昭和初期の二つの出来事
皇太子生誕と東郷元帥の国葬

都竹卓郎(自由主義史観研究会会員)
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昨年十月末の朝日新聞の声欄に、「悪役つくる風潮、何か恐ろしい」というもったいぶった見出しで、ビンラディン、フセイン、金正日、田中審議官らを一方的に非難する世間は、彼らの「悪事」の内容を「どの程度知っているのだろうか」という趣旨の投書が載った。こういう議論の救い難い矛盾は、同じ流儀で過去の日本を一方的に悪玉扱いして来た自分たちが、当時の状況を「どの程度知って」ものをいっているかという、自らへの問いかけを全く欠いている点である。
戦前の日本は、この手の人々が思い描いているような、おどろおどろしい全体主義国ではなく、三権分立の立憲君主制の下で、全国民が平等な権利を持ち義務を担う、れっきとした文明国であった。
学校には不登校も学級崩壊もなく、学童の殺害とか生徒の自殺などということは想像もつかぬ話であった。下校後はのびのびと戸外で遊び、「夕焼け小焼け」の歌にあるように、暮を告げるお寺の鐘が鳴るころには家にもどって、暖かいふろに入り、仕事から帰った父親をまじえて夕食をとり、しばらくラジオを聞いて短時間おさらいをした後、低学年なら八時には就寝といった健全な生活パターンが、多くの家庭に定着していた。早寝早起き、勤勉力行が当然の規範とされた時代であった。
皇室の尊崇ということも、太古の昔から続いて来たごく自然な感情の流露で、今はもう死語に近くなったが、「天子様」という親しみをこめた敬称を口にする人が、庶民には結構多かった。
戦後は差別アレルギーがこうじて、家柄とか血筋とかいうと、やたら反発する人を間々見受けるが、育ちがよく気品のある人の存在は、世の中に良い影響を与えこそすれ、何の不都合も来たすことはない。
この場合、毛並みを過剰に意識する側があれこれいい立てるのは、却ってみっともないのだが、その辺の機微は分かる人には分かっても、分からぬ人にはしょせん通じぬ話なのかも知れない。
そのような君民関係の中で、現在の明仁天皇が昭和天皇の皇太子として誕生され、全国が歓呼の声で沸き立ったのは 昭和八年十二月二十三日の早朝であった。それまで照宮、孝宮、淳宮と内親王ばかりのご出産が続き、皇位継承の行く手は国民の大きな気掛かりの一つであった。この日の夕食の茶卓では、「あゝ、本当によかったね」という素朴なな祝福の会話が、たくさんの家庭で繰り返し交わされた。
日の出だ日の出に
鳴った鳴ったボーボー
サイレンサイレン
ランランチンゴン
夜明けの鐘まで
天皇陛下お喜び
みんなみんなかしわ手
うれしいな母さん
皇太子様お生まれになった。
これは間もなく出来た奉祝歌の一番だが、歌詞もメロディーも至極軽快で、子供はもちろん大人たちにも、国民歌のような形で長く愛唱された。 当時は、正午に時鐘やサイレン、軍隊の駐屯地なら通称ドンと呼ばれた午砲で、時刻を知らせる風習があったから、それを使ってご出産を速報する仕組みになっていたのである。サイレンが一声で終われば内親王、二声なら親王(この場合は皇太子)という決まりであった。
この奉祝歌の二番の歌詞はあらかた失念したが、「天皇陛下お喜び」に当たる箇所が、「皇后陛下お大事に」という、微笑ましい句であったことだけは記憶に残っている。
総じて、昭和の初期はそれまでの荘重な文語体の唱歌に加え、よりくだけた口語体の歌が次第に増えて来た時代であった。もちろん、伝統的詩歌の韻を踏んだ、文語体の歌の美しさも広く愛されていたが、明治末期以来の言文一致の運動が、この時期にようやく実を結び、
昭和昭和
昭和の子供よ僕たちは
姿もきりり 心もきりり
という軽やかな節回しで始まる「昭和の子供」や、今も時折は歌われる「どんぐりころころ」、「赤い靴履いてた女の子」、「象さんお鼻をぶらぶらさせて」など、平明でモダンな形式の唱歌が次々と登場した。
国の内外に問題は山積していたが、長く病床に在られた先帝の崩御の後、二十六才で即位された若々しい新帝と、その後六人のお子様を出産された健康で美しい皇后を載く、新しい昭和の御宇に、人々は明るい希望を託した、あるいは懸命に託そうとしていた。そんな中で長年待望されていたクラウン・プリンスの誕生は、大正末期以来の不況がようやく収まりかけていたこともあって、希望に富んだ未来を告知する曙光のように感じられたのである。
