朝日新聞に見る靖国問題(1)

渡辺龍二(自由主義史観研究会会員)
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靖国問題は、小泉首相の参拝によって起きたのでしょうか。
靖国神社参拝問題の本質は何なのでしょうか。
それらに答えるために、首相の参拝が批判されるようになっていった実際の過程を明らかにしたいと思います。その方法として、首相の参拝を批判している朝日新聞の記事を使って検証してみようと思います。首相の参拝に対する記事は、三つの時期に分かれます。
第一期は、昭和二十年八月の終戦から昭和五十年四月までの期間です。この期間には三十一回の首相の参拝がありますが、朝日新聞でさえ、参拝を問題にしてなく、参拝はあたりまえのこととして扱っています。
第二期は、昭和五十年八月から昭和六十年四月の参拝までで、この期間に、A級戦犯の合祀がされています。政教分離にからみ、参拝が私人か公人かということが問題にされました。
第三期は昭和六十年以降で、中国を巻き込んで、首相の参拝の是非そのものが問題にされるようになりました。まず、終戦直後はどうだったのでしょうか。
(『 』内は朝日新聞の記事の引用です。)
昭和二十年八月十八日の東久邇宮首相の参拝は、『首相宮御参拝』の見出しで、『未曾有の国難を乗り切り・・・一億の先頭に立たせ給ふ御決意を護国の
英霊に誓はせられて御帰還遊ばされた』という記事です。
昭和二十年十月二十三日の幣原首相の参拝は、『勅使御差遣 靖国神社例大祭』の見出しで『幣原内閣総理大臣以下二七名』と書かれています。
昭和二十年十一月二十日の幣原首相の参拝は、『靖国神社御親拝』という見出しで、首相の参拝は昭和天皇の参拝の影にかくれています。
この後、同年十二月に占領軍から「神道指令」が出された以降は、首相の参拝はしばらく中断されります。一般人の参拝も、靖国神社の要所に占領軍のMPの見張りが立っていたりして、遺族が恐れをなして大鳥居の辺りから拝むだけということもありました。しかし、昭和二十三年頃からは、交通や食糧事情の好転などにより地方の遺族の団体参拝が増えてきました。
講和条約締結後(条約の締結は昭和二十六年九月で発効は昭和二十七年四月)、首相の参拝が再開されました。この昭和二十六年十月十八日の吉田首相の参拝は、『首相靖国神社へ』の見出しで、一〇行だけの淡々とした記事です。
この年から昭和五十年四月の三木首相の一回目の靖国神社参拝まで、吉田首相が四回、岸首相が二回、池田首相が五回、佐藤首相が十一回、田中首相が五回参拝しています。もちろんこの頃の朝日新聞は首相の参拝を問題や疑問にしていませんし、ほとんどニュースにもなっていません。
それでは、当時の朝日新聞は靖国神社そのものについては、どのように報道していたのでしょうか。
昭和二十七年十月九日に『両陛下靖国神社へ』という記事があります。同年十月十五日の東京版は、『よみがえる靖国神社 日に一万人の参拝 修学旅行の生徒も毎日』という見出しで、昨年秋に講和条約を締結してからは参拝者が激増して、今春の例大祭には百万人の参拝者があったと伝えています。
同年十月十八日は写真つきで『晴れの昇殿参拝 秋晴れの靖国社頭にぎわう』という見出しで「参拝者の足なみはたえず遺族たちが子供の手をひいて「あなたの子供がこんなに大きくなりました」と報告する姿がみられた』と書かれています。
同年十月十八日には、『靖国神社に昇殿参拝 大阪の遺児代表たち』と大阪府から三百人の遺児が上京して参拝した記事があります。当時は日本も貧しかったので地方から参拝するのは大変なことでした。そのため、戦没者遺児の集団参拝というものがありました。
この頃の靖国神社に関する報道をさらに引用してみます。
昭和二十八年七月十日『靖国神社参拝の遺族に国鉄五割引』。
同年七月十日『遺家族の真心実る 靖国神社 北参集所むねあげ式』
昭和二十九年十月十九日『両陛下 靖国神社へ』
昭和三十年三月十九日『ひめゆり部隊も合祀 靖国神社に遺族休憩所完成』
同年四月二十二日『遺族など参拝者で埋まる きょうから靖国神社例大祭』
昭和三十年五月六日『靖国へおまいり比国の未亡人』これはフィリッピン人の戦争未亡人の団体が日本に招かれた時に彼女らの希望で参拝がされたものです。この頃は朝日新聞も、表面上は靖国神社に好意的でした。
