大東亜戦争に勝った事で
中国国民は幸福になったか(2)

杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)
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満州国の建設
1921年中国共産党を設立すると共に、ソ連は外モンゴルを軍事占領し、支配下に収めた。1929年張学良が北満鉄道を巡って対立し、武力衝突までいったがソ連が手を引いている。更にソ連は三一年には新彊地区の内乱に介入し、保護国化した。又国境を巡って張鼓峰事件、ノモンハン事件を引き起こしている。1921年中国共産党の設立、拡大に伴い、満州でも日本商品ボイコット等反日プロパガンダが始まった。中国では、日本の侵略を非難するが、ソ連の侵略に対する非難はない。これはこの反日運動がソ連の指導によって行われたからであろう。
この激しい反日運動の中、31年6月27日興安嶺で中村大尉が惨殺死体で発見され、更に7月長春郊外の万宝山での朝鮮農民と中国農民との間の農業用水を巡る衝突事件が起きた。当時の外務大臣は軟弱外交で有名な幣原喜重郎であった。
9月18日日本は奉天郊外の柳条溝で満鉄線を爆破し、満州事変を引き起こした。政府の不拡大方針を無視し、関東軍は次々に戦線を拡大し、遂に満州国の建設、国際連盟からの脱退にまで進み、大東亜戦争開戦の第一歩となった。
しかしこの満州の地は清朝の父祖の地であり、初代皇帝は満州族出身である。漢民族にとっては異民族の支配する土地だったのである。
この地は清朝隆盛時、封禁の地として漢民族の移住を許さなかったので、過疎地帯であった。日本は日露戦争により、満鉄を経営することになった。日本は満州を大豆の世界的な産地に育て上げると共に、撫順炭坑、鞍山製鉄所を中心に一大工業地帯を建設した。馬賊を平定し、治安も良くなったので、毎年中国本土から百万人も移住してきた。一大楽土となったのである。
大長征
この頃共産党は江西省の瑞金から山西省の延安に根拠地を移した。共産党はこれを大長征と美化しているが、実質は大逃走である。31年共産党が瑞金に根拠地を築いてから、退去するまでの約四年間に江西省・福建省の人口は五〇万人減少した。約二〇%に達する。
1934年10月蒋介石の圧力に耐えかね、折角確保した瑞金を放棄する事になった。この頃には周恩来、朱徳、等が参加し、党のトップは周恩来、軍のトップは朱徳であった。八万人の大軍が瑞金を退去した。しかし延安までたどり着いたのは僅か四千人である。この間に毛沢東は自分より大軍を擁している周恩来、彭徳懷、朱徳等を難敵に当たらせ、敗戦責任を追及し、失脚させ、全権を握った。
第七回コミンテルン大会
35年7月第七回コミンテルン大会が開催され、「当面の敵はドイツと日本である。ドイツはイギリス・フランスと、日本は蒋介石政権と戦わせよ。その戦争にアメリカを引きずり込め。そして荒れ果てた地をごっそり頂くのだ」との方針が決定された。
その第一歩が西安事件である。張作霖の子、張学良は満州事変後、満州を撤退し、西安を拠点としていた。蒋介石は延安の毛沢東に対する目付役を命じていた。
しかしソ連は彼に目を付け懐柔にかかった。これに合わせ毛沢東からの工作も始まった。当時毛沢東の二人の子供、岩英と岩青は上海で浮浪児同然の生活をしていた。それを助け出し、モスクワへ送り届ける事で、張学良は毛沢東とスターリンの支援を受けることになった。
36年9月毛沢東の要請により、外モンゴル経由で大量の武器弾薬がソ連から支給されることになった。そのルートを確保するため、毛沢東は張国Z、賀龍を呼び寄せた。この時毛沢東軍は8万人に戻っていた。
蒋介石は督軍のため、西安へやってきた。共産軍に寝返っていた張学良は彼を監禁してしまったのである。
毛沢東は蒋介石を処刑しようとしたが、スターリンは毛沢東と蒋介石の和睦、国共合作を命じた。蒋介石は自分の命と共に息子・蒋経国を人質に取られていた。36年12月25日である。
シナ事変の発端
37年7月7日北京郊外の盧溝橋で演習していた日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれた。シナ事変の始まりである。その後小競り合いが続くが、その度に停戦協定が成立した。しかし何者か判らぬ者により、停戦協定が破られた。日本軍はシナ軍の犯行だと抗議するが、シナ軍は我々ではないと主張した。
