ゾルゲ事件と大東亜戦争(1)

杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)
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一九四一年一〇月一五日、大東亜戦争開戦の二ヶ月前、近衛内閣のブレーンとして活躍した尾崎秀実がスパイ容疑で逮捕された。ゾルゲ事件の発覚である。その前日の閣議で日米交渉について意見が対立、一六日に近衛内閣が総辞職している。
ゾルゲ事件とは007に出てくる、あの手この手を使って機密事項を盗み出すような、しけたスパイ事件ではない。日本側の主犯尾崎秀実は近衛内閣の最高ブレーンとして、機密事項を把握しているのみならず、政策の決定に大きく関与した大物である。又主犯のリヒァルト・ゾルゲは同盟国のドイツ大使と極めて親しいドイツ人記者でありながら、真実の彼はコミンテルンのスパイだったのである。彼と尾崎は共に共産主義を信じ、コミンテルンに忠誠を尽くす同士だったのである。
ゾルゲ事件に関連し、情報提供者として検挙或いは事情聴取された人・疑惑を持たれた人の中には、近衛の秘書・西園寺公一、戦後も政治家として活躍した衆議院議員・犬養健、等の名が見られる。西園寺に至っては有罪判決を受けている。
軍部では武藤章軍務局長、影佐軍務課長等、統制派の政策決定に大きな影響力を持っていた人が含まれる。武藤章は一九三七年(昭和一二)盧溝橋事件に際して参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張し、中支軍参謀長を経て一九三九年(昭和一四)に陸軍省軍務局長に就任、陸軍を代表し国策に大きく関与した。ゾルゲ事件の発覚により、一九四二年(昭和一七)に近衛(第二)師団長(スマトラ・メダン)に左遷された。更にA級戦犯として処刑されている。
尾崎は世界を理想的な共産主義社会にするため、ソ連への忠誠を誓い、スターリンの指示「日本を徹底的に蒋介石と戦わせよ、その戦いに米英を引きずり込むのだ。その荒れ果てた土地をごっそり共産陣営に頂くのだ」に従った。
産業革命の進行と共に貧富の差が拡大した。それに対し、カール・マルクスは、貧富の差の拡大は資本家が労働者を搾取するためだとする、共産主義を主張した。更に共産主義の最大の悪は、暴力革命・独裁政権の許容であった。
第一次世界大戦の末、ロシア革命により初の共産主義政権が樹立され、全世界に共産主義思想が広まった。日本でも二・二六事件の青年将校の主張は、天皇制護持、国体の尊重を除けば、農地解放、計画経済、クーデターの許容等瓜二つである。又高級官僚、ジャーナリズムの間でも農林省を中心にクーデターや暴力革命を否定するものの、共産主義に好感を示すものが多かった。これは後の企画院事件や戦後の社会党の顔ぶれを見れば分かる。そして彼らは貧困の打開策として大陸進出を主張した。
まさに尾崎の主張と一致したのである。彼らは尾崎の真意を知っていたとは思えない。しかし尾崎は彼らを煽り、利用し、近衛内閣やその他の内閣の政策決定に大きく影響を与えたのである。
尾崎は一九二五年(大正一四年)東京帝国大学卒業、一九二六年朝日新聞社入社、一九二七年(昭和二年)一一月より一九三二年二月まで支那勤務、一九三八年朝日新聞社を退社し、近衛内閣嘱託となった。その後近衛の最高政治幕僚として朝飯会、昭和研究会等で活躍した。
彼は大学卒業時から共産主義にかぶれ、上海在勤中アグネス・スメドレーの紹介によりゾルゲと知り合った。一九三四年来日したゾルゲと旧交を復活し、その諜報団の一員となった。しかし日本共産党とは一線を画し、公安当局の目に入ることを防いだ。
第一次近衛内閣の書記官長に就任した風見章は朝日新聞の先輩である。尾崎が昭和研究会に参加した当時の支那問題研究部会の責任者は風見章であった。その縁で尾崎が此の部会に参加することになってから極めて親しくなり、風見が近衛内閣内閣書記官長就任により、同研究部会の責任者の地位を去ったので、尾崎が同研究部会の責任者に指名された。尚風見は戦後左派社会党の代議士となっている。
