歴史の虚を見破る
「21ヵ条要求」について考える
(1)

石部勝彦(自由主義史観研究会会員)
|
執筆のきっかけ
自由主義史観研究会の総会のあとで行われた懇親会で、出席者の全員が一言ずつの発言を求められたのでしたが、司会者が私を指名された際、「ご本はどうなっていますか」と尋ねられました。
実は、2005年から私は、「私の大東亜戦争論」と名付けたいと考えている大論文(?)を執筆しておりまして、挫けそうになる私の退路を断つために、年賀状などでその宣言をしてきたのでした。
それが藤岡代表の目にとまり、それを「放談会」で発表してみてはどうかと勧められ、2005年4月、その機会を与えていただき、その論題で発表(?)をさせていただいていたのです。
その論旨は、あの戦争のアメリカの目的は「大日本帝国」を壊滅させることであった、というもので、その根拠として、日本の帝国主義は、西欧列強のそれとは異なって、収奪をするのではなく、支配者の負担によって被支配者の生活水準・文化水準を支配者のレベルにまで引き上げようとする(その結果被支配地の人々は幸せになる)、それが大局的には支配者の利益になると考えるもので、現に台湾と朝鮮はそうなっていたし(台湾の方々はそれを認めてくださっています。朝鮮にはそれ以上のことをしたのに、いろいろ事情があるらしくて現在のところ認められていませんが、この短期間に人口が2倍になったという事実はこれを客観的に証明をしていると思います。)、満州も素晴らしい近代国家に発展しつつありましたから、もし中国が日本と提携道を選んだとしたら、日本を盟主とする日満支共栄圏が成立して繁栄する、それがさらに大東亜共栄圏に発展する可能性がある、これをアメリカは恐れたのではないか、というものでした。それを司会者の方は覚えておられて、その論文はどうなったかと尋ねられたのです。いや実は、アメリカの戦争目的は「カイロ宣言」によると、日本の侵略を制止しこれを懲罰することであり、奴隷状態にされている朝鮮を解放することだとされていますので、そのウソを暴くためには徹底的な歴史の検証が必要であり、これをすることは「東京裁判史観」を覆す作業にほかならないのですが、私なりにこれを始めたところが大変な分量となり、すでに原稿用紙2000枚をはるかに超えるものになっているのに、いつ終わるとも分からない状況に立ち至っているのです。そこで私はそのことを申し上げ、いま「21ヶ条要求」のことを調べているのですが、これが大変なものなのですよ、これは日本が中国に対してひどいことをした最初のものとしてよく取り上げられていますが、そんなものではありません、私が一つ一つ調べてみたところ、無茶な要求などしていません、それどころか、中国側が、日本が要求もしていないことを、こんなひどい要求をしているとウソの内容をでっちあげて発表し、それを聞いて信じた中国の民衆が怒り、反日運動に立ち上がったものである、日本人はそのことをきちんと知らなければならないと思います、というようなことを申し上げたかと思います。するとそのあとで藤岡代表が、そのことを書いてみませんか、とおっしゃってくださいました。私も、これだけでもまとめて発表してみたいという気にはなったのですが、この部分だけで150枚の分量を書き上げています。これを要約することは大変な仕事になりそうです。そこでそれは諦めて、ここでは、私の気がついたことを箇条書きにして列挙してみたいと思います。それは以下の通りです。
「21ヵ条要求」の真実
(1)「21ヶ条要求」という言葉は中国側が意図的に作り出した言葉であって、日本側が強いて言うならば、「4項目、14ヵ条の要求と7ヵ条の希望事項」となると思いますが、そんな言い方を実際にしたとは思われません。
ところがこれは、現在の日本では確立した歴史用語として使われ、歴史辞典にも載っています。これはおかしいと思います。中国側の言うがままになっているのです。日本がこれについて言う必要のある場合には、「1915年の対華諸要求」とでも言うべきだと思います。とくに、日本の希望として言ってみたことを、要求されたと外部に発表する中国側のやり方は不当だと思います。
(2)中国側が日本に強要されたとして発表した「21ヶ条要求」の内容は、日本が要求もしていないウソを混ぜて故意に歪めたものを含んでいたのです。