首相の参拝は、戦後の新憲法下でも当然のこととされていて、特にニュースにならなかったと述べましたが、実際はどうだったのでしょうか。
昭和二十七年十月十八日には、『靖国大祭始まる』という記事の中に『吉田首相も午後お参りした』という一文があります。
また、昭和三十七年十一月四日の池田首相の参拝は、『記者席』というコラムの中にあります。
『この日の池田首相は、出発までこれといった用事もなく、午前中は明治神宮と靖国神社の参拝へ。春を思わせるような好天も手伝ってか、朝から上きげん。秘書官がそれとなく訪欧の心境をきいたところ・・・』
首相参拝がニュースになったのではなく、訪欧の前の首相の動静の一つとして書かれています。ちなみに、池田首相が靖国神社に参拝したのは、いずれも外国訪問の前日です。
当時は日本が国際社会に復帰してからまだ日が浅く、首相の外国訪問は今より身構えるものがありました。そのため、靖国神社の英霊に参拝して気をひきしめてから外国を訪問したのかもしれません。
他の首相の参拝は、だいたいが靖国神社の春秋の例大祭かその前後の日です。岸首相は年に一度、例大祭の後に参拝し、佐藤首相はほとんどを例大祭の日に参拝しています。
佐藤首相の参拝は、昭和四十一年四月二十一日の夕刊に載っています。
『佐藤首相は二十一日午前九時二十分、同日から九段の靖国神社で始まった春の例大祭に出席、参拝した』この一文だけの小さな記事です。また、昭和四十四年十月十八日の参拝は、首相官邸に学生乱入した記事の一環として書かれています。
『学生乱入の際、佐藤首相は官邸と廊下つづきの公邸で、靖国神社の大祭に参拝のためモーニングに着替え中だったが、・・・。靖国神社へは、さすがにふだんより警備を増強し、計五台のパトカーが前後を守って参拝』
昭和四十五年十月十七日の参拝も朝日新聞の記事があります。『永田町』という首相の動静欄です。
『あさ 首相は十七日朝、雨の中を靖国神社に参拝。訪米で十八日からの秋季例大祭に出られないため』というだけです。この日以降、佐藤首相の参拝は『永田町』欄に載っています。
昭和四十七年四月二十二日が佐藤首相の最後の参拝です。もちろん批判的なニュアンスはありません。
『このあと靖国神社まいりしたが、たまたま来ていた沖縄県遺族団一行と出会って立ち話。「五月十五日もうすぐだね」という首相に、遺族団の代表格が「おかげで祖国復帰できまして」。一行は戦争で夫を失ったという中高年の夫人がほとんどだった』
現在の朝日新聞なら、沖縄と靖国神社の二つを題材にしたら、このようなニュアンスの記事にすることはまずないと思います。
昭和四十七年七月八日の田中首相の参拝は、『引継ぎ・参拝 万事かけ足で』という見出しで、靖国神社参拝については『さらに靖国神社と明治神宮の参拝をすませて』です。以後の二回の参拝も『永田町』欄で短く触れられています。
昭和四十九年四月二十三日は『首相、靖国神社に参拝』の見出しで、『この日の田中首相の参拝は、靖国神社法案衆院委での強行採決で空転していた国会が軌道に乗った当日だけに注目を集めた・・・』との記事です。
全体では十七行の記事になっていますが、首相の靖国神社参拝自体は問題になってなく、靖国法案を問題にしていることがわかります。次の、昭和五十年四月二十二日の三木首相の参拝もニュースになっていません。
昭和二十年から五十年まで、朝日新聞は、首相の靖国神社参拝を問題にしていません。ほとんどニュースにもなっていないのです。戦後の新憲法下でも参拝はあたりまえのことだったのです。息子を戦死させた親たちの多くがまだ元気だった時代です。
もし、その頃の朝日新聞が首相の靖国神社参拝に反対していたら、国民から批判されて大きく部数を減らしていたでしょう。戦争の体験者が少なくなり記憶が薄れて世の中が右傾化してきたので、問題が起ったのではありません。そういう言い方をするのなら、それは逆なのです。戦争の生々しい記憶が薄れてくるに従って、首相の靖国神社参拝が批判されるようになったのです
それでは、いつ頃なぜどのように批判されるようになったのでしょうか。観念や思想からではなく実際はどうだったのか、次回は昭和五十年八月以降を検討していきたいと思います。
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