歴史の虚を見破る
「21ヵ条要求」について考える
(2)

石部勝彦(自由主義史観研究会会員)
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(9)この「1915年の対華諸要求」(正式には何と呼ばれたのか、私には分かりませんが)は、ある学者の説明によれば、「元老・外務省・陸軍省などの政府、そして在野の要求の最大公約数であり、閣議決定、元老の内諾、天皇の裁可など、正式の手続きを経て起草されたもの」でした。「基本的には、確信をもって、みずからの欲するところを率直に表明した文書」であったと言えます。そして、一部を除いて、ほとんどすべてのマスコミが全面的な支持を表明していたし、新進気鋭の政治学者として知られる東京帝国大学教授吉野作造は、翌年には名高い民本主義の理論を展開することになるのですが、この時発表した論文では、これを最小限度の要求として全面的に支持し、むしろ政府の弱腰を非難していたのでした。つまりこの要求は、当時の日本の官民挙げての一致した要求だったのであり、最高のレベルにおける世論の支持を得ていたものなのでした。しかし、ある学者は、この世論の支持があったことについて、「日清・日露戦争の勝利と韓国併合は、日本国民のあいだに、増長と慢心と独善をひろく育てていたのであった。」と言われるのです。つまり、日本国民全体がすでにこの時点で愚かになっていたということであり、これが「東京裁判史観」に裏打ちされた歴史学界の共通の考え方だと思いますが、ここで別の学者の主張も紹介しておきます。対中国強硬政策を主張する官民の意見に共通するものは、「第一に、中国人は国を統一する能力がなく、日本の支援が必要だという中国侮蔑意識であり、第二に、大戦を利用して、日本の中国に対する優越的地位を確立すべしという火事場泥棒的根性であり、そして第三に、日本の優越的地位を基礎とする日中提携がアジアの平和を維持することになるという身勝手な判断」なのだそうです。これは戦前の日本人全体に対する侮辱です。私は当時の世論がそうであったという事実を重く見たいと思います。
(10)「要求」の内容についての批判はありませんでしたが、政府の交渉のもたつき、とりわけ「最後通牒」を出して認めさせたことについては、多くの非難があったようです。吉野作造の意見もそうですが、ここでは野党の立場にあった原敬のそれを見てみようと思います。原は議会における大隈内閣弾劾演説の中で、「今回のような騒ぎを起こして世界を聳動させずとも、日支親善の道を尽くせば談笑の間にもできたことである。世間はこの外交の失態をはなはだ遺憾に感じている。」と言って政府を非難しているのです。犬養毅も同じことを言っていたそうです。原も犬養も、そして多くの日本人が、「日支親善の道を尽くせば談笑の間にもできた」と考えていたことに注目したいと思います。これを理解するためには、日清戦争以後からこの時期までの日中関係の歴史を知らなければなりません。実は、少なくとも1908年の西太后の死までの日清関係は、きわめて良好で濃密なものであったのです。アメリカのある学者は「黄金の10年」と呼んでいるそうです。この時期、近代化に失敗したと自覚していた清国人は、それに成功していた日本に懸命に学ぼうとしていました。多くの留学生が日本に送り込まれ、政府の要人も日本に視察に訪れ近代文明を吸収しようとしました。もちろん日本側も、それに全面的に応えようとしたことは言うまでもありません。戊戌維新の最中に清国を訪れた伊藤博文は、康有為に最高顧問に就任するよう求められたほどです。義和団事件によって一時中断しましたが、その後の西太后は「西太后の新政」と呼ばれる近代化路線をおしすすめ、日本に学ぶ姿勢を一層強めていたのです。ただこの間、日本が指導する立場になったために、日本側が兄貴意識を持つようになったことは否めないことだったと思います。しかし、中国を侵略しようなどという考えはまったくなかったと思います。頭山満は、「日本と支那は夫婦同然」と言っていたのです。みんな「日中親善」を願い、その道を尽くそうとし、それができると信じていたのです。その後の西太后の死、摂政醇親王の政治、辛亥革命、中華民国の成立などについてここで論及することはできませんが、日本側は介入するわけにはいかず、はらはらしながら見ているしかなかったと思います。それでも多くの日本人は、なかには革命に協力した人々もいましたが、中国が近代国家として成長することに全面的に協力しようとしていたと思います。中華民国の成立時に多くの日本人が顧問として参画したことはその表れでした。そしてこの日本人の協力を中国側は喜んでいるようであったし、日本側もそう信じていたのでした。日本側の大きな誤りは、袁世凱政権になっても、それは変わっていないと思っていたことでした。だから原敬は、交渉がうまく運ばなかったことについて、原因が袁世凱の側にあるのではなく、日本側の交渉のまずさにあると見ていたのでした。まだ袁世凱政権の本質を見極めていなかったのです。私は、ここに最も深刻な問題があったのだと思います。
