沖縄と日本を不幸にする「真逆史観」A
- 全国大会記念講演 知られざる沖縄の真実
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鴨野 守 (ジャーナリスト)

◆極限の場で、人間の勇気が試される  

沖縄戦の教訓というと、左翼の人たちは、「戦争は悲惨だ。残酷だ。このような悲惨で残酷な戦争を二度としないこと、それが教訓だ」と言います。  

しかし、戦争から得られる本当の教訓はそういうものではありません。ドキュメンタリー作家の上原正稔さんは言っています。「戦争は最も悲惨な出来事であるけれども、そこに最も美しい人間の物語が潜んでいる」と。  

『月刊ビューポイント』8月号の46頁に「数千人を助けた米須清一氏〜沖縄戦で示された人間性の気高さ」という記事が載っています。この米須さんは、上原正稔さんが取材した人です。  

沖縄住民の米須さんは米軍の捕虜になりました。そして、米軍に頼まれて、沖縄の人びとに投降を呼びかけます。米軍のなかにいた日系人が沖縄の住民に標準語で呼びかけても、普段、方言で話している沖縄の人は、呼びかけに応じてきません。現地の言葉を使える人たちの助けがないと投降させることは難しかったのです。米須さんは、命の危険を冒して数千人の沖縄住民の命を救いました。(『歴史と教育』6月号に詳述)

また、同誌の48頁には、「重傷の兵士を背負い、救出」という記事があります。

これは、山本義中さんという人がつづった手記『沖縄戦に生きて』の中に出て来る感動的な話です


歩兵小隊長だった山本さんは、米軍戦車に肉弾攻撃を仕掛けました。しかし、戦車の砲弾の破片を受けて左手首を負傷し、また右大腿部や頭にも傷を負いました。

その山本さんを担架に乗せて助けたのは、女子挺身隊員の金城芳子さん(当時20歳)や防衛隊員でした。山本さんは5時間の手術の末、一命を取り留めました。しかし、看護婦からは「山本さんは重傷で助からない」と宣告されました。そして、ここにも米軍は迫っていました。  

死を覚悟した山本さんは、金城さんに言いました。「あなたは私に十分尽くしてくれた。責任も果たしたから、あなたは女学生達と一緒に南に行きなさい」。  

しかし、金城さんは、山本さんの命令に従おうとしませんでした。それどころか、金城さんは自分の背中に山本さんを脚絆でぐるぐる巻いて縛りつけ、背負ったままで戦場の中を歩いて南に下り、山本さんを救い出したのです。  

記事の一部を読みます。

《その後、運ばれた南風原陸軍病院24番壕にも敵は迫り、南に下がるよう命令が下される。金城芳子さんは、看護婦から「山本氏は重傷で助からない」と宣告される。しかし、「私は部隊から山本少尉に付き添って行けと命令されたのです。山本少尉が生きている限り離れる訳にはいきません。私は少尉を背負って南へ下がります」と告げる。  

そんな彼女に、山本少尉は語りかけた。「金城芳子、貴女は私に十分尽くしてくれた。責任もこれで果たしたから、女学生達と一緒に南に下がりなさい。金城芳子、ありがとう。私もこれから頑張って自分のことを考える」。  

だが、「金城芳子は、そうは受け取らなかったようだ。また姿が見えなくなった。今度は乾パンの袋を持って帰って来た。袋の中のコンペイ糖を私の口に入れ、自分も口の中に一粒入れてニコッと笑った。その顔が観音菩薩に見えた」。  

金城さんは少尉を背負って行くと言い張り、聞かない。山本氏は泣いて説得した。

自分一人が助かりたいと逃げまどう敗戦の戦場、まして軍司令部までが主戦場を捨てて後退し、陸軍病院が数千人の重傷の患者を壕の中に残したまま後退する。この敗戦の修羅場で、私のような重傷を受け、生ける屍となった患者を、おぶってでも南へ下がるという彼女の言葉に、感極まった私は、「その気持ちだけで沢山。その気持ちだけで十分。芳子さん、ありがとう。私はここで十分だ」と泣きながら礼を言って、「どうか貴女は南へ下がってくれ」と説得した。しかし、金城芳子は頑としてそれを聞き入れない。  