又、彼を近衛に紹介したのは西園寺公一と言われる。一九二六年アメリカ・カナダ出張の際船室を同じくしたことから親しくなり、後に毎日のように行き来する親友となった。西園寺は西園寺公望の孫であり、近衛の最も寵愛する秘書であった。戦後共産党の参議院議員となったが、親中派として共産党を除名され中国に住み着いた。尚、この事件で懲役一年六ヶ月、執行猶予二年の判決を受けている。
朝飯会とは近衛の政治幕僚会議であり、当初は月二回、後に毎週水曜の朝、会食しながら時事問題を討議した会で彼はその中心メンバーであった。
昭和研究会は蝋山政道・佐々弘雄、平貞蔵、風見章等が中心メンバーであったが、多くの論客が集まり、全部で一二の部会があったが、彼は支那問題研究部会、東亜政治部会、民族部会の責任者となっている。
尾崎は第一次近衛内閣の総辞職と共に内閣嘱託から、満鉄調査部へ移籍するが、東京支社勤務として、日本の政策決定に引き続き大きな影響力を保持した。
一九四二年二ー三月頃書かれた、尾崎の獄中手記には次のように書いている。(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』自由社二二三ページ要約)
「昭和一二年北支事件が発生したとき、これは必ず第二次世界大戦に発展する。第二次世界大戦の結果、敗戦国は第一次世界大戦の時と同様プロレタリヤ革命に移行する可能性が最も高く、戦勝国でも内部疲弊により社会革命勃発の可能性なしとは言えない。
特にソ連が中立でおればその可能性が極めて高くなると考えていたが、残念ながら独ソ戦が始まった。しかしソ連は必ずドイツに勝つ。その結果ドイツが最も速やかに内部変革の影響を受けると予想する。
植民地・半植民地が独立し、その幾つかは共産主義の方向に進む。
以上の考えを日本に当てはめると、英米との前面衝突は夙に予想していた。その場合日本は枢軸側につくことは既定の事実であった。日本が進むべく道は中国のヘゲモニーを握った中国共産党とソ連の三者が連携し、更に東南アジア諸国を独立させ、これら諸国とも密接に連携していくべきである。」としている。
そして「最後はソ連の力を借り、日本自体の社会主義化を達成する」との趣旨のことを書いている。この文章を読むとき、ソ連に対する幻想を除き、大東亜戦争は彼の書いた筋書き通りに動いている事に驚く。
しかし尾崎の影響力が如何に強かったにせよ、彼は立案者に止まり、政策の決定者ではない。シナ事変の開戦から大東亜戦争の開戦まで、幾つかの節目となった事件がある。これらの事件の真相について考察する。
日独伊三国防共協定の成立
発端は一九三五年一〇月リッペントロップ外交部長が大使館付き武官・大島浩少将に対ソ防御同盟を私的に提案したことに始まった。当時のドイツは、一九三四年よりヒトラーが次第に独裁体制を固めつつあり、八月ヒンデンブルグ大統領が死に、人民投票で九〇%の支持を得、完全に独裁体制を確立した。一九三六年三月ベルサイユ条約の軍縮条項を破棄し、軍拡が始まった。国際的な孤立を恐れるドイツが日本と手を組もうとの思惑であった。
大島浩少将はこれに賛成し、陸軍部内を固め、三六年四月外務省の所管となった。同月中華大使から外務大臣になった有田八郎はこの協定に乗り気であり、駐独大使武者小路公共に命じ、一一月調印に持ち込んだ。日独防共協定である。首相は広田弘毅であった。尚この協定の中身はゾルゲに完全に盗まれていた。(『海外交渉史の視点3』)
翌三七年七月シナ事変の勃発に伴う国際関係の悪化に対処するため、堀田正昭駐伊大使を介し、対英牽制を目標とする日伊協定を始めたところ、駐英ドイツ大使リッペントロップが日独伊三国間の防衛協定とするよう強く主張し、日独伊三国防共協定の成立に至った。大島浩は駐独武官として日本側の中心的な役割を果たした。尚駐独大使・東郷茂徳は反対であったが、陸軍に押し切られた。外務大臣は広田弘毅。まさに尾崎が描いた、日独伊枢軸と英米仏の対立の第一歩であった。
1937年10月〜1938年1月 トラウトマン工作の失敗と第一次近衛声明
