沖縄と日本を不幸にする「真逆史観」@
- 全国大会記念講演 知られざる沖縄の真実 -

鴨野 守 (ジャーナリスト)
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◆はじめに
きょうは自由主義史観研究会の全国大会にお招きいただきまして、ありがとうございます。
私は藤岡先生とご一緒に沖縄を訪ね宮平秀幸証言に出合って以後、沖縄には1月に世界日報の取材で行き、2月に文藝春秋の取材で行き、3月に自費で行きました。宮平証言の底の底まで見極めてみたいと願ってのことです。
ある人の証言を聞くとき、一人で聞くのと複数の人で聞くのとでは、まとめる内容がずいぶん違ってきます。なぜならば、とかく証言を訊く人の価値観で聞いて「ここが重要だ」というところに関心を向けてしまいがちですから。その場で出てくる証言を、複数の者で聞いてお互いにどう思ったかつきあわせを
する、表からも裏からもみてみる、あらゆる角度からみてみることが大事です。その点で、藤岡先生はこの集団自決問題の全体像をよくとらえておいでですし、証言のポイントの見極めも非常に的確です。私は私でジャーナリストとしての別の視点から、証言者にいろいろな質問を投げかけながら真実の追求をしております。
ところで、沖縄戦に関する書物は、沖縄を中心に数百冊は出ています。ほとんどが左翼の人たちの書いたものです。沖縄の言論風潮を切り替えていくためには、こちら側の書物を最低でも数十冊くらいは出していかねばなりません。そうしない限り、沖縄の世論を変えることはできません。
藤岡先生は、「従軍慰安婦」のデマをひっくり返すのに10年かかった。だから、沖縄戦集団自決のデマをひっくり返すのにも10年はかかるよ、とおっしゃっています。これから10年のあいだに、沖縄のために沖縄の世論を変えていこうと真剣に考える人たちがもっと結集しない限り、沖縄の世論は100年たっても変
わらないだろうと私は思っています。
住民に銃を向ける日本兵(沖縄平和資料館展示) |
◆沖縄と日本を不幸にする「真逆史観」
私は沖縄の人たちの歴史観は完全に真逆(まぎゃく)だと思っています。 沖縄戦では約19万の日本人が亡くなっています。9万人は軍人で、10万人は住民です。集団自決で亡くなった住民、軍の虐殺によって亡くなった住民、スパイ容疑で亡くなった住民は、(左翼の学者によりますと)約800人くらいだと言われています。集団自決に関していいますと、これは強制されたもので
はありません。強制されて、人は死ぬことはできません。
ところで、19万人から800人を引いた残りの18万9200人の人たちの死の原因は何だったのでしょうか。これらの人たちは、米軍の攻撃を受けて亡くなったのです。
それにもかかわらず、800人の「集団自決」や「虐殺」をさらに歪めて彼らは日本軍の"蛮行"を問題にして書いているわけです。一体、日本の敵は誰だったのか。敵は米軍だったのです。
たとえば後述する琉球新報は日本軍が悪かったように書いていますけれど、当時の日本人のなかにあったのは「鬼畜米英」でした。日本軍や沖縄県民が戦ったのは、紛れもなく米軍でした。
琉球新報の記事の一端を紹介します。
《 自然壕の暗闇のなか、赤ちゃんが一人、二人泣き出した。敵が知るのを心配した日本兵が「黙らせろ」と怒鳴った次の瞬間だった。光がやっと届く暗がりで、斜め座りし、両手で目をこすり泣いていた小学1、2年生ほどのおかっぱ頭の少女に将校が壕の奥から歩み寄った。無言で拳銃の銃口を少女の左のこめかみに当てた。大きな一発の銃声が壕内に響いた。右のこめかみから煙が上がった。少女は声もなく前方へ崩れ落ち、動かなくなった。壕内は静まりかえった。将校は平然と暗闇の奥に消えた
》(2008年6月13日付一面)
