沖縄集団自決訴訟控訴審
結審直前の論争で原告側が圧倒的な優位に


藤岡信勝(自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授)

沖縄集団自決冤罪訴訟の控訴審は、9月9日、結審した。大阪高裁における当日の口頭弁論の模様は別項の南木氏の文章を読んでいただきたい。控訴審の最終版では、原告・被告双方から膨大な文書や証拠物件が提出され、激しい論争が展開された。この論争には私も深く関わることになったので、その経過を手短に報告しておきたい。  

昨年の12月21日、一審の大阪地裁の裁判が結審したあと、1月26日に、私は座間味島の証言者・宮平秀幸さん(78歳)に出会った。宮平さんは、(1)梅澤隊長が「自決するな」と村民の解散を命じ、(2)村長がそれを受けて忠魂碑前に集まっていた住民を解散させた、という重要な事実を明らかにした。沖縄のメディアから無視されてきた宮平証言を社会的に公知のものとするため、3月10日、私たちは那覇で記者会見を行った。沖縄タイムスなど地元紙はこの記者会見も完全に黙殺した。  

翌日、沖縄タイムス編集委員の謝花直美氏の講演が那覇市内のホテルであり、その場で私は宮平証言を黙殺する同紙の報道姿勢を糾した。それには答えず、謝花氏は『座間味村史・下巻』に掲載されている秀幸氏の母・貞子の証言と宮平証言が食い違うと言った。貞子証言では、一家は忠魂碑前には行かなかったことになっているからである。  

裁判の方は、3月28日、原告敗訴の一審判決があり、原告は控訴した。原告は控訴理由書の中で宮平証言に言及し、産経の記事、私の『正論』論文、鴨野守氏の『諸君!』論文を証拠として提出した。  

しかし、私は岩波・大江側が早晩、謝花氏の論点を裁判に持ち出すだろうと予想し、その対策として貞子証言の矛盾を詳細に分析した。加えて『小説新潮』1987年12月号に掲載された本田靖春のルポに登場する宮平氏の当時の証言内容とのズレの原因も検討し、意見書として原告弁護団に提出しておいた。  

7月下旬、案の定、岩波・大江側は、貞子証言を村史にまとめた宮城晴美の新たな陳述書まで用意して原告側の控訴理由書に反論してきた。宮平証言の信憑性を否定する被告側の最大の根拠は貞子証言である。  

私は原告側弁護団に依頼されて8月上旬、那覇に飛び、再反論のための証拠を集め、関係者の陳述書をまとめた。論点は多岐にわたるが、決定的な一点だけを紹介しよう。宮平家には、当時6歳の昌子さんがいた。私は、一家が防空壕から出た時の家族の服装を覚えていれば証言してもらえると期待した。晴れ着を着ていれば、それは忠魂碑前で自決するための死に装束を意味するからである。

意外にも昌子さんは、家族の服装だけでなく、みんなで忠魂碑前に行ったこと、そこで秀幸兄さんと合流したことなど、貞子証言を否定し、宮平証言を裏づける決定的な陳述書を出して下さったのである。高裁の裁判官が公正な判断を下す限り、原告勝訴は間違いない。  

なお、判決当日は10月31日。

この記事の前篇に戻る   歴史論争最前線の目次