これは共産軍によるものだとすると、すべてが氷解する。盧溝橋事件の翌日・七月八日付の共産党からの即時開戦を指示した電文は、「八・一救国宣言」と共に、中国各地の軍事博物館に、大きく掲示されているとの事である。(永江太郎「シナ事変への突入」防衛庁広報誌『セキュリタリアン』平成十二年七月号)当時の宋哲元軍には、張克侠副参謀長を始め大勢の馮玉祥軍の残党が混入していた。彼らが共産党本部の指示に従ったと考えれば筋が通る。日本軍も宋哲元も犯人を知らなかったのである。
この北支での戦闘は八月上海に飛び火し、全面的なシナ事変に発展した。八月九日海軍の大山中尉が中国保安隊に殺害されたのである。この犯人は国民党に潜り込んだ共産軍のスバイで京滬警備司令官・張治中であった(『マオ下』)。
尚張治中は戦後の国共内戦で、マーシァル元帥の下に作られた三人委員会の国民党代表でありながら、台湾に移らず、共産党政府に移った人である。回想録に二五年頃周恩来に入党を申し込んだが、周恩来の要請により、国民党に留まり、情報を流したと書いている。
余談であるが、張作霖爆殺事件(『マオ上』三〇一ページ)、戦後台湾で起こった「二.二八事件」(『蒋介石秘録下』四七二ページ)は共に共産党により企まれたものとの事である。
この頃上海はドイツ人軍事顧問ファルケンハウゼン将軍の指導により、クリークを利用して、塹壕と組み合わされた一大要塞化されていた。日本軍は大変な苦戦に陥り、大軍を次々投入せざるをえなくなった。
10月31日遂に蒋介石軍は上海を撤退、追撃戦に入った。11月19日首都を重慶に移すことを決定、一二月七日南京攻防戦が始まり、南京大虐殺事件が起きたと言われる。しかしこの南京大虐殺事件も共産党のプロパガンダであったことが確実になってきている。この件については書くと長くなるので省略する。
戦わなかった中国共産党
これより先、 8月22日中京軍は八路軍と名を変え、国民政府軍の指揮下に入った。共産党の各武将は日本打倒に奮い立ったが、毛沢東は違った。彼は「これは三国志だな」と側近に語った。つまり日本と国民党と共産党の三つ巴の戦いだと捉えたのである。
毛沢東は蒋介石と交渉し、共産軍を正面戦に投入せず、遊撃隊として使うことを了承させた。そして共産軍の指揮者に日本が進軍した行った後背地を領土として獲得することを命じたのである。又同時に敗走する蒋介石軍から落ちこぼれを拾い、共産軍を強化するよう命じた。日本は鉄道や大都市を支配したが、小さな町や農村までは手が回らなかった。蒋介石軍が敗退にするにつれ、共産軍は支配地を広げ、戦力は強化された。
この頃の共産党の資金はどのようにして維持されたのであろうか。第二次国共合作に伴い、「階級敵陣」を指定して、強制労働に従事させたり、資産を没収する政策は大幅に緩和された。それは国民党とソ連からの多額の資金援助があり、統一戦線の名により、或る程度国民党の政策に妥協したからである。
しかし共産党の過酷な徴税政策、塩の採掘・運搬の為の強制労働、(延安周辺には七つの塩湖があり採掘は容易だったが、搬出路が峻険な山道であった。)ケシの栽培、無制限の法幣発行に伴う超インフレ等まさに住民にとっては地獄であった。貧富の差の縮小という共産党の理想とは全くかけ離れたものであった(『マオ上』)
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大東亜戦争が始まると米軍からの武器弾薬が大量に供給されるようになった。米軍の司令官スティルウェルは共産党のシンパであり、蒋介石軍より共産党軍に有利に扱った。
戦後、毛沢東は社会党の佐々木更三委員長に「日本軍は中国に大きな利益をもたらしたのだから、申し訳なく思うことはない」と述べている。まさに毛沢東は実際の戦争はすべて蒋介石に押しつけ、アメリカから武器弾薬を供給され、強化されたのである。
蒋介石政権の敗北
戦後国共内戦が始まり、蒋介石は敗北し、台湾に逃げ込んだ。1949年10月1日中華人民共和国が成立宣言を行い、毛沢東が主席に就任した。国民党は敗北、11月台湾に完全に移転した。蒋介石はそれに先立ち49年1月総統を辞任していたが、50年1月総統に復帰した。アメリカは中華人民共和国の不承認を決めたのに対し、イギリスは50年1月中共を承認している。
大躍進期の大飢饉
中国人民は遂に独立した。国内で残った外国勢力はソ連だけであった。義和団事件以来50年に及ぶ排外・攘夷運動に遂に勝ったのである。しかしそれにより中国国民は幸せになったであろうか。