でも、おかしくはありませんか。だって「赤ちゃんが泣いているから静かにしなさい」と言ったら「問答無用」でドンとピストルで撃ったという。しかし、そんな大きな音を立てたら米軍に気づかれてしまうではないですか。こういうおかしな記事を平気で書いています。住民が怯えたのは米軍ではなくて日本
軍だった、怖かったのはひたすら日本軍だった、こういう記事が書かれているのです。
琉球新報は、20万の沖縄の家庭で読まれています。一方、沖縄タイムスの購読家庭も20万あります。130万県民のうちの40万家庭で琉球新報と沖縄タイムスが読まれています。重複してとっている家庭が10万あるとしても、30万の家庭で読まれていることになります。一家庭に三人いるとして90万
人の県民が、こういう論調の記事を毎日読んでいるのです。赤ちゃんや寝たきりの老人は新聞を読めないでしょう。つまり、沖縄県民はこの二つの新聞を毎日、教科書のようにして読んでいるのです。
戦後60年間こういう記事ばかりを読まされてきたら、洗脳されないほうがおかしい。これと反対の記事を新聞・雑誌が1、2回書いたところで、沖縄の世論は全く変わりません。
そもそも、当時の日本人の考え方は、特攻隊員への敬意に象徴されるように、自分の命以上のものを守るための死は尊いという考え方でした。日本人が守ろうとしたものは何か。それは国家であり、自分の故郷であり、自分の家族でした。それらを守るために、自分の命を捧げたのです。そして、卑怯な人間で
あること、どこかへ逃げたといわれることを死よりも恥じていたのです。
ところが、今の左翼の人たちは「命よりも尊いものはない」といっています。つまり、死を避けることができるならば、捕虜になってもいい、奴隷になってもいい、とにかく命がなければ何事も始まらないというわけです。これは、戦後の左翼の人たちが主張している生命観でもあります。そういう人からみれ
ば、戦争で死ぬことは無駄死にでしかありません。
私からみますと、こういう命に対する考え方は、当時と今では全く逆さまです。
◆善人と悪人の倒錯
宮平秀幸さんや宮城初枝さんが証言しているように、梅澤隊長や赤松隊長は住民を守るため、住民には「死ぬな。生き延びろ」といっています。また、怪我をした住民たちを助けて治療もしています。
軍の命令について少し述べましょう。
赤松隊長は部下に命じて大事な兵器であるマルレ(特攻艇)を沈めています。赤松隊長の命令に抵抗した兵士も確かにいました。マルレを操縦する訓練を受けてきた兵士たち、爆薬を積んでアメリカの艦船にぶつかって命を捨てる覚悟でやってきた兵士たちにとって、マルレを沈めよと言われることに納得でき
なかったのです。しかし、隊長命令は絶対でしたから、兵士たちはそれに従いマルレを自沈させたのです。
もし赤松隊長や梅澤隊長が、住民を「殺せ」と命令していたとしたら、そこにいる部下はその命令を実行しなければいけません。でも、部下は実行していません。理由は簡単。隊長命令がなかったからです。部下たちが実行したことは何か。怪我をした住民たちを治療してやることでした。
その梅澤さんや赤松さんに対して、大江健三郎は「殺人鬼だ。罪の巨塊だ。アイヒマンのようだ。公開処刑をせよ」と書いています。大江やその同調者たちが言うすべてのことは、梅澤さんや赤松さんが言っていることと180度違います。善人と悪人が逆になっているのです。
もう一つの例を挙げます。かつて太田昌秀という沖縄県知事がいました。彼がやった功績の一つに、摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」の建立があります。そこには、日本軍、米軍、韓国の戦死者たち全部の名前が刻まれた碑があります。実はあの「平和の礎」は、上原正稔さんという方が建立しようと考えて
村長に陳情したのが、そもそもの始まりでした。上原さんたちが太田知事のところに行き、「県も協力してください」と言いましたら、太田知事は「それは俺も考えていたから、お前たちは止めろ。せいぜい蝋人形でもつくれ」といって、上原さんのプランを横取りしたのです。
