬ恋人」のベールに包まれた存在…。結果…中国近代史研究も中国社会の実態にはそぐわない、理念的なものとなりがちであった…。 

「全く同感!」。だから片手落ち(検討不足)の歴史観が通用してきたのです。

例えば、孫文の革命前のスローガン『滅満興漢』について。彼の満人憎悪は異常なほどでした。ところが革命後、有名な『三民主義』「民族主義」に五族協和を謳っているのです。
そして現中国・旧国民党(並び日本の学者)共、彼の『五族協和』を大評価。『滅満……』なんか忘却の彼方なのです。
いずれにしろ、この方針の転換について、深く検討されているとは思われないのです。まさに片手落ち???

では、韓国に戻ります。 《竹添陰謀》説についてです。


竹添公使の甲案・乙案


以上独立党の報告に基き、竹添公使は独立党と戚族との衝突は早晩免れ難いものと認め、……、之が対策二案を作成し、明治十七年十一月十二日付を以(もっ)て、〔内務卿伊藤博文・外務卿井上馨〕に上申した。

この上申書「甲案」内容が、《陰謀説》の根拠としてあげられます。甲乙案については田保橋史料にも載せられています。

『公文書で語る日韓併合』著者金膺龍氏は、『日韓外交史料3』(市川正明編 原書房)の、右史料に欠けた「(イ)竹添の対韓策建議」を引用して《陰謀説》を証拠立てています。
日本党ヲ扇動シ内乱ヲ起コサシムヲ得策トス。(中略(まま))
右『外交史料1〜10』は、田保橋史料と変わらぬくらい史料的価値のあるものです。日清戦争当時の史料は山ほどコピーしています。ですから、「(イ)建議」を否定しません。(中略(まま))以下後述。

前回記載のごとく、当時、漢城(ソウル)滞在の日本人全てが、清に対し挑発的(侮蔑的・好戦的)雰囲気だったのです。また、親清派竹添も一〇月三〇日の帰任(帰朝は誤り)後、反清・侮清に豹変したことにも触れました。【匿名読者より「帰朝は母国に帰ること」とご指摘】
ところで、竹添の豹変振りは本当だったのでしょうか? 〔後ほど検討〕。


二〇日間は充分な時間なのか?


話は戻って、上申書は事件発生二〇日前に送られます。
親日派の呉善花氏『韓国併合への道』「第六章 夢と果てたクーデタ」・「竹添公使の二つの朝鮮政策」に、次のように記しています。

いずれにしても日本が軍事行動をおこすことはなかった。結論から言えば、清仏に和議が成立したため、再び日本政府の対朝鮮政策が変化したからである。……。

しかしそれでは、なぜ日本政府は、クーデタ計画を差止めようとしなかったのだろうか。……。
第一に考えなくてはならないのは、竹添公使は、クーデタが起る二〇日以上前の一一月一二日付で、次のように、甲乙二つの……。」

また前述の金膺龍氏も、「事件を起こすまでには二十日以上も時間があった」と。参考までに前後の文章を、 この竹添の建議書ではっきりと、日本党を扇動して内乱を起こすことを進言している。 また、クーデタが切迫していることも認識していた。「」。電報による訓令を請う電報を受けて何故すぐ差止めなかったのか。

金氏は、上述(カタ)の(カナ文)(中略(まま))以下に、下線部証拠があると? (中略(まま))支那党益々蟠結(ばんけつ)シテ進歩ノ妨礙(ぼうがい(まま))ヲ為スニ付キ、…〔略〕…。筆記第一〔甲案〕ノ通リ日本党ノ計画ハ既ニ一決致シ候。小官ヨリ一言同意ヲ表シ候エバ直チニ事を起コシ候勢イニ付キ、…〔以下略〕…。

「証拠」の検討前に、呉・金氏両者とも「二〇日間あれば、日本政府は、事件を差止めることができたはず」、との判断は正しいのでしょうか?

筆者は既に、(9)「第四章 2」の《壬午軍乱》の情報伝達について記しました。 

情報が錯綜し、日本政府の事件対応も適切さを欠き、結局(9)「花房公使と馬健忠並び馬道台と武添大書記官」に任せるしかできなかったのです。
再度当時の電報状況です[(8)(9)参照]。漢城(飛脚)→仁川(船便)→釜山(船便)→下関=国内(電報)→東京だったのです。 片道一週間、往復で一四日間も掛ったのです。二〇日間では、一往復が限界。国家の大事を一往復だけで決定できるのでしょうか?  至急電報ですら、事件を阻止することは不可能でしょう。ところが、竹添公使は、それ以上時間が掛る伝達手段を使ったと言うのです。


普通郵便では片道二週間


次は普通郵便の場合です。二週間は掛ったというのです。  東京からの訓令は電報としても、二週間+一週間=三週間(二一日間)―一二月四日〔クーデタ当日〕です。 ところで、なぜ竹添公使が甲乙案を請訓する決心をしたのでしょう?