例えば、「中国の学校では必ず日本語を教えなければならない」、「中国で内乱が発生した時は日本の軍隊に援助を求め、日本によって治安が維持されなければならない」、「全国を日本人に開放し、その自由営業を認めなければならない」、「中国陸海軍は日本人教官を招聘しなければならない」等々です。たしかに、これを聞いた中国人が怒るのは当たり前です。政府がウソをついて民衆を煽る、これは中国の常套手段なのでしょうか。なお、これは国内向けなのでしょうが、中国政府は外部には日本の要求と希望を区別せず、すべてひっくるめて「21ヶ条要求」として発表しました。日本は、希望条項は公表していませんでした。それによりアメリカなどが日本に厳しい目を向けるようになったのです。中国外交の成功でした。
(3)袁世凱はこれを受け入れるときに、自分は仕方なくそうしたのだというポーズを国民に示すために、日本に最後通牒を出してくれるように求めたそうです。
そこで日本政府は彼の面子を立てるために、それに応じてそうしたのですが、それが逆手に取られてしまいました。袁世凱は日本に武力をもって強要されたと、国内ではもとより、世界に向かっても盛んに宣伝するようになったのです。日本は悪者にされてしまいました。これも中国外交の成功でした。日本は外交下手といわれても仕方がありません。しかも袁世凱政府は、これらの要求を受諾した5月7日を国恥記念日と定め、反日運動を煽ったのでした。
(4)日本のこの「対華諸要求」の最大の眼目は、第2号の「南満州及び東部内蒙古に関する件の7ヵ条」でしょう。その第1条は「旅順、大連の租借権と、南満州・安奉両鉄道に関する期限の99ヶ年延長」、第2条は「日本人に対する土地貸借権、所有権の承認」、第3条は「日本人の自由なる居住往来権、商工業従事権の承認」でした。(以下省略)これらは言うまでもなくポーツマス条約によってロシアから譲渡された南満州における諸権益であり、その直後に清国との条約によって承認されていたものでした。ただ問題は、その租借の期間がもともと25年となっていて、1923年つまりあと8年で返還の時期がきてしまうのでした。当時の日本人にとって、満州は極めて大切なものと考えられるようになっていましたから、これをイギリスの租借地の香港やドイツが持っていた山東半島における租借地のように、期限を99ヶ年にしてもらいたいという要求を出したとしても、帝国主義の時代という時代状況を考えれば、少しも無理な要求ではなかったと考えてよいと思います。
現にこれについては中国側もそれほどの抵抗はしなかったようですし、諸列強もクレームをつけることはなかったのです。第2条以下の部分については、やりすぎではないかと思える部分もなきにしもあらずですが、すでに同様のものを中国は北満州においてロシアに与えていましたから、そう考える必要はないのです。すなわち日本にとっての最大の眼目であったこの第2号の要求については、不当なものと言われる筋合いはまったくなかったし、現にそのように言われたこともなかったのです。そしてこのことは、1915年5月に調印された「南満州及内蒙古に関する条約」によって確定されたのです。
ところが袁世凱政府は、この直後の6月、「懲弁国賊条令」なるものを公布しました。これは日本人に土地を貸したものは直ちに処刑するという法令で、日本人の土地取得を妨害するためのものでした。また同時に南満州の官吏に「商租地畝須知」なる秘密の手引書を頒布して、日本人に対する土地商祖の妨害を命じています。このため、先の条約で確定したはずの日本人の土地商租権は、事実上空文と化したのです。これにより南満州に住むことになった日本人の諸活動は著しく制約されることとなり、後の満州事変の原因となったのでした。なおもう一つ、この時点では日本はまだ知らなかったのですが、1896年に露清密約(李鴻章・ロバノフ条約)が結ばれていて、日露戦争を前にしてロシアと清国が日本を仮想敵国とする秘密の軍事同盟を結んでいたのです。もし日本がこれを知っていれば、日露戦争勝利の段階で清国に南満州全体の割譲を要求して当然だったのだそうです。これも知っておきたい知識だと思います。
(5)意外にも大きな論点になったものは第1号の「山東省に於ける旧ドイツ権益の処分について事前承諾を求める件の四ヵ条」というもので、その第1条は「山東省のドイツ利権の処分は日独両国協定に一任すること」となっていました。
これはいささか分かりにくい文章です。私は大きな誤解をしていました。実は私は、この要求は、山東半島における旧ドイツ権益を日本へ引き渡すことを要求したものとばかり思っていたのです。ところが、そうではなかったのです。このドイツ権益とは、1895年の三国干渉で、下関条約で日本が獲得した遼東半島を清国に返還させたことの謝礼として、ドイツがロシアとフランスと共に清国から獲得していたものでしたから、日本には浅からぬ因縁があったというものです。具体的には、膠州湾の99ヶ年の租借権、山東省の鉄道敷設権、鉱山採掘権のことを指します。これらの権益の継承を日本が要求しても不思議ではないと思ったし、そうしたと思っていたのですが、実はそうではなかったのです。