そこに砂山という上等兵が手伝いを申し入れると、金城さんは自分の体に山本少尉の体を巻き脚絆で背負ってしまう。少尉は驚く。  

「この女性は何と大きな女性だ」。  
山本氏は手記の中で、金城さんのことを何度も「観音菩薩」と呼ぶ。この明るく気丈でスケールの大きな沖縄の女性と数人の戦友の力を借りて、山本少尉は6月13日、部隊に合流し、奇跡の生還を果たす 。  

氏の手記には、壕に避難した住民と遭遇する場面も出てくるが、兵士が住民を追い出すような場面は一度もない。住民は兵士にきわめて親切であり、激励を忘れない。  

山本氏は戦場で誓った。

「もし生きて帰れるならば、死ぬまで戦死者の慰霊を続ける」と。  

その気持ちを失わず、昭和23年に沖縄入り。地元の人々と、名前の判明した遺体1000体、不明の遺体1万2000体を収容した。これが、国が予算をつけて遺骨収集を始める契機となった。山本氏は48年3月から62年まで沖縄への慰霊の旅を続け、その数は85回にも及んだ。彼は『沖縄戦に生きて』で、こう書き記している。  

「戦場の具体的な事例をあげて、真実を伝え、決して人に後ろ指をさされるような非人間的なことはなかったことを伝えたい。戦場で沖縄県民が示した人間愛の素晴らしさ、そして、私が沢山の人びとの情けで生き残ったことも知らせておきたかった」》。  

こういう素晴らしい人たちの生き方の記録を残すべきなのか、それとも、沖縄メディアが流す、住民が日本軍によって虐殺されたという記録を残したほうがいいのか。

米須清一さん、金城芳子さんの生き方に表わされるような人間の尊厳、戦争という極限状況のなかで示される人間の気高さや高貴な人間愛を教えるのがいいのか。自ずから明らかでありましょう。


命を懸けた島守 島田叡知事   

また、『ビューポイント』誌の52頁に「すさまじい《同調圧力》一方的「沖縄戦」描写が背景に」という記事を書きました。そこに一枚の写真を載せていますが、その背景を紹介しましょう。  

去る6月28日、糸満市平和祈念公園内の摩文仁の丘に、沖縄最後の官選知事島田叡(あきら)さんの顕彰碑が建てられました。  

昭和20年に知事になった島田さんは46歳でした。大阪府の内政部長であった島田さんがなぜ沖縄に赴任したのか。それは当時の泉守紀沖縄県知事が沖縄から逃げ出してしまったからです。沖縄が戦場となることを察した泉知事は、視察の名目で沖縄を離れ、二度と沖縄に帰りませんでした。そこで、後任を探さねばならなくなりました。そのとき、大阪知事が自分の片腕だった内政部長の島田さんに「沖縄に行き知事をやってくれないか」と頼んだのです。  

1月下旬に島田さんは沖縄に赴任します。島田さんが沖縄県知事として最初にやった仕事は、台湾に行き台湾当局と折衝して米を大量に買うことでした。彼は買い付けた米を沖縄に荷揚げするところまで陣頭指揮でやり遂げました。  

戦争が始まってからのことです。沖縄県庁のある課長が部下に「この命令文書をこことあそこに持って行って伝えよ」と命じました。しかし、その部下は怖がって持って行こうとしません。困った課長が島田知事に事情を話しますと、島田知事は「わかった。君が持って行けばいいのだよ」と言いました。そのように島田さんは責任感と決断力をもち、強いリーダーシップをもつ知事でした。  