然るに同公使の着任と共に、独立党は俄に活動を開始し、洪英植・朴英考・金玉均等は連日公使館に往来して、島村書記官・浅山三等属等と緊密に連絡を保ち、戚族の反撃を宣伝して居る。竹添公使も遂に之に動かされ、対策として十一月十二日甲乙案を作成、本国政府に請訓した。
右のような緊迫状況から判断すれば、金氏の右証拠の通りです。

ところが竹添は、普通郵便を選択したというのです。

而して〔しかしながら〕此の請訓は郵便で送付し、且つその末尾に独立党が直接行動をとる必要がある場合には、『電報を以て更に伺出候(うかがいでそうろう)心得に御座候』と附加している。

私は右の「必要がある場合には『』」部分で、竹添公使は、「金玉均たちの直接行動をコントロールできる」と考えていたと判断します。
田保橋氏も、「十一月から一ヶ月間は独立党戚族間に衝突なきを信じた証である」、と記しています。
さらに氏は、《政変》中に朝鮮内地旅行をして遭難に合う《磯林大尉事件》についても、大尉と井上との対話を引用し、

『僕将(まさ)に内地を旅行せんとす、近日の状況を察するに、この間或いは事変なきを保ぜず、君若(も)し予め知るならば、請う之を僕に示せよ〔いま朝鮮内地を旅行しようとしているが、今の状況では事変がいつ起こるか分からない。井上君が知っているならおしえて欲しい〕』と再三質問したが、井上が『知らず』と答えるに及んで、出発したと云う。……廟堂の機密に通ずる井上すら、十一月末より十二月上旬は平和なことを信じていた証である。

この井上とは、福沢諭吉の指示で、ハングル新聞を発行した井上角五郎のことです〔(12)参照〕。廟堂の戚族の動きや金玉均の行動を熟知していた井上ですら、クーデタ実行(●●)計画を知らなかった(本気にしなかったのかも)証拠です。

話は竹添に戻って、なぜ彼は電報ではなく、普通郵便を選択したのでしょう? 
第一、「竹添(=日本政府)のGOサインなくして独立党の暴発はないと信じていたから」でしょう。第二について、   


その後の、不可解な竹添の行動


もし、クーデタ参加を覚悟していたのなら、普通深く潜行沈黙するはず、 ところが、 (請訓発送当日の未明)、京城南山山麓より訓錬院一帯に銃声俄に起り、満都を震駭(しんがい)せしめた。国王は倉皇人を馳せて偵知せしめたところが、日本国公使館警備隊が非常夜間演習を実施したものであることが判明した。

日清衝突を懸念した国王は、竹添公使を詰責させたのですが、彼の返事は、「今回の訓練について、自分は関知しないが、 朝鮮人・支那人が驚愕したのは寧ろ意外とするところである」と述べ、得々たる色があった。 英国公使やドイツ公使からの抗議もあったと言います。回答不明。

さらに、訓練は駐留中国軍に対しても、 驚愕も甚だしく、何時日本兵の奇襲あるやも計り難いとして、全兵員を武装せしめ、日夜戒厳して万一に備えたと云う そして、有名な『日本兵一人と支那兵十人と戦っても、……』と竹添は豪語したと言うのです。
つまり、第二理由として、「まだ期は熟していない」と考えていたのでは? 「堪忍袋が破裂するまでの怒りには達していない」と。


韓流ブームの中で気付いたこと


筆者は、市内のハングル講座受講一年、レンタルDVDも欠かしたことがありません(週三枚程度)。 そして、改めて実感しました、韓国人は「瞬間沸騰(ふっとう)の湯わかし器」であることを。右指摘は、韓国滞在三年の山野内扶(たすく)君の「ワッタガッタ・ソウル」一月号(『NHKハングル語講座』連載)からです。

若い山野内君(三〇歳前後)も、筆者と同じ感想。日本人についても同感。日本人は蓄積(=足し算)型だと。実際、涙場面のないドラマは皆無。恋人同士・友人同士の口論は毎度、乱闘になることも。学校会社での体罰・暴行は当たり前(減少の傾向)。

余談ですが、右の「減少の傾向」と言うのは、韓国ドラマも国際化の影響で変化せざるをえないからです。日本も同じです。例えば、黒船来航の頃の、混浴・裸体(フンドシ)社会。衣服着用が奨励されるのです。
いずれにしろ竹添公使も井上角五郎も、独立党の面々の瞬間沸騰器的素質であることを理解していなかったようです。  


日本人の「堪忍(足し算)袋」信仰


例えば一〇〇の容量までに入る堪忍袋があって、ちょっと相手に腹が立つことがあると「今カチンときた。5点」とか、「いい気になりやがって。20点」とか、「ガマンがならん。50点」と不満がたまっていく。ある日ついに限界の一〇〇をオーバーし、めでたく大爆発、となるわけで……このときする「自分はそろそろ怒っていいよな?」という自問自答、これがすごく日本人的なのです。

山野内くんの指摘ですが、この自問自答→爆発寸前でも案外冷静なのですね。
「竹添の豹変振り」についても、恋の駆け引きと同じだったのでは? 別に「豹変した」(嫌いになった)のではなく、恋する女へのアプローチの仕方が変っただけ。「追っかけ」から、「冷淡」に方針変更?いずれにしろ、瞬間沸騰器型たちは、一直線にクーデタに走っていくのです。見守る足し算型武添公使の対応は?

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