第44回大阪読書会報告
靖国応援団かく戦えり


南木隆治(自由主義史観研究会理事)

既に多くの方々がご存知時のように大阪高裁で台湾人靖国訴訟結審六月一七日(金)にあり、それを受けて一八日(土)の大阪読書研究会では、一連の活動を連携して進めてきた『あけぼの会』代表門脇朝秀氏と、補助参加を申請した台湾人の蕭錦文氏を講師にお招きして、お話をしていただいた。

首相の靖国参拝を違憲とし、自分たちの(そんなものがあるとして)「宗教的人格権」等を傷つけられたとして、全国で起こされている訴訟のうち、靖国神社までを被告として進められてきたのは大阪の二つの訴訟と、愛媛の訴訟だけであり、既に韓国人たちが起こした訴訟の方は大阪高裁で我が方の圧勝のうちに五月一〇日に結審を終えており、この日の、裁判の経過が注目されていた。裁判当日と、翌日の研究会の様子を報告する。

裁判当日、控訴人(原告)代表の高金素梅(台湾国会議員)たちは裁判傍聴券の抽選が始まる前の午前9時頃より、裁判所前の道路で、無届で、通行の障害になるような横断幕を出してのパフォーマンスをはじめ、警察に結局解散させられていた。

今回裁判に補助参加申請をした蕭錦文氏は台湾総督府の日本人向けガイドを長年続けられている方で、観光に行かれた場合、予約すると誰でもで指名する事のできる方である。首相の靖国参拝を支持している台湾人もいると言う事を証明するために、今回補助参加を申請された。

しかしながら裁判の1週間前の六月一〇日(金)に高裁に申し立てをしたにもかかわらず、大阪高裁は裁判の前日一六日昼過ぎに却下してきた。万が一そうなったときの為に、一七日当日朝再度補助参加を申し立てる準備はしてあり、当日朝に補助参加をしてくださったのは、私どもがいつも親しくおつきあいをさせていただいており、ピース大阪の展示の正常化に多大な貢献をしてこられた青木匠氏だった。

しかしこの青木氏の補助参加も開廷の直前に却下され、青木氏と、稲田、徳永両弁護士はいったん入廷していながら、退廷を余儀なくされた。私は靖国応援団代表として、蕭錦文氏にも、青木匠氏にも大変申し訳なかったと思っている。

裁判の陳述書を準備していただき、台湾からわざわざ休暇をとって日本に来ていただき、裁判所での朗読の準備の為に多大の努力をしていただいたのに、あっけなく却下されるとは。

日本の裁判所は日本人の味方をし、日本は良い国だと言ってくれ、首相の応援をしてくださる台湾人を法廷から追い出し、逆に日本の悪口を言いまわって日本の国益を著しく損なう台湾人を法廷で証言させて、それで仕事になると思っているのだろうか。私どもからの補助参加はこれで終わりになると思うが、補助参加と言う裁判への関わり方の限界もまたはっきりした結審だった。

これに先立つ一四日、東京で、高金素梅は靖国神社境内に一歩も足を踏み入れることすらできず、神社前でバスから降りることすら出来なかった。この状況を作りだした現段階での日本人の意識の状態を、大阪高裁の当該裁判官たちはまったく斟酌できなかったと言える。

三権分立の原理から言って、その司法権力の行使が一般的な国民の良識に準じたものでなければならないのは当然であり、もし、補助参加人をここまで却下して、それを司法権の行使として正当と考えるのであれば、裁判所は高金に対しても証人としての陳述の機会を与えるべきではなかったと言える。審理することなく速やかに却下するべきだった。

高金たちははじめから判決で勝とうとはほとんど思っておらず、ただ、政治的パフォーマンスが目的であり、裁判所はまんまと利用されているということを自覚しなければならない。しかし大局を見れば、補助参加し続けることによって、日本中で同時進行している靖国訴訟の早期結審の方向性を決定付けたと言う点は満足できるものであり、靖国応援団の目的はほぼ達成されたと言える。

話を戻すが、開廷直前、いったん入廷した稲田、徳永靖国応援団の両弁護士と、青木補助参加人の三名が、屈辱的に退席させられた結果、首相や、国の代理人は例によって一切発言しないので(これが靖国応援団結成の最大の理由)、被告席では靖国神社の代理人弁護士である竹野下先生だけが、発言する事になった。

竹野下弁護士は執拗に高金に反対尋問をし、徹底的に彼女を追い詰めたのは見事だった。竹野下弁護士は却下された補助参加人蕭錦文氏の陳述書を使って高金に質問し、「靖国神社に対し、このようにあなたと違う考えの台湾人もいると言うことについてあなたはどう思うか。」と問い詰めた。

ここで控訴人代理人から、「却下された補助参加の陳述書はこの法廷では無効だ。止めさせてください」と抗議が裁判長に出されたが、裁判長は「靖国神社の代理人が意見として補助参加に触れられただけですから、この場合、まあいいんじゃないですか」という風に答えて、竹野下弁護士に「続けてください。」と促した。

裁判長も、二度も血も涙もなく、冷酷に却下したことを「まずかった」と、この段階では、傍聴席の両陣営の非常に張り詰めた空気から感じていたように思えた。結局、「あなたが実際に会って、その意見を確認できた高砂族の遺族は何人ですか」と竹野下弁護士に聞かれて、「二四名です。」と高金は正直に答えざるを得なかった。