島田さんは自分に対しても部下に対しても厳しい方でしたが、反面、心優しい方でした。その例を挙げます。島田さんは、多くの住民とともに壕に避難しました。  

部下が米軍の砲弾が飛んでくるなかをバケツに水を汲んできました。汲んできた水は壕にもどってきたときにはバケツの底のほうにしか残っていませんでした。ある人がそのバケツを島田さんに「どうぞこの水で顔を洗ってください」と差し出しましたら、島田さんは「君たちが命がけで汲んできた水を私は使えません。どうぞあなたたちで使ってください」と押し戻しました。  

狭い壕のなかでバケツを両手にもった女学生がやってきますと、島田さんは体を壁に寄せて女学生を通しました。「そういう島田さんの優しさに感動しました」と、戦争が終わってから女学生たちは語っています。  

島田さんの責任感溢れる仕事ぶりや献身的な生き方は人々の記憶に残りました。そして、63年後の今、卒業生や同窓生たちによって島田さんを顕彰する碑が「島守の塔」のそばにつくられたのです。  

沖縄から逃げた泉知事にもし子供さんがいたとしたら、その子供さんは親をどう思ったでしょうか。「あなたのお父さんは戦時中どこにいましたか」と訊かれて「沖縄です」と答える。「沖縄は大変でしたね。よく助かりましたね」と同情されたら、子供さんはどう返答するのでしょうか。  

知事としての大事な任務を放り投げ、沖縄から逃げ出して生きのびた泉さんのような生き方を子供たちに教えるほうがいいのか。それとも、命懸けで沖縄県民のために自分の任務を全うした島田さんのような生き方を教えるほうがいいのか。これは沖縄の将来を左右する大きな問題です。  

島田さんを顕彰する碑が63年後の今、沖縄の地に建った意味を考えなければなりません。大きな犠牲のあったあの戦争から汲み取ることのできる教訓は、そういうところにあるのではないでしょうか。


◆歴史から何を学ぶべきか  

私たちの人生のなかには、愛する家族が病気で死んだり、不慮の事故で亡くなったりすることがあります。仕事を頑張ってもうまくいかないことも、信じていた人に裏切られることもあります。しかし、どれほど辛いことがあったとしても、日常生活のなかで砲弾が飛んでくるとか、砲弾に当たって死ぬといった63年前の沖縄に起きたような極限状況は起きません。  

戦争を戦った人たち、戦争で死んでいった人たちの生き方から汲み取れることは何でしょうか。

今、世間を騒がせているように、「仕事をクビになったから、誰でもいいから殺したかった」とか、「相談に乗ってくれなかったから親を殺した」とか言う若い人がいます。  もし彼らが中学生のとき高校生のときに、かつての戦争の極限状況のなかで示された日本人の誇り高い行動の一つでも教わっていたならば、そして「ああ、こんな素晴らしい生き方を自分もしてみたい」と思っていたならば、たとえ失業したとしても、親から勘当されたとしても、恋人に振られたとしても、他人から誤解されたり誹謗されたとしても、その鬱憤晴らしに弱い者を刺したり人を殺したりする気にはならないでしょう。  

そういう時こそ、「ああ、先輩たちは死ぬほどの苦しみのなかであれほど頑張ったのだから、自分もこの試練を乗り越えて行こう」と思うのではないでしょうか。大きな犠牲を払ったあの戦争から得ることのできる教訓は、こういうものでなければならないと私は思います。

6月23日は、沖縄戦の慰霊の日になっています。東京大空襲などの無差別爆撃で、期せずして亡くなった人たちには、慰霊が相応しいかもしれません。  

しかし、沖縄戦で亡くなった人たちには、慰霊ではなく顕彰こそが必要なのです。  
「あなたがたはよく戦った、よく頑張った」と讃えて顕彰するとともに、現在、生かしていただいている自分は一生懸命に生きますと誓わねばならないのです。

あの戦争を戦い、生き延びた中條高徳さんも言っていますが、死んでいった仲間たちに対して「私は、自分の昇進や栄耀栄華のために生きることは絶対にしない」と誓うことが大事です。亡くなった戦友に祈り、「生き残った自分は彼らに対して恥ずかしくない生き方をしよう」と誓うことが大事です。


