特別出張ゼミナールの記録
明治憲法の思想

八木秀次(高崎経済大学助教授)
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※司会進行 藤岡信勝代表
藤岡:今回はゼミナール2回目として、八木秀次先生の御著書『明治憲法の思想ー日本の国柄とは何かー』をテキストにして勉強したいと思います。
以前、会報にも書きましたとおり、私はこういう本が出ないかな、とかねてから思っておりましたが、私の希望にぴったりのことを八木先生が書いて下さいました。
私たちが明治以降の歴史、戦後日本の歴史を理解する上でも、明治憲法を正しく理解し、歴史の中に位置付けることは大事だと思います。
これをしないと戦後に植え付けられた観念から我々が自由になり、または明治憲法と日本国憲法の連続性と違いを見ることができない訳です。
その意味で、戦後教育で歪められた明治憲法につき、学問的な根拠に裏付けられ、誰もが手に取れるように分かりやすく書かれた本書の出現を嬉しく思っています。
最初に八木先生よりお話をいただいてから、出席者からの質問に入りたいと思います。それでは、八木先生、よろしくお願いします。
見過ごされてきた明治憲法の理念と真価
八木:本書の構想は学生時代から持っておりました。現行憲法の制定過程を勉強していた時、占領期にわが国の憲法学者の大半は、明治憲法改正の必要はないとの意見であったことを知りました。中でも美濃部達吉は、昭和十年の天皇機関説事件で社会的に葬り去れた人物であるにもかかわらず、憲法改正の必要なし、として明治憲法を守った。この事実は何なのか、ということに興味を覚えたわけです。
最初は美濃部に興味を持ち、それから明治憲法の制定過程、明治憲法下の憲法学者の見解を研究しましたが、これが大学院時代の半分のテーマでした。本書はその中間報告としてまとめたものです。
歴史学の方面では明治憲法を「アジアで最初の近代憲法」として高く評価される方もおられますが、憲法学では保守的立場の研究者ですら明治憲法を「過去の遺物」と見なしている。そのギャップは興味深いと思います。
学校教育でつくられた明治憲法観は、講座派の歴史観の影響もさることながら、戦後憲法学をリードした宮沢俊義の「神権主義」という言葉から来ています。明治憲法下の政治は天皇が神の意思により日本を統治するものであり、「8月革命」により現在の国民主権主義に変わった、というものです。これは明治憲法の実態からすると甚だ間違った理解です。
今、国会に憲法調査会が設置され憲法論議がおこっていますが、日本人が最初に自前でつくった憲法を参照せずして何が憲法調査か、と私は思います。
本書で言いたかったのは、明治憲法が保守主義という思想によって作られたという点です。それぞれの歴史の過程の中で徐々に形成されてきたものに価値を置くという発想です。
伊藤博文はウィーンでシュタインから歴史法学を学び、「憲法は貴方の国の歴史や伝統の上に成立するものでなければならない」と教わります。また、井上毅は憲法起草にあたり国典研究を重視し、金子堅太郎はエドマンド・バークの思想に触れ、日本の保守主義思想に大きな影響を与えます。
この3人が別々の経緯から保守主義、歴史法学に目覚め、その成果として出来たのが明治憲法です。
シュタインの伊藤への教えにあるとおり、明治憲法の起草者らが重要視したのはこの点です。近代憲法として、西洋の最新の政治理論・憲法理論を取り入れるに当たっての基本的姿勢として、日本の政治伝統を重視したわけです。
この政治伝統というのが天皇統治です。その概念には二つのものが入ります。一つは公議世論の尊重であり、これが五箇条の御誓文、自由民権運動、議会政治へと連なります。 もう一つが民の福祉の増進です。明治憲法の起草者も、それと対立した自由民権運動の指導者もそうした理解をしていたわけです。この認識の下で、方法論は違いますが、目指すべきところは共通していたことを本書では強調したかったのです。とりあえず、本書を書いた趣旨、強調したかった点を申し述べさせていただきました。
