ゾルゲ事件と大東亜戦争(2)

杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)
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日本に勝機はなかったか。海軍の責任
それでは日本軍の勝算は何処にあったのか。
四一年一一月一五日、大本営政府連絡会議が決定した対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案では次の通りになっている。(『杉山メモ』原書房五二三ページ)
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方
針
一
速ニ極東ニ於ケル米英蘭ノ根拠ヲ覆滅シテ自存自衛ヲ確立スルト共ニ更ニ積極的措置ニ依リ 蒋政権ノ屈服ヲ促進シ独伊ト提携シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図リ米ノ継戦意志ヲ喪失セシムルニ勉ム
二 極力戦争相手ノ拡大ヲ防止シ第三国ノ利導ニ勉ム
一 帝国ハ迅速ナル武力戦ヲ遂行シ東亜及西南太平洋ニ於ケル米英蘭ノ根拠ヲ覆滅シ戦略上優位ノ 態勢ヲ確立スルト共ニ重要資源地域竝主要交通線ヲ確保シテ長期自給自足ノ態勢ヲ整フ
凡有手段ヲ尽シテ適時米海軍主力ヲ誘致シ之ヲ撃滅スルニ勉ム
二 日独伊三国協力シテ先ツ英ノ屈伏ヲ図ル
帝国ハ左ノ諸方策ヲ執ル
濠洲印度ニ対シ政略及通商破壊等ノ手段ニ依リ英本国トノ連鎖ヲ遮断シ其ノ離反ヲ策ス
「ビルマ」ノ独立ヲ促進シ其ノ成果ヲ利導シテ印度ノ独立ヲ刺戟ス
独伊ヲシテ左ノ諸方策ヲ執ラシムルニ勉ム
近東、北阿、「スエズ」作戦ヲ実施スルト共ニ印度ニ対シ施策ヲ行フ
対英封鎖ヲ強化ス
情勢之ヲ許スニ至ラハ英本土上陸作戦ヲ実 施ス
三国ハ協力シテ左ノ諸方策ヲ執ル
印度洋ヲ通スル三国間ノ連絡提携ニ勉ム
海上作戦ヲ強化ス
占領地資源ノ対英流出ヲ禁絶ス
三 日独伊ハ協力シ対英措置ト並行シテ米ノ戦意ヲ喪失セシムルニ勉ム〔中略〕
五 帝国ハ南方ニ対スル作戦間極力対「ソ」戦争ノ惹起ヲ防止スルニ勉ム
独「ソ」両国ノ意嚮ニ依リテハ両国ヲ媾和セシメ「ソ」ヲ枢軸側ニ引キ入レ他方日蘇関係ヲ調整シツツ場合ニ依リテハ「ソ」聯ノ印度「イラン」方面進出ヲ助長スルコトヲ考慮ス〔中略〕
七 常時戦局ノ推移、国際情勢、敵国民心ノ動向等ニ対シ周密ナル監視考察ヲ加ヘツツ戦争終結 ノ為左記ノ如キ機会ヲ捕捉スルニ勉ム
イ、南方ニ対スル作戦ノ主要段落
ロ、支那ニ対スル作戦ノ主要段落特ニ蒋政権 ノ屈伏
ハ、欧洲戦局ノ情勢変化ノ好機特ニ英本土ノ 没落、独「ソ」戦争ノ終末、対印度施策ノ 成功
之カ為速ニ南米諸国、瑞典、葡国、法王庁ニ対スル外交竝ニ宣伝ノ施策ヲ強化ス
日独伊三国ハ単独不媾和ヲ取極ムルト共ニ英ノ屈伏ニ際シ之ト直ニ媾和スルコトナク英ヲシテ 米ヲ誘導セシムル如ク施策スルニ勉ム
対米和平促進ノ方策トシテ南洋方面ニ於ケル錫、護謨ノ供給及比島ノ取扱ニ関シ考慮ス
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出典:参謀本部編『杉山メモ』(原書房、1967年)上、523-525
頁。
要約すれば、東南アジア諸国を速やかに押さえ、自給体制を整えると共に、インド洋の制海権を握り、アフリカ戦線で戦っているドイツ軍と連携し、イギリスを降伏させる。米海軍は日本の近傍に誘致し、これを撃滅させると言う物であった。
当時ドイツのロンメル軍は北アフリカでイギリス軍と激戦を続けており、四二年六月にはエジプト国境を越え、スエズに迫っていた。
ドイツが敗戦し、撤退を始めたのは四二年一一月である。日本軍がミッドウェーやガダルカナルに向かわずにインド洋に向かい、スエズからロンメルと連携を図れば、全く可能性がなかったとは言えない。
シンガポール陥落は二月一九日、ラングーン(ヤンゴン)陥落は三月八日である。降伏したインド軍の中には、インド独立のため、日本軍の一部として参戦を希望した将兵も多数いた。彼らをカルカッタ、ボンベイ(ムンバイ)等にゲリラ兵として送り込み、戦艦大和との連携で港湾施設を麻痺させる事も可能だったかも知れない。
