妹尾河童著「少年H」の嘘

横井 寛(自由主義史観研究会会員)

は じ め に

妹尾河童著『少年H』は平成九年に単行本(講談社)として刊行され、毎日出版文化賞・特別賞を授賞し、当時はベストセラーにもなった。その後、講談社文庫、新潮文庫としても刊行された。

この本は、その主人公である妹尾肇とその家族の写真、その家の職業であった洋服屋の写真、更に、彼が住んでいたという家の所在を示す神戸市・鷹取駅周辺の詳細地図までが掲載されており、作家自身の自叙伝とも見られる異色の作品である。

この本の上巻、表紙の帯には『大人も新聞もウソつきや』とあり、次のような推薦文が掲載されている。

立花隆氏:ここにはしたたかだが純粋な「少年H」の目を通して、あの戦争の時代が活写されている。これは戦後五十年という時間と、妹尾河童という個性を得てはじめて形象化されたあの時代の「意味」である

澤地久枝氏:この物語には、今まで誰も書かなかった貴重な「時代への証言」がある。戦争を知らない少年少女はもちろん、かって少年少女であった大人にも、逞しく繊細な「少年H」にぜひ会ってほしい。笑いと涙の事実の素顔に。

椎名誠氏:読みすすむうちに今日の河童さんの、あの天真爛漫な100%全開の好奇心に彩られた水平垂直タテヨコナナメの全空間的行動力とそのゆるぎない追求・探究心の源流が見えてくる。

私は最初にこの「少年H」を何年か前のTVドラマで見た。この少年は私と全く同い歳、つまり、大東亜戦争の終戦を、当時、中学三年生で迎えた少年なのである。私はTVを見て、その中に出てくる色々な話が私の少年時代に経験したものと重なる点には多大の共感を覚えたのであるが、その一部には当時の事実と余りにもかけ離れた所もあることに驚いた。

そこで、原作はどうなっているのだろうかとこの小説?を買い求めてきて読んでみたのだが、両者の内容はほぼ同じであった。


「少年H」の話はどこまでが本当か?


私はこの本をつぶさに読んで、幾つかの「嘘」を発見した。しかし、それらを長い間暖めてきたのであるが、この秋、開かれた大学の同窓会(同期のクラス会)で、多くの友人たちに「少年H」に対する感想と意見を求めた。そして更に各地に点在する諸先輩のご意見もお聞きして、私の戦中における体験記憶に誤りがなかったことを確信したのである。

以下、それらの幾つかを記載して「小年H」の読者にその誤りと当時の真実を伝えたい。

その1:校門の歩哨 
学校の校門には剣突き銃を持った上級生が腰に弾薬を入れた箱を下げて立っていた・・・とあるが、当時はどこの中等学校でも、校門にこのような歩哨などは立っていなかった。これは一般の人も見ていた筈である。

その2:敬礼 
道で先生や上級生に出会ったときは立ち止まって挙手の礼をすること、と少年Hは教えられているが・・。当時、中学をはじめ一般の中等学校では、先生に会ったときは校内でも校外でも立ち止まって挙手の礼、上級生に対する場合は校外で会ったときにのみ挙手の礼で、この場合は、歩きながらでも良かった。

その3:実弾射撃 
少年Hは射撃部に入り、一年生から狭搾射撃を、二年生では実弾射撃の練習を行ったとあるが・・、これも著者のフイクションではなかろうか?

当時、一般の中等学校における軍事教練で本当の銃を用いたのは四年生になってからであり、三年生以下は木銃での教練であった。教練射撃部がおかれていた学校は限られていたが、その実弾射撃は配属将校による厳格な管理のもと軍の射撃場で行われた。それも昭和十七年の全国射撃大会を最後に、昭和十八年頃からは、実弾を節約する意味からか、中学生が実弾射撃を行なう機会はなくなっていた。神戸二中だけがこの時期(昭和十九年)に二年生で実弾射撃を行ったとは信じがたい。

それに、中学三年生の少年Hが三八式の銃を持ち、腰に剣や弾薬盒などをぶら下げ、一人で伊丹まで出かけ、途中、アメリカ兵捕獲に協力させられる話など、いくら戦中でもあり得ない話であろう。当時を知る者としては作り話としか思えない。