藤岡:有難うございました。それでは早速、質疑に入っていきたいと思います。今回はアットランダムにやっていきたいと思います。どの場所でも結構ですので、質問や感想を述べていただきます。
伊藤博文から次世代への継承
S氏:金子堅太郎の政治史的位置付けに疑問があります。本書では1935年の天皇機関説事件につき、「明治憲法に対する死刑宣告であった」とご指摘になっています。
私は美濃部憲法学こそが伊藤博文らの憲法構想を発展させたものと理解していますが、この時、金子は国体明徴の側にいた。
金子が陸軍皇道派、海軍艦隊派、蓑田胸喜とも関係があり、国立公文書館に所蔵されている、天皇機関説事件時に金子が岡田首相に送付した声明文の中でも、機関説に反対である、と断言しています。
本書では金子に高い評価を与えていますが、私は明治憲法体制の展開・運用過程では、金子は本来の統治理念からは逸脱する位置にいたのではないか、と考えますが如何ですか。
八木:美濃部学説が伊藤の継承であるかは疑問に思います。伊藤は美濃部が依拠した国家法人説には立っていないのです。伊藤と井上では見解は大分対立しています。
伊藤の場合は、天皇を如何に政治争点化させないか、として限りなく立憲君主として考えます。国務大臣が輔弼し、国務大臣が実質的に権力を行使すると捉えるわけです。
これに対して井上は天皇の親裁であり、輔弼を文字通り、天皇を補佐することと考える。だが、井上の天皇親裁となると、失政があった場合の責任の取り方として天皇を政治争点化させてしまう。このあたりを伊藤は懸念したと思います。
明治憲法は、どうやら伊藤と井上の構想の妥協の上に出来ているように感じます。天皇と政治との関係では曖昧な点を残しているのです。
また、伊藤と金子との距離はそれほどないが、金子と美濃部との間は距離があるように思います。美濃部は起草者からすると次世代であり、ドイツ国法学をもとに明治憲法を解釈し始めた世代です。
美濃部の解釈は起草者の意図を汲んでるように思いますが、その説明の仕方を金子は気に食わなかったのではないでしょうか。天皇機関説事件では人物も錯綜しており、美濃部側、国体明徴側と簡単に理屈では割り切れないようです。
藤岡:ご質問のポイントは天皇機関説事件における位置、役割ですが、それについては質問者のご指摘は如何でしょうか。
八木:金子は国体明徴運動側にいたと思いますが、伊藤から美濃部へという線は必ずしも直接にはつながらないと思います。
つながらないところに存在した美濃部を金子がどう見たか。まっすぐにつながると見れば、伊藤と金子は対立することになります。
伊藤ら起草者は日本の歴史や伝統を強調するが、美濃部世代はドイツ国家学の理論で憲法を解釈し始めます。この時点で、日本の歴史伝統の上に憲法が出来上がったという点が忘れられていくわけです。
昭和十年あたりからファッショの思想も現れ、明治憲法起草者らが重視した日本の政治伝統が忘れられていったことに、明治憲法が持った悲劇があったと思います。
吉永潤 伊藤の考え方と美濃部憲法学は私の中でも順接でつながっていたので、今の話は新鮮に聴きました。 伊藤も美濃部も君権の制限という発想では共通だと思います。北一輝など国体明徴運動側の考え方と比べれば、伊藤と美濃部はすごく近いんじゃないか。その点で、伊藤と考え方の近かったはずの金子がなぜ反対側にいったのか。天皇の政治的権能に関して、伊藤と美濃部の議論にそれほど違いはなかったという印象があります。
当時、天皇の統治権を拡大解釈することで軍の統治に道を開くことが見えていたとすれば、金子の政治的責任は大きいのではないか、という趣旨だと思います。そのあたりについて如何でしょうか。
八木:本書では、金子の憲法に対する直接の影響については書いてないのです。なぜなら彼が語ってないからです。ご指摘のとおり、伊藤と美濃部は君主権力の制限を重視したのは同じですが、美濃部の説明というのはバタ臭いというか、「機関」ということばが反発を招いたのだと思うのです。また、国体明徴運動で排撃派は、理論よりも言葉に拘っています。それが時代の不幸というか、美濃部が一番伝えたかったことが伝わらなかったと理解しています。