連合軍の大補給路は喜望峰から紅海経由エジプト戦線、パキスタン、イラン経由ソ連、インド経由中国であった。まさにインド洋を押さえれば、ドイツ軍との連携がとれ、四三年一月のスターリングラードにおけるドイツ軍の降伏もなかったであろう。又アメリカからの補給物資が届かなければ蒋介石も悲鳴を上げたかも知れない。
しかしこの文面には豪州と英本土の通商破壊も潜り込ませている。これにより、海軍はオーストラリアとアメリカの通商路の遮断を優先しようとしたのである。
そもそも当初計画は真珠湾攻撃は入っていなかった。これを変更させ、真珠湾攻撃を行わせたのは山本五十六連合艦隊司令長官であった。この真珠湾攻撃は大成功とされ、一気に山本元帥は英雄となった。しかし戦後、この結果アメリカ世論は激高し、戦略的にマイナスであったとの意見も多く出ている。しかし数ヶ月対日反攻が遅れたことも間違いないと思う。どちらが良かったかは私には分からない。
しかし真珠湾攻撃後、海軍は直ちにとって返し、インド洋に進出すべきであった。事実海軍はアンダマン諸島を占領し、セイロン島コロンボに停泊していたイギリス艦隊を攻撃している。四月にはほぼインド洋の制海権を奪った。当初方針通り、ドイツ軍と連携し、インド、スエズにいたイギリス軍に攻撃を集中すれば、イギリスの降伏も夢ではない。そうすればアメリカとの講和の可能性もあったかもしれない。
しかし山本はまたも、永野修身軍令部総長の意向に逆らい、アメリカ・オーストラリアの分断作戦として、ガダルカナルに進出し、インド洋から海軍を引き揚げた。
この結果インド洋の制海権を失い、ドイツ軍は敗退した。一方、この南太平洋戦線にかり出された将兵は敵との戦いではなく、飢えとの戦いとなったのである。この戦いでは五〇万人近くの死没しているが、その大半は餓死であった。これほど大きな作戦の失敗はない。
このような作戦の変更については統帥権の問題であるとして、東条首相も全く関与でなかった。又陸軍と海軍の統帥権は独立しており、全くバラバラであった。更に軍令部の方針と連合艦隊の方針も食い違った。
東条は陸軍大臣、参謀総長を兼務し、独裁者として非難されるが、このような実情から、四四年二月参謀総長を兼務したのである。
海軍の第二の罪は嘘の報道を次々と流したことである。海軍の報道を信ずれば、アメリカ海軍はとっくに壊滅していた筈である。
海軍の戦果の報道により、陸軍は戦術を間違えた。
一例として後期のフィリピン戦をあげる。この戦いでは、陸軍はルソン島に立てこもって米軍を迎え撃つ予定であった。
所が海軍の台湾沖海戦の大戦果により、レイテ島で迎撃することに作戦変更し、かなりの部隊をレイテ島に転進させた。所がアメリカ海軍は殆ど無傷だったのである。猛烈な艦砲射撃により、転進した部隊は壊滅させられたのである。このような事例はここのみでなく、多数あるのである。
第三の罪は海軍は戦っていない。戦艦大和は第一線から引きこもったままであった。何故コレヒドール要塞の攻撃に参戦しなかったのか。艦砲射撃で参戦し、もっと早くフィリピンを陥落させ、蘭印の解放、インド洋の封鎖に廻るべきではなかったかと考える。
第四はレーダー技術の遅れである。シンガポールでイギリス海軍の艦船を捕獲したとき、レーダー技術に驚いた。その目となるアンテナの理論的根拠が全く分からない。図面からYAGIアンテナであることが分かったが、YAGIの意味が分からない。必死に論文を探したところ八木博士の発明した物であったとのことである。このレーダーの技術の差は夜や霧の中では目明きと盲の戦いである。
おまけに後期フィリピン戦で、陸軍が主張するマニラの不戦都市宣言を拒否し、徹底抗戦を押し通した。この結果一般市民に大変な犠牲者を出し、おまけに虐殺事件として国際的に非難する原因を作った。この事は開戦初期のマッカーサーの行動との比較で、大変残念な事であった。
天皇陛下の責任
この大戦で天皇陛下の戦争責任は問われていないが、敗戦まで一貫して詳細な報告を受け、重要な方針は御前会議で決定された。陛下は二・二六事件の時とボツダム宣言の受諾時以外、明確な指示は出されなかったとの事であるが、日本人の常識として、判をついた人の責任は免れない。