◆沖縄戦を戦った方々に顕彰を  

繰り返して言います。沖縄で亡くなった19万の軍人と住民のために必要なのは慰霊ではなく、顕彰です。  

「あなたがたは見事に戦った」と顕彰しなければならないのです。そうしないと、亡くなった方々の心は安まらないと思います。  

今年の7月、私は沖縄に行きました。そのとき、私がマニラでお世話になった屋良朝彦さんという方に会ったときの話です。  

彼は「私の母は戦時中じつは対馬丸に乗る予定でした」と語り始めました。  

屋良さんのお母さんは事情があって対馬丸に乗りませんでした。乗らなかったからお母さんは結婚し、屋良さんが生まれたのです。屋良さんはフィリピンで結婚した奥さんと一緒に沖縄へ観光旅行に、今回初めて来ました。「私がこうして自由に観光旅行ができるのも、母が生き残ってくれたからです。そして、多くの尊い犠牲があったから、このように平和な生活をすることができるのだと思います」と屋良さんは言いました。  

屋良さんだけのことではありません。沖縄戦で亡くなっていった人たち、いや大東亜戦争で亡くなっていった人たちのお陰で、私たちは、今このように平和な世に生きている。  

サイパン、硫黄島、フィリピンなどの島々で、そして沖縄や内地で国を守るために戦い亡くなった人たちのお陰で、今日私たちの命があり生活があるのだということに感謝していかねばなりません。  

国を守って戦おうという人たちを讃えないならば、わが国は滅んでいくしかありません。  

国を守ることはナンセンスだと言われ、国のために死んでも、「犬死にだ」と言われたら、いったい誰が国を守る自衛官になろうとしますか。  

国の治安を守ろうとする人たちに、国民が敬意を表さないならば、誰が警察官になりますか。誰が消防士になりますか。そこのところを正さなければいけないのです。 私はある心理学者に「なぜ文部科学省は、大切な道徳や徳育をきちんとおこなおうとしないのか」と聞いたことがありました。彼はこう答えました。

「今の国のリーダーは60代から70代である。この世代の人たちは、戦争の時せいぜい10代かそれ以下の少年だった。そういう少年時代に起こった戦争についての体験は被害者体験でしかない。それに対して、80代の人たちは、戦争に主体的に関わった人たちである。『俺たちは力が足りなくて負けた』と他人のせいにせず、運命を受け入れている人たちである。しかし、その一つ後、二つ後の世代は、『父が死んだ。母も死んだ。なにか訳の分からないうちにみんな死んでしまった』と思っている。沖縄でリーダーシップをとっているのは、こういう被害者体験をもつ世代の人たちである。だから彼らは皇民化教育が悪かったとしかいわない。『国が一丸となることはよくない』と思っているこういう人たちに『道徳教育をしっかりおこなってください』と要求しても、受け入れられるのはまず無理である」  

これでは、「国を愛するな」、「先人を信ずるな」と教えているようなものではありませんか。お前の先祖は強盗だった、悪人だった、殺人鬼だったと子供に教えていて、その子供に「立派になりなさい」などと誰がいえますか。  

日本の左翼は、今、みんな沖縄に集まっています。左翼は「南京大虐殺」問題で負けました。「従軍慰安婦の強制連行」問題で負けました。あとは、「沖縄問題」にすがるしかないのです。それで、沖縄問題に革マルや左翼団体が照準を絞っています。左翼にとって沖縄は最後の砦です。だから、大江裁判でも、彼らが必死で応援しています。この最後の砦を崩されてなるものかと、彼らは結束してやっています。運動家もたくさんいます。それに異を唱える我々の数はまだまだ少ないのが現状です。そう考えますと、今後のなりゆきがどうなっていくか、楽観はできません。  

しかし、沖縄の「真逆史観」をただし、日本国民に沖縄県民への顕彰の気持ちを思い起こさせることができれば、事態は必ずや変わると信じています。(完)

※この記事は、平成20年度自由主義史観研究会全国大会で行われた講演に基づいています。

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