この慶事があって約半年後の昭和九年五月三十日、世界的偉人として知られた東郷平八郎元帥が薨去した。病状は兼々報じられていたし、八十八才という天寿は当時は破格といえたから、国民の胸に去来したのは、通りいっぺんの追悼とか惜別というだけでなく、荘厳な日没を見るような一種敬虔な感慨であった。
東郷元帥その人については、本誌の読者にはことさら説明の要はないであろう。ロンドン郊外のグリニッチに在る国立海事博物館には、その胸像が飾られており、また日露戦争時の旗艦「三笠」の建造地バロー・イン・ファーネス市には、日本海海戦の輝かしい勝利を記念して設けられた、ミカサ・ストリートという街区が今も残っている。アドミラル・トーゴーという名は、全世界の海事関係者ならだれ一人知らぬ者はないビッグ・ネームであって、先の大戦で太平洋艦隊司令長官を務めた、米海軍のチェスター・ニミッツ提督は、多感な若年士官の時代に日本来航の機会があり、東郷元帥の訓示を受けた日の日記に、「トーゴーが、あのトーゴーがいま目の前にいるのだ!」と深い感動の辞をつづっている。
越えて六月五日にはその国葬が挙行された。ここで特筆されるのは、逝去の数日後という慌ただしい日程にもかかわらず、英国東洋艦隊旗艦の重巡洋艦「ケント」、同じく米国アジア艦隊旗艦の「ヒューストン」を始め、フランス、イタリア、オランダ、中国等の軍艦が直ちに東京湾に駆けつけて、葬列に儀仗隊を参加させ、定刻に弔砲を発射して、その偉大な生涯に最大級の敬意を表したことである。
日本海軍側の接判艦も加えると、このときの東京湾は中規模の国際観艦式のような光景を呈した。国葬の日取りがもっと先であれば、さらに多くの外国軍艦が参加したであろう。現に、中国の軍艦「寧海」(ニンハイ)は国葬の日時に間に合わぬため、下関に寄港して儀丈兵を列車で先行させた上で東京湾に来航し、改めて弔意を表している。
最近は、国際交流がもっぱら空路で行われるため、国家の儀典に軍艦を派遣する慣習は廃れたが、当時でも世界各国の軍艦が集結するのはイギリス国王の載冠式だけで、アメリカも含め他国の君主や元首の交替時にはそういう事例はなかった。
ちなみに、エリザベス女王の父君ジョージ六世の載冠式には、日本から重巡洋艦「足柄」が派遣され、秩父宮が昭和天皇のご名代を務められた。従って、君主でも元首でもない東郷元帥の葬儀に、このように各国の軍艦が参集したことは、いかにその声望が高く、賛仰されていたかを如実に示すものといえよう。
平成十七年(二〇〇五年)は日本海海戦の百周年、イギリスではトラファルガー海戦の二百周年に当たる。ユーラシア大陸の東西に、対称的に占位する二つ島帝国の運命を決した海戦が、ちょうど1世紀の時隔で起きたわけだが、イギリスでは、毎年十月二十一日がトラファルガー・デーとして厳粛に祝われるのに反し、日本の五月二十七日は記念艦「三笠」でささやかな式典が営まれるだけで、マスコミもいっさい言及しない。
国内では結構名が売れていても、国際的評価が乏しいという事例は時折見受けるが、世界的名声があるのに国内で然るべき接遇を与えられないという話は、共産主義国かイスラム圏のある種の国のように、政治権力が文化を統制している国家以外では通常考えられない。
日本はそのいずれでもないのだから、つまるところ、社会が「通常でない」ということになる。過去の日本の姿を汚辱、悲惨、罪科の一色に染め上げ、当時の人々、とりわけ武人の献身とか勇気とか偉業は、平川祐弘氏の言を籍りれば、「表だって口にしてはならない何か」のように忌避し黙殺してしまう。そのような、他の文明国ではおよそ考えられぬ知的退廃を、半世紀以上にわたって臆面もなく続けて来たのが、戦後社会で「知識人」を自任する多くの人々の実態であった。
気に入らぬ情報はすべて意識から振り払ってしまえば、当座は心理的に楽にはなれても、それで客観的事実が消え去るわけではない。こういう不誠実な歴史認識の風潮を一刻も早く清算しなければ、日本はポエニ戦争に敗れた後のカルタゴのように、一起一伏を重ねながらも、やがて衰亡の軌道に落ち込む運命を、免れ得ないのではなかろうか。
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