言わなくてもいいのに、苦し紛れに「例えたった一人の意見でも、私はその不当さをこの法廷で訴えるために日本に来たと思います。問題は数ではありません」等と言ってしまって、傍聴席から失笑が漏れていた。

竹野下先生は、高金自身に、「自分は合祀されている英霊の遺族の、ほんの一部の人の意見を代弁しているのに過ぎない」と言うことを、法廷内で認めさせ、その通り発言させることに完全に成功した。

裁判終了後、神社庁での報告集会と、同時進行で裁判所近くのホテルで靖国応援団主催の記者会見を兼ねた発表会が開催された。一四日に靖国神社応接室まで入る事ができた唯一の台湾テレビ局『公視』のクルーが、熱心に語りかける蕭さんをテレビカメラに撮った。その後すぐ、衛星放送中継車まで駆けつけて、直ちにビデオ映像を台北に電送し、他社に先駆けて、一七日夕方のニュースと、ゴールデンタイムの特集番組で一時間、一四日の東京の様子から、この一七日の裁判までを速報と言う形で、台湾国内だけでなく、国際ニュースとして言語圏全体に配信した。全世界の華僑へのこの情報の配信の効果は今後に向けて決定的であったと思われる。

また、午後二時三〇分より、住之江の大阪護国神社で『靖国応援団』と『あけぼの会』共催の報告会、更に懇親会を開催し大変な盛況であったが詳細は誌面の都合で割愛する。

翌日の一八日、大阪読書研究会は門脇朝秀、蕭錦文の両氏を講師に、先述の台湾テレビ局クルー二名の取材を伴った国際的なものになった。

 さて、蕭氏は幼くして父上を失い、お祖母さんに血を分けたただ一人の弟と一緒に育てられたことから話された。生活はとても貧しかったが、日本人の小学校の先生に大切にしてもらって、進学費用、授業料を出してもらった事など、今も恩義に思っておられる事を話された。授業料を出し続けてもらう事が心苦しくて、学校が好きで好きでたまらないのに「僕は勉強が嫌いだから、もう中学校に行きたくない。」と言ってしまった事など、当時の様子を語られ、南木は深く心を打たれた。

「私は今も心は日本人、日本が私の祖国です。」と話され、日本が戦争に負けて引き上げてから、替わりに入ってきた蒋介石軍が如何にひどく、その後どれほどの苦難の日々を台湾人が過ごさねばならなかったかを切々と語られた。台湾はその当時はまだ徴兵制度がなくて満一七歳から三七歳は志願できた。自分は一七歳で志願し、幸いにも試験に通った。大変な誇りだった。

その当時、自分たち志願兵の事は『台湾義勇隊』と呼ばれていた。訓練は外地ですると言うことで、高雄港から船で、陥落後わずか一ヶ月のシンガポールへ行った。最初サイゴンに立ち寄ったので、ここでするのかと思ったが、そうではなかった。ベトナム人が色々売りにくる。台湾よりずいぶん安いなーと思った。シンガポールまで私服で、着いてから軍服になった。

現地の人々に「こんな子供に戦争ができるか」と笑われる事も良くあった。しかしその現地の人々の状況は、台湾人の自分たちよりはるかに劣ったものだった。二〇〇年もイギリスに統治されている現地の人々の九〇パーセントくらいの人が文盲だった。高官の子供や、金持ちしか教育を受けていなかった。

その当時台湾人は八七.五パーセントが初等教育を受けており、文字の読めないものなどほとんどいなかった。そのとき自分は台湾が日本の植民地である事がうれしかった。その後、ビルマ戦線、ニューギニア、インパール作戦にも参加し、九死に一生を得て帰ってきた。戦争に負け、日本人だったのに中国籍に変えられた。本当につらかった。

自分は一九四七年二月二八日に発生した大虐殺事件に巻き込まれ、拷問を受け、危うく処刑されるところだった。その後無実の罪を着せられた前述のたった一人の弟を国民党政府に殺された。蕭氏のお話は以上で終わり、誌面が無いので次に多岐に渡る門脇氏のお話の内、ひとつだけ紹介する。

「本年三月二六日、シナ大陸の共産党政府が『反国家分裂法』をつくり、これに抗議する人々が台北で百万人以上の大規模デモを行ったが、このときの写真は徹底的に撮影されている。もし、大陸の共産党政府が台湾を支配することになったとき、デモに参加した人々にどんな災厄が降りかかるかを台湾の人たちが知らないはずは無い。自分(門脇)はそのデモの場にいて多くの人に聞いたが、日本の首相の靖国参拝を支持する人々ばかりだった。首相の靖国参拝はこのデモを行っている人々に巨大な支援を送り、連帯を呼びかけている事になるのだという点を忘れてはならないと門脇は思う。」

以上で報告を終わるが、この訴訟を巡って、生涯忘れられないほどの熱く、凝縮した日々であった。支援してくださった皆様、本当にありがとうございました。

判決は大阪靖国訴訟(韓国人訴訟)が七月二六日 一三時一五より。
大阪台湾人靖国訴訟(今回の訴訟)が九月三〇日一〇時より

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