南京事件論争のポイント

上杉千年(日本教師会教育基本法改正運動特別委員会委員長)
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1.「南京大虐殺事件」の定義
南京事件論争の最初のポイントは、国際問題化した折の南京大虐殺(南京大屠殺・南京暴虐事件)の定義を確認することである。
中国側の主張は、『証言・南京大虐殺』(南京市文史資料研究会編の訳本。青木書店、昭和59年刊)に示す、〈6週間におよぶ〉大屠殺で〈無辜のわが同胞で、集団殺戮に会ひ、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は19万人以上に達し、また個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬された者は15万人以上、死者総数は計30余万人に達した〉としている。
これは、極東国際軍事裁判(東京裁判)での主張である「被殺害確数 34万人」、その証拠としての「崇善堂埋葬隊埋葬 112,266人」「紅卍字会埋葬班埋葬 43,071人」等を要約したものである。
そして、東京裁判の判決は、「南京暴虐事件」に対して、〈最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であった〉。その根拠として、〈埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている〉とした。
また、この事件の責任者松井石根大将に対する判決では、〈この6、7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され〉たとしている。まさに、バナナのタタキ売り的な判決である。
そこで、我が国の大虐殺派の教祖的存在の元早大教授洞富雄氏は、『決定版・南京大虐殺』(徳間書店、昭和57年12月刊)で、〈20万人をくだらない中国軍民の犠牲者が生じた〉(145頁)とし、その軍民比率について、〈一般市民の犠牲者数を10万人と推算するのは、あるいはやや大量にすぎるかもしれない。それは7万人ないし8万人とみるべきであろうか。それにしても、その差3万ないし2万は、かわりに兵士の犠牲者数に加えられることになる〉(152頁)としている。
その洞説を中学歴史教科書に最初に採用し日教組等の圧倒的な支持を得たのが『東京書籍』(歴史702。昭和56年〜58年度使用本)であって、〈数週間のあいだに、市街地の内外で多くの中国人を殺害した。その死者の数は婦女子・子どもをふくむ一般市民だけで7〜8万、武器を捨てた兵士をふくめると、20万以上ともいわれる〉と紹介した。しかし、平成9〜13年度使用本になると「約20万人」とし、14〜17年度使用本では、「大量に」と表記し、洞説の詳細な紹介をする教科書は姿を消した。
要するに、大虐殺派の虐殺人数は、故意か偶然か、東京裁判の判決人数と同様である。
2.慈善団体の埋葬数の信憑性崩壊
洞氏は、『南京大虐殺の証明』(朝日新聞社、昭和62年4月刊)で、〈私は、紅卍字会と崇善堂の両埋葬隊が:::埋葬した際の記録内容の信憑性を信じている〉(154頁)としている。
そこで、紅卍字会の埋葬表の「城内 1,793体」「城外 41,278体」については、大阪朝日新聞の「北支版」(昭和13年4月16日付)にも「城内 1,793体」「城外 30,311体」を紅卍字会が処理したと報道されていて信憑性があるとされてきた。
ところが、この埋葬作業を指揮していた南京特務機関員の証言である『南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想』(亜細亜大学日本文化研究所『紀要第2号』、平成8年3月刊)によると、〈この統計表は:::作り替へられたものと考へられます。::少なくとも1万8000体以上の過大計上があると見てよいのではないかといふのが私の結論になりますね〉(85頁)とある。
勿論、崇善堂埋葬表の「城内 7,548体」「城外 104,718体」は、阿羅健一著『架空だった南京大虐殺の証拠―謎の「崇善堂」とその実態』(「正論」昭和60年10月号)で、架空の埋葬表であることが指摘されていた。
この架空説も丸山証言でさらに立証された。それは、〈紅卍字会は陳漢森といふ立派な指導者に率ゐられた能動的な社会慈善事業団体であることが判明しました。そこで、この作業を紅卍字会に一括して委託することになった訳です。後になって、崇善堂その他の弱小団体から作業の申し込みが自治委員会にありましたが、そのことは紅卍字会に任せてあるから紅卍字会の方に言って欲しいと伝へて、自治委員会では受け付けなかった訳です〉(80頁)と明言してみえる。
3.残留市民は20万人から25万人
南京の人口については、民国25年(昭和11年)6月の南京市政府調査では97万3000人(うち城外の三郷区の人口は約10万人)であって、約100万人説である。当時、我が国の百万都市は名古屋市・京都市である。
そこで、板倉由明著『追跡!「南京大虐殺」の数字的研究』(「ゼンボウ」昭和59年3月号)の南京残留一般市民の数」をみると、城内地図で精密な人口地図を作成した結果、〈いいところ40万〉と推計している。
それはさておき、洞氏は『決定版・南京大虐殺』で、証拠を示さず、〈南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた市民の数は35万人ないし30万人であったといわれている〉(151頁)としている。
さらに、最近では、都留文化大学教授笠原十九司氏は『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房、平成12年刊)の第五章の中の「南京の人口は20万人だったというウソ」の論文で、〈南京攻略戦が開始されたときは、南京城内にいた市民、難民はおよそ40万から50万人であったと推測される〉(86頁)としている。その論拠の一つが昭和12年11月23日の南京市政府の〈本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である〉をあげている。