日本の国柄を直視すべき現行憲法 論議
服部道雄:戦後、大幅な価値観の変動が迫られ、当時は排除の必要はないとの意見が多かったにもかかわらず、教育勅語の失効宣言をしました。台湾では今でも教育勅語を読んでいる人は多いが(笑)、中身としては明治憲法も含めて全然変える必要はなかったのではないか。
では、それを戻せるかというと、言葉一つとっても時代錯誤的な感覚を受けてしまう。高校生を教えていますと、言葉を説明するだけで大変なものが多くあります。戦争に負けたことと、憲法を変えることは全然関係ないのに、なぜそんなことをしたのか、という疑問を最近持っています。
八木:よく誤解をされますが、「お前は明治憲法を復活させようとしてるのか」「今の憲法より明治憲法のほうがいいと言ってるんだな」と捉えられるんですね。
私はそんなことは一言も言っていません。今、憲法論議が行われている中で、落としてはならないこととして、国柄の論議をすべきだと。明治憲法の起草者たちはそこをまずやったという点を言いたかったのです。 ところが今の憲法論議ではそれが行われず、枝葉末節を扱っているにすぎない。明治憲法の起草者は法律以前の議論を沢山しているわけです。
私は憲法議論は憲法学者にさせるなという意見です。国柄が憲法であるならば、歴史学者、哲学者など、あらゆる分野の人々が結集して議論すべきであり、その上で法体系に整合性がなければ憲法学者がチェックすればいいだけです。
象徴とは何か
福持次郎:本書を読み、八木先生が前に出て、明治憲法をつくった群像たちが今になって大きく叫び始めたな、という印象を受けました。
本書の24頁に、「そうか、憲法はまず日本の歴史や伝統に基づいて作ればいいのか」という部分がありますが、「近代日本と大日本帝国憲法」という単元で授業をするならば、正にこの部分を括弧書きにして、「さて、この中に何の言葉を入れたらいいだろうか」という形で導入していくことを考えました。
あと、本書を読み、五箇条の御誓文と明治憲法の二つはつなげて授業ができると思いました。また、現行憲法と同様に明治憲法下の天皇も象徴なのでは、と感じたのですが如何ですか。
八木:先程から伊藤と美濃部の関係につき議論をしていましたが、少なくとも伊藤の、ある部分の理解では今の象徴天皇制度とそれほど距離がないのですね。「象徴」という言葉自体は、ウォルター・バジョットの著書『イギリス憲政史』(『イギリス憲法論』)から取られた言葉です。 これはほとんど指摘されていないことです。
起草者はネルソンとプールという若い人たちです。どちらでしたかね、のちに駒澤大学の西修先生によるインタビューで「バジョットの本を参照したような気がする」と言っています。
バジョットの議論ですが、なぜ君主が国民統合の象徴になるかというと、君主は政務すなわち政策を立案・判断・実行する事とは無関係であり、超越し、政治的に中立であるがゆえに、党派を作って対立している国民を統合させることができるのだと。それゆえに君主は国民統合の象徴だと。この理論が象徴天皇制度の理論です。
現行憲法の中に「国政に関する権能を有しない」とありますが、この「国政に関する権能」というのがバジョットの言う政務なのです。
彼は、政治を尊厳的部分と実効的部分の二つに分けます。尊厳的部分は国王あるいは王室が担当し、実効的部分は内閣が担当します。尊厳的部分は儀礼的・精神的なものであり、これが現行憲法でいえば国事行為に当たるわけです。
そして、国政に関する権能も実効的部分であると理解すると、象徴天皇制度=現行憲法第1章はすっきりと理解できます。ちなみに、バジョットを下敷きに書かれたのが福沢諭吉の『帝室論』です。
終戦直後、小泉信三が今の天皇陛下に帝王学を授けるにあたり、二人で三冊の本を輪読しています。その内の一冊が『帝室論』です。