私は調べてみて初めて分かったのですが、実はこれは大変にややこしい話なのです。第1条の文面を読めば「(その)処分は日独協定に一任すること」となっています。これはどういうことかというと、形式的にはその利権の現在の所有者はドイツですから、その処分については戦争の当事国である日本とドイツが、戦争が終わった時点で話し合って決める、こういうことなのですが、ただ本来は中国のものなのですから、そうすることを事前に承知しておいて欲しい、ということなのだそうです。それでは、どうしてこのような要求をしたかというと、かつてポーツマス条約によって日本がロシアの持っていた利権を継承した時には、その直後に日本は清国にその了承を得るための条約を求めなければなりませんでしたので、今回はその手間を省くために事前にその了承を求めておく、こういうことであったようです。
これでようやくこの条項の意味は分かったような気になりましたが、しかし、これですと、日本がドイツの所有していた権益の継承を要求していることには変わらないように思われます。ところが、事実はそうではないというところがややこしいのです。実は、第一次世界大戦で日本がドイツに宣戦した時に、それに先立つ最後通牒の中で、ドイツの租借地を「支那国に還付するの目的を以って」日本に交付するよう求めているのです。それは当然中国側も知っていて、交渉の中でそれを明記するよう求めたようですが、その時日本側は、それはドイツが直ちに応じた場合のことであって、実際に戦争が行なわれた以上はそれを日本が継承するのは当然だと主張したのでしたが、結局、日本側の最終譲歩案の段階でそのことを明記することになりました。こうして5月、「山東省に関する条約」が結ばれて、この問題はそのように一旦決着がついたのです。ところが、これで終わらなかったことに、この問題のさらなるややこしさがあるのです。
1918年9月、日本政府は袁世凱のあとを継いだ段祺瑞政権に西原借款と呼ばれる膨大な借款を提供することになるのですが(この借款は結局回収できませんでした)、その交渉の中で「山東省に於ける諸問題処理に関する交換公文」が結ばれて、これにより日本は山東省における旧ドイツ権益を事実上継承することになったのです。したがって、このことはいわゆる「21ヶ条要求」とは直接の関係はないことなのです。そして、これは1919年のパリ講和会議において、日本の主張する通りに列国により承認されました。なお、この講和会議において、中国代表は、中国はドイツに宣戦したのだから(これは1917年のことで、山東におけるドイツ軍はすでに2年前に日本に降伏しています)山東のドイツ権益は中国に返還されるべきだと頑強に主張し、それが認められないとなると、怒って講和条約の調印を拒否しました。この行為が五四運動という反日行動につながるのですが、これについて論じると長くなりますので、ここではそれを指摘するだけにとどめておきます。そして、さらに後のことになりますが、1922年のワシントン会議で「9ヶ国条約」が結ばれた際に、日本はこの山東における権益を放棄させられました。ずいぶん「骨折り損のくたびれもうけ」をさせられたものだと思います。
(6)第3号の要求は「漢冶萍公司に関する2ヵ条」というもので、第1条は「同公司を日中合弁とし、中国はその権利、財産を日本国に無断で処分しないこと」、第2条は「同公司附近の鉱山採掘権を公司以外に認可しないこと」というもので、何のことか分かりにくいのですが、「漢冶萍公司」とは日本とは古い関係があったもので、湖南省の漢陽を中心とする工業地帯に作られた企業のことで、漢陽製鉄所、大冶鉄山、萍郷炭鉱を合わせたものをそう呼ぶのだそうです。
これは日清戦争の翌年の1896年に設立されましたが、その当時から日本は深いつながりをもち、八幡製鉄所の発展はこの公司の発展と切っても切れない関係をもっていたものなのだそうです。日本からも巨額の投資が行われていたものです。この日本の権益はドイツに妨害されそうになったこともあり、中華民国の成立後は国有化の動きもあって、日本経済にとって死活的重要性をもつこの公司との関係が不安定なものになる危険が生まれていたのですが、そうならないようにと手を打ったのが、この要求の意味なのだそうです。決して不当な要求ではないと思います。