陛下が訴追を免れたのは、ボツダム宣言受諾の条件を連合国が守ったためである。ボツダム宣言の受諾は一般に無条件降伏だと思われているが、日本は八月九日、「国体の護持」を条件に受諾を決定し、十日に連合国に伝達した。翌日返答したアメリカ合衆国は、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」「降伏の時より、天皇および日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」と宣言の内容を繰り返してきた。国体がどうなるか曖昧なまま、一四日の御前会議であらためて宣言受諾を決定した。
連合国は天皇の詔勅一本で、あれだけ激しい抵抗をしていた日本軍が、ピシッと戦闘を停止し、整然と武器を引き渡したことに驚いた。進駐してきて、天皇に対する非難が一つも聞こえず、会見した天皇の人柄にもマッカーサーは敬服した。天皇を訴追する事の損得を考えれば、結論は明白である。まさに「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定された」のである。
私は講和会議が発効した昭和二七年四月二八日、戦争責任を取り、退位なさるべきだったと思っている。そして国内・国外を問わず、この戦争で亡くなられた人の慰霊に専心されるべきであったと考える。皇太子も大学に入学された年である。
開戦・敗戦の責任者は誰か
やはり第一の責任者は、第三次近衛内閣を崩壊に追い込み、開戦の決断をした東条首相である。それと共に四一年から開戦まで陸軍軍務局長として、陸軍強硬路線を引っ張った武藤章である。
次いでシナ事変から四一年一〇月まで大半の時期首相として政界をリードした近衛文麿である。特に彼は尾崎がソ連のスパイであることに気づかず、重用した責任は大きい。
又国際連盟の脱退、日独伊三国同盟を主導した松岡洋右が此に次ぐが、彼は職を賭して南進に反対した。彼の主張通り、あの時点でソ連に開戦したらどのようになっただろうか。彼はアメリカとソ連は不仲であるから、参戦しなかっただろうと読んでいた。日本が参戦すれば、モスクワは陥落し、ソ連が崩壊した可能性もある。するとドイツは対英戦争に集中でき、米国参戦の前に勝利した可能性も出てきたかも知れない。
しかし敗戦責任の点では、総理大臣・陸軍大臣と言えども作戦上のことには関与できず、参謀本部総長・軍司令部総長の専管事項であった。特に海軍は米国が急激に軍拡をを行っていることから、早期開戦を強く主張していた。杉山参謀総長・永野軍令部総長の責任である。
又敗戦の責任としては、陸軍より海軍にある。陸海軍合同で、御前会議まで開いて決めた作戦計画をねじ曲げた山本五十六、面子のために嘘の報道を流し続け、陸軍の作戦まで狂わせた海軍の罪は東条首相に匹敵する。組織上の問題として、陸軍と海軍の意思の統一が出来ず、統制部の独立は陸軍大臣、海軍大臣も作戦計画に関与できず、連合艦隊と軍令部の作戦の相違、参謀本部の机上プランと現場指揮官との対立等、反省材料は多い。
終わり
尚、 A級戦犯として死刑になった木村平太郎は四一年一〇月、開戦を必至とした時の陸軍次官としての責任を問われた。板垣征四郎と土肥原賢二は満州事変、シナ事変の責任を問われ、松井石根は南京事件の責任を問われた者である。
参考文献
・三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』自由社
・林 茂『太平洋戦争 日本の歴史25』中央公論社
・江口圭一『二つの大戦 体系日本の歴史14』小学館
・今井庄次・安岡昭男編『海外交渉史の視点3』日本書籍
・参謀本部編『杉山メモ』(原書房、1967年)上、523-525 頁。
・佐藤 晃『太平洋に消えた勝機』光文社
『近代日本戦争史第四編』同台経済懇話会
・原 剛・安岡昭男『日本陸海軍事典』新人物往来社
・ゴードン・W・ブランケ著、千早正隆訳『トラ・トラ・トラ 真珠湾奇襲秘話』リーダーズ・ダイジェスト
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