日本の台湾統治と中共のチベット支配

杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)
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日本の台湾統治でまず名前が出て来るのは、後藤新平であり、八田與一である。しかし彼らの影に数多くの素晴らしい人がいたことを忘れてはならない。
最初に挙げるべきは、明石元次郎であろう。日露戦争でロシアの後方攪乱を主導し、日本勝利の大きな要因を作ったといわれる人である。その後朝鮮併合前の内乱では、朝鮮軍憲兵隊司令官として辣腕を奮った。
彼は1918年6月台湾総督として赴任し、翌年10月に病死するまで、彼の治世は僅か1年4ヶ月に過ぎない。しかしこの短い期間に日月潭の大水力発電所と台湾中部の大灌漑設備である嘉南大しゅう(土扁に川)の道筋をつけたのである。
それに先立ち1915年10月下村宏(後に朝日新聞副社長、NHK会長・国務大臣・内閣情報局総裁として活躍、海南と号す)が民政長官として赴任し、「下村宏意見書」をまとめた。この方針の一つとして、水力発電所の適地調査があった。その方針の下、山形技師の命により、八田與一が台湾全土を調査して出てきたのが、日月潭の大水力発電所の建設と、台湾一の大平野でありながら、水利に恵まれない嘉義を中心とする、嘉南平野一帯の大灌漑設備の建設であった。八田は官田渓に大貯水池(烏山頭ダム)を設け、曽文渓からも導水し、嘉南平野南部一帯の大灌漑設備を立案した。この案は山形技師、下村長官の賛同を得て主要部を国費で、枝葉部を受益者負担として、実施することにして、大正7年に上申したが、余りにも巨額のために、内閣の了承は得られなかった。
その直後に台湾総督として着任したのが、明石である。この計画の見直しにあたり、通常の人はどうして費用を削減するかを考える。しかし明石は逆に、台湾最大の河川である濁水渓からも導水し、灌漑面積、受益者を倍増させた。その結果採算ペースに乗り、日月潭の大水力発電所は1919年、嘉南大しゅうは1920年相次いで着工されたのである。
濁水渓の水は台湾最大の湖・日月潭と連係し、濁水渓から烏山頭ダムに至る濁幹線は途中の中小河川と連係し、烏山頭水庫に流れ込む。かくて、かつては洪水、干魃を繰り返した嘉南平野は一大穀倉地帯に変身したのである。
嘉南大しゅうといえば、八田與一と言われるが、この明石の功績を見逃してはならない。明石は1919年日本へ出張の途上病を得て病死するが、遺体は遺言により、台湾に埋葬された。おそらくは首相にもなった逸材だろうと思う。
それと共に忘れてならないのは、それに先立ち日本人技師の調査の安全を確立した、第5代総督佐久間左馬太である。
日本が台湾領有を宣言した1895年頃、漢民族が支配していたのは、海岸に近い平野部だけであり、一寸山に入ると首狩りを風習とし、統治に服さず、部族間で言葉も通じない先住民族が支配していた。高砂族と総称された。彼らとの境界線には一定間隔で屯所を置き、彼らの侵入を防いだ。
この制度は日本統治になってからも続いた。
1900年には彼らによる被襲撃件数四百件、被殺傷者525人に達し、その後もなかなか減らなかった。1906年赴任した佐久間総督は、1908年にはこの境界線に高圧電流鉄条網を敷設し、要所に地雷を埋設し、徹底的な封じ込めを図った。この境界線を隘勇線という。
佐久間はまず帰順を求め、帰順すれば隘勇線を前進させ、帰順しない部族は武力で平定し、次第に日本の支配地を広げた。1914年行われたタロコ族の平定では、佐久間総督自ら先頭に立ち、40メートルの絶壁を滑落し、瀕死の重傷を負った。なお、タロコ峡谷は絶壁の素晴らしさで知られ、現在は台湾東部最大の観光地である。
帰順した地域の治安に当たったのは、警察官であった。彼らは家族で住み、土木建築、教育、医療保険、農業指導等あらゆる事を行った。しかし一旦帰順した部族も一寸したことで、反乱し、1915年から24年までの10年間に、警官及びその家族の犠牲者は死亡499人、負傷796人に達した。しかし次の10年間になると、わずかに死者10人、負傷6人に激減した。つまり高砂族の平定に約30年かかったのである。
そして1941年からの大東亜戦争には日本人の一員として進んで義勇兵の募集に応募し、日本兵として戦った。今や最も親日的な国となって、日本統治を評価してくれている。
一方、チベットは往古は吐蕃(とばん)という独立国であったが、清朝時代清の支配下に入った。清の崩壊により、実質的には独立の自治国となったようであるが、我々少年時代(1940年代)の地図では、中国と同色になっている。当時の中国は動乱の時代であり、中央の支配権はチベットまでは及ばなかったが、国際的には国として承認されるまでには至らなかったと思われる。
1949年、国共内戦に勝ち、中華人民共和国を設立した中国は、周辺自治領の侵略を開始した。1951年にチベット政府と17条協定を結び、チベットは中共支配下の自治国となった。
しかし中国政府との軋轢が重なり、遂に1959年、ダライラマがチベットを追われ、完全に中国の支配下に入って、すでに50年が経っている。最近になり、共産党政府はチベット自治区内に及ぶ鉄道を引き、近代化に努めているようだが、日本の台湾統治50年の実績に比べ、かなり遅れているようである。
私は民族主義には反対であり、異民族に支配されることが、必ず不幸になるとは思わない。しかし何千年の伝統・風俗・習慣は一朝一夕に変わるものではない。彼らの風俗・習慣に配慮しながら、世界共通の国際ルールを遵守させることが必要と考える。その為にはその国に溶け込み、その土地の人と一体となり、生活の向上を図ることが大切である。
イギリスのアイルランド支配をはじめ、西欧諸国の植民地支配を考える時、日本の植民地統治の素晴らしさを痛感する。
この根源は聖徳太子が「神仏融合」を説き、「和を以て尊し」と教えられた17条の憲法に行き着く。この日本の素晴らしさを子供に教え、日本人に生まれたことを誇りに思える人に育てて欲しい
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