(7)第四号の要求は、「支那領土保全に関する1ヵ条。
中国政府は同国沿岸の港湾、島嶼を他国に譲渡、貸与しないこと」というもので、時代を考えれば、決して不当な要求と言われるものではないと思います。以上で「21ヶ条要求」と呼ばれるもののうちの、「要求」という部分を一通りすべて見てきましたが、これらが何故、「不当な要求」と呼ばれるのか、はなはだ理解に苦しむところです。
(8)実は、問題にされているところは、この諸要求の部分ではなく、第5号の「希望条項についての7項目」にかかわる部分のことらしいのですが、中国側がこの要求と希望とを一緒くたにして「21ヶ条」と言っているところを、私たちは、この部分を明確に区別した上で語らなければならないと思います。
その上で考えるのですが、そのなかで最も問題とされたものは、第1項目の「中央政府における政治、財政、軍事顧問として日本人を採用すること」の部分なのだと思われます。これについては、日本の歴史学者たちもこぞって厳しい批判をされているように思います。ある学者は「中国政府を日本の監督下におき、保護国にすることをねらったもの」として「当時の国際ルールに照らしても理不尽な内容だった」と言われます。また別の学者も「中国を日本の保護国ないし属国にしてしまうような苛酷で尊大な代物である」とほぼ同じことを言われています。なかにはこれを「日本人を大臣にしろと言うようなものだ」とか、「これはまともな主権国家を相手にしたものの言い方ではない」と言われている学者もおられます。
この日本人顧問をおくようにという希望条項は、これだけを見れば、たしかにこれらの批判があたっているように思われます。しかし、背後の事情をもう少し調べてみないといけないと思います。3年前に孫文を臨時大総統とする中華民国が成立した時には、その生まれたばかりの国家はそれはそれは脆弱なものだったのです。孫文はそれをよく承知していましたから、新国家の経営を全面的に日本人に頼ろうとしました。孫文はまず犬養毅を最高顧問に任命しようとしました。しかし犬養は、私を任命できるのは天皇だけだと言って断ったのです。それでも内田良平が外交顧問に、阪谷芳郎(西園寺内閣の蔵相、のち東京市長、貴族院議員)が財政顧問に招聘されて就任したことを始め、多くの日本人の専門家が求められて顧問や秘書となり、新国家の経営に協力し貢献したのです。
この新国家の最大の懸案事項は憲法を制定することでした。担当は法制局長の宋教仁でしたが、彼は早稲田大学で法律を学んでいたものの、この仕事は荷が重過ぎました。そこで彼は東京帝国大学教授の寺尾亨を法律顧問に招いたのでした。中国人留学生のために私財をなげうって世話をしていた寺尾は、この仕事に情熱と意義を感じ、免職を覚悟で大学に無断で南京に飛び、宋教仁を助けてこの仕事をやり遂げたのでした。その他、日本人の軍事顧問など無数にいました。孫文に代わって袁世凱が権力を握り、この時期は孫文の第二革命と鎮圧した直後でしたが、袁世凱政府の内情にそれほど変化があったとは思えません。袁世凱自身にも、坂西利八郎という直隷総督時代からの軍事顧問がついていたし、有賀長雄という法律顧問がいたのです。このように、多くの日本人顧問に支えられてきたのに、どうして急にこの時になって、日本の監督下におくだの、保護国か属国にするものだなどと言われなければならないのでしょうか。日本だって、明治の初期には、大勢の外国人顧問がいたのです。何も不名誉なことではありません。これを、日本から不当な要求をされたと言いふらす袁世凱の態度はおかしいと思うし、それに同調する日本の学者の態度はもっとおかしいと思います。
ただ、この場合、日本側から求めたというところが私の納得し難いところです。私の考えるところ、日本は、差し出がましいことであったかもしれないけれども、近代化に成功した先輩国として、面倒を見てあげようとしたのではなかったでしょうか。それも、プライドの高い袁世凱からは言い出しにくいだろうから、こちらから言ってあげたということだったのではなかったと思うのです。この日本のやさしさが仇になりました。袁世凱にはそれは分かっていたと思います。しかし、その上をいってやろうと、それを逆手に取ったのだと思います。それはまんまと成功しました。日本の外交は、いつもながら、甘かったと思います。あとの6項目については省略します。いろいろありますが、すべて希望なのですから、言ってはならないということではないと思います。
この記事の続きを読む 歴史論争最前線の目次
|