これはバジョットの議論を福沢の巧みな文章で書いたものであり、新憲法を運用するにあたっての天皇の役割を説明したものと捉えて間違いないと思います。
バジョット、福沢諭吉と日本国憲法の第一章とは関連があることを指摘しておきます。
このバジョットの議論と伊藤のある部分と、天皇の政治との関係の理解は非常に近しいと思います。
それゆえに、美濃部学説がある時代までは通説的な見解として理解され、これにより政治が運用されていた部分もあったわけです。昭和天皇が憲法を学んだ憲法学・行政法学者である清水澄の見解を見ると、美濃部学説と極めて近いわけです。
当初、明治憲法は英国の政党内閣制や議院内閣制を排除する方向で起草されましたが、起草後は限りなく英国の方向へ近づいていった。
昭和天皇は皇太子時代に英国に行かれ、君主としての心構えをジョージ五世からお聞きになります。
明治憲法下における天皇の役割は現行憲法下の象徴天皇制度に相当近いと言っていいのではないか、というのが私が暗に示していることです。
明治憲法と日本国憲法を比較することの無意味
福持:「公民」的分野では大日本帝国憲法と現憲法を比べることがパターンとして長くあります。
本書を読むと、そうした授業をするのは意味がないんだな、と感じます。主権の所在、天皇は何だったか、国民の権利・義務はどうだったかを比べる訳ですが、明治憲法と今の憲法が誕生した時の意味は違うのだから、比べるという授業は果たしてどうか、と感じたのですが。
八木:言うまでもなく、善玉・悪玉に分けるわけです。あるものを良く見せるために、その前にあったものを悪く言うというのは典型的パターンですね。
現行憲法は出自に大きな問題がありますから、その辺を隠すために明治憲法を殊更悪く言い、その比較により少しでも良く見せるというトリックが働いているように思います。 現行憲法下でも政府見解では、天皇は元首で政体も立憲君主制ですから、大きく言えば、それほど違いがあるとは思えません。
国民の権利・義務規定につき、明治憲法では「法律の留保」が指摘されますが、それは今の憲法でも法律の範囲内で保障されると決まっており、運用はそれほど違っていないのです。
違憲立法審査権があるという位の違いで、実態はそれほど変わっていないのですね。両者を対比させることは明らかに意図があると理解する方がいいと思います。
ちなみに言うと、「天皇主権」という言葉は明治憲法下では、穂積八束や上杉慎吉など、一部の人たちしか使ってません。
ところが戦後はそれが正統学派とされましたが、そうした正統学派の理解は起草者の見解を離れていると思います。
藤岡:今のお話は日本国憲法と明治憲法の比較という点ですが、私は1950年代に中学生でした。その時に先生から、「明治憲法は国民の権利を保障していたが、法律の範囲内という制限を付けていたからダメ」と、はっきり教わったんですよ
(笑)。
よく考えたら、およそ何の制限もない権利なんてありえないのですから、馬鹿げた話です。
八木:今、試験に出るんですね、それが。
藤岡:試験にも出るんですか。
八木:必ず出るんです。数年前の大学入試センター試験にも出ました。「法律の留保」というのが。
藤岡:公民の教科書でも巻末で日本国憲法全文が載っていますが、重要なことが省かれています。明治憲法を改正するために大臣が連署して、最後に御名御璽が入った前書きがあるのですけれど、これを絶対に載せない。前書きを載せると、手続き的には大日本帝国憲法の改正として今の憲法がつくられたことがハッキリして、八月革命説が破綻してしまう。ポツダム宣言の受諾が革命だというフィクションが崩れないようにしているのだと思います。
今の憲法改正論議の一つの考え方として、渡部昇一さんが「占領下につくられた憲法、教育基本法は主権がない時につくったものだから全て無効だ。無効宣言をして新たにつくり直すべきだ」という議論をしています。
確かに占領軍がやったという点ではもっともだが、手続き的には成り立たない。そういう方法と、やはり憲法改正の手続きに従うのと、二つ路線があると思います。このあたりは八木先生は実践的にはどのようにお考えですか。