一〇月、日中戦争の予期せざる激化に、近衛内閣は第三国による調停を模索した。それに対し日独伊三国協定に関し交渉中のドイツが応じ、駐支大使トラウトマンが中心となり、調停工作が始まった。
尚この頃は日独防共協定があったにも関わらず、ドイツは蒋介石政権を支援していたのである。一九二八年(昭和三年)以来、ドイツは蒋介石政権援助のため、軍事顧問団を派遣していた。当時はファルケンファルゼン将軍を団長として、二〇数人の元将校と一〇人前後の民間人が個人契約により、中国政府に雇用されていた。彼らの指導により、上海戦は日本が大変な苦戦を強いられた。
しかしこの顧問団の存在が、トラウトマン工作を中立的なものとし、一二月七日日本側提案を基礎とするとの合意案が、ディルクセン駐日大使から広田外相に伝えられた。所がこの日は南京攻略戦が発動された日であり、更に一三日の南京陥落により、日本側の条件が一気にかさ上げされた。
そして翌一月九日大本営政府連絡会議、一一日の御前会議で、「シナ事変処理根本方針」が決定された。この決定には蒋介石政権の最終回答期限を一五日と設定したが、この期限に回答が無く、この「シナ事変処理根本方針」が決定された。
ここで注目されるのが、参謀本部が大反対で、多田参謀本部次長は「中国の最終回答を待たず、長期戦に移ることは絶対反対である」と主張していたことである。軍部独裁と言われるが、軍部にも色々な意見があったのである。
かくて一六日有名な「爾後国民政府を相手にせず」との第一次近衛声明が発表され、トラウトマンによる調停工作は打ち切られた。尚これは前年一二月北京に中華民国臨時政府が作られ、三月には南京に中華民国維新政府を作り、分治政策をとろうとしたものである。しかし同時にこの方針の中には、「新興中央政権の成立を助長し、これと両国国交の調整を協定し」と後の汪兆明引き出し工作が暗示されている。
1938年3月〜9月 宇垣外相ー孔祥煕工作
五月二六日近衛内閣の改造により、宇垣一成が外務大臣に就任した。
それより先、三月末国民政府行政院長・孔祥煕(蒋介石夫人・宋美齢の姉の夫)の意を体した使者が、宮崎滔天の一門の松本蔵次と接触してきた。彼は同じグループの茅野長知につなぎ和平交渉が始まった。
茅野ー孔祥煕間でまとまり、次の趣旨の孔祥煕からの書面が出された。
1.日華双方共即時停戦すること
2.日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること
3.日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的に合意するが、具体的には日華両国で協議すること
茅野はこの書簡を持ち、帰国し、板垣陸相、近衛首相と会談し、五月一七日か一八日に上海へ戻った。その時中国側の事情で二,三日待たされた間に松本重治にその報告をした。これが運命の日であった。その後香港で中国側と話を詰め、六月二八日東京に戻った。その間に松本重治、高宗武が上京し、板垣陸相、近衛首相に全く逆の情報を流しており、この茅野ー孔祥煕交渉は挫折した。(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』)
しかし中公新書『宇垣一成』によると、五月二六日入閣した宇垣外相はこの孔祥煕工作にその後も望みを持ち、軍艦上で宇垣ー孔祥煕会談を行う話まで行ったが、九月末興亜院設置問題で宇垣が外相を辞し、この構想は完全に挫折した。この興亜院問題は宇垣外しの目的のようであり、陸軍統制派と宇垣のかねてからの確執にけりを付けると共に、茅野ー孔祥煕交渉の敗北、影佐、松本重治、高宗武による汪兆銘引き出し工作の勝利であった。交友関係より、この影に尾崎がいたことは確実であろう。一一月近衛第二次声明が出され、汪兆明派と日華協議記録が調印された。
近衛内閣の辞職
三九年一月近衛内閣は総辞職し、平沼内閣が発足した。前年一一月汪兆明は重慶を脱出し、ハノイへ到着したが、期待したほどの影響はなく、戦争の長期化、国際的な孤立に政権を投げ出したものである。当時の最大の問題点は、日独伊三国同盟路線と、米英協調路線の対立であった。しかし平沼内閣は陸相板垣征四郎、海相米内光政、外相有田八郎等が留任し、近衛も無任所相として入閣する等、実質的に近衛内閣の延長内閣であった。