1953年全国的に食料供出制度が実施された。これは生きていくのに必要な最低限度の食料を残し、後はすべて取り上げる、と言うものであった。1955年にはこの供出制度の実施を容易にするため、農村の集団化を実施し、すべての収穫物を畑から直接政府に引き渡され、政府がすべて分配することになった。
又都市部では工業と商業の国営化も実施された。地主、資本家が追放され、共産主義の理想が実施されたのである。
集団化により、農民は徹底的に搾取され、特に女性の労働時間が増加され、奴隷のように働かされた。これに反抗する人は徹底的に弾圧された。
これを監督する国家公務員には公開批闘会を頻繁に開かせ、「自白と通報」を強要し、恐怖で支配した。(『マオ 下』三七章農民を敵に回す)
1958年大躍進政策が始まった。(『マオ 下』四〇章大躍進、国民の半数が死のうとも)
各地で大規模ダムの建設等、大規模灌漑設備の建設である。所が同時に測量、同時に設計、同時に施工というとんでもない方針が打ち出された。しかもすべて道具も自前、手弁当である。設計のミスによる計画変更、決壊が相次ぎ、何百万人の住民が故郷を追われ、何十万人もの人が命を落とした。五〇〇件を超える大規模ダム工事の内、59年末の時点で既に二〇〇件が断念されていた。
雀が穀物を食べるからと言って、雀の駆除運動が始まった。その結果、害虫が大発生して壊滅的な被害を蒙った。
密植政策も失敗例の一つである。十年ほど前北朝鮮で実施され、大飢饉の原因となったが、農業の素人が思いつきで行い、失敗したものである。
あと一つ鉄鋼の大増産計画である。製鉄所と炭坑には大量の労働者が動員され、機械は整備する暇もなく、酷使され、故障が頻発した。原料として家庭の鍋釜まで供出させられ、燃料として農家が解体され、近隣の山林はすべて伐採され、洪水の原因となった。
若林敬子『中国 人口超大国のゆくえ』岩波新書に出生率、死亡率、人口の自然増加率のグラフが掲載してある。この間の人口動態が如何に異常だったかわかる。それでも出生率はどん底で二%くらいであり、人口増加が続いた。『マオ』によれば、58年から61年までの4年間で3800万人の人が餓死、又は過労死したとしている。
文化大革命
1965年文化革命と言われる党の大粛正が始まった。それまで党の発展に貢献してきた人が次々に粛正された。
それに先立ち1959年大躍進政策に批判的だった彭徳懷が粛正された。彼は大長征時代毛沢東を上回る戦力を有していた大長老である。 次いで標的とされたのは劉少奇国家主席である。劉少奇を粛正するため、毛沢東は林彪に協力を要請した。林彪は目の上のタンコブ・羅瑞卿総参謀長の追放を求めた。このようにして次々に建国の功労者が弾劾された。ついには林彪までも亡命しようとして飛行機事故で一族すべて死亡するという悲劇を招いた。
元勲で生き残ったのは僅かに周恩来くらいである。 このような粛正はどのような方法で行われたのか。まず『人民日報』で「毛沢東語録」が毎日掲載され、毛沢東の大礼賛が始められた。66年夏には公共の場では必ず『毛沢東語録』を携帯して高く掲げ、内容を毎日暗唱させられた。
六月、中学校や高等学校の若者を洗脳し、教師や教育関係者の糾弾を始めさせた。彼らは紅衛兵を名乗り、壁新聞に「毛沢東の敵を踏みつぶせ」と言った過激なポスターを貼り巡らせた。学校は休校し、北京大学では、数十人の教師が三角帽をかぶせられ、群衆の前に引き出され、殴られ、女性は性的汚辱を受けた。このような事が全国に普及し、自殺者が続出した。
八月になると毛沢東の支持の下、暴力行為がエスカレートした。多くの教師が殴り殺され、更に刃は出身家庭により、好ましからぬと烙印を押された家庭やその家族の迫害に及んだ。又旧文化を象徴する孔廟なども標的にされた。毛沢東の指示により、迫害の対象から外すべき人のリストが、周恩来により作られた。このリストから外れた高官の家も紅衛兵の略奪・暴行から逃れることが出来なかった。この年の八月から九月にかけ、北京だけで三万軒以上の家が荒らされ、二千人近くの人が殺された。尚警察はこの紅衛兵の暴行を取り締まることを禁じられた。
何百万人もの幹部は追放され、強制労働収容所に送られたり、農村地区や西部の砂漠地帯に下放された。山崎豊子の『大地の子』は日本人残留孤児で苦難を乗り越え、技術者としてのびつつあった青年が、農村に下放され再び苦難の道に追い落とされが、再度その苦難をも乗り越えた感動の物語を取り込んでいる。
ケ小平
1967年1月に周恩来、九月に毛沢東が相次いで死んだ。後任に指名されたのは華国鋒であった。しかし華国鋒や江青・毛沢東夫人等毛沢東の取り巻きでは力不足であり、忽ちケ小平に実権を奪われた。