(11)もう一つここで見ておかなければならないことがあります。それはこの時の日本政府が袁世凱政府を「まともな主権国家」とは見ていなかったことであり、そして実際に「まともな主権国家」ではなかったということです。先ほどある学者の、「これはまともな主権国家を相手にしたものの言い方ではない」という主張を紹介しましたが、実はその通りであったと思うのです。私は、現在の私たちが犯している大きな誤りは、この時期以降の中国が「まともな主権国家」であると思い込んでいることなのではないかと思うのです。そもそも袁世凱政権とは孫文たちが革命によって作った中華民国を乗っ取った政権ですが、その後まもなく孫文の第二革命が起こり、それは鎮圧したものの、全国を統一して支配下においていたわけではないのです。実際、この後間もなく袁世凱は皇帝になろうとし、それに反撥する勢力が第三革命を起こし、その混乱の中で袁世凱は悶死するのです。その後段祺瑞が事実上の後継者になりますが、段祺瑞とて統一国家の統治者ではなかったのです。すぐ近くに馮国璋がいて対抗勢力になっていたし、広東には孫文が広東政府を打ち立てるのです。こんな中国も第一次世界大戦には紙の上だけで参戦し戦勝国になりますが、パリ講和会議には北京と広東の二つの政府の代表が一緒になって参加しているのです。しかもこの代表団は本国政府の訓令に背いて講和条約の調印を拒否し、今度はそれを本国政府が追認するのです。こんな国家を「まともな主権国家」と呼べるのでしょうか。これから間もなく内戦が始まり、それはいろいろ形を変えながら、その内戦は1949年の中華人民共和国の成立まで続くことになるのです。そんな先のことはここでは措いておきますが、ともかく、この当時、袁世凱政府とはこのような政府だったのです。「まともな主権国家」ではないのに、そうであるように振舞おうとします。こちらもそのように対処しなければなりません。そういう意味で、当時の日本政府は大変だったのです。
(12)この時期の日本の中国に対する基本姿勢は「面倒を見る」ということだったと思います。「黄金の10年」以来さんざん面倒を見てきましたから、その延長線上にあったのです。面倒を見ているのだから、こちらの言い分も聞いてくれてもいいではないか、という気持ちもあったと思います。帝国主義時代のことですから、そのなかに帝国主義的要求があっても不思議ではありません。時代の反映に過ぎません。侵略とは次元の異なるものだと思います。ちょうど中小企業の親父さんが従業員を家族のように面倒を見ながらも、経営者である以上その立場からの要求もある、というのと同じようなものではないかと思うのです。私はこの「面倒を見る」という考え方の中に「アジア主義」の思想と重なるものがあるのではないかと思えてならないのです。「アジア主義」とは、アジアの人々が一体となって西欧の侵略に立ち向かおうとするものだと思いますが、いざ手を取り合おうとすると、まわりの人々はあまりにもレベルが低くて、その意欲も能力もないことが分かった、しかし彼らの成長を待っているわけにはいかない、そこで日本が兄貴としての立場からアジアの人々をまとめて面倒を見ようとした、こういうことだったのではないかと思うのです。この「面倒を見る」という立場を東京裁判は「侵略」と見なしたのです。ただ日本の犯した過ちは、このような考えが同じアジア人だから通じるだろうと思っていたことだと思います。中華思想や小中華思想という日本を見下す思想の持ち主であることを軽視していたと思います。先ず袁世凱には通じませんでした。それどころか、彼はある意味でははるかに有能な典型的な中国人だったのです。この日本人の「善良さ」を逆手にとって鮮やかに日本を悪者に仕立て上げることに成功したのだと思います。
(13)この「21ヵ条」をきっかけとして日中関係が悪化したことは事実だと思います。しかし、それを日本側の責任だと考えることは間違いだと思います。これはさらに五四運動につながり、反日運動が激化していきます。これを中国のナショナリズムと見る向きもありますが、私は、それも違うと思います。もしそうなら、それは先ず香港などの租借地や、上海、漢口、天津などの租界に向けられるはずだと思いますが、それはなかったと思います。相手が強すぎて話にならないと考えたのでしょう。弱いものをターゲットとする排外運動など、ナショナリズムの名に値しないと思います。
まだまだ論じたいことがあるように思いますが、思いもかけず長いものになってしまいましたので、ここでやめたいと思います。いずれにせよ、この「21ヶ条要求」の問題が、日本の中国侵略の出発点であったかのように扱われていますが、これは大きな間違いだと思います。専門家による再検証を待ちたいと思いますが、私のこの問題提起が一つのきっかけになってくれれば幸いに思います。
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