更に神戸二中では実弾まで置かれていた銃器庫の鍵を生徒がもっていたという話もある。私の調査では当時、そもそも中等学校に実弾が置かれていた学校などは皆無であった。

その4:教官の暴行
予備役の教官である中尉が少年Hの顔を拳骨で殴りその体を足蹴りにするといった暴行を加える場面があり、TVではこのとき、少年の目は腫れ上がり、口からは血が滴り落ちていた。本の方では顔を殴るほか、長靴で胸を蹴っている。 当時、神戸二中にいたN君は「そんな話は見たことも聞いたこともない、当時、平手打ちは何度か食らうことはあったが、拳骨で顔を殴られるようなことはなかった」という。

私が在学した学校でも同様で、一般に顔を殴るのは平手打ちと決まっていた。拳骨で顔を殴るのは、相撲でも“禁じ手”となっているように、拳骨で殴ると怪我をする恐れがあったからと思われる。しかし、これについて、何人かの友人は、当時、中学によっては拳骨で顔を殴る教官もいたが、一般には、軽く「ごつん」と頭を叩く程度であったと言う。

一方、“足蹴り”というのはとんでもない話で、これは戦後に輸入されたアメリカ西部劇からの連想ではないかと思われる。教官が中学生を足蹴りにしたというのは当時といえどもあり得ないことで、誰もが「そんなの聞いたこともない」と言っていた。

私たちの学校では、体操の先生に平手打ちを受けたことはあったが、軍人の教官に殴られるということは全くなかった。配属将校は大尉であったが、とても紳士的な人で、上級生を担当していた。一方、予備役の中尉や准尉の教官はかなり歳を取った田舎風の小父さんで、主に我々下級生を担当していた。「毎週の教練は勉強よりも楽しい」という生徒もいた。あるとき、その教官が怒って、「君たちは少々弛んどる、気合を入れてやるから、俺について来い」といって、元気よく先頭に立って駆け出したのだが、グランドを三周くらい回ったところで「もう良かろう」と立ち止まってしまった。我々は、「もう少し走りましょうよ」といったら、教官は大息をつきながら「いやもういい、もういい、君たちは十分反省している」と言って笑い、我々も一緒に大笑いしたことがある。私にとってはなんとも愉快な思い出だ。

その5:映画を見れば停学 
少年Hが友達とこっそり映画を見に行っていて“補導連盟”の先生が来ていることに気付き、見つかれば停学処分になるといって、便所の汲み取り口から衣服を汚しながら逃げ出す場面があるが、これも作り話としか思えない。 当時の中学生は勝手に映画を見に行くことが禁じられていたのは事実である、これは少年が不良化するのを防ぐためであったと思われる。

その頃、中等学校の先生方が“教護連盟”(“補導連盟”ではない)という組織を作り、お互いに連携して、他校生徒の行動をも監視していた。しかしその頃、教育的な良い映画は学校から先生に引率されて見に行った。また父兄の同伴で映画を見ることは問題なかった。一方、中学生が学校を抜け出して映画を見ていたのを、たとえ教護連盟の先生方に見つかったとしても、喫煙が見つかったときと同じように、その子の学校に連絡されて厳重注意、二回目には父兄に連絡される、それが何回か重なると謹慎といった処分であったと記憶している。

小年Hが見た映画は「無法松の一生」だった。先生に見つかるのが機銃掃射よりも怖かったなどとは、全くあきれた話である。上記、同窓会の席でも、あの時代、「映画を見て停学になったという話などは聞いたことがない」とみんなが言った。

その6:小年Hの戦争観 
少年Hは中学一年の頃からすでにこの戦争は負けると思っていたとあるが・・・。たとえ彼の母親がクリスチャン、父親が洋服店で多くの外国人に接触していたとしても、この話は信じがたい。当時の中学生でそんなことを考えた人は一人もいなかったというのが私の友人たちの間では一致した意見である。

また戦争が終わったときにほっとしたという話も果してどうか?私たちの記憶では、ただ「悔しい」の一言に尽きる。「ほっとした」というのはかなり後になってからのことであろう。


む す び

戦争当時のことを書いた小説やTV,映画などで、話を面白くするためにとはいえ、事実を曲げて、当時の軍隊を余りにもいやらしく描き、戦中はとても暗い時代であったと誇張しているものが多く見られる、ありもしなかったことを,さも真実であったように見せかけるのは慎んで頂きたいものである。たとえ小説やドラマであっても、これが歴史として認識されること私は恐れるのである。 当時は確かに、経済的には今よりは遥かに貧しい時代であったが、人情は厚く、子供も素直でお互いに切磋琢磨、凶悪な犯罪などはなく、現在の人たちが考えるよりも遥かに明るい時代だったのである。平間氏も言っておられる様に、歴史は当時の歴史的背景を理解し、その時代の価値観で評価すべきであり、現在の価値観やイズムで解釈しはならないと私は考える。

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