日本の中国全土への進出は米英の利権や商権を阻害するため、米英は日本に停戦、現状復帰を要求していた。それに対し、日本は米英に蒋介石支援の停止を要求していた。
これより先三八年三月ドイツはオーストリーを併合し、更にチェコスロバキア、ポーランドと次第に東欧への侵略を進めていた。又イタリアもアルバニアを占領し、領土の拡大を図っていた。
ドイツは日独伊三国軍事同盟の締結を提案してきた。板垣陸相が積極的にこの実現を目指したのに対し、米内海相、有田外相が反対であった。この対立が解けず、日本が入る三国同盟はソ連のみを対象とするとした為、この両国は三九年五月独伊の二国だけで軍事同盟を締結した。
ノモンハン事件
一九二一年ソ連はモンゴル独立軍の要請を受けた形で、外モンゴルに侵入し、外モンゴルを実質支配下に治めた。二五年スターリンはトロッキーを追放し、権力を握った。尚トロッキーが除名され、トロッキー派の追放が始まったのは二七年末である。
一九三九年国境係争地で共にパトロールしていた満州軍とモンゴル軍が遭遇、交戦した。五月一一、一二日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相不明である。
その後係争は次第に激化したが、七月末頃からジューコフ率いる大軍団が次々投入され、日本軍が大敗北を喫したと言われていた。しかし最近ソ連側の資料が明らかになり分かったことは、損害はソ連軍の方が多かったとのことである。しかしシナ事変の最中であり、日本が不拡大方針をとり、動員を押さえ国境線をソ連の主張する線まで引き下がり停戦した。
平沼内閣から阿部内閣・米内内閣をへて第二次近衛内閣の成立
三八年一〇月の広東占領、三九年二月の海南島上陸、六月の天津租界の封鎖と日本は援蒋ルートを次々に封鎖した。これに対しアメリカは七月二六日、六ヶ月後の日米通商条約廃棄を通告してきた。
又八月二三日ノモンハンでの激戦のさなか、ドイツはソ連と不可侵条約を締結した。これは日本に対する裏切りであり、平沼内閣は八月二八日「欧州の天地は複雑怪奇、……別途の政策樹立が必要となった」と総辞職した。後継内閣は阿部信行である。陸相畑俊六大将、海相吉田善吾中将、外相は当初首相兼任、一月遅れで野村吉三郎が就任した。
ソ連と不可侵条約を結び、後方の安全を確保したドイツは、九月一日ポーランドに侵攻した。それに対し九月三日イギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
阿部内閣はなすところなく、一二月末衆議院で不信任決議が行われ、辞任に追い込まれた。後任には米内光政が選ばれたが、米内内閣もなすところなく、七月に辞任した。
米内内閣の主要閣僚は陸相畑俊六、海相吉田善吾が留任し、外相には有田八郎が復帰した。陸軍は英米重視の米内首相に不満を持ち、陸相畑俊六に辞任させた。その上、後任を決定しなかったため、軍部大臣現役武官制がネックとなり、米内内閣は総辞職に追い込まれた。
これに先立つ五月くらいから近衛は新党の設立を模索し始めた。この計画を知った陸軍の武藤軍務局長一派と尾崎一派は新体制政治組織に切り替えを狙い近衛の擁立を策したのである。
そこで再び衆望を担って近衛内閣の再登場となつた。この内閣で東条陸相、松岡洋右外相が登場した。海相は前内閣に引き続き吉田善吾である。この内閣こそ第二次世界大戦を決定づけた内閣であった。まず大政翼賛会を設立し、政友会・民政党等殆どの政党を吸収し、実質的な単一政党とした。その理論的指導を行ったのが、尾崎の属する昭和研究会であった。
日独伊三国同盟の締結
まず日独伊三国同盟の締結である。前年九月始まった世界大戦はドイツが快進撃、六月パリを占領し、フランスは降伏した。この勢いに幻惑され、陸軍を始め日本世論はドイツに傾いていた。又松岡はアメリカ育ちであった。松岡はアメリカとの交渉は強く出るべしと論者であり、英米との対決のため、日独伊三国同盟の路線を選んだ。九月二七日早くも日独伊三国同盟を締結した。これにより日独伊対英米の路線が確定した。
