大東亜戦争に勝った事で
中国国民は幸福になったか(1)

杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)
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中国は二度とあの戦争の不幸を繰り返さないために、靖国問題に関連して、東京裁判史観を不磨の聖典とするよう要求している。しかしあの戦争の不幸を繰り返さないために必要なことは、真実の歴史の追究である。誤った認識から出る結論は誤ったものとなる。
中国は外国資本が中国国民を不幸にしていると主張し、外国資本の追放を叫んだ。一九二〇年代はその標的はイギリス等欧米資本に向けられたが、一九三〇年代に入るとその標的は日本に向けられ、排日・侮日運動が激化した。度重なるテロ行為により、対抗措置として、日本の軍は中国に進出し、親日政府を設立した。そしてシナ事変が発生し、大東亜戦争に発展、中国共産党が政権を獲得した。
その事により中国国民は幸福になったのだろうか。
一九五八年から六一年の四年間で三千八百万人の人が餓死又は過労死したと言われる(『マオ下』一八九ページ)。又一〇年間の文化大革命では二千万人が死に、一億人がひどい目にあったと言われる(『中国がひた隠す毛沢東の真実』北海閑人二九八ページ)。
中国が立ち上がったのは、ケ小平が共産主義を捨て、改革・開放路線に切り替えてからである。現在の中国の政策は貧富の格差の拡大など、独裁体制を除いて、共産主義の理想とはかけ離れたものである。
「外国人に支配されることは不幸である」と言う命題は間違っていたし、共産党により、貧富の格差を少なくするとの理想は幻影に過ぎなかったのである。
この論文では、中国共産党の歴史を軸に、中国共産党が如何に中国国民を悲惨な状態にしたか、大東亜戦争開戦の最大の責任者は中国共産党にあったことを明らかにする。
中国共産党の創立
一九一八年第一次世界大戦が終わった。この前年ロシアでレーニン率いる一〇月革命が成功し、初の共産党政権が成立した。一九一九年朝鮮で三・一独立運動、中国で五・四運動が発生し、民族主義が世界各地で激化した。モスクワでは第一回コミンテルン大会が開催され、世界の共産革命を目指すことになった。そこで決定されたことは、まず最初にアジアの西洋帝国主義を破壊する事により、最終的にヨーロッパの資本主義を打倒することであった。その第一歩としてポイチンスキーが派遣された。
一九二〇年(二一年との説もある)陳独秀を党書記として中国共産党が創立された。実質はポイチンスキーの指導によるものである。
一九二一年孫文が広東政府を樹立したが、共産党はこの政府にとりつき、実権を奪った。それまでの孫文は滅清興漢を叫んでいた。即ち満州族の清朝からの独立運動だったのである。
一九二二年六月陳炯明の反乱により、根拠地広東を喪失し、苦境に立たされた孫文はマーリンの積極的なアプローチにより国共合作の道を選んだ。孫文は多額の軍事支援をソ連に要請し、ソ連がそれに応じた事で二三年一月の孫文・ヨッフェ共同宣言となった。それと共に共産党の組織原理を取り入れた。
しかしコミンテルンの思惑と陳独秀等の考えが一致したわけではない。マーリンは反対意見を力で押し切った。国民党内でも、共産党を容認するグループと否認するグループの対立が続いた。
この国共合作により、広東を取り返した孫文は二三年三月広州に第三次広東軍政府を樹立した。しかし内部固めで精一杯で何らなすことなく、孫文は二五年三月死亡した。
孫文の死亡により重しがとれた共産党員は各地で暴れ始めた。五月一日広州での大デモ行進、上海での五・三〇運動等である。
それに対し蒋介石をリーダーとする国民党右派が反発し、その後汪兆明をリーダーとする国民党左派、共産党の三派が対立、合従連衡を繰り返した。
二七年秋蒋介石も失脚した。失脚後蒋介石は来日し、有馬温泉で療養中の宋美齢の母に会い、宋美齢との結婚の了承を貰った。
宋美齢はその後、流暢な英語を駆使し、アメリカ世論の同情を買い、アメリカの対日参戦、勝利に多大の貢献をした。
蒋介石は二八年一月復権し、北伐を再開した。七月には北京に入城し、北伐が完了、一九一二年清朝崩壊後の軍閥乱立・戦国時代が終わった。
この過程で長沙、漢口、南京等で共産党は大暴れし、特に南京では外国人殺害事件を引き起こし、イギリス・アメリカ軍艦は発砲し、鎮圧した。(第一次南京事件)
又この間に共産党は勢力を急激に拡大し、一九二五年の第四回大会で僅か九五〇人に過ぎなかった党員は二七年の第五回大会では五万八千人に達した。
又北伐の過程で発生した済南事件の原因については、日中の意見が異なり、決着がついていないが、北伐軍の第二軍はソ連で訓練を受けた馮玉祥に率いられていた。
毛沢東の生い立ち
尚この時期までの共産党は完全にソ連の指導下にあり、毛沢東は幹部の端っこに名前を連ねていたに過ぎない。
毛沢東は一八九三年湖南省の山村で生まれた。父は比較的裕福な農家である。商才があり、養豚業により、彼の父親が質に入れた農地を買い戻し、更に農地を買い増し、村で指折りの金持ちになった。
毛沢東は八歳から近くの韶山で文字を習い、一八歳で長沙に出て、一九一三年師範学校に入学した。一八年卒業したが、定職を得られず、ぶらぶらしていた。二〇年六月陳独秀と出会い、その後の一生が決まった。前述の如くこの年共産党が設立され、陳独秀が党書記に就任したのである。
当時のリーダーの多くが日本又はソ連に留学しているが、彼は師範学校を卒業しただけに過ぎない。
毛沢東は国共合作に精力的に動き、マーリンの信頼を得、党の中核に起用された。しかしマーリンの後任者の信頼が得られず、二四年、右翼日和見主義者として、役職を解任された。二五年九月孫文の死去と共に、かねて面識のある汪兆明を頼って広東に出てきた。期待に違わず、汪兆明は毛沢東を国民党中央宣伝部長代理に登用し、五人しかいない国民党第二回全国大会代表資格審査委員にも任命した。更に二七年四月代表候補として共産党中央に復帰させた。尚この時汪兆明は国民党主席であった。
この動乱の中、毛沢東は手勢を持たなかったので、他人が作った軍隊を乗っ取る作戦に出た。南昌蜂起に失敗した敗残兵を、巧言でもって引き連れ、井崗山へ入り込んだ。ここには袁文才という土匪が支配していたが、一時的にこの地で駐屯させて欲しいと話をつけた。そして四ヶ月後、この地を統治する寧岡県城を攻略した。その三日後逮捕した県長を極めて残酷な方法で、公開処刑したのである。この残酷な処刑に袁文才らは震え上がり、毛沢東の配下になったのである。二八年二月である。
四月には汕頭で蜂起し、破れた朱徳の四千人の部隊が合流した。数に勝る朱徳を押さえ、毛沢東が指導者となった』
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