八木:極めて難しい問題ですが、無効論という考え方はかねてからあります。主権回復直後であれば極めて有効な論理でしたが、法律には時効という考え方があり、そこからもう五十年経っています。
普通、時効というのは二十年です。五十年の間に日本国民が現行憲法に一度も「ノー」と言わなかったということにおいて、これを承諾したという理屈が成り立つわけです。ですから、渡部先生の意見には溜飲が下がる思いですが、理屈から言うと難しい気がします。
補足しておきますと、「法律の留保」とは大陸法学の考え方でして、フランス人権宣言の中にも「法律の範囲内において」という文言が入っています。
フランス革命を褒めちぎりながら明治憲法を貶めるというのは御都合主義も甚だしいと思っております。
立憲君主制としての天皇統治
茂木弘道:先生がおっしゃる通り、天皇統治の政治伝統には二つがあることを打ち出すのが大事だと思います。自由民権派の私擬憲法もこれに基づいていたというのは強く訴えていかなければなりません。教科書では私擬憲法の肝心なところを載せてないですからね。(笑)
言葉尻で変なイメージをつくることはよくあり、明治憲法の第三条が神権政治の一つの証拠として言われる。そのあたりは錯覚です。無答責条項なのに、神権政治のスローガンとして使われている。デマゴギー的イメージで操作されていると思います。
藤岡:最近、加藤周一が「神聖にして侵すべからず」というのは天皇の命令は絶対ということで、専制君主だというのを読みました。しかし、「神聖にして::」というのは定型化された言い回しなのです。政治責任を問わないというのは逆に言うと権限がないということですから。責任はプライム・ミニスターにある訳ですから。
かつて本会に北岡伸一さんが講演に来てくださり、明治憲法は立憲君主的側面と専制君主的側面の中間的性格だとおっしゃいました。
私は立憲君主的に解釈され、それがのちに定着したのだから、その方向で読むべきだと当時は思っておりました。絶対主義的な読み方は講座派マルクス主義がやったわけでして、そのあたりは井上と伊藤のイメージの違いとは直接に対応しないとは思いますが如何ですか。
八木:伊藤の場合は立憲君主というイメージがはっきりあります。ただし、これが微妙でして、困った場合には明治天皇にお頼りしたと。これは判断を仰いではいけないのです。立憲君主であれば。
藤岡:意思決定に関与しちゃいけないんですよね。
八木:そのために国務大臣、枢密院、元老など何重にもつくり、天皇の意思表示、意思決定がおこなわれないようにしたのです。
でも、困った時には天皇に頼る。だから、天皇親裁の性格が若干残ります。井上の場合、天皇親裁による徳治主義でして、その内容が公議世論の尊重、民の福祉の増進です。
自由民権運動の私擬憲法の中にも、徳治主義を強調したものもあります。植木枝盛がそうです。
第三条を、伊藤の場合は九十九パーセント、君主無答責条項として理解しています。井上の場合、「神聖」という部分を強調している。そこらへんが北岡さんの指摘につながるのだと思います。
藤岡:ある種の対応関係があるわけですね。
終戦の「御聖断」ということ
八木:明治憲法下では、ほとんど伊藤の理論で解釈されてます。しかし国家危急の場面では井上理論が出てくる。その典型が終戦の御聖断だと思います。
しかし、あの時にそれ以外の方法があったか。いわば天皇親裁によって、わが国は辛うじて滅亡を免れたということも事実として言えるんじゃないでしょうか。
藤岡:終戦の時のご聖断の意味についての小堀桂一郎さんが『諸君』にお書きになられた論文があります。
八木:『宰相・鈴木貫太郎』ですね。文春文庫で出ています。
藤岡:そうそう、あれは僕は感銘深く読んだのですけれど。扶桑社の教科書も、終戦のところはご聖断のことが強調されて書かれてます。
要するに、立憲君主制の機構が危機に直面して機能しなくなった時は君主が直接判断せざるを得ない。
二・二六事件の時もそうですよね。