松岡外相は四一年三月独伊を訪問し、ソ連を誘い込み、日独伊ソ四国協商案を持ちかけたが、期待した返事は得られなかった。帰途モスクワにより、四月に日ソ中立条約を締結した。尚この訪欧に尾崎の盟友・西園寺公一が政務嘱託として同行している。
尾崎は検事調書の中で、「(戦争は米英陣営と日独伊との間で行われる。)万一かかる場合になった時に英米の全勝に終わらせないためにも、日本は社会体制の転換を以て、ソ連・シナと結び、別の角度から英米に対抗する体制を取るべきだと考えました。この意味において日本は戦争の始めから、米英に抑圧されつつある南方諸民族の開放をスローガンとして進む事は大いに意味があると考えたのでありまして……」と書いている。(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』自由社)
ところが六月ドイツがソ連に宣戦布告し、ドイツは両面戦争を始めた。しかしここで日ソ中立条約を成立させていた意義は大きい。ソ連は安心してソ満国境に駐屯していた大軍をヨーロッパ戦線に回すことが出来たのである。
この松岡の訪欧中に、二月駐米大使として赴任した野村吉三郎のもと、非公式ルートで「日米諒解案」なるものが作られた。この案に対し、ハル国務長官はハル四原則を提示の上、この四原則をまず受諾した上で、この案を正式に提案すれば、会談の基礎としても良いと答えた。
一方帰国後この報告を受けた松岡は激怒し、とてもアメリカが飲めないような条件につり上げた。
北進か南進か
シナ事変の長期化は米英の支援によるものだと、日本の歴代内閣は米英に蒋介石支援を止めることを求めた。四〇年六月フランスはドイツに降伏し、ヴィシー政権が成立していた。外相に就任した松岡は早速アンリ外相と交渉し、八月三〇日北部仏印進駐の了承を勝ち取った。それに対しアメリカは七月に航空用ガソリン、九月に屑鉄の日本への輸出を禁止した。
アメリカからの圧迫により、日本では蘭印(オランダ領インドシナ)の豊富な資源、特に石油に目を付け、石油資源の購入の交渉を始めたが、四一年六月不調に終わった。その五日後、ドイツがソ連に攻め込んだ。そこでドイツと協力し、一気にソ連を潰そうという北進論と、南部仏印に進駐し、蘭印の石油獲得へ進もうという南進論が対立した。松岡外相は日ソ中立条約締結の責任者であるに関わらず、北進論を主張した。それはソ連の早期崩壊により、北の脅威をまず取り除くべきだと云うものであった。又南に手を出せば、アメリカの反発により、逆に資源をとれなくなると主張している。一方陸海軍は共に資源の獲得のため、南進論を主張した。七月二日御前会議で南進論に決定した。
これこそは尾崎にとって最も欲しい情報であった。尾崎はその二ー三日後西園寺から南進論に決定した事を探り出した。この情報により、ジューコフ率いる大軍は後顧の恐れなく、モスクワの救援に転進し、ドイツ軍を破り、第二次大戦の大きな転機となつたのである。
陸軍はこの方針をカモフラージュするため、満州に七〇万の兵力を集中し、大演習を行った。七月一四日日本はフランスに南部仏印への進駐を要求した。これに対しアメリカは七月二五日在米日本資産の凍結令を公布し、イギリス、蘭印も追随した。それにも関わらず日本は七月二八日南部仏印に進駐した。それを受け八月一日、アメリカは対日石油輸出の禁止を発令した。
その直前の七月一六日近衛内閣は総辞職した。これは松岡外相を罷免するためであり、一八日外相を豊田貞次郎に変えただけで主要閣僚は留任した。松岡の外交政策は余りにもドイツ一辺倒であり、独善的で、近衛や陸軍の信頼を失ったからであるが、今振り返ると松岡の主張が正しかったように感じる。
東条内閣の成立
外相を更迭した近衛はルーズベルトとのトップ会談を模索した。
しかし、八月ルーズベルト・チャーチル会談が大西洋上で行われ、ルーズベルトは近い将来の対日宣戦、ヨーロッバ戦線への参戦をチャーチルに約束している。
尚吉田善吾海相は病気により九月五日辞任し、及川古志郎と交替した。