上原さんたちは、遺族の浄財を集めて建立しようとしていました。ところが太田知事は、全部税金で賄いました。太田昌秀氏は、沖縄を駄目にした筆頭です。ところが、彼は沖縄では今でも英雄です。これも、善人と悪人が真逆になっている一例です。
◆「戦陣訓」と敵兵の民間人虐殺
戦陣訓に「生きて虜囚の辱めを受けず」とあります。こういう皇民化教育があったから、住民が捕虜にならないで自決したのだと左翼の人たちは言います。しかし、戦陣訓の言葉があったからといって、人はその言葉通りに行動するものではありません。その言葉には、それを生んだ背景があり、実態がありま
した。
日清戦争でシナ軍の捕虜になった日本兵は、指を切り取られ、目をくりぬかれ、内臓を引っ張り出され、男の急所を切り取られました。そうしてもがき苦しんで死んでいった日本兵がいて出てきた言葉です。それほどに痛ましく無残な死を迎えるよりは、「生きて虜囚の辱めを受けず」ということなのです。
当時の国民のあいだで「鬼畜米英」という言葉が使われていましたが、これにも理由がありました。サイパン島で多くの日本の民間人がバンザイクリフから飛び降り自殺をしましたが、民間人たちは考えなしに飛び降りたのではありません。その前に、こういう事実があったのです。
すなわち米軍は日系人を通して、「投降しなさい。捕虜になれば、安全です。食糧もあげます」と宣伝しました。それを信じて出ていった日本の民間人のうちの老人や子供を、アメリカ兵は火のなかに放り投げ、赤ちゃんを股裂きにして投げ捨てました。多数の女性たちは素っ裸にされトラックに積み込まれ、どこかへ連れて行かれました。
そういう米兵の姿を山陰などから見ていたサイパン島の住民は、投降できないこと、捕虜になれないことが分かったので、彼らはバンザイクリフから飛び降りたのです。
サイパン島にいた人たちの多くは沖縄出身の人たちでした。サイパン島で生き残った人たちからそれを伝え聞いた沖縄住民は「投降できない」と思ったのです。米兵たちは紛れもなく鬼畜でした。
◆日本軍は沖縄県民を守っていた
沖縄戦に先立つ硫黄島での戦いでは、日本軍は従来の水際で敵を迎え撃つ作戦をとらず、敵を島のなかに誘い込んで洞窟や物陰から攻撃するゲリラ戦法をとり、米軍に多大な損害を与えました。沖縄の日本軍も硫黄島の流儀で戦おうとしましたが、しかし、硫黄島の戦いのようにはいきませんでした。硫黄島には住民はいなかったけれども、沖縄にはたくさんの住民がいたからです。
昭和19年に本土から10万の日本軍が入ってきたとき、「これで絶対に勝てる」と、沖縄の人たちは大喜びしました。ですから、沖縄がやがて厳しい戦場になることを予想していた政府や軍部が沖縄住民に九州や台湾に疎開するよう求めても、住民たちは「嫌だ」と拒みました。それを一生懸命に説得して、やっと
住民たちは疎開したのです。
この疎開には3種類ありました。
一つ目は島外疎開、つまり台湾や九州への疎開です。約8万の県民が島外へ疎開しました。行政が軍に頼み、住民は軍艦に乗って疎開しました。
二つ目は島内疎開、つまり沖縄本島北部への疎開で、数万人が島内疎開をしました。
三つ目は離島住民の疎開。昭和19年の末に南西諸島守備要項がつくられました。
渡嘉敷とか座間味とか石垣島とかいった離島にいる人たちをどうするかという問題への対処を決めたものです。日本軍がいない島に関しては、安全なところに避難しなさいと要項は指示しています。しかし、渡嘉敷島や座間味島には日本軍がおりマルレ(特攻艇)の基地があるような島、軍事機密を外部に知ら
れてはいけない島については、その島のなかの安全なところへ避難しなさい、壕 を掘って隠れなさいと指示しています。
つまり、沖縄本島はいうまでもなく、離島においても、行政と軍は住民保護を徹底してやっているのです。