ケ小平は文革中に一回失脚したが、73年復権した。彼は葉剣英元帥と周恩来を味方に付け、追放された元幹部の復権、抹殺された文化の復活を図った。
この頃毛沢東は白内障で殆ど視力を失っていた。同時にルー・ゲーリック病という極めて珍しい不治の病にかかっていることが発見された。更に周恩来は膀胱癌が見つかっていた。しかし白内障の手術で視力を取り戻した毛沢東は周恩来が死亡したチャンスを捕らえ、ケ小平、葉剣英を解任し、周恩来の後任として華国鋒を任命したのである。
しかしその後の政治不安は次第にケ小平への期待の声が高まり、77年7月三度復活したのである。彼は胡耀邦をを使い、華国鋒を直接攻めず、No.2の汪東興に集中砲火を浴びせ、彼を失権させた。しかしケ小平は実権を握りながら表にたたなかった。華国鋒を退陣させ、胡耀邦が党主席に就任したのは81年6月である。その後名目的なトップは趙紫陽、江沢民と続くが、実権はケ小平が握っていた。彼が最後まで放さなかったのは中央軍事委員会主席であるが、それも89年江沢民に譲っている。
彼が最初に実施した政策は、農村における生産請負制である。これにより農村に競争原理を持ち込んだ。七八年に始まり、八四年には九九%以上の人民公社が解体された。
次いで七九年経済特区の設置が決められ、八〇年その第一歩として深?を解放した。その後の深?の発達が如何に素晴らしかったか説明するに及ばないだろう。この後の改革開放政策により、中国は急激に発展した。自由競争・私有財産を認め、貧富の差を許容し、今では資本家の党員も認めている。唯一共産主義の理念で残っているのは、一党独裁だけである。
今日の中国の発展は共産主義を捨てたから得られたのである。
ソ連や東欧の共産主義国家が次々崩壊していく中で、中国が生き残ったのは天安門事件の弾圧である。この弾圧がなかったら東欧諸国同様大変な混乱に陥ったであろう。多くの国に分裂した可能性もある。その代わり民主化が遅れ、農村部と都市部の格差等大きな矛盾を抱えたままになっている。
この評価については意見の分かれるところであるが、私は急激な変革を拒否し、緩やかな開放政策をとったケ小平の政策を支持する。
「中国国民は日本に苦しめられた」の嘘
蒋介石秘録による日中戦争の死傷者は将兵三三一万人、非戦闘員八四二万人、合計一、一七三万人としている。その他に家を失った等それに数倍する被害者がいたであろう。それに対し大躍進期の不正常死は、若林敬子『中国人口超大国のゆくえ』岩波新書
によれば、「計算方法により異なるが、一三六一万から四六三八万ほどの差があるが、二千万程度と見てよいだろう」としている。
尚この本では文化大革命時の死亡率は64年に小さなピークがあるが、大躍進時のような異常は見えない。北海閑人『中国がひた隠す毛沢東の真実』草思社には葉剣英の談として「10年間の文化大革命では二千万人が死に一億人がひどい目にあった。」。又胡耀邦談として「大躍進期に全国で2200万人が非正常死した」と書いている。この本では八年間の日中戦争で死亡した中国の軍人と一般人の合計は二千万とし、この二倍の人が毛沢東の人禍によって死亡したとしている。
そもそも日中戦争はスターリンの陰謀と共産党のテロ行為により始まった物である。中国、特に上海や山東半島に進出した人たちは、今日中国に進出している人と同様、経済的なビジネスチャンスを求めて進出した人たちであり、侵略等と非難されるいわれはない。又日中戦争から大東亜戦争の間の被害者より毛沢東治世下の平和時の被害者の方が多いのである。
中国は「歴史を鑑に」と盛んに言っている。大賛成である。その為には真実の歴史を知らなければならない。中国はナショナリズムと共産主義を煽ることにより、大東亜戦争の勝者となった。ベトナムにてもアメリカに勝っている。その結果住民は幸せになったであろうか。
かっては中国の辺境地域であった台湾と中国の今日の差が何に起因するのか。ベトナムとマレーシアやフィリピンのとの差が何に起因するのか。中国の今日の発展はケ小平が共産主義を捨ててからである。ベトナムも共産主義を捨て、改革開放を目指すことにより立ち上がった。このような歴史の真実の追究こそが求められている。
今愛国心が問題となっている。愛社心のない会社は潰れる。同様に愛国心のない国は破れる。しかし偏狭な愛国心は閉鎖的となり、競争が押さえられ停滞する。私は何事もバランスだと考える。
歴史論争最前線の目次
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