しかし、11月27日の〈市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っている〉(『南京事件資料集 1 』、90頁、青木書店、平成4年10月刊)とある。そして、12月8日に南京の全城門を閉鎖し、住民には南京安全区国際委員会の設定した難民区への集結を命じている。
そこへ、12月13日に南京城を占領すると、14日に小隊歩哨・下士歩哨・歩哨までも配置して警備し、無用の将兵の出入を禁止した。よって、難民への組織的な虐殺行為の発生余地は皆無となった。
従って、前記板倉論文にみる如く、国際委員会報告の人口動態は、12月17日、21日、27日が20万人である。そして、佐々木旅団による12月24日よりの兵民分離査問工作により「敗残兵約2,000を摘出して旧外交部に収容した」。ここに難民の実態が把握されたとみえ、1月14日以降の報告数は25万人となっている。
当然のこととして、国際委員会報告の日本兵による殺人は「49人」(板倉論文。昭和59年10月号)である。
4.守備兵力は、8万1000か15万人か
南京守備兵力は、南京戦当時と東京裁判の判決でも「約5万人」としている。そして、偕行社『南京戦史』は、〈戦死 約3万人、生存者 約3万人、撃滅処断 約1万6000人、合計約7万6000人〉(この数字は重複あり、約6〜7万人との説あり)とした。
また、南京衛戍司令長官部参謀処第一科長・譚道平氏の『南京衛戍戦史話』(東南文化出版、1946年刊)では、〈戦闘兵 4万9000、雑兵 3万2000、合計8万1000〉とある。即ち、『南京戦史』と譚説とほぼ近似していて、その差は誤差の間である。南京戦当時の「約5万人」とは戦闘兵のことであることが判明した。
しかるに、宇都宮大学教授笠原十九司氏は昭和62年の訪中の折に江蘇省中国現代史学会秘書長・孫宅嶷氏より、〈南京防衛軍約15万のうち、最終的に蒋介石のもとに戻って来たのは約5万人である。残った10万人の中で、約1万人が抵抗の中で犠牲になった戦死者である。::あと、1万人たらずが撤退のさい逃亡兵となって脱出したと考えられる。残りの8万人余の銃を捨てた兵士が、敗残兵、投降兵、捕虜として虐殺された〉との講話を聞いた。そして、この〈8万人余の中国軍兵士が日本軍の南京大虐殺の犠牲になったという孫宅嶷説は、:::納得のいく数字である〉(朝日新聞社、昭和63年12月刊『南京大虐殺の現場へ』所収の『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』112〜113頁)としている。
この孫説は、『南京保衛戦双方兵力的研究』(江蘇省歴史学会編『抗日戦争史事探索』所収、上海社会科学院出版社、1988年刊)で、譚道平作成の南京保衛軍の兵力表を「水増して」作成したもので、〈この「倍率(1.85倍)を譚参謀の総兵力8万1000に掛ければ15万という数が出る〉(自由主義史観研究会編、平成7年9月刊『「近現代史」の授業改革1』所収の板倉論文『「南京大虐殺20万」説への反証』)という水増し説である。この批判は、『軍事史学』(平成2年6月)に板倉氏が『南京事変の数量的研究』で公表されて以来、笠原氏は無視し続けているものである。
5.ティンパーリーとスマイスの正体
南京戦当時の実情・実態を記録したというH・J・ティンパーリー編『戦争とはなにか―中国における日本軍の暴虐』と、L・S・C・スミス(スマイス)編『南京地区における戦争被害』(共に、昭和60年11月、青木書店刊。洞編『日中戦争南京大残虐事件資料集第2巻』所収)は高い評価を受けていた。時にスマイスの戦争被害調査は、南京事件派より南京大虐殺批判の好材料とされていた。しかし、筆者(上杉)は、城内の被害の「死亡 2,400人」「拉致 4,200人は過大と批判し続けてきた。
大阪学院大学教授丹羽春喜著『「スマイス調査」が内包する真実を探る』(自由社刊「自由」平成13年4月号)によると、日本軍による「市民殺害 606から720人」「市民拉致 880から1,320人」と分析されている。これでも筆者(上杉)はなお過大と推測していた。
この過大な拉致実態が誕生した理由が、立命館大学教授北村稔著『「南京事件」の探求』(文春新書、平成13年11月刊)より判明した。
それは、中国国民党中央宣伝部顧問でもあったティンパーリーを通じての〈要請と資金提供のもとで書かれた〉のがこの『スマイス報告』であることが判明したからである。
6.歩七の便衣兵処刑
金沢・歩兵第七連隊の12月14日から16日までの難民区掃蕩作戦で摘出した「6,670人」の便衣兵処刑は、「裁判ヲ経ルニ非サレハ、之を罰スルコトヲ得ス」の戦時国際法違反とする説は机上論である。
国際法の予想外の中国の「便衣兵」であり、非はこうした「便衣兵」という存在を生んだ中国側の無軌道さにあるものである。即ち、7、8割の責任は中国側にあり、従って、大虐殺の事例にカウントすることは適当でない。
7.「朝日」すら見放した大虐殺派
偕行社『南京戦史』(平成元年11月刊)が刊行されると、大虐殺支持の朝日新聞も平成3年1月19日夕刊の「窓―論説委員室から」で秦郁彦氏の「中間派」支持の「転向声明」といってよいものを発表した。そして、秦氏の約4万人説も『南京戦史』により歴史的学説化してきた。
また、南京大虐殺の最大の目玉資料といわれた『中島師団長日記』も上杉著『「南京事件」歴史教科書の記述―今、何が問題か』(『「近現代史」の授業改革2』 平成7年12月刊)で紹介した如く、その資料的価値は喪失している。
なお、筆者(上杉)は、「諸君!」(平成13年2月号)の『「南京事件」最新報告』を総括した『南京論争の忘れもの』(「自由」平成13年5月号)と『歴史教科書の検定と外圧』(國民會館叢書、平成13年10月刊)で南京問題をまとめ
ているので、御一読を乞う。
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