この住民保護に関連する当時の文書資料は、米軍が全部押収してしまっており、原文は未だに見つかりません。しかし、それを翻訳したものは国会図書館にあります。そこには、住民に「自決しろ」と命じた資料は全くありません。
このように、国家の意思、沖縄県の意思、32軍の意思は住民保護、それしかありませんでした。左翼は軍と住民の「共生共死」が国家の意思であったといっていますが、それは違います。実際に自決をしたのは慶良間諸島の数百人の住民が主であり、沖縄本島の人々はほとんど自決していません。切羽詰
まって、何人かが自決をしたケースはありましたが、数十万という住民は全部米軍の捕虜になっているのです。皇民化教育があったために命を軽々しく投げ出していったということはありませんでした。捕虜になった者の数のほうが圧倒的に多いのです。左翼の人たちは、それに触れようとしません。
昭和20年3月末、米軍は飛行機で慶良間諸島の上空からガソリンを撒き、それから爆弾を落とし、山火事を起こさせ野山や住宅を燃やしたのち、艦砲射撃を加えました。直径20センチもある砲弾がバンバン飛んでくる。住民は、肉体的にも精神的にも想像を絶する限界状況のなかで、「もう生きていけない。米軍に陵辱され、手足を切られ、局部を切られて死んでいくよりは、自ら死ぬほうがましだ」と思いました。より良い死、尊厳死を求めたのです。
座間味島の住民たちは「日本軍は米軍と戦って玉砕するだろう」と思いました。そして、「後に残される我々は、日本人としての名誉や誇りを失う恥ずかしい死よりは、良い死を選びたい。でも、ただ一人で死ぬのは嫌だ。全員が一緒に死ぬのならば、何の心残りもない」という心境になっていました。
村の指導者である村長や助役たちは、村人の願いだから何とかそれを実現したいと思いました。指導者たちの最後の仕事は、集団自決の実行だったのです。ですから、座間味島の助役が梅澤隊長のところに行き最初に言った言葉は「ダイナマイトを下さい。爆薬を下さい」でした。住民を集めて、その真ん中で
ダイナマイトを爆発させれば、あっという間にみんな死ねますから。しかし、梅澤隊長は「駄目だ」といいました。
助役がした第2のリクエストは、「小銃を下さい」でした。この要望に対しても梅澤隊長は「駄目だ」といいました。第3のリクエストの手榴弾も、4番目のリクエストの「猫いらず」も、梅澤隊長は断りました。
◆沖縄戦の教訓とは
左翼の人たちは「日本軍は沖縄を守らなかった。それが沖縄戦から得られる教訓である」と言っていますが、それは違います。軍人は文字通り命を懸けて沖縄と日本を守ったのです。
それが政府の意思であり、軍の意思でもありました。ですから、軍部は戦艦大和を沖縄に向かわせましたし、特攻機を沖縄に出撃させたのです。現場の指揮官たちも、徹頭徹尾沖縄の住民を守ろうとしたのです。
これが沖縄戦の真実です。
梅澤さんは「私は裁判に負けたが、やましいことは一つもない。私は自決命令など出していないから、何の後ろめたさもない」といっています。梅澤さんは「真実は自分にある」ことを知っています。
私がこの問題で藤岡先生と一緒に戦っていきたいと思っているのは、「そこに真実がある」からです。沖縄戦で死んでいった兵士たちも、生き残った人たちも、日本を守ろうとしました。日本軍は沖縄県民に危害を加えようとは少しも思っていません。
それにもかかわらず、左翼の人たちは「日本軍は住民を虐殺した」とか「スパイ容疑をかけて住民を虐殺した」とか「真逆」の報道をしています。このように、沖縄の報道や主張はまったく「天動説」なのです。
長い戦いになるでしょうが、私たちはこの「天動説」を変えていかなければなりません。
※この記事は、平成20年度自由主義史観研究会全国大会で行われた講演に基づいています。
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