だが、立憲君主制の機構が正常に機能してる時は一切判断しない。そういう構造になんじゃないかなと・・。
八木:とりあえず本書はそういう立場に立って書いてみました。それ以外にうまく説明できる論理があれば教えて欲しいくらいです。(笑)
「シラス」思想から「統治」思想へ
竹内孝彦:憲法制定過程で実際に明治天皇が条文で遺憾に思われたものはありますか。また、井上案にある「シラス」という和語が「統治」という漢語に変わった経緯を詳しくお伺いしたいのですが。
八木:明治天皇は憲法の審議では発言は何もされておりません。ただ、宮中に戻ってから不審な点を伊藤に問い質したということは『明治天皇紀』に書かれています。
明治天皇は自分が日本の主宰者であるとの責任の下で、欽定憲法として発布する以上は、自分がその一部始終を見届けなければならないということで熱心に出席なされたと思います。
また、これまでの議論は「シラス」と「統治す」は表現を変えただけであり、同内容であるとの理解でした。
だが、私は伊藤と井上の見解の相違が表現を変えたところに現れたと考えています。「統治す」と変えたのは伊藤であり、井上の天皇親裁を「シラス」というところに見てしまった。そのことは『憲法義解』の表現とその英訳は、井上の構想したものと全然違うものが出ています。むしろ、第四条の「統治権を総攬す」と、第一条の「統治す」の英訳が全く同じになっているのです。
それは井上の「シラス」という考え方とは別物になってしまっているわけです。 “govern”という言葉は一番井上が一番避けたかったものです。「シラス」から「統治す」に改められたことにより井上の構想は捨てられ、ドイツのヘルマン・シュルツェの理論に立脚した伊藤の立憲君主制理論に変化したのではないか、と私は考えております。
大正「デモクラシー」時代から昭和へ
三輪武司:昭和の一桁代になり、明治憲法が持っている曖昧さ、権力の割拠性により、「この憲法では国際状況で生きていけない」ということで軍部が自己主張をした。
だが、もともと憲法は国家統治の一手段であり、状況に応じて改正していれば、この時点では良かったと思います。「不磨の大典」という意識が強く、明治憲法を無視していく結果になったことは残念に思います。 起草者の意図を汲んで憲法を運用していたと言われる大正時代、「大正デモクラシー」をどう評価されますか。
八木:憲法の運用が立憲主義的・自由主義的になり議会政治、国民の権利保障を重視するようになったという良い面はありますが、時代全体として自由主義になることはあらゆるものも許容することを意味します。
許容してはいけないものも許容したのがあの時代です。昭和初頭の思想的・政治的混乱は大正時代に社会主義思想が入ってきたことの後遺症、副作用です。
それは右翼も左翼もです。ですから、大正時代というのは評価のつけ難い時代です。議会政治が花開いた時代であるとともに、のちの時代に禍根を残した不幸な時代でもあるわけです。
明治憲法の正統解釈とは何だったのか
服部 剛:どの資料集・教科書でも明治憲法は天皇主権と書いてありますが、天皇主権という言葉は当時から強い力を持っていたのでしょうか。八木 東大法学部の初代憲法担当者の穂積八束がドイツから帰国後、主権という概念を憲法に持ち込みます。
そこで天皇主権という言葉が使われます。主権=最高絶対無制限の権力を天皇が持つことは、日本の国柄からするとありえない解釈です。
それが弟子の上杉慎吉に受け継がれ、憲法第一講座を担当します。これが正統学派です。憲法第二講座が美濃部達吉でして、立憲学派です。 立憲学派により憲法の解釈・運用がなされますが、戦後は正統学派が明治憲法の文字通り正統な学派であったという理解をしているわけです。
藤岡:有難うございました。ノンストップ二時間でやって参りましたが、大変充実した学習の場であったと思います。これで終わらせていただきます。八木先生、ありがとうございました。(拍手)
歴史論争最前線の目次
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