この頃になると日米開戦の必然性が問題となり出した。九月六日の御前会議で、「一〇月上旬までに目途が立たない場合には日米開戦を決意する」事が決定された。
この一〇月上旬という期限について、永野軍令部総長は「油その他の重要資材は次第に涸渇してくる。一方米国の軍備は急速に増強されている。明年後半になれば彼我の力は大差がつくであろう。開戦が止むを得ないなら、早期に開戦すべし」と主張した。海軍も若手、中堅層を中心に即時開戦論が主流となった。
一〇月二日ハル国務長官は、野村大使に「従来からの要求である四原則の確認と、日本軍の中国・仏印からの撤退を要求する」覚書を手交した。一〇月一二日近衛は私邸の荻外荘に五相(首・陸・海・外・企画院総裁)を招き、懇談会を開いた。その会議前、海軍の軍務局長より、内閣書記官長に、「海軍は交渉の決裂を欲しない。即ち戦争を極力回避して欲しい。しかし海軍としては表面に出してこれを言う訳にはいかない。今日の会議では首相に一任すると言うので、お含み願いたい」と申し入れてきた。この会では交渉成立の見込みの有無について、近衛、豊田が有りと主張し、東条が無しと主張し、意見不一致のまま散会した。(林茂『太平洋戦争
日本の歴史25』中央公論社)
一四日閣議前の近衛・東条会談も不調に終わった。この会談では近衛は「一時屈して撤兵の形式をアメリカに与え、日米戦争を回避した上でシナ事変にけりを付け、無傷の陸海軍を残して、相当の発言権を残しておくことが、国家の為だ」との判断を示した。
それに対し、閣議の席上東条陸相は「アメリカの要求通り撤兵すると、シナ事変の成果のみならず、満州国も瓦解する上、朝鮮の統治も壊滅する事は明らかであるから、無条件で撤兵することは断じて出来ない」と主張した。(今井庄次・安岡昭男編『海外交渉史の視点3』日本書籍)
この日の午後武藤陸軍軍務局長が富田書記官長を訪ね、「どうも総理の腹が決まらぬのは海軍の腹が決まらないからだと思う。海軍が本当に戦争を欲しないのなら、陸軍も考えねばならぬ。しかるに海軍は陸軍に向かって、表面はそういうことを口にしないで、ただ総理一任という。総理の裁断と言うだけでは陸軍部内を抑えることは到底出来ない。しかし海軍がこの際戦争を欲しないと公式に言ってくれれば部下を抑えるにも抑えやすい。なんとか海軍がそういうふうに言ってくるように仕向けて貰えないか」と申し入れた。
富田が岡海軍軍務局長に伝えると、岡は「海軍としては戦争を欲しないとは正式には言えない首相の裁断に一任というのが精一杯である」と答えた。海軍は明らかに責任を回避した。しかし富田は後に、「陸軍もそういう海軍の態度を見越した上で、海軍にそれを言わせようとした。」と言い、「首相は首相で外相の見通しに頼っていたが、外相は判らぬと言うことで、要するに八方塞がりだった」と述べている。(林茂『太平洋戦争 日本の歴史25』中央公論社)
このような責任のなすり合いの末、一六日近衛は内閣を投げ出した。尚一五日にゾルゲが逮捕されている。これについて武藤軍務局長は尾崎の逮捕に反対であったが、東条は近衛追い落としのため、逮捕を主張したと言われる。
後継内閣の東条内閣は、南部仏印からの撤兵と引き替えに石油輸出の再開を条件とする最終案を提出、一縷の望みを託したが、一一月二六日日本の希望を一切否認するハルノートが出され、結局日本は大東亜戦争に踏み切った。
参考文献
・三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』自由社
・林茂『太平洋戦争 日本の歴史25』中央公論社
・江口圭一『二つの大戦 体系日本の歴史14』小学館
・今井庄次・安岡昭男編『海外交渉史の視点3』日本書籍
・参謀本部編『杉山メモ』(原書房、1967年)上、523-525 頁。
・佐藤 晃『太平洋に消えた勝機』光文社
『近代日本戦争史第四編』同台経済懇話会
・原 剛・安岡昭男『日本陸海軍事典』新人物往来社
・ゴードン・W・ブランケ著、千早正隆訳『トラ・トラ・トラ 真珠湾奇襲秘話』リーダーズ・ダイジェスト
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